8.邂逅
「なんだよ!もう終わりにさせてくれよ!何だよ!『賢者』って!?」
思わず叫び出し、起き上がる。
髪の毛が汗で額に張り付いていた。
——なんて夢だ。——
額に張り付いた髪を搔き上げる。
いや、これは、汗じゃないな。
それは赤黒く、パリパリと髪の毛から剥がれ、僕の掌にはらはらと舞い落ちた。
「夢……だったのか……?」
風がそよぎ、血の上った頭に心地よい。
木漏れ日が優しく周囲を照らし、泉からの湧き水が水路に注ぐ音が荒ぶる心を鎮めてくれる。
何より、掌から伝わる日に温められた土の感触が、生きている実感を齎す。
——土——?
僕は思わず、自分の掌をじっと見る。
そこにはインスタントコーヒーの様な粉が着いていた。
しかし、そこから香るのは、焙煎された香ばしさではなく、じっとりと生命を育む微生物による養分の匂いだった。
遠くからは鳥の囀りも聞こえる。
「何故僕は、こんな処で寝ていたんだ?」
幾ら暖かい日とはいえ、こんな泉の隣の土の上で敷物もせずに寝るなんて、自殺行為か、或は余程疲れていたのだろうか?
「何処だろう?ここ」
周囲を見渡すも、見知った風景とは一致しない。
寧ろ、空気の乾燥具合や植生、雲の低さから見て、欧州、それも西欧圏の様な感じすらある。
——だとしても、舗装すらされていない土の上だなんて——
「あなた、誰?」
若い女性の声。
思わず振り返る。
そこには10代半ばから二十歳頃と思われる、ラテン系と北方ゲルマン系に少しペルシャ系を合わせた様な痩せた少女が、木桶を抱えて立っていた。
生成りの麻のスカーフの合間から見える黒い髪は手入れを殆どされておらず、麻のリボンで結い上げられ、羽織った足首まである毛織物のチュニックや頭巾、麻のエプロンも掠れた感じが目立つ。
ウールのホーズの上から履かれた靴は、ソールとヒールは有るものの、泥を払い手入れこそされているが傷んだ革袋をようやく革ひもで縛って止めたと云う感じで、そのヒールも大分刷り減っていた。
全体的に見窄らしい雰囲気だが、赤褐色の瞳と背中のリュラだけは、何故か輝いて見えた。
——中世ヨーロッパのリエナクトか——?
もしそうなら、この近くにイベント会場が有る筈だから、遭難した、と云う訳でもなかろう。
しかし、当時の農民の格好を擦切れ具合まで再現するなんて、随分な気合いの入れようだな。
「あなた、誰?」
ダメージまで再現した多分に手の込んだ中世ヨーロッパ農民コスの少女は、再び訊ねてきた。
しかし、タンパク源に乏しく、富裕層以外は痩せぎすだった当時の体系まで再現するとは、相当な気合いの入れ様だ。
——そういえば、言葉が通じるな——
「ああ、すみません。少し道に迷ってしまったもので」
咄嗟に言い訳を考える。
「会場はどちらに有りますね?」
「『会場』?」
少女は首を傾げ、やや目を細める。
「あぁ、ええっとぉ、皆さんが集まっている場所です」
「ああ、広場の事?」
「ああ、そうです。広場です」
会場の呼び方迄凝っているのか。
「変な言葉の喋り方をする人。壁の中の『広場』に行きたいだなんて、あなた修道士さんか何か?」
「ああ、いえ、そう云う訳では無いのですが」
「違うの?」
また不思議そうに訊ねる。
「まあ、道に迷ったのです」
僕は困って、それだけ返す。
——こんなに役に入り込んでいるだなんて——
「ふぅん。そんなチュニックだけの格好でこんな処でお昼寝なんて、あなた、きっと妖精さんに化かされたのね」
少女はそう無邪気に笑いながら、持って来た木桶を泉の側に置き、泉に軽く挨拶をする。
「あ!もしかして」
少女は何か思いついたのか、こちらに振り向いた。
「あなた、泉の女神様に喚ばれたのでしょ?きっとそうだわ。ここの女神様はとっても優しいから、あなたもいい人に違いないわ。私も毎日、また家族が元気で一緒にいられる様にお祈りしてるの!」
