第11話 アズマギクの餞別 9

◆銀(しろがね)幸凍(ゆきと)の場合

  ――狗神(いぬがみ)紅蓮(ぐれん)のため息


 逃げる。

 逃げる。

 息を乱して、後ろも見ずに。

 誰かが追ってくる。

 逃げなければ。

 どこへ? ――どこだって、いい。

 手を引いてやっている、少年のような顔をした青年は白い肌を更に青白くして、今にも泣き出しそうな表情で背後を伺っていた。


 後ろを見ている暇があったら走れ!

 

 怒鳴りつけ、強く手を握り直す。

 青年が青い顔のまま、口を一文字に引き結ぶ。手を同じくらい強く握り返された。

 それが彼の答えだと確信して、更に足を速める。

 あと少し。

 逃げる。

 逃げる。

 青年が再び手を強く握り返してくる。

 あと少し。

 逃げる。

 逃げる。

 逃げる。

 あと――……。

 

  ☆


 某国 某町郊外 八月十二日


 紅蓮はベッドから落ちた衝撃で目を覚ました。

 目を数回瞬かせ、ようやく自分がベッドから落ちたことを理解した。ただでさえ高い天井が更に高く、遠く見える。

 のっそりとベッドの上に這い上がり、周囲を見渡す。

 昨晩、久々に帰ってきてそのまま着替えもそこそこに倒れ込んだ大きなベッドのある部屋だった。

 大きな窓を覆う赤黒いカーテンの隙間から朝日――時間的にはもう朝ではないだろうけれど――が入り込んでいる。

 まだぼんやりとしている頭が差し込む朝日に溶かされていく。

 

 眩しさに目をしかめ、窓を開ける。真冬のように冷たい風が紅蓮の頬を叩いた。

 紅蓮は冬の寒さも夏の暑さも嫌いではないが、季節違いのその冷気に思わず眉を寄せた。

 現在、紅蓮がいるのは北欧のとある山奥だが、それでも今のこの時期にこんなに冷たい風は珍しかった。

 あくびをして部屋を見渡す。キングサイズのベッドはふかふかで、どちらかと言えば野宿のような、自然の中で寝起きするのが常な紅蓮には少々――いや、大分、柔らか過ぎた。おかげで今朝は身体のあちこちが痛む。

 軽くストレッチしながらベッドを飛び降りる。

 紅蓮と一緒に床に落ちた、ふわふわした真っ白なシーツを摘んで適当にベッドの上に放り投げる。天蓋から垂れる薄布もズレ落ちていたが、そちらは見なかったことにした。

 ふと部屋に設置された大きな姿見が目に入る。金色に光る双眸の少年がこちらを見つめていた。炎のように燃える赤髪にまぬけな寝癖がついている。

 紅蓮はもう一度あくびをしながら手で髪を撫で付ける。鏡の中の少年もまた、同じようにあくびをして寝癖を撫でつけた。

豪奢な遮光幕を引き裂くように開け、既に高い位置にある陽光を眺めた。小さなバルコニーに出る。ひやりとした石床が裸足に気持ちいい。

 滑らかなで緻密な細工が施された手摺りに手を掛け、一気にそれを乗り越えた。

 一瞬だけの浮遊感。

 風が紅蓮を包む。

 数メートル、遠いかの国ではビル三、四階分の高さと称するだろう、その高さを垂直に落ちる。

 さくりと小さな土を踏む音だけをさせて、紅蓮は危なげなく地上に降り立った。立ち上がって伸びをする。

 彼の目の色や髪の色、そしてその行動からわかる通り、紅蓮は人間ではない。

 しかし今この場にそれを見咎めるものはいなかった。

 だから紅蓮は堂々と振る舞えるこの住居が気に入っているのだ。振り向いて今し方自分が飛び出したバルコニーを見上げる。

 ――それは大きな城のひと部屋だった。元はこの地方の王侯貴族が優雅に暮らしていたであろう、大昔の古城だ。

 紅蓮が飛び出したバルコニーの窓は枠に大層なレリーフがあしらわれているのが見える。年月を経て灰色がかった外壁は、元は純白であったのだろうが、今ではところどころヒビ割れていて、黒く煤けている所も目立つ。

 しかしそれでもその偉観に陰りは見られない。

 鬱蒼と茂る山森の頂上に建てられた、名さえ忘れられた古城は、山の麓町の人々には悪霊の棲む城として恐れられている。そんな曰くある古城だが、紅蓮は本当に、大層気に入っていた。

