第三話 見返りと憎しみの鎖

 廉斗は市立病院の敷地内にあるバス停のベンチに腰掛け、腕時計をじっと見つめていた。秒針の動きがとても遅く感じる。

 たった五分の待ち時間でも、廉斗にとっては不気味なほど長く、気を緩めると、身体から恐怖があふれ出てしまいそうだった。

 廉斗は病院が苦手だった。高校時代の辛い出来事を思い出すからだ。

 脳裏に浮かぶのは、さっき会ったばかりの佐奈の控えめな笑顔ではなく、全身が傷だらけで、静かに眠る母親の姿だった。

 ──許さないから。

 身内の言葉が頭によぎると、一瞬にして過去にとらわれてしまう。胸にたかまる自己嫌悪感が、廉斗の喉を詰まらせる。

 逃げるように曇った空を見上げると、心までみにくい感情でにごっていくようだった。

 苦しそうに息を吐きながら、廉斗は広い駐車場に積もった雪を眺める。その白さは病院のベッドシーツや、故人の顔にかけられる白い布を連想させた。

 寒さよりも、この白い視界の静けさが、廉斗をさらに追い詰めようとしていた。

 ──せめて佐奈だけは、どうか……。

 一種の癖のようで、どうにも悪い方向ばかりに考えてしまう。そんな考えを払拭ふっしょくするように、廉斗は誰に祈るわけでもなく、ただただ佐奈の回復を願っていた。

 廉斗が神を信じないのには、それ相応の理由があった。それは、心から救いを求めた場面で、あっさりと神に裏切られた経験があったからだ。

 二十年という時間を生きてきた廉斗だが、最も心に深い傷を残した出来事が三年前の冬にあった。


 真夜中、緊急外来の手術室から病室に運ばれてきたのは、変わり果てた姿の母親だった。

「……俺のせいだ。俺のせいだ! 俺が廉斗を迎えに行けば良かったんだ! お前に任せてばかりで悪かった。ごめん……。智子ともこ! 本当にごめんよ……」

 普段は物静かな父親が泣き崩れるところを、廉斗は嫌でもその胸に刻み込んでいた。

 真っ白な雪のような白さを、魂が凍りつくほど恐ろしいと感じたのは初めてだった。何もかも吸い込んでしまいそうな色は、底なしの虚無感を廉斗に植え付けた。

 白いシーツの上、暖かそうな掛け布団の中にいる母親の姿は、あざ裂傷れっしょうだらけで痛ましい。顔にかかっていた真新しい布を取り外してもらうと、そこは赤く腫れ上がっていた。

 廉斗は、生前の母親とはまるで違う姿に目を見張る。

 どうして。なぜ、こんなことに……。

 そんな疑問ばかりが、廉斗の脳内を支配していた。

「お母さん! お母さん!」

 廉斗の真横で、ベッドの柵にしがみついて泣き叫んでいたのは、三歳下の妹である美香みかだ。早生まれで学年が四つ違う姉の成海なるみは、服飾の専門学校の学生で東京に住んでいたため、母親の最期に立ち会うことができなかった。しかし、成海は急ぎこちらに向かってきているようだ。どうやら、母親が危篤状態であることを、病院に向かっていた父親が連絡したらしい。

 母親は塾の冬期講習を終えた廉斗を、車で迎えに来るはずだった。その道中、路面凍結でスリップ事故を起こした車に追突されたのだ。医師による治療の努力の甲斐もなく、母親は帰らぬ人となった。追突してきた相手はこの雪道で赤信号を無視した上に、スピードを出していたという。廉斗の母親は、悲運に見舞われたのだ。

 廉斗は今まで、ろくに神を信じていなかった。信じていたのは、受験の合格を願った時ぐらいだろう。そのお陰か、志望校には余裕で合格できた。

 それなのに、今はどうだ。塾から病院に着くまで母親が助かるように祈っていたが、少しの希望すら抱くことなく簡単に裏切られてしまった。

 この結果は、神を都合よく信じていた自分への見返りだろうか。だとしたら、あまりにも重すぎる。もしも、願望を叶えることに代償を払うことを知っていたのなら、自分は安直に神様なんて信じなかった。そう思うくらいには、廉斗は自分のこれまでの行動を激しく後悔していた。

「……廉斗のせいじゃん」

 美香の静かな怒りの声が、暗い病室の壁に吸い込まれていく。真横にいた廉斗には、その音がやけにはっきりと聞こえた。

「塾から歩いて帰ってくれば良かったんだよ! 何でお母さんを迎えに呼んだの!?」

「やめなさい! 美香!」

「父さん。いいんだ」

 非難する美香を父親は制したが、廉斗は罪を甘んじて受け入れた。

 廉斗はこれまで自分の都合で神を信じて、望む結果を得られると、簡単に神を切り捨ててきた。神は、そんな廉斗に天罰でも下したのだろうか。

 そんな考えを巡らせたところで、母親は帰ってこない。

 母親は死んだ。そのきっかけは自分だ。

「何でこんな事になるのよ!? 廉斗のせいじゃん!」

「ああ。この結果は僕のせいだ」

 廉斗を睨みつける美香の目は、悲しみと怒りに満ちている。それは、追突事故を起こした相手が即死したため、やり場のない怒りに違いなかった。けれども、廉斗は母親を死なせてしまった罪悪感から、美香の憎悪が自分に向くことを許容した。

