第八話 君が運ぶ春

 廉斗は実家の自室にあるベッドに腰掛け、手元にある白紙のメモ帳を見つめていた。

 佐奈への好意が残ったままの廉斗は、彼女の幸せを願って別れるべきか否か、未だに答えに迷っていた。居心地が悪い実家にいる間も、ずっとそのことばかり考えてしまう。

 明日はいよいよ佐奈の退院日だ。佐奈の話によると、佐奈の母親が病院まで迎えに行くらしい。

 そもそも、廉斗は最初から退院日に佐奈と会う約束はしていない。というのも、感染拡大防止の一環で病院への送迎も人数制限があるため、向こうから断ってきたのだ。どのみち廉斗も病み上がりの佐奈に、ふたりの今後について話し合いを持ちかけるのはさすがに気が引ける。

 ──形じゃない愛だってあるよ。大丈夫、ちゃんと伝わっているから。

 以前に佐奈はそう言って、病院から離れた廉斗の想いを受け止めてくれた。だが、廉斗は母親の事故があって以降、外部からの力で簡単にもろく砕けるような愛には、躊躇ちゅうちょなく触れられない。佐奈に対しても、心の底ではいつもどこか一線を引いてしまう。

 廉斗には、佐奈の愛に全てを許される勇気がなかった。なぜならば、悪意こそなかったが、母親の愛を裏切ったのは自分だと思っていたからだ。

 愛は偉大だ。しかし、愛は与えられるだけでは成り立たない。受け取った相手が愛情を返してこそ、愛で結ばれるのだ。そんな関係性だからこそ、愛は美しく、尊いのだろう。

 それだけに、愛は悲劇の引き金にもなり得る。「愛憎」という言葉が存在するように、相手への思い入れが強いと、自分の気持ちが報われなかった時に、憎しみの感情が生まれてしまう。相手への過度な期待が、愛と憎しみを混在させる結果に繋がるのだ。

 ──許さないから。

 美香の怒りと悲しみに燃える瞳が、佐奈との関係で悩む廉斗を問い詰める。お前はまた、自ら愛した人を傷付けるのかと……。

 廉斗は思う。どのみち自分は、いつか佐奈との関係を壊してしまうのではないだろうか。佐奈に会いに行けるのなら、今すぐにでも会いたい。でも、本当は離れた方がいいに決まっている。

 廉斗は相反する思いに囚われる。呪縛から逃れられない焦りと不安は、日に日に重みを増していく。呼吸さえも支配するほど、見えない首の鎖は廉斗を固く締めていた。

 ──自分を追い込みすぎないで。廉斗くんが今の自分を許せなくても、私はそんなあなたが好きだよ。

 廉斗が思い出した佐奈の表情は、はにかんだ笑みばかりだった。それらの温かい記憶が、廉斗の心に何かを訴える。

 佐奈から告白されたのは、高校三年生の廉斗が、体育の授業中に倒れて保健室で休んでいた時のことだった。当時は聞き間違いかと思ったものだ。

 保健室のベッドから身体を起こして佐奈を凝視すると、頬が赤く染まっていたが、彼女は実に堂々としていた。

 ──え? 今、何て……? 

 ──あのね、廉斗くんの優しい強がりに、私も恭ちゃんも心配しているの。だから、少しだけでもいいから弱音を吐いてほしいな。

 あの頃と同じように、佐奈の言葉は今でも廉斗の心を震わせる。心とは反対に、硬くなった喉の筋肉が廉斗の涙を誘う。

 自室のベッドに腰掛けていた廉斗は歯を食いしばり、込み上げる気持ちを必死で押し殺す。

 佐奈のことは誰よりも、何よりも大事にしたい。だからこそ、佐奈と別れるのならば、この想いは今の内に閉じ込めなくてはいけなかった。それでも、佐奈との記憶は何一つ色褪いろあせることなく、佐奈は思い出の中で、廉斗に柔らかく笑いかける。

