第二話 愛の記憶
あんな画面越しでは、沙奈に会いに行っても、伝えたい気持ちは
心の中でそう決めつけ、無意識の内に自分の喉を
玄関ポーチにいた廉斗は
喉からは手を離さず、反対の手でポケットの中にある、破られた白紙のメモ用紙を握りしめる。
マスクを顎の下にずらして少し深めに息を吸って吐くと、ようやく息苦しさが和らいだ。廉斗は白い息が空気に溶けていく様子を見届けてから、冷えてしまった手で、もう片方のポケットに入れていたスマートフォンを取り出した。
『無事にオンライン面会が終わりました』
コミュニケーションアプリで連絡を取ろうとしている相手は、佐奈の母親だ。
佐奈のサプライズで初対面した時、廉斗はまだ高校生だった。緊張よりも戸惑いが優っていたことは、今となっては懐かしい。
『佐奈と話せる機会を作ってくださって、ありがとうございました。久しぶりに顔が見れて嬉しかったです』
文章を打ち終え、送信ボタンをタップしようとした廉斗の手が止まる。
病院でも、沙奈に愛情を言葉で残せなかったからだ。
廉斗は一年前のあの日からずっと、佐奈への気持ちだけが話せない。
「好きだよ」と声に出そうとしても口の形が変わらず、「愛してる」と文字に書き起こそうとすれば手の震えが止まらなくなる。精一杯やってみても、一番良くて、ボールペンの黒いインクが
廉斗が佐奈への愛情表現用に望みを託して準備したメモ帳のほとんどが、真っ白なページか、あるいは小さくて弱々しいインク跡が残されたページだった。
「何でだよ……」
悔しさを噛みしめるように呟いた廉斗は、スマートフォンを持っていた腕を下ろすと、投げやりな気持ちで数メートル離れた場所にある歩道に目を向ける。薄っすらと雪化粧した歩道をぼんやりと見つめていると、ちょうど向こう側から母親らしき大人と、制服を来た少年がこちらに向かって歩いてきていた。
廉斗は逃げるようにふたりからさっと目を離すと、ポケットの中で、佐奈とのオンライン面会中に破り捨てたメモ用紙を強く握りしめた。
どうして、自分だけがいつまで経っても報われないのだろうか。
思いとは裏腹に、廉斗は今日も佐奈への愛の言葉だけが書けず、その場で白紙のメモ用紙を丸めて捨てるしかなかった。
毎日のように、消された言葉の数と比例して、伝えられない想いが廉斗の中で積み重なっていく。それは今にも溢れてしまいそうで、けれど、それを向ける相手は隣にはいなくて……。
やり場のない感情を無理やり飲み込んでは、気が重くなる日々だった。このままでは、自責の念でどうにかなってしまいそうだ。
──廉斗くん、自分を憎まないで。
「佐奈……」
力を緩めた手に収まる
廉斗が病院へ行ける時は、必ず佐奈への届かぬ想いを込めた白紙のメモ用紙を持ち帰る。
何も書けず破り捨てた分のメモ用紙が、唯一形に残る愛の証だったからだ。他人からすると、一見ただのゴミでも、廉斗にとってそれは捨ててはならない大事なものだった。
白紙ばかりが、どんどん溜まっていこうが構わない。形に残るものならば、何でも良かったのだ。
いつか退院した佐奈に、言葉の代わりとして愛の証を見せられるのなら。廉斗はそんな思いで佐奈のため、懸命に行動していた。
──他愛もない話だったら、佐奈ともできるのに……。
廉斗が佐奈を愛する気持ちは、スマートフォンの画面でも表現できなかった。
普通の文章がダメならばと、縦読みで直接的な言葉を伝えようとした。けれど、頭の中で「好きだ」と完成した文字をイメージして手を動かそうとすれば、その意思を拒絶するかのように指が勝手に抵抗してしまう。関係ない文章の、最初の一文字すら入力できない有様だ。
そうやって、結局いつも形に残せず、何もできない。
廉斗がそんな風に暗い考えになっていたところで、近くの学校のチャイムが鳴り響く。そろそろ自分も帰らなくては。
廉斗はここでようやく腕を胸の高さまで上げて、入力し終わっていたスマートフォンの文字を流し見た。
今日は佐奈の母親の厚意で、オンライン面会の機会を譲ってもらったのだ。報告だけでもきちんとしようと思った廉斗は、躊躇っていた送信ボタンを押すと、住んでいる学生寮の近くに停車するバス停に向かって歩き出した。
これが、二〇二〇年の十二月半ばの出来事だ。
この時、未知の感染症が日本に広がってから、すでに九ヶ月が経過していた。
《二〇一九年・十二月末日》
隣国の中央部に位置する大都市で、「原因不明の肺炎」の報告あり。新型■■■ウイルスが検出される。
人気の観光地である博物館から、多数の発症者を確認する。
《二〇二〇年・一月》
国内で最初の感染者が確認される。この感染者は、感染源と思わしき隣国の大都市に立ち寄っていた旅行者だったことが判明。
《二〇二〇年・二月》
国内で初の新型■■■ウイルス感染症による死者が確認される。
《二〇二〇年・三月初旬》
世界保健機関がパンデミック(感染症の世界的な大流行)と認定。
《二〇二〇年・三月下旬》
国内でも感染者が急増する。
全国の新規陽性者が初めて百人を超える。
《二〇二〇年・四月初旬》
