第一話 「狼獣人と盲目奴隷、 出会う」

 

 そこは戦場だった。


 武器や防具がぶつかり合う金属音がする。

 魔術が飛び交い爆発が起こる。

 そして何より、 この臭い。


 金属が削れる臭い。

 何かが焼ける臭い。

 血の、 臭い。


 全てが俺を沸き立たせる。


 ここは崖の上。

 見下ろすは魔王軍の精鋭。

 視線の先には、 愚かな人間ども。


 これから俺たちは、 奴らを蹂躙する。



「聞けぃ! 誇り高き魔の戦士たちよ! 」



 俺の声に部下たちが静まり返る。

 愛いヤツらよ。

 貴様らも人間を殺したくてウズウズしているだろうに。



「敵は今目の前だ! なに、 遠慮する事はない!! 」



 ほら見ろ。

 俺が言葉を発する度に身体を疼かせておるわ。

 早く号令をくれ、 とな。



「私から言える事は二つだけだ! それを進撃の合図とさせてもらおう!! 」



 ならば解き放つがいい、 その魔の本能を!!



「殺せ!! そして喰らえ!! 」

『うおおおおおっ!!!! 』



 合図に同胞たちが叫び出す。

 その咆哮は正に地響き。

 見ろ、 人間どもが震え上がって進軍を止めておるわ。


 怯えて抵抗もせずに死ぬならそれも良し。

 勇猛果敢に戦って死ぬも良し。

 俺はどちらも讃えよう。

 この場にいるだけで貴様らは名誉の戦士なのだからな。

 さぁ、 殺すぞ! 食うぞ!!


 俺は崖を飛び降りた。

 そしてそのまま絶壁を駆ける。

 四肢で、 ほぼ垂直に、 人間どもを目指し。

 俺は誇り高き狼の獣人。

 先陣は俺だ。


 同胞が後ろに続く。

 群れを率いている感覚はいつも気分がいい。


 崖を降りきる頃には人間は目前。

 俺は四足でそれに飛びかかる。


 当然抵抗される。

 武器が毛皮を突き破り傷もつく。

 だからなんだと言うのだ。

 俺は戦士だ、 この程度で止まりはしない。

 寧ろ、 食事を邪魔された事で勢いも増すというもの。


 俺が飛び掛った人間は運がなかったな。

 いや、 逆に運がいいか。

 俺に食われる名誉を感じながら死ぬがいい。


 口を大きく開く。

 鎧で守られていない首元に狙いを定める。


 さぁ、 いよいよだ。


 いただきます......!


 俺はその人間の首元に、

 思い切りかぶりついた......!