 ──廉斗くんが思っている以上に、あなたは人から愛されているんだよ。私も廉斗くんが好きだから大切なの。だから、そばにいさせて。

 自分も、佐奈のそばにいたい。大切だから……。

 今でも彼女と重なる想いに、廉斗は喉を熱くさせた。

 佐奈への別れの切り出し方を探そうとしても、そのたびに本音が廉斗の行く手をはばむ。正しいであろう選択を前に、自問自答する廉斗の中で、佐奈の心地良い声が再びよみがえる。

 ──廉斗くんが誰かのために優しい嘘をつくなら、捨てちゃった本当の気持ちは私が拾うよ。だから、今度は一緒に大事にしよう? 優しさは罪じゃないんだから、自分に向けたっていいんだよ。

 あの頃から急激に佐奈の言葉が、廉斗の空っぽな心で存在感を増していった。

 佐奈に会えない時間が増えた今だからこそ、より響く言葉だ。身体の奥からも熱を帯びていく感覚に、廉斗は何かが満たされていくような気がした。

 時代もあるが、呪いのせいで再び日常の些細ささいな喜びや感動に反応しにくくなった心奥が、廉斗を悲しみと迷いから解放しようと動き出す。佐奈の温かい言葉が、心の隙間から春一番のように入ってくる。佐奈の花が綻ぶように笑った表情や、可愛らしく照れた仕草が、鮮やかに色付く感情と共に押し寄せてくる。

 彼女を傷付けたくなくて、き止めようと思っていたその感情の名前を、廉斗はとっくの昔に気付いていた。

 ──どうしたって好きなんだ。やっぱり、僕は佐奈を突き放せない……。

 廉斗の想いは変わらない。尽きない彼女への愛しさは、呪いがあっても不滅の存在だった。

 愛の言葉が喉の奥につっかえても、廉斗は懸命に息を絞り出す。もどかしさで喉元に手をかけた時に、ふと気が付く。

「この感覚は……!」

 既知感があった。両親が亡くなった時に感じた息苦しさと、呪いの症状が似ている。それは、廉斗が実家に来て、初めて発見できたことだった。

 思わぬ場所で、呪いを解くヒントを得てしまったものだ。過去を振り返ると、共通点に気付くチャンスは何度かあった気がする。久しぶりに会った恭平から、喉元を癖を指摘されたのも、その一つだ。

 佐奈の深い愛情で、廉斗が純粋な思いを取り戻せたように、恭平の友愛の感情が、光射す未来に向かって廉斗の背中を強く押す。

 ──きっと、その場所で何か決定的な出来事があったはずだ。心当たりがあるなら、そこから調べてみろ。

 ふたりのためにも、この暗闇から抜け出したい。

 廉斗は呪いにかかったであろう、去年の七月に佐奈と訪れた港町の屋内緑地公園での出来事を回顧かいこする。

 佐奈と施設の二階に行く前、何かあっただろうか。廉斗がはっきりと思い浮かぶのは、佐奈と見たものばかりだ。回遊路に設置された誰でも自由に弾ける電子ピアノや、全国的に有名になった「うどんそば」の自販機に、あとは秋田県出身の若手プロ野球選手のサイン展示……。

 あそこは隣にある道の駅あきた港と比べると、イベントでもない限り、普段はゆったりできるくらい人混みはない。当時は確か、休憩所の子ども向け遊具から砂場に向かって走り出す子どもと、それを見守る母親くらいしかいなかったはずだ。あそこで誰かに呪いをかけられたとしても、廉斗にはまるで心当たりがない。

 恭平のお陰もあって、呪いを解くための新たな事実にたどり着いた廉斗だったが、深まる謎を前に再び途方に暮れてしまう。

 重いため息を吐いた廉斗が後ろに倒れ込むと、ベッドがきしみ、枕元に置いていたスマートフォンが軽く跳ねる。時間を確認しようと、廉斗は白紙のメモ帳から手を離して、スマートフォンの画面を点灯させた。

『本日 十九時三〇分 成海・帰省』

 廉斗は目に入ったカレンダーの通知に、重い腰を上げる。そろそろ成海がやって来るはずだ。

 呪いについて考えを巡らす廉斗に、タイミング良く終わりを告げたのは玄関のチャイムの音だった。今日はもう、休憩する暇はないだろう。

 割り切れない思いを抱えたまま、廉斗は新たな局面を迎えようとしていた。

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