 美香のあまりにも痛々しい悲しみと、最愛の人を失ってなお息子をかばう優しい父親の涙に、廉斗は失ってしまったものの大きさを実感する。

 どこで選択を間違えてしまったのだろうか。自分が、大切な家族の運命を悪い方向にいざなってしまった。

「全部、僕のせいなんだ……」

 泣く資格は自分には無い。それでも、勝手にあふれ出す涙を止めるすべが見つからない。

 ──廉斗、美香の誕生日ケーキは何がいいと思う? またチョコレートケーキかな。

 最近の母親が気にしていたのは、数日後に控えた美香の誕生日だった。中学校のバレーボール部で忙しい美香とは違って、帰宅部だった廉斗に、母親は誕生日ケーキの種類を相談していた。

 美香は基本的に母親の問いに対して、適当に返事をしがちだ。だから母親は兄である廉斗に、美香好みのケーキがどれなのか意見を聞いてきたのだろう。廉斗も特にそれがわずらわしいとは思っていなかった。

 家族の誰もが、美香の誕生日が何事もなくやってくることを心待ちにしていた。それがまさか、こんな形で迎えることになるとは思いもよらなかった。

「許さないから」

 美香の憎しみは、相当なものだった。



 呪いとは、多くは人の憎悪の念に由来するものだ。

 廉斗はのちに、佐奈へ向けた愛の言葉が話せなくなる。それは、抜け落ちた言葉の裏で、目に見えない憎しみの鎖が廉斗の心を固く縛っていたからだ。これが、廉斗にかけられた呪いの正体だった。

 そのことに薄々勘づいていた廉斗は、自分に呪いをかけた人物が誰なのか心当たりがあったのだ。ただ、それを佐奈や、他の誰かに話すつもりは毛頭なかった。

 証拠がないのも理由の一つだが、それよりも、自分は昔のとがを負うべきだ。事故を起こした運転手は別として、母親の死は他の誰にも非がない。母親を事故に巻き込んでしまったのは、間違いなく自分だ。

 仮に、廉斗が母親を死に追いやったことで、恨みを持っている人物から呪いがかけられたとしよう。その呪いのせいで、佐奈を悲しませているのが恋人である自分だとしても、廉斗はこの現実を受け入れるしかないと思っていた。

 廉斗には、佐奈の他にもまもりたい人がいた。欠けてしまった自分の家族だ。

 自分が不本意ながらも母親を傷つけたことで、家族が悲しみと痛みで涙した。心が崩壊していく大切な人たちの姿を間近で見てきた廉斗は、ますます苦悩する。

 母親の死から始まった悲劇は、まだ終わっていない。

 ──駄目だ。このままだと、佐奈まで傷つけてしまう……。

 愛しているからこそ、一緒にいることに怯えてしまう。廉斗が抱えるこの気持ち──終わらない負の連鎖も、一つの呪いの形である。

 これらの呪いを断ち切れないのは、廉斗が心のどこかで、母親の死の贖罪しょくざいだと思っていたからだ。

 塾の講習が終わって、母親を呼び出した当時の自分に責任がある。そんな罪悪感を抱くほど、廉斗は愚かな優しさを持つ青年だった。

「……潮時かもな」

 大学の学生寮の自室に戻ってきた廉斗は、佐奈が退院して戻ってきたら、恋人関係を解消しようと考えていた。

 身勝手かもしれない。しかし、感染症対策によって物理的にも引き離された今、廉斗には佐奈への愛を表現するすべが全く見つからなかった。

 佐奈は酷い高熱と、激しい咳の症状が出て入院を余儀なくされた。今は回復傾向にあり、オンライン面会で会話ができるようになったが、世間では新型ウイルス感染症の変異種まで出てきた。そうなると、またいつ変異種に感染するか分からない。

 テレビに連日出演している感染症の専門家の話によると、初期の新型ウイルスに感染した人に変異種にかかりやすいそうで、「これまでに得られた免疫を逃れているのではないか」という見解だった。恐らく、佐奈も報道でその件を知っているだろう。

 こんな時だからこそ、佐奈のそばにいてあげたい。言葉をかけてはげましたい。それなのに、自分は何もしてやれない。佐奈は感染症にかかったまま、ひとりで年を越そうとしているというのに。それがどれほど心細いことか……。

 気が付くと、廉斗はコートから取り出した白紙のメモ用紙を強く握りしめていた。このメモ用紙には、佐奈への想いが込められている。

 廉斗は捨てるはずだったメモ用紙を拾い集めて、いつか退院した佐奈へ、言葉の代わりに届かなかった想いを伝えようとしていた。それほどまでに廉斗の愛は深かったが、思い悩んだ末に廉斗は、かけがえのない佐奈との愛の日々を手放そうとしている。

 佐奈は、母親を亡くすきっかけを作った自分に寄り添い、生きる希望を見出してくれた。佐奈が与え続けてくれた愛は大きすぎて、返そうと思ったところで、とても追いつけそうにない。今まで対等な愛情じゃなかった。それでも、佐奈は自分を愛してくれた。望む言葉をかけてやれない自分は、きっと佐奈を傷つけてばかりだ。それは、これからも続くはず。

 佐奈を自由にすることが、廉斗が唯一できる愛情表現であり、最大の愛の証だった。憎しみの感情から生まれたであろう、呪いという鎖で縛られた廉斗には、それがよく分かっていた。

 ──佐奈、知っていてほしい。僕の愛を信じてくれ。

 佐奈を自分から解放して幸せにすると決意するため、くしゃくしゃにしたメモ用紙を広げて見返そうとした──まさにその時だった。

 座卓の上に放置していたスマートフォンが鳴り響く。着信音にビクッと身体を震わせた廉斗は一呼吸置いた後で、通知を確認した。

 電話の発信者を見て、廉斗は目を丸くする。

 それは、高校時代の自分を救ってくれた、もうひとりの恩人である親友だった。

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