第12話 アズマギクの餞別 10
◆カオス・ルイスの場合
山頂付近にて 八月十三日
人里から離れ、いや、人間が訪れる地や道から遠く離れた山間の森の中。
聞こえるはずのない歌声が幽かに響いていた。
時刻はもうすぐ陽の落ちる夕刻。
他では虫や鳥や動物たちが生き生きとさざめいているというのに、その声が聞こえてくる周囲には植物以外の生き物が絶えていた。――生きることができる世界を待っていた。鳥は歌声を潜めて羽を畳み、動物たちは天敵が去るのを待っているかのように息を殺していた。
もちろんその歌を邪魔するようなことはせず、かといって焦って逃げ出すようなこともない。歌声以外の物音一つ立てずに待っていた。
近隣の森や山の主であるはずの大きな猪や狼に似た山犬たち、空を翔けるはずの鳶やその他の鳥たちですらそこにいるとすら悟らせないようにじっとしていた。
天敵同士ですら、身を寄せ合って。
歌声の主はそれを知ってか知らずか、楽しそうに歌を続けている。
「Solomon Grundy,Born on a Monday♪」
その声はまだ幼さを残した少女のもののようだった。
もう夕刻とはいえ、澄んだ空気と陽気を喜んでいるかのように機嫌がいい。
鈴の鳴るような声という言葉はこのためにあるのだろう。そんな可憐な美しく愛らしい声だ。
しかしそれを恐れるようにして、生き物たちは木々の隙間や葉の影に隠れていた。
「Christened on Tuesday♪」
ふうわりと、少女の薄い金糸の髪を風が優しく揺らす。
少女は白いシフォンのスカートが汚れるのも構わずに地面に直接、座り込んでいた。
「Married on Wednesday♪」
歌う少女の細く白い指が青々と萌える草花を摘む。
とても牧歌的で、実に絵になる光景だ。 少女が楽しそうに摘んでいる草花がただの愛らしいだけの野草花であれば、の話だが。
少女の小さな手いっぱいに抱えられている植物は、大なり小なり全て毒草に分類されるものだ。
使い方によっては薬効のあるものもあるだろうが、ただ愛らしい青々としただけの植物ではないことは確かだった。
少女の細い指は迷いなくそれらを選んでは適切な長さで摘み取っていく。もちろん素手で触れてはいけないものには一切触れぬよう、細心の注意を払って。
「Took ill on Thursday♪」
桃色の形のいい口唇が機嫌よく弧を描く。
少女の長い金色の髪を風が揺らした。よく晴れている。
昼間は例年と比べるまでもないほどの異常な猛暑だったというのに、日が傾いた今はもう冬が近付いているのではないかと思うほどに冷たい風が吹いていた。
歌声が寒空に密やかに響く。
かさり。
背後から聞こえた小さな足音に、少女は歌をやめて、ついと顔を上げた。
空のように澄んだ碧眼が足音の主を捉える。
暗い海の底のような蒼い髪を持つ背の高い男だ。今のこの国の季節を考えると暑苦しいほどに黒くがっしりとしたブーツに、紺色に近い暗い色の軍服に似た制服をきっちりと着こなす、髪と同色の眼を持つ男だ。
その重たい色をした眼光はお世辞にも気易いとは言えない。
だが少女は男の姿を認めるとこれまで以上に嬉しそうにふわりと微笑み、男の名を呼んだ。
名前を呼ばれた男は呆れたように小さく息を吐く。
「こんなところにいたのか」
おてんばな妹をたしなめる兄のような声色で男が少女に問う。
しかし少女はそんなことはお構いなしに、両手いっぱいに摘んだ草花を掲げるように見せて笑った。
繰り返すが、少女が楽しそうに両手で抱えているのは愛らしい色とりどりの花で作った王冠などではなく毒草にも分類されるものばかりを揃えた物騒な花束だ。
「見て、こーんなにルピナスにケシに、えーっと、カホウボタンコンまであったの。あっちにはロウトコン――ワメイはハシリドコロだったかしら――や、ハマオモトなんかもあったのよ。流石に素手では触れないわ。……あとで二人にも手伝ってもらって、採取しましょ」
楽しそうに声を弾ませる少女に、男はふと口端を緩めそうになるのを堪えて少女の前に膝をつくと、真剣な顔をして唸るように口を開いた。
「彼ら――適合者たちが揃った。物部から連絡が来た」
はっと少女は笑みを凍らせ、男を仰いだ。
男はただ少女の返事を待つ。
「――そう」
「……扉も安定しているようだ。次の満月には全て整う。全て、始められるそうだ」
そう、と、もう一度呟いた少女の声は自身でも驚くほどに冷たかった。
少女は色白の顔を一層白くし、じっと手の中の草花を見つめる。風が少女と男の髪を揺らした。