 理由は先に述べたように人外であること。ここではそれを誰かに見咎められることはないし、城の噂により人間たちがやってくることもないということ。(たまに、ごくごくたまに、イキがった若者がやってくることもあるが、それは噂を利用して追い返してやるだけだ。実はそのイベントじみたことも、紅蓮は時たまなら楽しいとさえ思っている)

 あとはゆっくりできることはもちろん、この城から眺める麓の湖は絶景で、尚且つ東館上階のバルコニーは日当たりがとてもいいのだ。

 そんな数々の理由があって、紅蓮はこの古城が大好きだった。

 改めてそんなことを考えていると、ふと近くに聞き慣れた足音を感じた。

 人間の耳では拾えないその音を紅蓮は聞き取り、垂れ気味の犬に似た耳をぴくりと動かした。

 木陰から真っ白な影がのそりと顔を出す。

 それはとても美しい男だった。女のように、と形容してもいいほどだ。

 紅蓮は知っているから「美しい男」と称せるが、人間の七、八割はどちらの性別かすら迷うだろう。むしろ性別などないと答える方がスッキリするかもしれない。因みに残りの二、三割は女と断定してしまうだろう、それほどに中性的な美貌の男だ。

 真白に光る銀髪は腰の下まで伸ばされ、重力に逆らわずにさらりと地に向かって落ちている。時折吹く風に揺られてふわりと舞い、木漏れ日に照らされて輝く様は、月並みだがまるで一枚の絵画のようだ。

 陽に焼けるということを知らない白磁の肌はきめ細かく、少女のような艶やかさがあった。

 年頃は二十前後ほどに見えるが、彼の持つ雰囲気――いや、風格か――は老熟した東方の仙人と呼ばれる妖人のようにも感じられた。

 そして一際目を惹くのは――血のような、と形容したくなるほどに美しく輝く紅玉の瞳。その双眸は紅蓮の方を向いていながらなにも映していないような、深い深いこの世の終わりの血沼を思わせる、そんな冥い眼をしていた。

 まるで人形のような男だ。

 この人外の美しさと危うさを持つ男こそ、紅蓮の大切な友人にして、この古城の主である。

 もちろん彼もまた、人間とは異なる存在だ。

 紅蓮は口端を上げ、機嫌よく彼に近付き、


「ガルシア!」


 名を呼んだ。

 彼の故郷の言葉で「月」や「凍空」を意味し、かつて彼の故郷にて存在したという英雄から受け継いだ由緒正しい名だと聞く。

 名を呼ぶと、彼――ガルシアは不満そうに口を尖らせた。


「その名で呼ぶなと言ったろう」


 低いメロディーの聖歌を聴いているような、しかし抑揚の感じられない声が鼓膜を揺らす。

 ただ不愉快そうなのは見て取れる。


「じゃあなんて呼ぶんだよぉ。シロガネ? ブレイズ? イバラギ? ドラクロワ? ツェペシュ? ユキト? アンカル? ジャスパー? カーミラ? フリッツ?   いいじゃん、今はおれとお前しかいないんだしさぁ」

「……」

「んで、どしたのさ」


 未だ不服そうな顔でガルシアは紅蓮を睨む。

 紅蓮はその子どものような男の仕草を微笑ましく思いながら、彼の用事を重ねて尋ねた。

 本来、太陽や明るい光が苦手な彼が、昼過ぎとはいえ外に出ているのは珍しい。

 なにか外に用でもあったのか、今は人間のような黒いフォーマルスーツ姿だった。

 黒いツヤを放つネクタイを鬱陶しそうに緩めながら、ガルシアは形のいい薄い唇を開く。


「麓の町に買っていた家を引き払ってきた」

「麓……って確か、七年前くらいに買ったやつだっけ。なんで?」


 彼らは拠点としてこの古城だけでなく、街中にも数多くの住居を持っている。ひとところに長くいることができない故の行動の一つだが、それをあえて売り払ってきたとはどういうことだろうか。

 件の家は確か、紅蓮の記憶では、この国にやって来てすぐに購入したものの、その後この古城の存在を思い出して移ったのでほとんど住んでいない物件だ。確か手伝いを雇ってなんとか定期的に掃除をさせているのだったか。

