第9話 アズマギクの餞別 7
日本 大阪府某所 六月某日
彼女の危篤を聞かされたのは、深夜の道路工事作業アルバイトから帰ってきてからだった。
慌ててタクシーを拾って病院へ駆けつけたのが丑三つ時すら過ぎた頃。こんなとき、運転免許証やアシになるものくらい持っていればと後悔する。
いや、国籍の違う自分には難しいことか。
今朝出かける前に見た彼女――赤星いずみは、いつも通りの笑顔で彼、アクアを見送ってくれたのだ。
それが夕刻、急に会社で倒れたのだという。
駆け込んだ病院の廊下で彼女の直接の上司だという女性と、倒れたときにそばにいたという男性上司が青い顔をして話をしていた。顔見知りでもある、いかにも敏腕女幹部といった風貌の女性上司はアクアを見つけると不安そうな顔のまま、こちらに小さく頭を下げた。アクアも頷くように会釈を返す。
兄弟姉妹のいないいずみは普段から彼女を姉のように慕っていた。同じように、彼女もいずみを気に入っているといっていたのはつい先日のことだ。ただの上司部下だけでなく、友人としても心配なのだろう。
受付を兼ねたナースステーションで聞いた部屋は個室だった。部屋番号の下には間違いなく、いずみの名前が書かれている。
心臓がいやに跳ねた。
ここに来るまでに何度、嘘であればいいと願っただろうか。扉の前に立っていた看護師がアクアの顔を見て一瞬だけ戸惑い、ふと思い出したように頷いて扉を開けてくれる。
音もなく開かれた扉の向こうに現れたのは真っ白な、普段は縁のない、ドラマでしか見たことがないような部屋の真ん中に置かれた真っ白なベッド。そこに横たわる人影から伸びる色とりどり数々の管。それが何やら複数の機械に繋がっていて、モニターがなにかの数字やグラフを表示している。アクアにはわからない機械音が静かに部屋を覆っていた。
アクアは恐る恐るベッドに近付き、白い布団の膨らみを確認した。
間違いない。今朝見たときより幾分白い顔色をしているが、見間違えようのない赤星いずみ本人だった。
ごくりとアクアの喉が上下する。
そっと入室したアクアに気付いたいずみの両親が彼を見た。若い母親は既に目を真っ赤に腫らして、年の離れた優しそうな男 いずみの父親に支えられていた。
真に家族でもない、ただ同棲しているだけの青年がこうしてこの場にいられるのも偏にこの二人のおかげだ。どれだけ感謝しても、し足りない。
話を聞くと、既に医者のできる処置はしつくしたあとで、あとは本人の気力しだいといわれたのだという。
本当に、ドラマでしか見たことのないことばかりだ。
アクアはいずみの両親に軽く挨拶をして、すぐに彼女の眠るベッドに近付く。
管だらけで若干顔色も悪いが、本当に、普段眠っている彼女と変わりなかった。
「もしかしたら、このまま目覚めないかもしれないらしい」
暗い声で、父親が静かにいう。
母親の嗚咽が大きくなり、なにかの機械がピッピッピッと規則的に鳴る音だけが室内に響く。
「いずみ」
小さな声で呼びかける。
聞こえているかわからないが、呼びかけずにはいられなかった。
「いずみ」
先程よりも少しだけ大きな声。
なにの役に立っているかもわからない管やマスクが邪魔だと思いながら、アクアはそっといずみの白い手を握る。
冷たい。
いつもの温かな彼女の体温とは思えない手の温度に、背筋が凍るような思いがした。
直前まで仕事をしていたのだろう、指先に赤と黄色の絵の具のようなものがついているのが見えた。
イラストレーターや漫画家などもパソコンでのデジタル作業が増えているという今の世の中で、手描きの方が思った色が出せるし楽しいから、といずみはアナログ作業を好んでいた。
不器用なくせに彼女の絵やデザインはいつも繊細で、出来上がった作品とそれが作られた現場のギャップにアクアはいつも驚かされていた。
もっとも、彼女はドがつくほどの不器用な上に機械音痴なところもあったので、苦手意識のあるパソコン周辺にはあまり近付きたくなかったという理由も大きいのだろうが。
「いずみ」
三度目。反応はない。
ピッピッピッという機械音だけがいずみが生きていることを教えてくれていた。
そんなものにいずみのなにがわかるというのだ。アクアはぎゅうと力を込めて彼女の手を握る。
