愛を生かすための呪い
藤崎 柚葉
第一章
第一話 奪われた言葉と与えられる愛
伝えたい言葉はいつだって喉の奥に貼り付いているのに、簡単には表に出てこない。だからこそ、彼は今も彼女を強く想っている。例え彼自身が神に嫌われていようが、奇跡というなけなしの希望に
「廉斗くん、自分を憎まないで」
佐奈は廉斗が破り捨てたメモ用紙の向こうで、液晶画面越しにそう言った。彼女は廉斗の凍えた心を温めようとして、穏やかな微笑みを
沙奈は市立病院の感染症病棟の一室に、廉斗は同じ病院の面会室にいた。ふたりは病院から渡された専用タブレット端末を使って、オンライン面会をしている。
沙奈は時より苦しそうに咳をするが、笑顔は絶やさなかった。対して、廉斗の表情は途中からずっと暗いままだ。
廉斗が悔しそうに目線を落とした先には、自分が破り捨てたメモ用紙が散らばっていた。真っ白なメモ用紙に文字は一つもない。それでも、廉斗は足元から目を離そうとはしなかった。
なぜ廉斗は貴重な面会時間にそんな態度をとるのか。沙奈はそれを十分に理解していたからこそ、終始一貫して明るく振る舞っていた。それが尚更に、廉斗が自己嫌悪を抱く結果へと導いていた。
廉斗は沙奈との会話の途中で、持参したメモ用紙に何かを書こうと、何度かボールペンをメモ帳に押し当てていた。それなのに、廉斗の手は小刻みに震えるだけで、何も書こうとしない。
いや、できなかったのだ。
「そんな顔をしないでよ。あなたの愛情は、ちゃんと私に伝わっているから」
「本当に? 昔はよく『言葉にして欲しい』なんて言っていたじゃないか」
「形じゃない愛だってあるよ」
すぐに強がるのは彼女の悪い癖だ。沙奈は廉斗のために優しい嘘をつく。
廉斗にとって、それはたまらないほど愛おしく、胸が引き裂かれるほどに残酷な仕打ちでもあった。
「大丈夫。私にはちゃんと伝わっているから」
「僕にはその自信がないよ。ああ、本当にどうして……」
こんなに好きなのに。どうして、僕だけが、愛する人に「愛してる」と言えないんだろう……。
廉斗は呪われた自分を心の底から恨んだ。
*
二〇一九年七月。彼が受けた呪いの始まりは、雨の匂いを
「
「そう。日本では、
ふたりは港町にある、外装がガラス張りの屋内緑地公園にいた。この施設では、四季折々の花や新緑、紅葉などを楽しむことができる。そんな自然が溢れる中で、子どもの楽しそうな笑い声が聞こえていた。
今日は色々な顔を見せる植物に癒やしを求めて訪れたが、昔は廉斗もここで姉妹と仲睦まじく遊んだものだ。
元々、この施設には人工的に作られた小川があった。その川に置かれた岩に上がって向こう側に渡り、小道を少し歩けば、知らない植物の世界が広がっていたのだ。幼かった廉斗にとって、ここは身近なアスレチックパークであり、冒険の場でもあった。
今でこそ、休憩所に子ども向け遊具があったり、小川の水が抜かれてイベント用のステージを増設されてしまったが、それでも愛着ある場所には変わりなかった。
園内を一通り一緒に見て回ったが、佐奈はここで何を感じたのだろうか。
佐奈は大きな瞳いっぱいに深緑の光を受け止め、楽しそうに言った。
「例えば、さっき見た『けやき』の木とか、『さつき』の花とかにも、こんな小さい神様がいたりして」
「へえ。よく植物の名前を覚えているね」
「なんとなく気になったから。もし、あそこに神様がいるのなら、どんな姿なのかなって思ったんだ」
「何かお願い事でもする気?」
「そんなんじゃないよ。お礼を言いたくてさ」
茶化す廉斗に、沙奈は微笑みを浮かべて答えた。
「きっと、身近な神様が私たちを見守ってくれているから、私は今あなたといられるんだよ」