 だが、

 それが叶う事はなかった。


 ◇◆◇


「ふがっ!! 」


 情けない声で目を覚ます。

 誰だこんな朝っぱらから、 不快な。

 ......俺の声だ。


 何とも懐かしい夢だった。

 戦場から離れて久しい俺にとっては夢のようだったな。

 いや夢か。


 それにしても使用人どもは何をやっている。

 主人が目を覚ましたというのに朝食も持って来ないとは。

 何の為に高い給金で、 豪華な俺の屋敷に住まわせてやってるのか。


 ......いや、 何を考えているんだ俺は。


 ここは俺の豪華な屋敷じゃない。

 ただの洞穴だ。

 だから使用人もいる訳がない。


 いるのはただ一人。

 薄汚い狼の獣人だけだ。


 もう戦争は終わった。

 俺の地位もなくなった。

 全てはあの夢のように消え去ったのだ。


「......顔でも洗うか」


 俺は重たい身体を引き摺り洞穴から這い出た。

 そして振り返る。

 豪華だった屋敷は今やこんな天然の洞窟だ。

 哀れな気持ちになる。

 きっと寝ぼけているせいだ。

 俺は頭を掻きながら近くの川に向かった。

 身体も痒い。


「ふぅ」


 川に入るとスッキリした。

 どうやら身体にノミがいるようなので、 顔だけじゃなく全身を洗った。

 もはや水浴びだ。

 おかげで目が覚めた。


 ふと水面を見る。

 そこに映るはみすぼらしい姿の獣人。


 銀色の体毛は手入れがされておらずボサボサ。

 誇り高い狼顔は今やその威厳の欠片もなく弱々しく、

 目が覚めたのに目は眠そうに細い。

 大きな口をだらしなく開き、

 見える牙はもはやお飾りだ。

 手足の爪もただ伸びているだけ。


 この情けない獣人が今の俺だ。

 何故こんな事になったのか。

 ふと思い出してみる。




 俺の名前は、

 ウルフォン・ワードナー。

 元魔王軍の幹部だ。

 10年前までは魔王様の側近として、 魔王軍の一部を率いていた。


 それなりに地位もあったし豪華なら暮らしもしていた。

 食うものにも困らず金もあった。

 多くの獣人の女を抱え、 部下の信頼も厚かった。

 俺は魔王軍のエリートだったのだ。


 しかしそれも過去の栄光。

 今や俺は野生の狼と変わらない野良獣人だ。


 何故そうなったか。

 魔王様が人間に負けたからだ。

 勇者とかいう一人の人間に。


 そこからは転落の人生だ。


 魔王軍は解体。

 魔王様の領地は人間によって没収。

 当然魔王様から与えられていた俺の屋敷も差し押さえられた。

 無論俺だけじゃない。

 魔王様に仕えていた者全てが住処を追われたのである。


 その後人間どもはどうしたか。

 事もあろうに我らと共に暮らす道を提示してきたのである。


 その甘い誘いに乗った同胞も少なくない。

 だが俺は乗らなかった。

 馬鹿な話だ。

 屈辱にも程がある。


 だから俺は人間どもが気に食わない同胞と共に反乱を起こした。

 だが結果は酷いものだ。

 魔王様という指導者を失った我々は人間にことごとく負けた。


 死んだ者もいる。

 人間に投降した者もいる。


 俺はそれが許せなかった。

 何度も戦った。

 そして、 気づけば一人になっていた。

 こうして俺の戦いは終わったのだ。


 今更人間の世話になる気にはなれなかった。

 だから俺は野生に帰る事にした。

 その結果が今の洞穴暮らしだ。


 結局、 俺の贅沢は魔王様のおかげだったのだ。

 俺が強くあれたのも同じく。

 それに気づいた頃には遅かった。


 今や俺は牙を抜かれた狼。

 あの頃の威厳も獰猛さも消え隠居生活。

 人間を自由に食う事も出来ず、

 こうして穴蔵で暮らし動物を狩って生活しているのである。


 これが、 俺の10年だ。


「......」


 そんな虚しい事を思い出していると腹の虫が鳴った。

 そう言えば起きてから何も食べていない。

 さて何を食べるか。


 10年前は何もせずとも朝起きれば朝食が用意されていた。

 しかし今は自分で用意するしかない。


 このまま川で魚を摂るか。

 それとも森に入り鹿でも狩るか。

 ......いや、 違うな。

 今俺の腹の虫はこう言っている。


 人間を食いたいと。


 あの夢を見たせいだ。

 そのせいで口も舌も腹も人間の血肉を求めている。

 ならばどうするか。


 ......よし、 決めた。

 街へ行こう。


 こうして俺は人間を求め歩き出したのだった。


 ◇◆◇


 と、 言ってもだ。

 何も街の人間を殺して食うつもりはない。

 そんな事をすれば多くの人間の兵士に囲まれてこっちが殺される。

 今の俺はそれを蹴散らすだけの強さも気力もない。

 ここ10年で己の実力も改めて認識出来たつもりだからな。


 しかし問題ない。

 当てはある。

 それを頼ってこうしてわざわざ人間の街まで来たのだからな。


 その街は大きな壁に囲まれていた。

