4.それは……もしかして、デートのお誘いですか?
二等車は、先の車両に比べれば、ずっと猥雑とした空間だった。
長椅子に挟まれた狭い通路を進んでいくと、不躾な視線が前を歩くルーシさんに集中していく。一等車では無視された彼女は、今度は下卑た欲情の対象にされていた。
「ルーシさん、大丈夫ですか?」
「……多少傷は痛みますが、歩くのに問題はありません」
大丈夫かと聞いたのは、そういう意味ではなかった。しかしルーシさんもそれを分かっていて答えていないような気がする。
「へへ、旦那。娼婦連れとは、良い身分じゃねえか、なあ」
何とか席を見つけ、ルーシさんを座らせると、だみ声で話しかけられた。対面に座る男だ。
「娼婦だって?」
「そうでしょうが。そんな服を着て、ねえ。あんたを抱くにはおいくら払えばいいんだい」
男はヒヒヒ、と笑い声を漏らし、無遠慮な視線をルーシさんの身体に注いだ。
「私にも相手を選ぶ権利がありますから」
「おお、こわいこわい」
彼女の横顔を伺う。
彼女が笑みを浮かべているのを確認して、俺は鞄から毛布を取り出した。
「ルーシさん、そんな恰好じゃ寒いでしょう。羽織りますか?」
「なんですか、その毛布は。しかも鉄道の絵柄……」
「都市の方は寒いと聞くので、一応カフェに置いておかずに持ってきたんですよ」
ルーシさんは表情に悩んでいるようだった。置いておけと言ったのに、と喉の奥まで言葉が出かかっているのがよくわかる。
「……いただきます」
ルーシさんは結局、羽織ることを選んだ。白いドレスと露出した肌はちょうどすっぽりと布におおわれた。
「この方が落ち着くでしょう?」
「ええ。……そうかも、しれませんね」
ルーシさんはぎゅっと、布の裾をつかむ。
彼女の放つギラギラとした光は、華美なドレスによって演出されていたもののようだった。冴えない毛布に包まれて座るルーシさんは、虚像が崩れ、あまりにも小さな少女に見えた。
「ふん、なんでえ、つまんねえの」
前に座る酒臭い男は、興味を失ったように目を閉じた。
この男だけではない。ルーシさんの肢体が隠れるやいなや、客車に乗ってからずっと向けられてきた視線たちが、すっと消えていくのを感じた。
……彼女の恰好を見て、これが都会の洗練かなどと、のんきなことを言っていた自分を殴りたくなる。違う、彼女はずっと耐えていたのだ。この劣情に満ちた目に。土地を買うという目的のために。
貴族の言葉がよみがえる。売女。確かに、彼らの倫理から見れば、そう言われるにたる行動なのだろう。しかしはどうしても、彼女がそう罵られるべき少女であるとは思えなかった。
「私は、庶民の出なのです」
ルーシさんは小さく呟いた。
彼女はごわごわとした毛布をなぞる。そこに、何か重大な意味がこもっているかのように。
「父は日雇いの労働者。私の仕事は釘拾い。何度も何度も質屋に通って、母の形見は少しずつ消えました。父が働けた週はしあわせで、お肉を食べることができた。仕事が無ければ、ご飯を盗んでくるのも私の役目でした」
都市の朝は寒かった。石畳の冷たさの前には、薄っぺらな靴など意味をなさなかった。足を焼くような痛みの中で、地面を見つめ、金になるゴミを探してさまよった。
「それは……つらいですね」
ルーシさんの目はぼんやりとして、焦点を結んでいない。きっと自分には理解できない景色を見ているのだろう。浅はかな同情と自分の言葉の軽さに、それ以上の言葉が出なかった。
ルーシさんは淡々と頷いた。
「それでも、私は幸せでした。母は幼いころに死んでしまったけど、私には父がいましたから。父は、人に取り入るのが上手いのです。どの街で働いていても、いつも父は人気者でした」
「父……いまの社長ですか」
「ええ。それに、私がまだ八歳だった時に幸運が訪れましたから。父がどこからか、鉄道証券を手に入れたのです」
鉄道証券。なるほどと、ひとりごちた。労働者の生まれからでは、鉄道会社の社長にまでなりあがるのは至難の業だ。しかし鉄道証券を買えたのなら話は別……かもしれない。
「俺の村にも証券の営業職員が来たことがあります。父は買い損ねていましたけどね。もし買っていれば何倍にも価値が上がっていたのにと、ずっと後になって歯ぎしりしていましたよ」
「ふふ、それはどうでしょうね。あれは価格変動の大きい商品ですから、父も何度も大損を被っていましたよ」
ルーシさんは懐かしそうに笑った。
「それでも、最終的には財を成したと?」
「紆余曲折はありましたが、父には才能があったようです。人づてに情報を手に入れて、上手く商品を回していたようですが……何よりも私たちには夢がありましたから」
紆余曲折はありましたが。
一瞬、何かをはぐらかされたが、しかしそれ以上に興味を惹かれる話が出てきた。
「夢?」