強く握れば、いつものように「痛いよ」と怒って目覚めないかと思った。
もっと強く力を込めれば、自分の無駄に有り余る生命力だとか命の残量だとか魂だとか、そんなものが彼女に流れ込んでいかないかとも思った。
けれどそんな奇跡みたいなことは起こらない。
歯を食いしばっていなければ叫びだしそうだった。泣き出しそうだった。
「いずみ」
呻くような声がアクアの口から漏れる。
そんな中で、たった一つ。たった一つだけ奇跡が起こっていたのだとしたら、これはやっぱり奇跡だったのだろう。
「…………………………あ、くあ?」
か細く掠れて小さな声、だが確かにいずみの声がアクアの耳に届いた。
はっと顔を上げると、重たそうな瞼をゆるゆると持ち上げる彼女の日本人にしては少し色素の薄い双眸と出会った。
「いずみっ」
思わず一旦は抜いていた力が込められ、手を強く握る。
いたいよ、と彼女の困った声がいつもよりもずっと小さい。
彼女の両親が娘に駆け寄る。アクアは胸に詰まるものを感じながら、そっと彼女の両親に場所を譲る。自分だけが独占できる彼女ではないのだ。
うん、うん、と母親は小さな娘の声に頷く。父親も今にもこらえきれず泣き出しそうな顔で妻と娘の手に大きな手を添えていた。
ああもう最期なのだな、とぼんやり思った。
父親が「アクア君、いずみが」と呼ぶ声で我に返る。口内が酷く乾いている。
今度は母親に場所を譲られ、いずみの冷たい手を再び握る。今まで親に握られていたというのに、さっきよりもまた更に冷たくなった気がした。
アクアの名を呼ぶいずみは自身につけられていた呼吸器が邪魔だとばかりに顔をしかめる。握った手とは反対の手で勝手に外そうとしているのを見かねて、アクアが優しくそれを外す。
もう誰も、注意も文句もいわなかった。
「びっくりした?」
「――当たり前や、アホ」
唇を舌で濡らしてやっとのことで答える。
えへへ、といずみが笑う。
あまりにもいつも通りの笑顔で、アクアは目の前の出来事が嘘なのではないかと思った。
嘘だとしたらとんでもなく悪質な嘘だ。
「あのね、アクア」
いずみがいう。
口調はいつも通りだが、少し苦しそうにも見える。
「だいじょうぶ」
「?」
「きっと、また会える」
そういずみは微笑むが、アクアは意味がわからないと首をひねる。
等間隔だったピッピッという機械音の間が徐々に広くなる。
そんな気がするんだ、と彼女は笑う。
アクアは――笑えなかった。
笑えるはずもない。
機械音の間隔は無情にも大きくなっていく。
「また、すぐに――」
ピ――――――ッ。
ドラマのような無慈悲な音が部屋に響く。
母親が息をのむ音が聞こえた。
いつの間にいたのか――アクアが気付かなかっただけで最初からいたのかもしれない 白髪の多い初老の医者がなにかを確認して「ご臨終です」と呟くようにいう。
目の前が真っ暗になる。アクアは足元が、世界が崩れ落ちたような気がした。
☆
アクア・S・ネイチャーが故郷を家出同然に飛び出したのは一昨年の話。
幼い頃から漠然と感じていた胸の喪失感を埋めようと、地球一周するつもりで母国を旅立ったのはいいものの、生来のお人好しな性格と無計画なくせにポジティブな性根、それからいくつかのトラブルがいっそ笑えるくらいに重なりまくった結果、彼は母国よりも幾回りも小さな島国の一地方で途方に暮れていた。そんなほぼ行き倒れの状態でいたところを、数年前、母国で出会った女性――赤星いずみに再会と同時に拾われ、そのまま半同棲のような状態になってそろそろ一年も間近に経とうとしていた。
そんなある日、いずみが仕事から帰ってきて早々、楽しそうに笑う。
「ね、アクア。これ、一緒に受けてみない?」
そういいながら彼女が見せたのは、どこかから勝手に持ってきたような、少しくたびれた街頭ポスター。
見覚えがある。以前からいずみの勤め先が率先して企画しているというイベントの広告だ。もしかしたら退社したあと、廊下の掲示板かどこかで見つけてそのまま引っペがして持って帰ってきたのかもしれない。
社の掲示担当者は今頃泣いているかもしれないな、と思いながらアクアはいずみの手からポスターを受け取る。