 10年前の戦争の名残だ。

 入口は北と南の二つしかない。


 しかし俺はその入口からは入れない。

 最後まで人間に抵抗していたせいで指名手配をかけられているからだ。

 ならばどうするか。

 入口から入らなければいい。


 街の西側に向かう。

 そこには俺のような厄介者をこっそり入れてくれる裏口がある。

 タダではないが。

 そこで金を払い中に入る。


 街は活気に溢れていた。

 来る度にここは賑やかになっている。

 少し前までは戦争の爪痕が残っていたのにだ。

 人間というのは弱いが、 こうして蘇るのが早い。

 そりゃ負ける訳だ。


 辺りを見回すと懐かしい姿も目にする。

 獣人を始めとした、 魔王様の元配下たちだ。

 彼らは人間に下った者たちだろう。

 俺のように隠れる事無く、 堂々と歩いている。

 10年前に敵だった相手をこうして当然のように受け入れるのも人間の強みだろう。


 ふと自分の姿を見る。

 俺はボロボロのローブを頭から着込み、 正体がバレないようにしている。

 この差はなんだ。

 最後まで魔王様の配下として戦ったというのに。


 ......まぁそれはいい。

 過ぎた話だ。



 街を進み、 とある裏路地に入る。

 その先に目的の建物があった。


「いらっしゃ......あ! ウルフォン様! 」


 中に入ると調子の良さそうな人間の女がいた。

 ここは店であり、 コイツは店主だ。


「......ウルフォン様はやめろ。 誰かに聞かれたらどうする」


 こんな店誰も聞き耳など立てていないとは思うが念の為だ。

 余計なトラブルは避けたい。


「分かりましたよウォンさん。 今日はどのようなご要件で? 」


 俺の言葉にソイツは軽い調子でそう言った。



 コイツは魔王軍にいた頃の俺直属の部下だった。

 人間だが、 魔の者に育てられた経緯があり、 こちら側の者だった。

 魔王軍の中では厄介者扱いされていたが、 人間だという事を買って、 諜報係として俺がスカウトしたのだ。

 まぁそれは昔の話し。

 今はこの店の店主だ。

 名前は忘れたが、 今はそのまま『テンシュ』と呼んでいる。


 この店は所謂何でも屋だ。

 俺のような逸脱者相手に商売をしている。


 ここではなんでも揃う。

 武器、 道具、 はたまた日用品まで。

 しかし今日の俺の目当てはそれじゃない。


「......人間の女の奴隷が欲しい。 若くて肌が柔らかそうな奴だ。 ......これを換金して頼む」


 俺は目的を告げると懐から鹿の角や毛皮を出した。

 俺の今の収入源はこれだ。

 狩りをし、 食える所は食うが、

 食えない所はここで金に替えて貰うのである。


「......あー、 なるほど。 でもこれじゃあ大した奴隷は売れませんよ? 」


 それらを見てテンシュは怪訝な顔をした。

 元上司になんて態度だ、 とも思うが抑える。

 金は街に入る時に裏口でほぼ使ってしまった。

 今はこの角や毛皮で見繕って貰うしかないのだ。

 昔とは違い、 向こうが立場が上なのである。

 それぐらいは俺でも分かるのだ。


「そこを何とか頼む。 今日は何としても人間の肉が食いたい。 訳ありでもいい」


 俺は頭を下げて頼んだ。

 今日はどうしても譲れないのだ。


 そう、 俺はここに食う為の人間を買いに来た。

 今日の食事にする為である。

 表立っては人間を食う事は出来ない。

 だから人間が食いたくなったらこうしてここに買いに来ているのだ。


 金で買える人間、 それは奴隷だ。

 様々な理由でここに売られてきた者たちである。

 奴隷ならば買って食おうが誰にも文句は言われないのだ。


 しかしまぁ、 俺のような獣人が奴隷を買えるのはこの店しかない。

 即ちここで断られたら他に手に入れようがない。

 だから元部下だろうとこうして頭を下げるのである。

 ......情けない程この上ないが。


「はぁ。 仕方ないですね」


 テンシュは大きなため息をついて立ち上がった。

本当にコイツは、 金のない相手にはいつもこうだ。

 それが元上司に対する態度か。

 食い殺してやりたくなるな。

 ......いかんいかん。

 ここで殺してしまっては今後買い物が出来なくなる。

 一時の怒りに身を任せてはいかんのだ。


 テンシュは店の奥に歩き出し、 着いてくるように促してきた。

 だからその後を追う。

 その態度も素っ気ないが我慢する。


 ああ、 俺は何をやっているのか。

 本当に情けない。

 しかし今は人間が食いたくて食いたくて仕方ない。

 我慢するしかない。


 そんな状態でふと彼女の後ろ姿を見る。

 黒髪のショートカットが歩く度に揺れる。

 チューブトップにハーフパンツ姿の為、 その身体つきがよく見える。

 肉付きはあまり良くないし胸は大きくはない。

 だが......実に美味そうだ。


 ......いかん。

 俺は口から溢れる涎を腕で拭いとった。