沙奈は時々大袈裟に物を言うが、廉斗は決してそれが嫌ではなかった。なぜか沙奈の言葉は、ストンと胸に落ちるのだ。
沙奈のおおらかな性格は、何度も廉斗に安らぎと、心の平穏を与えてくれた。
廉斗は訳あって自分の家族とは疎遠状態だ。姉と妹ですら、連絡は取れていない。人付き合いは得意ではないため、交流関係も狭い。それでも気の合う友人が数人いるので、廉斗はまだ恵まれた方だろう。
その友人の中に、沙奈がいた。
出会ったのは高校生の頃。人生のどん底にいた自分に寄り添ってくれたのが、目の前にいる彼女だったのだ。
「ねえ、廉斗くん。あなたと一緒に眺めているこの景色には、どんな神様がいると思う?」
施設の二階にあるベンチに座っていた沙奈が、横から廉斗の顔を覗く。廉斗は沙奈に促されるように、辺りの景色を見回した。
この二階には、一階と違って目立つ遊具や植物がない。代わりにベンチが何個か置いてあるだけだが、外装がガラス張りのお陰で、港町の様子を少し高い場所から見ることができる。それに、転落防止用のコンクリートの腰壁の上には色々な種類の木が頭を覗かせていて、地上にいる時とは随分と違った景色だ。
なんだか、自然と一体になれている気がする。
施設の利用者は下にいるので、二階ではより静かに過ごせるのは嬉しい誤算だった。
遠くで揺らぐ波の動きは穏やかだから、きっと今はそんなに風は強くないはず。それなのに、この施設には葉っぱの匂いと、潮の香りがふわりと漂っている。少し空気が湿っぽい気がするのは昔からだ。
廉斗は思う。こんな風にゆったりと過ごす時間を、退屈だなんて感じないとは……。
自分に新鮮な景色を見せてくれた彼女こそ、神様に近い存在なのかもしれない。沙奈がいなければ、廉斗は大学生になってから、こんな風に何気ない日常の中で、心の赴くままに感情を動かしたことなんてなかった。自分の変化に驚くしかない。
「神様か……。僕は神様なんて信じられないけど、君のことは何よりも大切にしたいと思っているよ」
「ありがとう。私も廉斗くんが大切だよ」
不意を突かれてキョトンとした表情を見せた沙奈だったが、嬉しそうに微笑みながら、想いに応えるように廉斗の手に触れた。
ごく自然な流れで重なった手に、廉斗の胸が温かくなる。
──こんな気持ちになるのは君だけだ。
幸いにも、二階には人がいない。
廉斗は急に沙奈が愛おしくなって、柄にもなくストレートに愛を伝えようとした。
その時、廉斗は自分の異変に気付く。
「…………!」
「廉斗くん。どうしたの?」
伝えたい想いが話せない。声に出そうとしても、変な音が口から空気となって抜けるだけだった。
廉斗のそんな様子に不安を感じた沙奈が顔を近付けると、廉斗は重なっていた沙奈の手から抜け出して、自分の喉に手をかけた。
「廉斗くん!?」
「沙奈……。僕は……!」
「何? 何か言いたいのね?」
驚きながらも沙奈は、廉斗の丸まった背中に手を当ててフォローする。
世話を焼きながらも続きを聞こうと待ってくれている沙奈のため、廉斗は必死に声を出す。だが、やはり声にならない。
自分の意思通りに身体が動かない。それに廉斗は焦る。
──好きだよ……。
「大丈夫、急かさないから……。廉斗くんのペースでいいよ」
──君が好きなんだ。本当に、心の底から……。
彼女に想いを伝えたい。今まで貰ってばかりだったからこそ、言葉にしてあげたいのに……。
喉が熱くなるだけで言葉にできない。それが悔しくて、もどかしい。
廉斗は首にかけた手の上に、更に自分の手を重ねた。どうにかして声を捻り出そうと、力を込めて肌を
「無茶しないで」
ちょうど息苦しくなったところで、沙奈の手が廉斗の行動を止めた。
「なんとなくだけど、気持ちは伝わったから。ね?」