世界の死者が十万人になる。新興国や途上国でも感染が拡大する。
国内では、新規陽性者数が急激に増える感染のヤマである「第一波」が襲来。
《二〇二〇年・七月〜八月頃》
日本に「第二波」が襲来。
八月七日の時点で、全国の新規陽性者が千六百人を超える。
この感染症で発症者の多くは、発熱や咳、倦怠感といった風邪のような軽度の症状が長引く。
恐ろしいのは味覚障害、嗅覚障害、四十度近い高熱など、油断ならない症状も出てくる点だ。さらに
新型■■■ウイルス感染症の特徴として、もう二つ挙げると、潜伏期間が一日から二週間程度あることだ。実際には、五日程度で発症することが多いと言われている。
そしてもう一つは、発症患者のみならず、発症前や無症候の病原体保有者でも、他人を感染させる可能性があるとされていることだ。
この「無症状感染」というのが厄介だった。新型■■■ウイルス専用の検査をしなければ、自分が本当に感染しているのか分からないのだ。
未知の■■■ウイルスの登場により、恐怖心と不安で思考を支配された人々は、とにかく自分が感染して周りに迷惑をかけないようにと、世界や国が指導する感染拡大防止策である「新しい生活スタイル」を言われるがまま習慣に取り入れた。具体的に言うと、二メートルの身体的距離の確保、マスク着用、換気、密閉・密接・密集の回避、手洗いなどだ。
これは、「新型■■■ウイルスの主な感染経路は、飛沫や接触からである」との発表が、メディアを通じて政府からなされたからだった。
✳
佐奈が一度目の感染をする前、二〇二〇年の十月初めのことだ。
当時、日本でも新型■■■ウイルス感染症が急速に拡大しており、「第一波」の真っ只中にあった。この時、廉斗と佐奈は地元が一緒でも、それぞれ違う六年制と四年制大学に通う大学二年生だった。
廉斗は製薬開発者か、薬剤師を目指して県立大学の薬学部に、佐奈はスクールカウンセラーになるべく国立大学法人の教育文化学部に通っていた。
世間は新型■■■ウイルスのせいで大混乱と恐怖に陥っていたが、ふたりはウイルスを過度に怯えることなく、できる範囲でデートを重ねていた。というのも、廉斗は学費や生活資金を支払うためにアルバイトをしていたので、佐奈と会う時間が非常に限られていたのだ。
ましてや、廉斗が佐奈に愛情を言葉で伝えられない今だからこそ、一緒にいる時間を何よりも大切にしなければいけなかった。
「いい景色! ほら、廉斗くんも車から降りて見てみなよ」
駐車場に車を停めて、後部座席から荷物を取り出そうとした佐奈だったが、眼前に広がる絶景に思わず足の向きを変える。
廉斗は少し開けたフロントドアの向こうから佐奈に促され、助手席から降りてみた。すると、駐車をするために一度は通り過ぎた光景に、廉斗も再び目を奪われてしまう。
かつてないほどの開放感だった。日本海の青さよりも少し淡い空を背景に、美しいカーブを描いた男鹿半島が、自分たちが今生きている場所が実は広かったことを教えてくれている。海岸沿いに風力発電があるのは、正直言うと景観を損なうのであまり気に入らないが、それでも心を揺さぶられる見事な光景だった。
少し視線を横にずらすと、森と住宅密集地の間に存在する田んぼの枯草色が目に入る。普段は無関心なその場所は、緑や海とのコントラストが鮮やかだ。頬に感じる風は山らしく、平地よりも力強くて冷たい。
廉斗は
──山の上は寒いと思ったけど、風が温かいね。
──廉斗、飛ばされないように気を付けてね。風が強いから。
母親との懐かしい会話を思い起こして、つい胸が締め付けられる。
吹き抜ける風が廉斗の身体から、熱と温かい思い出を奪っていく。遠のく記憶の中で、奥底に閉じ込めていた感情が浮かび上がってきそうだった。
「廉斗くん。どう? 空気が美味しいでしょ?」
──いけない。ここで感傷的になってどうする。
我に返った廉斗は、隣にやって来た佐奈に目線を合わせた。
こんな時こそ、笑ってやり過ごそう。廉斗は
「そうだね。運転してくれてありがとう。今度は僕がここに連れて来るよ」
「うん、楽しみにしてるね。廉斗くんは、来年の長期休みに自動車学校の合宿で免許を取る予定だっけ?」
「ああ。なるべく自腹で教習を受けたいからさ。伯父さんたちには迷惑をかけたくないし」
廉斗は実家にいる父方の伯父夫婦を思い出す。
高校を卒業するまで、自分と妹の面倒を見てくれた伯父夫婦には感謝しかない。
「そっか。今日は私に付き合ってくれてありがとう」
「こちらこそだよ。佐奈とのデートを楽しみにしてたんだ」
「へへ、良かった。それじゃあ、そろそろ行こっか。私のオススメスポット、寒風山の山頂へ」
ニッと挑戦的な笑みを浮かべて差し出された彼女の手を、廉斗は迷わず握り返す。
佐奈はいつでも自分を明るい方向に導いてくれる。廉斗は佐奈の存在に希望を抱いていた。
自分は佐奈が辛い時、何をしてあげられるのだろうか。
それは、ふたりが過度な感染症対策で引き離された時に初めて問いただされる。
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