「着きましたよ」


 そんなタイミングでテンシュが振り返ったものだから慌てて手を隠す。

 向こうはそれに気づいたのか、 またため息をついていた。

 いつか食ってやる。



 案内された場所は奴隷の保管所だった。

 保管所と言っても檻だ。

 その部屋は小さな窓しかなく明かりも少ない。

 薄暗くジメジメとして陰湿な印象だ。

 しかしそこに並んでいる奴隷は悪くない。

 様々な美味そうな......様々な人間がそこに入れられている。


「実はちょうど訳ありが入りましてね。 目が見えないってんで売り手に困ってたんですよ」


 奴隷は基本、 労働者として人間に買われていく。

 他にも様々な理由があるが......目が見えないとなれば確かに買い手がいないだろう。

 こちらとしては有難い限りだ。


「ウォンさんも運がいい。 もう少しで変態貴族にタダ同然で売りとばす所でした。 身体は貧相ですが、 結構な美人だったんでね」


 こちらとしても有難い、 そんな表情を見せるテンシュ。

 元上司を在庫処理で売りつけようとはいい度胸だ。

 まぁ俺も助かる訳だが。

 というかお前が身体が貧相とか言うのか。


「まぁ後は商品を見ていただいて......」


 テンシュはそう言いながら一つの檻を指さした。

 その先を見て、 俺は固まってしまう。


 その女には、 窓から漏れる一筋の光が当たっていた。

 そのおかげで全てがよく見えた。


 透明感のある銀色のウェーブがかった長髪。

 透き通るような肌。

 ボロ布に隙間から伸びている細い手足。

 胸も小さく、 飯を食っていないのか痩せこけている。

 そして、 見えないだろう目。

 開いているがどこも見ていない、 銀色の瞳。


 俺は、 その女に目を奪われた。


 一瞬だ。

 一瞬で悟った。

 この女こそ、 俺が食うに相応しい人間だと。


「......うぞ」

「はい? 」

「買うぞ! いくら出してもこの女を買おう!! 」


 気づけばそう叫んでいた。

 テンシュに、

「いくら出してもって、 ウォンさん金持ってないでしょ」、

 等と言われたが気にしない。

 今はそんな事よりもこの女が欲しい。

 そう、 心から思った。



 こうして、 俺は女と出会った。



◇◆◇


俺はその後、 即座に洞穴へと戻った。

当然あの女を連れて。


 買った。

 買ってやった。

 俺の獲物だ。

 俺の食事の人間の女だ。

 それが目の前に立っている。


 女は俺に着いて歩いて来た。

 街を出て、 森を抜け、 ここまでやって来た。

 文句の一つも言わず。

 よく見れば靴を履いていなかった。

 だから足が血だらけだ。

 しかしそれがなんだ。

 今から食べる獲物に特性のソースが掛かったようなものだ。

 こちらとしては有難い。


 ふとそこから視線を上に上げる。

 女には俺から見て洞穴の入口側に立っている。

 光と風が当たり、 銀色のウェーブがかった髪が揺れていた。

 美味そうだ。

 貧相な身体が輝いて見える。


 女は状況が分からないのかニコニコと笑っている。

 目の底から微笑んでいる。

 とは言っても目が見えない為目線が合わない。


 そんな事はいい。

 待ちに待った人間の肉だ。

 どこから食おうか。


 そんな事を考えながら女に近づく。

 それでも微動だにせず微笑んでいる。

 目は見えなくても何となく気配は分かるだろうに。

 怯える様子もない。

 いやそんな事はいい。

 いいのだ。


 決めた。

 頭から食おう。

 この憎たらしい微笑みが苦痛の表情に変わるのを楽しみながら食うのだ。


 そう決めると早かった。


 女に近づき大きく口を開けた。

 涎がダラダラと地面に垂れる。

 これだけ開けば人間の頭など丸かじり出来る。

 そのまま何の躊躇もする事なく口の中へと入れていく。

 そしていよいよ噛み付こうとしたその時、

 俺は、 その女の顔を見た。

 見てしまった。

 女の恐怖や絶望の表情が見たかったからだ。


 しかし俺の目に映りこんだのは、

 変わらず微笑む女の顔だった。


「っ!? 」


 思わずギョッとして身を引いてしまう。

 これで元魔王軍の幹部だったのかという自分が心の中にいるが仕方ない。

 未知なるもの、 不気味なものを警戒するのは本能だ。


 それにしてもこの女はおかしい。

 自分が食われそうになっているのに笑ったたまとは。

 流石にここまですれば何をされているのか分かりそうなものだが。

 目が見えないとはそれ程までに不便なのか。


 いやしかしそれにしたって他にも反応があるだろう。

 俺は狼の獣人だ、 相手が怯えているかどうかは臭いでも分かる。

 でもこの女は表情同様穏やかな臭いのままだ。

 それに悲鳴の一つも......。


 ん? ちょっと待て。

 コイツ、 いつから声を発していない?

 いやそれどころか聞いてすらいないんじゃないか?