沙奈の濡れた瞳を見て、少しずつ冷静になった廉斗は自分の喉から手を離す。
混乱していたのは、自分だけではなかったのだ。
「理由は分からないけど、廉斗くんは急に何かを話せなくなったんだよね?」
「ああ……」
情けない。急に話したいことが話せなくなってしまったことも、パニックになったことも。
なぜ、急にこんな事が起こったのか……。
廉斗は膝の上で固く組んだ両手に力を入れた。
「私は廉斗くんがさっき何を言いたかったのか、分かっているつもりだけど……。廉斗くんはきっと、それが私にちゃんと伝わっているのか不安なんだよね?」
廉斗が言葉を返す前に、沙奈は再び廉斗の手を握る。
廉斗は何かを言いたそうな沙奈の話を聞くため、前屈みになった態勢を元に戻した。
「じゃあさ……」
キョロキョロと辺りを見回してから、沙奈は顔を寄せた。
「これが答え合わせだけど……正解だったかな?」
不意打ちで唇に感触があった。
沙奈の大胆な行動に、廉斗は驚くしかなかった。
「えっ? あっ、ええ?」
「あれ? 不正解だった?」
いたずらに笑った沙奈に、廉斗は頭が追いつかない。
廉斗が狼狽えている間にも、沙奈は次の行動に移る。
「廉斗くんが声に出せないのなら、私が代わりに証明してあげる。だから、廉斗くんも行動で……口移しでいいから、伝えたいことを教えて」
そう言うと同時に、沙奈は触れていた背中から腕を伸ばして廉斗に抱きついた。小柄な沙奈では、男性の平均身長である廉斗の背中は広い。
手が回されていない部分があるにも関わらず、廉斗は今、沙奈の温かさに全身が包まれていた。
──ああ、僕はなんて情けない男なんだ。いつも君に愛情を返せない。
廉斗は沙奈の優しい誘導に胸が苦しくなる。
今こそ、健気な彼女の愛情に応えてあげたい。
廉斗が小さな背中に腕を回すと、今度は沙奈の全身が自分とは違う温かさに包まれた。いつもより強い抱擁に、たまらず沙奈は顔を上げる。
いつも深い愛情を与えてくれている沙奈の、何かを待ち侘びているような瞳に、廉斗は胸の内から熱い想いが込み上げていた。
どうか、自分のこの行動が、彼女に伝えられない言葉の代わりになってほしい。
一片でもどうか、伝わりますように……。
──愛してるよ。
廉斗が震える唇を重ねると、沙奈の唇から潮の香りがした。
「……しょっぱいね」
沙奈は涙を誤魔化すように笑っていた。その笑顔は海面の光よりも美しく、彼の胸の中で花火のごとく
目に見えなくても、形として残されていなくても、愛は確かに存在する──。そんな究極の愛を若いふたりが掴むには、今のままでは経験が足りなかった。ふたりが水平線の彼方にある光に触れるには、
建物の構造上、今は美しい海に背を向けているふたりだが、普段のふたりからみて、母なる海は
誰かが隣にいても、どこか心が満たされない。だからこそ、ふたりには自分を求めてくれる最愛の人が必要不可欠だった。空虚感に怯える弱い自分が、打算的な考えで、愛する人と過ごす時間を増やそうと欲張っていたのだ。両者は己の潜在意識で欠けた心の隙間を埋めたがり、共々相手を引き寄せてしまう。その絶妙な関係はまるで張り詰めた糸のような均衡を保っていて、また
互いを思い合う今のふたりは、手放しで幸福を
全ての生命の源である海は、彼らと共鳴するようにやがて薄暗い雲に覆われていく。
更にこの年、極悪非道な手口で世界を巻き込む大事件が起きる。そこでは誰もが歴史の単なる目撃者ではなく、物語を動かす当事者になってしまう。つまり、それは呪縛に苦しむ彼らも例外ではなかった。
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