「暖かい布団で眠りたかった。表通りの閉ざされた扉をあけて、あたたかな部屋に入って、暖炉の前でくつろいで。明日は何を食べようか、ランプの下で語りたかった。あの石畳の冷たさを知る人であれば、誰もが持つ夢です」
知らない夢だった。暖炉の前で生まれた自分と、彼女の間には、深い溝があった。しかし
「それでも今は、社長令嬢なのでしょう。すごいですね、大成功だ」
ルーシさんは成功したのだ。彼女の父にぶら下がっていただけではない。彼女の服装を見れば、ルーシさんもまた戦い、つかみ取った地位であることは明白だった。
しかしルーシさんは首を振った。
「いいえ、いいえ。大成功など、まだ収めてはおりませんとも」
「一等車に乗れるだけのお金があるのに? 野心家ですね」
「違いますよ、プロセル様。その人生が成功であったかどうかなど、死ぬまで分からないのです。私は父のおかげで、路地裏から暖炉のある家まで駆け上がりました。それは同時に、いつあの路地裏に帰ってもおかしくはないということなのです」
ルーシさんの語りは硬く、力強かった。それはいつどこに罠があるのか分からない、漠然とした恐怖と不安がもたらすものだった。勝ったのであれば、次は守らなければならない。戦いが終わることはない。
「それは……救いがないですね」
口を突いて出てきたのは、そんな言葉だった。
「救いがない? 私には好きなパンを買うお金も、コーヒーショップでためらいなく捨てられるお金もあります。これ以上の幸せがありますか」
キッ、と彼女の薄い瞳が睨み上げる。硬く凍り付いた、真冬の湖のような瞳。
それでも俺は、その氷の下に閉ざされたものを、知りたくなっていたのだ。
「でも、ルーシさんはそんな服、着たくはないのでしょう」
「な……そうではありません。これは私が望んで着たものです。私は」
「それは嘘ですね。ルーシさん、毛布をかぶってから笑っていないじゃないですか」
「笑っていない? ダメではないですか、笑っていないのなら」
「いやいや、ルーシさんはその方が自然ですから」
ルーシさんには憮然とした顔も似合う。そんなことを発見して、笑みがこぼれた。
「な、何がおかしいんですか!」
「いやいや、ルーシさんにはそういうお顔も似合うなって」
ルーシさんはしばらく、怒ればいいのか、笑顔を取り繕うべきか、顔を七変化させた。
そしてふと、力が抜ける。
「プロセル様は、楽な人ですね。笑うなとおっしゃる人も、野暮ったい毛布をかけてくる人も、初めてです」
温かな声色だった。秋の肌寒い空気から逃れるように、少女は分厚い毛織物にくるまっていた。椅子に体重を預けて、つま先をぼんやりと見つめる彼女の姿こそ、彼女の本来の姿なのかもしれない。戦うことを、ルーシさんは望んでいないのかもしれない。
「ねえ、ルーシさん。もしルーシさんがよろしければ、明日、帝都を案内してくれませんか?」
「案内?」
「はい、本当は俺一人で見て回ろうかと思っていたんですけど。……ルーシさんと一緒に回れば、もっと楽しいかもしれないと思いまして」
今だから言えることだった。
彼女に一緒に回りたいと言えば、彼女は必ず乗ってくれていただろう。でもそれはきっと、彼女の笑顔と同じ、営業のためのお付き合いだ。彼女は一生懸命に接待をしてくれるだろうけど、それは望むものではない。
いまなら、きっと。笑っていないルーシさんなら、彼女自身が共にしたいかどうかで応えてくれるはず。それはもちろん、断られる可能性もあるということだ。それでも、俺は今だからこそ彼女に聞きたかった。
ルーシさんは、一瞬あっけにとられる。そしてすぐに、いたずらっ気のこもった言葉で返事をした。
「それは……もしかして、デートのお誘いですか?」
「ま、まあそんなところ、ですね」
「あれだけ人に媚を売るなと言っておいて、さっそくデートに誘うとは。さしもの私も驚いてしまいます」
「は、はは、おっしゃるとおりで……」
鎧袖一触。三秒で振られてしまった。おしまいだ。
この場の雰囲気を取り繕うセリフを探し始めたとき、彼女はふう、と小さく息を吐いた。
「明日の正午に、宿の前で待ち合せですね」
「え?」
「今日は帝都に着くころには日が暮れているでしょうから。宿はこちらの方で押さえてありますので、一晩ゆっくり身体をお休め下さい。デートはそのあとで、と言ったのです」
「はい?」
呆けた顔で返事をすると、ルーシさんにぴしゃりと額を叩かれた。
「あなたの方から誘ってきたのでしょう。あまり腑抜けていると、無かったことにいたします」
「はっ……すいません、まさか了承されるとは。あ、明日の正午ですね、了解です」
「……念のために言っておきますが、服を新調する必要もありませんからね。余計な散財は必要ありません」
「は、はい。了解しました」
図星を突かれたことを伏せながら、俺はこくこくと頷いた。
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