 ええと、 テンシュからコイツを受け取った時は......。


 ◇◆◇


 思い返せばこの女、 最初からおかしかった。


 テンシュから引き渡された時もコイツは微笑んでいた。

 一言も発さずニコニコと。


 普通奴隷というものは買ってくれた主人に対し、 最初に挨拶するものだ。

 何が出来るかとか、 これは得意だとかな。

 特にテンシュはそこら辺の教育をしっかり行っている。

 そこから考えると確かにこの女は訳あり商品だったのかもしれない。

 目が見えないという点を除いてもだ。


 まぁそれは百歩譲ってよしとしよう。

 この俺を見てまともに挨拶出来ない奴隷も少なくないからな。


 何故なら、 この俺の見た目に恐慄くからだ。


 人間に取っては普通の狼と言えど恐怖の対象だろう。

 それが獣人として目の前にいるのだ、 仕方がない。

 というか寧ろそうでなくては困る。

 俺は誇り高き魔の戦士。

 人間に恐れを抱かれてこそだからな。


 しかしこの女はどうだ。

 そんな素振りやしない。

 恐怖の臭いすら感じないのだ。


 まぁ目が見えないので獣人としての恐ろしさが実感出来ないのはまだ分かる。

 それならば俺を目の前にしても怯えない説明がつく。

 だがそれだけではないのだ。

 売られた先にどう扱われるかという不安。

 未知の場所に連れていかれる恐怖。

 そういった臭いを全く感じない。

 微笑んだその表情の通り、 幸せそうな臭いにしかしないのだ。


 思えばその時点でもう少し警戒すればよかった。

 俺に臆せず面白いなどと思ってしまっていた。

 怯えた顔が見たかったというのにな。


 でも仕方がなかったのだ。

 その時の俺は言い表せぬ感情に支配されていた。


 この女を食いたい。


 それだけに心も身体も動かされていたのだ。



 その後も女は変だった。


 これはまぁあまり思い出したくない事だが、

 店を出る前に俺はテンシュから金を借りた。

 裏口から外に出る為に払う金が手元になかったからである。


 テンシュはまた嫌そうな顔をしていたが、

「しっかり利息も含めて返してくださいね」とそれ相応の金額を借してくれた。

 本当にいつか食ってやるからな。


 まぁそれはさておき、 俺はその金を持って街から出ようとしたのだが......金が足りずに足止めを食ってしまう。


 いや正確には足りていたのだ。

 1は。

 あのポンコツテンシュはこの奴隷の分の金を忘れていたのである。

 いや、 これはわざとの可能性もある。

 やはりいつか食おう。


 まぁとにかくそのせいで立ち往生してしまった訳だが、

 ここで女が動いたのだ。


 どこから持ってきたのか、

 なんともう一人分の代金を懐から出したのである。

 奴隷用のボロ布のどこに隠してたなど気にならない程に驚いた。

 そしてこの時も、 女は声を上げなかった。



 さらにここからも女はおかしい。


 街から俺の住処まではそこそこの距離がある。

 それを裸足で平気で歩いて来たのだ。

 さっき見た通り、 血だらけになりながらも。


 文句を言わなかった事には特に驚きはしない。

 コイツが自分の立場を分かっているだけの話だ。

 問題は痛いとも何とも声を出さなかった事。


 住処までの道は足場が悪い。

 森や岩場などを通る。

 途中舗装された道も通ったがそれでも地面には変わりない。

 それをひ弱な人間が裸足で痛みも感じず歩けるものか。

 俺たち獣人のように裸足が普通の訳がないのだからな。


 まぁそんなこんなで住処に辿り着き今に至る訳だが......。


 ◇◆◇


 色々思い出せて冷静になれた。

 どうやら俺はコイツを食う事だけを考え、 そんな事も見ていなかったようだ。


 つまり、 コイツは俺に会ってからまだ一言も喋っていないという事だ。

 声すら上げていない。

 やはりおかしい。

 常軌を逸している。


 しかもこの微笑み。

 愛想笑いでも恐怖を誤魔化しているのでもない。

 本当に笑っているのだ。

 目が見えないというだけでこれ程普通の人間と違うのか?