男は少女が泣き出すのではないかと、そっと顔を覗き込んだ。
「――だいじょうぶ」
少女が感情を押し殺し呟く。
男はなにも返さなかった。
「大丈夫。私は、大丈夫」
「……」
明らかに無理をしている少女を男は黙って見つめる。
そして意を決してゆっくりと少女の名を呼んだ。
「嫌なら、辛いなら、俺がやろう。なんだったら、あの女――社長秘書にでも任せればいい」
あの女、と、吐き捨てるように言う。男の端正な眉間に皺が刻まれる。
それでも少女は真っ白な顔のまま頑なに首を横に振った。
「――ダメ。いいえ、私がやる。私が、やらなきゃ」
そう言って少女は男の顔を見つめた。
ふ、と、桃色の愛らしい口唇が自嘲に歪む。
そうか、と男は呆れとも諦めともつかない声で唸った。
思わずため息が漏れる。少女を見ると、彼女も同様にため息を吐いたようだった。
くすりと少女の顔がほころぶ。
「二人が首を長くして待っている。風も出てきた」
「うん」
「……戻ったらまずは着替えだな」
男が伸ばした手に、少女の小さくて白い手が添えられる。
少女を助け起こした男は、少女の頭から下までゆっくりと眺めると、先ほどとは違う意味でため息を吐いた。
本来は真っ白であったろう、少女のシフォンのスカートは土と草汁でまだらになっていた。
時間も経っているようで、もう元通りに漂白するのは難しいだろう。
少女は自分の姿を見下ろしてえへへと小さく笑った。
「終わったらティータイムにしよう。いい茶葉が手に入ったらしい」
「本当? じゃあケーキも食べたい!」
「ああ」
「チーズケーキがいいわ! ……ケーキに合うお茶だといいのだけど」
「……ケーキは合うものを選んでおこう。とびきりのものを」
男がそう言って手を引くと、少女はぱっと花が咲いたような笑顔を見せた。
うさぎが跳ねるような足取りで軽く男のそばへ寄ってくる。
先ほどとは打って変わった少女の様子が微笑ましく、男はこそりと笑んだ。
「あ、今笑ったでしょう」
「――笑ってない」
嬉しそうに言う少女と顔をしかめた男が仲良く手を繋いで山間を降りていく。
楽しそうな少女の声が木々の間にこだまする。
二人の去った花畑をそろりと伺う生き物たちの姿がちらと見えた。
ほっとしたような、寂しそうな、そんな山の主たちは、二人の人影が消えた先をずっと見ていた。
ずっと、ずーっと、眺めていた。
☆
とある一室にて 八月十三日
真っ暗な部屋の中で液晶からの強い光だけが人影を照らしていた。
カタカタとキーボードを叩く音と機械の駆動音だけが部屋に響く。
必死な表情でパソコンの画面を睨みつけているのは幼い顔をした少年だった。
色素の薄い髪と眼が薄青い光にギラギラと光っている。
眠たいのだろう、目を何度もしぱしぱと瞬かせ、その目の下にはくっきりと黒い隈が浮き出ていた。
この日、何度目かのあくびを噛み殺したとき、無遠慮な襖を開閉する音がして、少年は不機嫌そうに顔を上げた。音の主に抗議の眼を向けて舌打つ。
「お前、こっちはまだ作業中なんだから少しは遠慮して入ってこいよ」
「あン? ああ、悪い悪い。忘れてた」
再び少年は舌打つ。
入ってきたのは背の高い男だった。真っ暗な部屋の壁を手探りで撫で、スイッチを押して部屋を明るくする。
パソコンの前に鎮座する少年は一瞬だけ眩しそうに目を細めたが、すぐに目を開くと男を見上げた。
少年はふざけんなふざけんなと吐き捨てながらまたディスプレイに向かう。
男は着崩した暗い色の軍服に似た制服の首元を更に緩めながら少年の横に立ち、首を傾げてパソコンのモニターを覗き込んだ。
真っ白なタオルを乗せただけの頭からは未だぽたりぽたりと雫が滴っている。
「おま……っ、せめてちゃんと乾かしてから戻って来いよ! ここは精密機械だらけなんだぞ!」
少年が神経質に叫ぶ。
男は気怠そうにタオルの上から頭をがしがしと掻いた。
飛び散る飛沫に少年が更に肩を怒らせる。
「悪い悪い。いやぁ、ここの温泉、思ってたよりも気持ちよくってな。効能はストレス解消、頭痛、腰痛、婦人病ほかだとよ」
「……お前、それ俺へのイヤミか」
そんなつもりは微塵も、と笑う男は髪が半乾きになったのを確認してタオルを首にかけた。
腰まで届くような黒髪がうっすらと濡れて艶やかに光った。
俺はロクに寝てもいないのに、とぼやきながら八つ当たりのようにキーボードを叩く少年の斜め後ろに座り込んで、男は再びモニターを覗き込む。
