3.夕暮
「ねえ、お母さん。どうして『賢者』は世界を壊しちゃったの?」
横たわった少女はそう訊ねる。
10代後半、二十歳には至らぬ少女。
日が暮れ、土壁で囲われた家の中、中心で燃える火だけを頼りにした揺らめく影と交わる明かり。
夜の祈りの後の一時。
地面に干し草を敷き詰めて拵えた床に立体的な影が落ちる。
暖炉からの光と夕暮れの闇とで浮き彫りになった少女の赤褐色の瞳は、その中でも特に輝いていた。
「そうねぇ……」
母と呼ばれた女性が応じる。
夜の祈りの後、頭巾も上着も外し、後は寝るだけと云う姿。
自分は座り、少女を撫で、微笑んではいるが、眉間や額には皺が寄っている。
家の中心から昇る煙を眺め、次いで土壁に映った自分と少女の揺らめく影を見る。
そこから焦点を壁に掛けられた薬草、次いで梁に吊るされ燻されているベーコンとチーズに移す。
影だけでなく、物質も揺らめいて見えた。
手元近くを見る。
薄暗い明かりの中でも、リネンとウールで編まれた服の、ところどころ摩れては繕いを重ねた痕が目に入る。
それは、彼女の目の前にいる少女の服も同じであった。
それでも猶、少女の瞳は輝き、母のゴツゴツと筋張りひび割れ始めた手が包む少女の手は、フワフワと温もりを伝えてきた。
女の灰黒色の瞳に影が挿す。
家の外で風が吹く。
その風は明かり取りを覆った鎧戸の隙間からも吹き抜ける。
女の脂じみた髪と、土壁に映った2人の影が大きく揺れる。
「そうやって、色々知ろうとしちゃったからかねぇ」
女は外の風を気に掛けつつ、少女にそう伝える。
「どうして?」
少女の瞳の中の煌めきはより舞いを強めた。
「どうして色々知ろうとしちゃったの?知ろうとするのは悪い事なの?」
外の風が強くなり、暖炉の揺らめきも増す。
「知ろうとするのも欲望さ。『賢者』はそんな欲望が生まれながらに強くて、それに負けた奴らなのさ」
母は、外の様子を気にしつつ、少女に応える。
「欲望に負けたのに『賢者』なの?」
「『賢者』と言うのは、文字が読めてしまう者のことさ」
母は呟く様に返す。
「でも、それで世界を壊しちゃったら自分達が損するのに……」
少女も目を伏せ、自問する。
「全然賢くないね?」
再び母の方を見る。
「書物なんか読めちゃったから、却って悪くしたのさ」
母はただ呟く。
「読めたから悪いの?」
「思い通りにしちまおうとしたのさ」
女は、壁で揺れる2人の影を見ながらそう応えた。
「じゃあ、私も『賢者』になっちゃうの?」
少女の瞳の煌めきは焔の揺らめきに変わる。
それから上体を起き上がらせると、寝床の横にあった
少女は亀の甲羅に革を張った共鳴体から伸びた2本の腕に梁の様に付けられた横木にあるペグを回して、張られた7本の弦をチューニングする。
「ほら。私も思い通りに音が出せるよ?」
それから一頻り音を奏で、歌う。
「そんな事はないさ」
母は少女に言って聞かせる。
母の瞳には影が深くなっていた。
「でも、お父さんは連れてかれちゃったよ?」
それを見て、少女は竪琴を置き、呟く。
外の風が一段と強まり、鎧戸の他、梁も鳴らす。
それに合わせ、少女の瞳の焔も揺れを増す。
「そんな事はないさ」
母は少女から目を離すと、大きく揺れる壁に映った自分達の影を見て呟く。
「私達も壁の外にだされちゃったよ?」
横たわっていた少女は起き上がり、母に訊ねる。
「それも関係ねぇ」
母は、ただ土壁の凹凸をだけ見つめて応える。
「私は大丈夫なの?」
少女も母と同じく土壁に映った自分達の影を見る。
外は風が唸り、戸や梁が軋みを囀る。
「なんでもない。なんでもない……」