 ごくごく稀にだが、町に用があるときは立ち寄って、その手伝いに給仕をしてもらうこともある。

 どうでもいい情報だが、その手伝いは地元の郷土料理とミートパイを作るのが上手で、紅蓮は麓に降りるときは密かに楽しみにしていたほどだ。

 紅蓮が首を傾げてガルシアを見ると、彼はその高そうで仕立てのいいはずの上着を無造作に脱ぎ、手触りの良さそうなネクタイとともに苔生した木の根元に放り投げた。

 何度も言うが、服のブランドや人間の物価に疎い紅蓮でさえ、それが上等も上等、最高級の一品であると一目でわかるものだ。

 いや待て、いつ仕立てたんだ、それ。

 ガルシアはそんなことはどうでもいいとばかりにもうそれらにも見向きもしない。白いシャツの手首を緩めながら再び口を開く。


「少し前に、人間に混じってなんとか言う商家の祭りかなにかに参加しただろ」


 紅蓮は湿った木の根元に捨てられたそれから目を逸らし、彼の目を見る。


「あー……SGCだっけ、あと祭りじゃなくてITとかいうテストな」


 それから商家じゃなくて、今は会社って言うらしいぞ。そう続ける紅蓮に、そうそれとガルシアは適当な相槌を打つ。

 興味がないことには思い出す作業すら惜しむ奴だ。

 紅蓮とてそんなに頭がいいわけではないが、かろうじてその名前が出てきたのはつい先日、麓の例の家に溜まっていた郵便物の中にその名があったからだ。

 宛先は珍しくガルシアの名前の一つだったので印象に残っていた。(蛇足だが他の郵便物は近所のイベント案内だったり請求書だったりだった。)

 それがどうしたのだと問う。

 紅蓮にしてみれば、受けたことすら忘れていた。

 その終わったはずのITとやらのことで今更なにがあるというのか。紅蓮はまた首をかしげる。


「合格したから、来てほしいと手紙が来た」


 言葉が足りな過ぎる。


「へぇ、受かったん……だ、ってなにに? お前まさか全力でやったんじゃないだろうなぁ?」

「合格したのは知力テストだそうだ」

「わぁ、さっすがガルシア! ダテに長生きしてな  じゃなくて! だから、え、ちょ、待てってば」

「行き先は日本の……ああ、アオモリケンだ。今朝調べてきたが、船も列車も飛行機も取れなかった」

「ニホン? アオ、ってのはわっかんねーけど――いや、ちょっと待てって! え、行くの? 行く気なの? 行きたいの? 行きたかったの?」


 彼は普段から大分マイペースだが、慌てて声を大きくする紅蓮など素知らぬ様子で一方的に予定を告げた。

 戸惑う紅蓮を置いて、ガルシアは続ける。


「だから紅蓮、お前が運んでくれ」

「あ、行きたいんだ? だからホント待てって! いきなりだな!」

「集合日時が明後日までらしい」

「うわぁ、ホント急だな、いきなりだな! えっ、待って待って、おれの意思は? 意見は? 都合は?」


 唐突な展開に必死についていこうとする紅蓮から目を逸らさず、ガルシアは言いたいことは全て言ったとばかりに口を閉じる。

 そして不思議そうに、


「……駄目か?」


 こてり、と、首を傾げた。

 ――紅蓮の負けだ。紅蓮は昔からこの美しく大好きな、自慢の友人の、この顔に弱い。というかこういった純粋なものに弱いのだ。

 数年前までは毎日のように知り合いの子どもらに「お願い」されては、ボロボロのクタクタになるまで遊びに付き合わされたりもしていたくらいだ。

 そんな紅蓮がこの純粋に不思議そうな顔で首を傾げるガルシアの頼みを断れるはずもない。


「――ダメじゃ、ねぇけどさ」


 気がついたらそう答えていた。

 元よりヒマツブシには賛成だ。いつでも時間は持て余している。

 しかし。

 ただ気になるのはかなり引きこもりの気があり、出不精で相当の面倒くさがり屋のこの友人が、ここから遠く離れた日本という因縁浅からぬ地に行こうという気まぐれだった。

 ただのヒマツブシとは思えない。


「それ、ただのヒマツブシか?」


 そう短く尋ねると、彼は少しだけ目を伏せる。


「――……彼の娘が、オレと同じ合格者に名を連ねている」


 どくり。心臓が大きな音を立てた。


「……え、待……ちょっと、待て。SGCって……そうだ、なんで忘れてたんだ……」


 ごく、と紅蓮の喉が上下する。

 覚えがあるはずだ。

 だって、その社名は「彼」の口から幾度となく聞いたのだ。


「あいつを殺した奴らがいるところじゃねぇか――ッ」


 どくり、どくり。また心臓が大きな音を立てた気がした。

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