4.壁内
リュラとリュートの音が重なり合う。
男女2人の歌声。
壮年の男のバリトンと少女のソプラノ。
空は青く透き通り、陽光が種々の物をくっきりと照らし出す。
フレスコで模様の描かれた漆喰で白く輝く壁に覆われた中庭には、オーリブを始め幾らかの果樹や種々の植物が植わり、鳥達の囀りがアンサンブルに加わっていた。
その中庭の中央、雨水を貯めておく貯水槽を兼ねた大理石で造られた泉の淵に腰掛け、2人の人間は奏で、歌っていた。
茜色と生成りの上に金糸で刺繍が施された麻の着物を幾重にも重ね、絹の頭巾とスカーフを着けた赤褐色の瞳の歳の頃10歳税後の少女と、麻のチュニックの上から麻と絹との混紡の詰め襟のホックを外し、リラックスした姿の灰色の髪に灰色の髭を蓄えた、鳶色の瞳の40がらみの壮年。
少女がリュラでメロディを奏でると、壮年がリュートから和音のリズムで支える。
少女は歌でも演奏でも奔放に遊び、壮年はそれを朗らかに手伝う。
少女が迷うと、壮年はリュートでベースとメロディを両方奏でる。
純正律と平均律の二重螺旋。
中庭から響くその音楽は、屋上で洗濯物を干している下女や他の屋敷の奴隷にも届き、彼等を笑顔にさせ、その労働を溌剌たる物にせしめ、以て彼等の日常の質を向上させる。
喉を潤す為に脇に置いてある果物も光の中で透き通り新たな光を放っている。
北方と南方、更には東方からも植樹した果樹も皆明朗に実をつけている。
輝く白亜の壁に透き通る大理石の柱で囲われた
生活の宮殿。
周囲の環境とも調和したミクロコスモスがそこには顕われていた。
「
その調和の
質素ではあるが、しっかりとした造りの麻のチュニックを纏った男。
チュニックの上から羽織られた上着には、この屋敷にあるとの同じ紋章が刺繍されている。
この奴隷の言葉に少女のリュラが止まり、鳥々が羽ばたき去る。
「どうした?もう少しばかり静かだと嬉しいんだが?」
リュートの音も止み、壮年が応える。
リュートを抱えたまま奴隷に葡萄を一粒渡す。
「
奴隷の男が渡された葡萄で喉を整えていると、後ろから別の男が、さらに息を切らしながらやってきた。
その男の前で喉を整えている奴隷より派手な染色や刺繍がされ、上着は詰め襟にこそなっているが、生地の質も縫製もやや荒く、所々繕った痕がある。
その上、上着の襟は開けられ、中のチュニックもはだけているのが見えている。
しかし腰に吊るした細身の剣とそこにある紋章が、彼がこの都市の自由人である事を証していた。
「おやおや、貴方も
この屋敷の主人と呼ばれた壮年はそう言うとリュートを大理石の淵に立てかけ、水差しから一杯の水を注ぎ、その男に渡す。
「どうも」
駆けつけて来た自由人の男はその水を一口含むと、口内を流し、次いで大きく喉を鳴らす。
その間に医者と呼ばれた壮年は、開けていた上着のボタンを最上段まで留めた。
「そう言えば貴方は、この前お子さんが生まれたとか……」
医者は従者にリュートを預け、剣や帽子を受け取ると、その都市人の男の事を思い出す。
「産後の肥立ちは如何です?」
帽子を被り、剣を腰のベルトに履くと、客人に軽い質問をする。
「その事でして……」
ここで客人はもう一口水を飲む。
「その肥立ちが良くなく、診て頂けないかと……」
「なるほど……?」
壮年は方眉を上げ訝しげに客人の顔を見る。
「悪いのか?」
そして、今度は重い質問をする。
「ええ……まぁ……」
「なるほど……」
壮年は顎に手を当て、暫し考える。
「幾つか薬に当りを付けたのを持って来るので、暫し時間を」
それから従者の方を向き、馬車を手配させる。
「お父さん……」
この間、少女はこのやり取りを不安気に見守っていた。
「ソラも一緒に来るかい?」
父と呼ばれた壮年は、ソラと呼ばれた少女の方を向くと、そう訊ねる。
「うん!」
少女はリュラを抱え、飛び跳ねる様に応える。
「御主人!」
少女の乳母の奴隷が声を上げる。
「そんな、下女も付けずに……」
「何、ソラはまだほんの子供だ。それに、私と一緒だし、何より、ソラの歌声は病人の励みになる」
ここまで言われ、乳母は何も言えなくなる。
しかし、その顔はどこか誇らしげであった。
「ほら、お父さんが準備をしている間にソラも支度を済ませておきなさい」
父がそう促すと、少女は乳母に連れられ屋敷内に入って行った。
「御主人、このごろ、また都市内も物騒なので、お気をつけ下させぇ」
客人を連れてきた奴隷が主人の医者にそう小声で告げた。
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