二人の周囲には所狭しと少年の言う精密機械がコードを絡ませ合ってひしめいていた。ヴヴヴという駆動音が重なり合って轟音となる勢いだ。少年が向かい合うパソコン以外のモニターも常時切り替わってはなにかを映している。
あまり広いとは言えない和風な部屋に無理矢理詰め込まれたそれらはしきりになにかを計算し、確認し、管理していた。一般的にコンピューターを仕事で使っているという程度の人間が見たところで、彼がそれでなにをしているかなど欠片もわからないだろう。
機械の稼働熱で熱暴走を起こさないよう室内は真冬の凍りついた夜のように冷やされていた。いっそ冷やすというよりも部屋全体を凍らせるつもりのように。
それでも少年はサイズのあっていないくたびれた白衣を薄いシャツの上に羽織っただけだったし、男は制服をはだけたままだった。
「そういえば、うちの姫さんはどこ行ったんだ?」
「この部屋が寒いって文句言って出てったっきり。ま、トカゲどもが言うには一応近くにはいるぜ。つーか、さっきウィズが迎えに行った」
「あ、そ」
少年がウィズという名を出した瞬間に、男の目からは一切の興味がすっかりと消え去っていた。
その様子を見て少年は肩をすくめる。
「その姫君が当の俺たちのことを「私の三銃士」って例えてた話でもするか?」
「やめろ。お前はともかくあのむっつり野郎と仲良しこよしだなんて寒気がする」
「……ムッツリ?」
首を傾げる少年を無視して、男はモニターの一つを眺める。
どこかの日本建築内部 旅館の廊下のようだった。
若い男女数名がなにか喋りながら着物姿の仲居の案内を受けている。
「……さて、どうなることやら」
「なるようになれ、だろ。俺たちは自分ができること、やるべきことをやるだけさ」
男は小さく肩をすくめる。
それを見た少年は、本日何度目かのあくびを噛み殺してまた目の前のモニターに向かうのだった。
☆
■■■■にて ■月■■日
深く暗い森の奥でくつくつと嗤う声が響いていた。
楽しさを堪えられないような、愛玩動物が思いもよらない失敗をしたのを見てしまった飼い主のような、そんな愛しささえ滲み出る笑い声にも聞こえた。
「ああ……ようやく、ようやく再開できそうだ……」
長かった、と呟く嗤い声の主は人の形をしていた。
一見普通の人のようにも見える。しかし、もしこの場に誰か人がいたならば、その影は近付けば近付くほどに異様な風体だということに気付いただろう。だがここには誰もいなかった。
ざわりと生ぬるい風がその影の暗い色をした髪を撫ぜた。
「本当に、長かった」
くつくつと喉の奥で嗤う。
その影は男性のようなシルエットだったが、見る人が見ればそれは女ではないような気がすると感じる程度、そんな曖昧な印象だった。
直に声を聞けばもっとわからなかっただろう。
幼いとも老いてもいない、若いとも熟しているとも言い難い、なんとも言えない声だった。
いっそ四方のスピーカーから老若男女それぞれ同時に同じ言葉を聞いているような気さえする、気味の悪い声だった。
だがこの場には誰もおらず、誰も聞いていない。
男――便宜上ここでは男性として扱わせていただく。でなければどう記したらいいのか見当もつかないから――は楽しそうに、それ以上に嬉しそうに嗤った。
木々の間にそれが反響し、ザワザワと周囲を凍てつかせる。
「うふふ、とある時代とある地のとある賢者はあれから人類の時間にして何時間何秒だと諳んじるのだろうけれど、僕のキャラクターとしてそれは相応しいとは言えないだろう。残念だがそれは他の誰かに任せるとしよう。ああ、大変なことを忘れていた。観客席を是非とも埋めてしまわなければね。観客のいない戯曲など滑稽にもほどがあるだろう。さて、今回こそは終演(フィナーレ)を迎えられるといいのだが……。まぁ、それは脚本家か舞台監督(かれら)にでも任せるとしよう。僕の役目はただ、見届けるだけだ」
そうしてまた男はくつくつと嗤った。
誰に言うでもなく、しかし妙に演技がかった仕草でにまりと嗤う。
ぬらりと赤い唇が美しい弧を描いた。
「ではまた、ご機嫌よう」
男はこちらを見て、芝居がかった仕草で礼をした。
ざあっ。
突風が木々を揺らす。風が刃のような鋭さを持って木々から葉を巻き上げて通り抜ける。
ふ、ふ、ふ、と、男の嗤い声は途切れるどころか大きくなっていた。
ざわり、熱に浮かされた宵風が森を駆け抜けた。
――もう、男の姿はどこにも影にも見当たらなかった。
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