 ......いや、 そんな事はどうでもいい。

 俺はコイツを使用人として雇った訳じゃない。

 食う為に買ったのだ。

 コミュニケーションが取れない所で問題にはならない。


 しかし声も出せず微笑んだまま、 これは困る。


 俺は夢を見たせいで人間を食いたくなった。

 夢のように、 悲鳴を上げ恐怖に顔を歪ませる人間を食いたいのだ。

 このままではそれが叶わないではないか。


 ええい、 手をかけさせおって。

 今まで奴隷として買った人間は俺の姿を見て恐れ......そうか、 目が見えないんだったな。


「おい。 お前は俺が怖くないのか? 」


 だから言葉で恐怖させる事にした。


「ここは森の奥の洞窟だ。 俺が何をしようと助けは来ないぞ? 」


 今の状況を分からせるように。


「怖いか? 怖いだろうな? 」


 しかしそれでもコイツは表情を変えない。

 ニコニコしたままだ。

 声も出さない。


「俺が何の為にお前を買ったか分かるか? 」


 もしかして耳も聞こえないんじゃないか?

 いやそんな説明はなかった。

 ならばもうストレートに言って分からせてやる。


「お前を、 食う為よ......! 」

「っ! 」


 そこまで言って、

 やっと女の表情に変化があった。

 流石にここまで言えば自分がどうなるか分かったようだ。

 何かに気づいたように視線を逸らし考え始めている。


 よしよし、 いいぞ。

 ここからコイツの表情は段々絶望に染まっていく。

 そして全てを自覚し悲鳴を上げる事だろう。

 その瞬間にかぶりつこう。


 頭からと思っていたがそれは最後にしよう。

 最後の最後までその表情と声を楽しむのだ。

 ハハハハ! 最高の気分だな!


 俺は上機嫌のまま待った。

 この女という食材が、

 恐怖という調理を受け、

 皿に盛られるのを。


 涎を垂らしながら待った。

 爪を尖らせながら待った。

 待った。

 待ったのだ。


 しかし、

 女の表情が恐怖に染る事も、

 悲鳴を上げる事もなかった。



 代わりに、 何故か服を脱ぎ出した。



「なっ!? ななななっ!? 」


 俺は驚き悲鳴にも似た声を上げてしまう。

 表情も未知のものを見る恐怖に染まってしまった。

 これでは立場が逆だ。


 決して女の、 人間の女の身体を見慣れていない訳ではない。

 服を脱いだ事もまだ理解出来る。

 覚悟を決め、 身体を差し出す為に脱いだ可能性もある。


 だがあの表情はなんだ。

 食われると言われて尚、 微笑んでいる。

 不気味なくらいに。


「っ!? 」


 俺が動揺しているうちに女はボロ布を脱ぎ捨てていた。

 そして、

 何故か、

 両手を広げ、

 微笑み、

 俺を待っているようだった。


 貧相だが人間の女性らしい身体がよく見える。

 陽の光に当てられ、 銀色のウェーブ髪と同じく輝いて見える。


 美しい。

 それが素直な感想だった。

 当たり前だ。

 俺が一目で食いたいと衝動買いしたのだからな。

 しかしだ。

 俺はそれを見て、 完全に食うタイミングを見失ってしまった。

 だが直ぐに正気に戻る。

 動揺はしているが。


 なんなんだ。

 なんなんだコイツは!

 何を考えているのか全く分からない!

 せめて、 せめて会話でコミュニケーションを取れれば......!


 そう思った時、

 女が脱ぎ捨てたボロ布から、 紙切れのようなものがこぼれているのが分かった。

 俺はそれを無意識のうちに広い、 中身を確かめた。


 そこには文章が書かれていた。

 内容はこうだ。


『許可を頂けるまで言葉は発しません』


 これだけ。


 ......まさか。

 自分で決めた事か、 テンシュの指導かは分からないが。

 コイツはこれを忠実に守っているという事か?

 そして何故この紙を直ぐに出さなかった?


 いや、 今は考えるだけ無駄だ。

 コミュニケーションを取れる方法を見つけられただけでいい。

 この訳分からない状況をせめて説明して貰わなければ。


「おい女! 今この瞬間から発言を許可してやる! だから質問に答えろ! 何故服を脱いだ! 何故微笑んでいる! 何故悲鳴を上げない! 」


 それを聞いた女がキョトンとした顔をする。

 そしてまるで今気づいたように俺の手元にある紙に視線を向けた。

 その後すぐまた微笑み、

 口を開いた。



「......それでは失礼して。

 ご主人様が、 わたくしを食べるとおっしゃったので邪魔かと思い服を脱ぎました。

 そして微笑み、 悲鳴を上げなかっのも、 私が拒否していると思われると捨てられると考えたもので」



 透き通るような、 今にも消え入りそうな声。


 それが俺が初めて聞いた、

 女の声だった。



 ......なるほど。

 食うというのをで解釈したか。

 馬鹿な。

 獣人である俺が人間の女など抱くものか。


「服を着ろ」


 俺はボロ布を拾い上げると女に軽くなげつけた。

 それを受け取った女はまたキョトンとした表情を見せる。

 そして先程まで黙っていたのが嘘のように饒舌に喋り出した。


「気を、 悪くさせてしまったでしょうか。 それなら謝ります。 それともこの貧相な身体を見て興が冷めてしまいましたか? それならば御安心ください。 わたくしでも十分にご主人様を楽しませる事は出来ます」


