3.彼女の居る場所

 鉄塊は悲鳴を上げ、身体をブルブルと震わせて、その怒りを己のうちに入る者たちにぶつけていた。布張りの内装も、ふかふかのクッションも、この機械が内に秘める獰猛さを押し隠せはしない。紳士淑女はぎゅっと目をつむり、この不快な前奏曲が鳴りやむのを待ち続けていた。

「これが、鉄道……」

 小さくつぶやくが、声はあらゆる騒音にかき消されていく。

 信じがたいほどの騒音と振動に顔をしかめているうちに、やがて列車は速度を上げて、すっかり大人しく進行するようになる。鋼鉄の奏でる不協和音は、規則正しく整流され、乗客もまたようやく人心地着いたように、会話に励み始めていた。

「プロセル様」

 上品な白い手袋に彩られた、華奢な手が目の前に突き出されていた。意味が分からず、とりあえずその上に手のひらを重ねる。

「許可なく女性の手に触れる行為は、田舎では認められているのですか?」

「ル、ルーシさんの方から手を差し出してきたのでは……?」

「お金ですよ! カフェの、私が立て替えた分を請求しているのです」

「ああ……」

 マスターに荷物を預かってもらった分のお金を手の上に置く。

「コーヒー代もです」

「す、すいません……」

 ルーシさんはササッと硬貨の枚数を数え、鞄へとしまった。

「土地の値段は簡単に倍にしてくるのに、コーヒー代にはこだわるんですね」

「コーヒーは私のポケットマネーですから。……あ」

 何気なく尋ねると、彼女は何かを思い出したように声を漏らした。

「どうかしました?」

「い、いえ、なんでもございません。そうですね、コーヒー代は私が払いましょう。プロセル様はごゆるりと旅を楽しんでいただければ」

 ルーシさんは再び鞄から硬貨を取り出し、数えなおしてからこちらの手に握らせてきた。

 ついでに手も絡めてくる。

「な、なんですか。もしかして営業中なのを思い出しました?」

「まさか! 私は、そう、プロセル様に気持ちよく過ごしていただきたいだけです」

 ルーシさんは唇を三日月形に整え、とろけるような声で語り掛けてきた。

「さっきお土産を捨てようとしてませんでした?」

「ふふ、ちょっとした……冗談です」

「コーヒー代まで回収していましたけど」

「返しましたでしょう?」

 笑顔は微塵も揺るがない。なかなかの強敵だ。

 彼女の手を外そうと腕を引っ込める自分と、つかんで離そうとしないルーシさんとの間で無言の引っ張り合いで戦う。

「ははは、これはこれは……奇遇だな、少年」

 意外と力強い彼女の手から逃れられないでいると、先ほど聞いたばかりの声が聞こえてきた。

 恰幅のいい紳士。ルーシさんを売女と呼んだ男だ。

「同じ列車の、まさか同じ車両に乗っているとはね。確か私は、その女に気を付けるように忠告したと記憶しているが」

 男はルーシさんを睥睨した。

「……ご無沙汰しております、テオドール卿」

「ふん、どうして売女がここにいる? お前に相応しい客車は向こうにあるだろうが」

 ステッキの先がさしているのは、後方にある二等車だった。

「私は、一等車の切符を支払ってここに座って」

「そんな話はしていない!」

 黙り込んだルーシさんを見下ろし、男はコツコツと音を立てながら彼女の前まで回り込んだ。

「口を開けば金、金と……詐欺師の娘には難しい概念か? この客車は紳士の空間なのだよ。薄汚い売女が座る席など、端から用意されていない」

 あまりにも直截な悪口だ。

 しかし。自分に課せられた使命は、土地の売却にあたって、この少女とそして彼女の父が経営するという会社を、どこまで信用できるか確かめる事だった。

 この男曰く、ルーシさんは売女であり、父は詐欺師だという。はてさて、どうしたものか。

 ……ここは話の行く末を見守るべきだろう。

 わずかに背もたれに身を任せると、彼女の手からは力が抜けていて、するりと、俺の腕は解放された。少女は顔を伏せていた。背を倒した自分には、その表情を伺うことはできなかった。

「黙っていないで、返事をしたらどうだ。売女がまともな言葉を話すのは難しいか」

「あなたも……列車で声を荒げるのが紳士の態度なのでしょうか?」

「言うに事欠いて!」

 男の反応は苛烈だった。

 あっと思う間もなく男の太い手が少女の肩に伸び、次の瞬間には床に倒れた彼女と、杖を振り上げる男の姿がそこにあった。

「な、なにをしているんですか!」

 ルーシさんのドレスのスリットから覗く、彼女の白い肌に一瞬目を囚われる。男の杖が音を立てて振り降ろされて、純白の彼女に、朱をさした。

「っ……!」

 椅子から立ち上がり、彼女の目が見える。色素の薄い青の瞳に涙をたたえて痛みに耐えながら、しかしそれでもかき消えぬ、闘志を宿らせた少女がそこにいた。

「ルーシさん! テオドール卿、あなたは一体、なんて狼藉を!」

 吠えながら、しかし自分もまた、悠然と席にもたれかかって、裁定者のつもりで眺めていたのだ。少女が自分の何倍もの体格のある男と正面から向き合うさまを。

「狼藉? お前もその女にほだされたか」

「ほだされるとか、どうとかじゃないでしょう。何人であっても、杖で叩くなんて!」

 周囲に呼びかけても、紳士淑女は目を逸らすばかりだった。

 いや、彼らも言外に語っているのだ。彼女はこの車両に座るのに相応しくないと。

「プ、プロセル様、構いません。大した怪我では、ありませんから。お手を煩わせるようなことではございません」

 そうした周りの反応に気づいているのは、ルーシもまた同様だった。

 彼女は場を収めるように、立ち上がろうとする。

「それでも、痛いのは変わらないでしょう」

 折り悪く、それまで規則正しく続いていた汽車のリズムが乱れ始めてしまう。次の駅に到着しようとしているのだ。

 再び、車両は鉄の切り裂かれるような叫びと、車両同士のぶつかる激しい揺れが始まった。

「分かったか、そこの少年。甲斐甲斐しく世話を焼くのもいいがな、我々は売女を許容しない。お前も守るべき土地と伝統があるのだろう? 遊ぶのも程々にして、早く目を覚ましたまえよ」

 男も杖をつきながら座席へと帰っていく。

「ルーシさん、次の駅で降りましょう。こう揺れていては、立ち上がるのも危険ですよ」

「しかし、降りては次の列車が来るのはずっと後です。大したことではありませんから、プロセル様は気になさらないでください」

 こんな状況でも、せっかちな性分は変わらないらしい。まず時間を気にする彼女の姿は、突然の暴力に動転していた自分の気を収めてくれた。

「なら二等車に移りましょうか」

「でも……」

「一度の旅で二つの車両を視察できれば、俺もお得ですから」

 ルーシさんに手を貸して、立ち上がらせる。

 あの嫌味な貴族に立ち向かう姿、脚を打ち据えられてもなお消えていなかった、彼女の瞳に秘められた怒り。彼女は戦っている。しかし彼女の立つ戦場は、自分から土地を買い取らねばならぬという、商売という戦いだけではないような気がした。

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