母はそれだけを繰返した。
ただそれだけを。
ふと、母が某かに気付き、周囲を気にし出す。
唸る風の向こう、カンカンと響く警鐘の音が入り込む。
母は慌てて立ち上がると、窓の鎧戸を少し開け、外の様子を伺う。
外の風が家に入り込み、暖炉の火を揺さぶる。
『黒騎士だぁ!黒騎士が来たぞぉ!』
風の中に、男達の声が混じる。
丘の向こうの農場の一角。
その声を確認すると、母親は急いで鎧戸を閉め閂を降ろすと、側に置いてあった上着を羽織り、腰紐を結び、娘を立ち上がらせる。
「お母さん」
母が立ち上がらせた少女の瞳を覗くと、その焔は今再び輝きに戻っていた。
「急げ」
母はそう呟き少女の上着を渡すと、自分は頭巾を被り、少女の分も取出す。
その時、果物ナイフも腰紐に差込む。
上着を渡された少女は頷くと、直様被り、腰紐を結ぶと、取出された自分の分の頭巾も被る。
2人は履物の革紐を結び、しっかり脚に固定すると、少女は寝床の横に置いてある
そして、少女は薪割り用の斧を、母は暖炉用の火かき棒を手に持つと、納屋に繋がる裏口の方へ移動した。
「こっちにこなければ良いが……」
母はそう呟く。
「大丈夫だよ」
娘は母の腕を軽く擦る。
風音が唸る中、2人の影だけが壁面に踊る。
警鐘に混じって蹄と車輪の音が響き出す。
こっちに来る。
その音は、風音のなか、いやに静かだった。
良く手入れをされた蹄鉄と、よく油をさされた車。
静かに——
滑らかに——
怒濤を運んで来る。
その怒濤が戸に差し掛かる。
疾風と共に。
『うぉ!』
『ぐぁ!』
戸の向こうでは男達の呻きと何かが落ちる音がした。
しかしそれも、疾風に掻き消される。
そして、怒濤が静寂を置き去りにして去って行った。
静寂。
屋内に残された2人は、ただ立ちすくみ、戸を睨みつけていた。
薪の爆ぜる音。
中央の暖炉からの明かりが、全てを揺らめかせる。
ゆらゆらと。
「あ……」
母が漸く声を漏らす。
戸が激しく揺すられる。
ガタガタと。
2人は再び互いを庇い合う。
風の唸りが戻ってくる。
外の激しい風が、鎧戸の隙間から侵入し、暖炉の火を揺らす。
それに合わせ、室内も大きく歪む。
「か……風……?」
少女が、漸くそれだけ絞り出す。
母娘は互いに顔を合わせる。
「風……だねぇ……」
どちらともなく笑い出す。
それは、最初、僅かな音の漏れでしかなかった。
それが段々と大きくなり、2人して大いに笑いあった。
再び戸が激しく揺すられる。
今度は2人して悲鳴を押し殺す。
「私……見てくる……」
少女は手斧を強く構えると、母に提案する。
「い……いや……わしが行く」
娘の提案を母は退け、薪の1本を暖炉に差込み、松明代わりにすると、戸の方に近寄った。
室内の影の形が変わる。
左手に松明、右手に火かき棒を持った母の影は、もはや人の形ではなかった。
少女から見ると逆光で黒い影と一体化した母は、様子を見ながら閂を外すと、意を決して体当たりの様に戸を押して開ける。
疾風の唸りが家の中に響き渡る。
その唸りの中、母の悲鳴が混じる。
「どうしたの!?お母さん!」
少女は慌てて手斧を構えると、母の処へ駆け寄る。
松明の明かりの先。
そこには兵士、それも都市壁内の傭兵団の格好をした男が2人並んで倒れていた。
首を飛ばされて。
その二つの首級は、兜のせいで同じ所をグルグル回りながら、仲良く転がっていた。
風に飛ばされて。
家の前の小径には、二筋の血の水路ができてた。
黒騎士の轍に沿って。
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