妖精や女神の土着信仰等も再現か。
衣装が凝っているだけの事はある。
「この水を汲んだら家に戻るから、そうしたら広場まで案内してあげるね」
「あ、有難う御座います」
僕はそれしか返せなかった。
森を抜け、彼女の家まで行く道中、色々と話を聞いた。
少女の名前はソラと言うそうだ。
僕の名前、古戸啓介、は伝えてみたものの、発音が難しそうだったので、「フルート」になってしまった。
ソラが言うには、何でも、あの泉は「奇跡の水」で体に良く、病の祖母に飲ませたり、それで体を拭いたりしているのだと云う。
その後、汲んで来た水を水瓶に移すと、少女は使い古された毛織物の外套を僕に被せてくれ、「広場」へ続く「城壁」へ案内してくれた。
広場に繋がる、轍で凹んだ石畳の合間から草や木が生え出した街道の脇には一里塚の様な物が置かれ、森も拓けた農地や牧草地帯へと変わった。
遠くには水道橋の様な物も見えるが、崩れた所が多いので、恐らく古代遺跡か何かなのだろう。
暫く進むと城壁の合間に有る門が見え始める。
門へと続く街道は石畳で舗装されていた。
アスファルトに比べて少々滑るが、漸く歩き慣れた感覚になる。
門は左右に古代の兜を被った男性像が立ち、その足元には門番の詰所が有った。像の素材と城壁や詰め所の質感が大幅に誓うので、恐らく建てられた年代も異なるのだろう。
「やあ、お嬢ちゃん。ここへは来ちゃダメだって、そう言われてるだろ?」
金属の兜に革の胸当て、その上から街のだろうか紋章が縫い付けられた外衣を羽織り、腰の処をベルトで纏めた門番が少女に訊ねる。
「後、誰だねそいつは?」」
遠目にも虫歯だらけと判る口を開けて笑いかけていたが、もう一人の門番と共に、猜疑心に満ちた目で僕を見ていた。
「泉の女神様が連れて来てくれたの」
少女は先程自分が造り出した話を門番に語り始めた。
ふと、門柱の男性像(軍神かな?)の足元にある青銅製のプレートが目に留まる。
——何か、書いてあるな——?
——文字——?
「エン、アルケ……」
発音はできるな。
「ホー、オ、ロゴス……」
——字が掠れて読めな——
突然プレートが光り出し、門の男神像が動き出す。
「な!?」
「お前さん!一体何をした!?」
門番達が驚愕の表情と共に僕に槍の穂先を向ける。
「いや、そこのプレートの文字を読んだだけだが?」
訳が判らない。
「さてはお前さん」
そう言って門番二人は僕に槍を突くべく、一端手前に引く。
するとその途端、男神像がその二人に拳を振り下ろした。
二人は辛くもそれを避けるも槍は折れてしまった。
「おい!応援を!警備隊長に連絡を!」
僕は訳も解らず、少女の方を見る。
少女は怯えた目で僕を見て、小さく呟いた。
「いい人だと思ったのに。あなた、『賢者』だったの……?」
——「賢者」——?
「応援を呼べ!『賢者』だ!『賢者』が出たぞ!!」
「弩も出せ!近寄るな!潰されるぞ!」
——これは、何だ——?
風切り音。
今度は矢やボルトが飛んで来る。
城壁の上に弓兵が並んでいた。
——僕はここでも拒まれるのか——
飛んで来る矢を見ながらふと、そんな事を思った。
眼前に巨大な石の手が出て来る。
先程の男神像が矢を防いでくれた。
蹄の音。
僕の後ろから飛んで来た何かが空中で炸裂し、当たりは光で見えなくなる。
「貴君!こちらだ!」
蹄の音は僕の真後ろに来て、僕の体は持ち上げられ、その馬の後ろからついて来ていた荷馬車だか戦車だかに放り込まれる。
「畜生め!黒騎士まで出てきやがったぞ!」
「今日は呪われた日だ!っぺ!」
遠くで門番達がそう喚いているのが聞こえた。
太陽と冥王 @Pz5
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