 楽しませる、か。

 随分上からの物言いだな。

 余程自信があるのか。

 テンシュに仕込まれたか、 今までの主人に仕込まれたか。

 しかし何にせよ主人である俺に反抗するとはいい度胸だ。


 ......いや、 違うな。

 捨てられまいと必死なんだろう。

 哀れな女だ。


 だが何にせよ抱いてやるつもりはない。

 コイツの身体を美しいとは思ったが、

 それは獲物として、 料理として、

 そして大袈裟に言うなら芸術品としての話だ。

 性的な興奮を覚える訳が無い。

 俺は、 コイツを食いたいだけなのだから。


 コイツには改めて教えてやる必要があるな。

 その顔を絶望に染めないと食う気分にもならん。

 まずは獣人だと分からせてやるか。


「よく見ろ。 俺の姿を見れば、 俺の意図する事も理解出来るだろ」

「......見ろと言われましても」


 女の返しにハッとする。

 そうだ。 コイツは目が見えないのだった。

 ならば言葉で説明して......ああクソ! めんどくさいな!!


「ほら! これなら分かるだろ! 」


 俺は女の手を取り自分の胸板を触らせた。

 銀色の毛皮が包む身体を。

 ここまで毛深い人間は流石にいまい。


「っ!? まさか、 ご主人様は獣人なのですか? 」


 ほら気づいた。

 これでいいのだ。

 俺の口から伝える事も出来た。

 しかしそれでは面白くない。

 こうやって自分で気づかせ自覚させ、

 今から食われるという事実を改めて認識させるのだ。

 これは絶対に自分で気づいた方が効果がある。

 それを知り、 絶望するがいい!


 俺の中ではそんな計画と期待が練り上がっていた。

 しかしやはりコイツは普通の女では無いらしい。


「うわぁ、 フワフワ。 もふもふ。 ふふ! 」


 なんと俺の全身の毛をまさぐり出したのだ。

 まるで飼い犬を愛でるように。

 状況を理解出来ないのだろうか。

 怒る事を通り越して呆れる。


 だが流石にその手が下腹部まで伸びようとしたので無理矢理引き剥がした。

 恐ろしい女だ。


「これで分かっただろう。 俺は狼の獣人だ。 獣人が人間を食うという意味、 流石に理解出来ただろう」


 分かっているか怪しかったので改めて説明してやる。

 女もそれで気づいたのか流石に表情を曇らせた。


「ああ、 そうなのですね。 私は、 本当の意味で食べられてしまうのですね」


 自分で言葉にし現実感が増したのか、 女はそのままその場に座り込み項垂れてしまう。

 いいぞ、 いい調子だ。


 そのまま悲鳴を上げろ。

 泣き叫べ。

 絶望の表情を見せろ。

 それが俺の食事の最高のスパイスに......。


「ありがとうございます! この絶望の日々を終わらせてくれるのですね! 」

「......は? 」


 何を言われた?

 この女は何を言った?

 思考が追いつかない。

 この女、 食われる事を、 受け入れるというのか?


「待っていたんです! ずっとこの時を! 」


 待っていた? 食われる事をか?


「......わたくしたち奴隷は、 ご主人様の命令以外で死ぬ事が出来ません。

 殺されたり自然死は出来ますが、 自ら命を絶つ事は出来ません。

 そういう契約なんです。 そのような魔術を施されているのです」


 おいおい待て。

 混乱しているのに新しい情報を提示するな。

 確かにテンシュにそんな説明をされた事もある気がするが。

 それがなんだと言うのだ。


「だからわたくしは待っていました。 わたくしを終わらせてくれる方を。

 乱暴に扱う方もいらっしゃいました。 わたくしを傷つけて喜ぶ方もいらっしゃいました。 魔物の餌にしようとする方もいました。 しかし誰も殺してはくださいませんでした。 でもわたくしはずっとそれを望んでいました。 叶えてくれる方を待っていました。 それが、 貴方様なのですね? 」


 女は嬉しそうに笑っていた。

 その臭いに嘘はない。

 本当に自らの死を望んでいるのだ。


 それが分かると異常に頭が冷えた。

 コイツを早く食べようとする焦りが消えた。

 そして気づけば、 そんな冷静な頭で聞いていた。


「何故、 死を望む? 」


 すると女は、 本当に嬉しそうな表情で返してきた。


「希望が、 ないからです! だから早く死にたいのです! 」


 それが女の本心だと、 臭いで分かる。


 女はそれ以上何も言わなかった。

 きっとその言葉に全てが詰まっているのだろう。

 代わりに、 俺を羨望の眼差しで見つめてくる。

 何も見えない目で。


「ああ! この牙や爪! これでわたくしは引き裂かれるのですね! なんと逞しくて鋭い!

 こんなものをお持ちの貴方様はきっとお強く、 偉い方なのでしょうね! 」


 女は俺の牙や爪を遠慮なく触れてくる。

 己の手が傷つくのを厭わないように。


「そんな偉い方に食べてもらえるなんてわたくしは幸せ者です! さぁどうか! 思い切り食べてください! 」


 その言葉に嘘の臭いはしない。

 しかし、 全ては本当という臭いもしない。

 次第に、 その臭いは、 別のものに変わっていった。


「ど、 どうか、 一思いに、 痛く、 ないように......」


 それは恐怖や悲しみだった。

 気づけば、 女は泣いていた。

 微笑みながら、

 顔を歪め、

 大量の涙を流していた。


 女が死にたいと言うのは本心だろう。

 俺の知り得ぬ絶望を感じているようだ。

 しかしだからと言って死ぬのが怖くない訳ではないようだ。

 それが今の臭いに現れている。

 ......まぁそんな事はどうでもいい。


 やっと、 絶望を見せたな?

 それに相手が望んでいるなら好都合だ。

 食事を、 始めよう。


 俺は、 彼女の両肩に手を置き、

 大きな口を頭に近づけた。


「お前の言うとおり俺は偉い。 俺に食われる事を光栄に思うがいい」

「っ!! ありがとうございます! ありがとうございます!! 」


 爪や牙が近づくと彼女は短く悲鳴を上げた。

 やっとこっちも聞けたか。


「苦しまぬように食ってやろう」

「ひぃ、 あ、 ありがとうございます! 」


 そのまま本当に嬉しそうに笑っているが笑顔が歪んでいる。

 涙が止めどなく溢れてくる。


「全て喰らい尽くしてやるからな。 お前の死は無駄にはならない」

「ありがと、 う、 ござい、 ま、 す」


 笑顔が強くなる。

 顔が歪む。

 普通の笑顔じゃない。

 恐怖よりも嬉しさが優っているのか。

 狂気の微笑みだ。


「では、 いくぞ」

「ありがとうございます!!!! 」


 俺が口を開けて頭にかぶりつこうとした時には、

 ここ一番の歪んだ笑顔と、

 悲鳴のような礼の言葉を叫んでいた。


 そうだ、 俺はこれを見たかったんだ。

 聞きたかったんだ。


 ......いや、 違うな。

 この女は壊れている。

 俺が欲しいのはもっと純粋な絶望だ。

 戦場で見たような単純な恐怖だ。

 コイツにはそれがない。


 それにコイツが絶望しているのは俺に対してじゃない。

 そんな奴を食ったところで、 俺が満たされる筈がないのだ。


 ......よし、 決めた。

 俺がその性根を叩き直してやろう。



「やめだ。 今は食わない」


 まずはコイツを普通の人間にするのだ。


「お前は痩せすぎだ。 食う所がない。 太れ」


 その為には普通の人間のように生活させなければならないだろう。

 美味いものを食わくし、 満たしてやろう。


「格好もみすぼらしい。 せめていい服を着せて食いたい」


 綺麗に着飾らせ、 自信を持たせてやろう。


「だからそれまで俺の召使いとして働け」


 仕事も与え、 金を与えてやろう。


「そして大いに生きろ。 死にたいなどと言う事は許さん」


 そして幸福にしてやろう。

 自由にさせ、 したい事を謳歌させるのだ。


「それをこなせるようになったら、 食ってやる」


 そしてその状態で、 最後に俺から絶望を与えるのだ。


「そ、 そんな......」


 女は絶望に打ちひしがれていた。

 申し訳ないが、 俺が欲しいのはそんな絶望ではない。


 俺が必ずお前を幸せにし、

 そして俺の手でそれを壊してやろう。

 その時には最高の御地方が出来上がっている。

 楽しみだ。



 こうして異質な共同生活が始まった。



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