「ITプロジェクト……Individual Test? ……Information Technology、やのうて?」
もしくはIt(それ)か。アクアが首を傾げていると、いずみは驚いた声を上げる。
「え、アクア、いんふぉめーしょんてくのろじーなんて知ってたんだ……」
「なあ、いずみ? お前、俺んことなんやと思うとるん? なあ、俺んことなんやと思うとるん?」
こちとらそれが母国語じゃ。
「ねー、この企画、面白そうだよねー」
「ムシ? なあ、ムシ? こういうんをムシっていうんやろ? なあ」
隣人にも聞こえそうな声で喚くアクアを無視して、いずみはプロジェクトの概要を説明しだす。
両隣からドンと壁を叩かれてようやく、アクアは諦めて黙った。というか隣との壁はそこらの安アパートと比べてもしっかりしていて、彼が多少の大声を出したところでうるさく響くことはないはずなのだが。
「せやかて、俺テストとか嫌いやねんけど」
「うん、私も嫌い☆」
「おい」
文句をいいたそうなアクアを遮って、でもさ、といずみは続ける。
「アクアと並んでテスト受けてたら、なんか、大学生とか、クラスメイトとかみたいじゃない?」
ふふ、と楽しそうに笑ういずみを見て、アクアは思わず口をつぐんだ。
そういえば彼女は高校卒業後、事情があって大学を出ていないと聞いている。代わりに縁あってSGCという大大大企業の日本大阪支部広報課に就職できたが、大学のキャンパスライフとやらにも憧れと興味はあったようだ。――もっとも、事情というのは単に受験に大失敗したという、実に現実的で悲しい理由なのだが。
今は確か仕事の片手間に会社の生涯学習部門だとか何とか、そういうところに通って大卒資格を得るために勉強もしているという。
(ほーんまえらいやっちゃな、こいつは)
アクアはこっそりと息を吐く。そうした頑張り屋なところも、何事にも一生懸命なところも彼女の魅力だ。
「でね、SGC関係者枠からの参加だと、会社から参加記念商品応募券が貰えるんだって!」
「応募券て。ただの紙やないかい!」
「えー?」
……アクアは彼女がいつ、妙な絵や高い浄水器を買ってきてしまわないか心配だ。
まあこれも彼女の魅力、と彼はもう一度自分に言い聞かせ、ポスターに目を落とす。
最近の日本で流行りだという丸いフォルムでどこかまぬけな顔をしたゆるキャラらしきものが笑顔(?)で「参加してー」と懇願している。……これが可愛いのだろうか? これなら大阪名物の某人形の方がずっと愛らしく見える気がすると、アクアは思う。
いずみ曰く、同期の女の子のデザインらしいが、目が充血して顎が外れている桃色のクマにしか見えないので、いち早く精神科への受診をおすすめしておきたいところだ。
「化物体力で猛獣運動神経のアクアなら、体力使う科目だけでも合格できるかもよ」
「……なぁ、いずみにとっての俺ってほんまになんなん?」
ごちりながらポスターの案内を眺めていると、地元の参加会場はごく近所な上に、更にその近くには新しくオープンしたと彼女がいっていた大型画材店がある。ついでに彼女の好きなケーキカフェも近いので、帰りに寄ることもできそうだ。
「せやなぁ……」
ちらりと彼女の顔を伺う。
にこにこと、彼が断るとは微塵も疑っていない笑顔でこちらを見ている。
アクアに選択肢はない。この笑顔が曇るのはごめんだし、もとより別に断るつもりもなかった。所詮、惚れた方の負けというものだ。
そんな勝負ならいくらでも負けてやる。
にーんまりとアクアは笑む。
「よっしゃ、ほんなら行こか。んで、帰りにデートやな」
「やったぁ! ……え、デ、でえと?」
即座に茹でダコのように顔を真っ赤にしたいずみを眺め、アクアはふと幸せだと思った。
幼い頃からぽっかりと空いていた胸の穴が、彼女の一挙一動で埋まっていく。
そしてそれがこれからも続いていくのだと、その当時の彼は信じて疑いもしなかったのだ。
――いずみが倒れたのは、それから数ヶ月もしない、台風の近い、蒸し暑い夜だった。
☆
日本 大阪府 八月十三日
四十九日も終わり、夏も本番とばかりに太陽が頑張っている八月半ば、アクアはいずみの墓前にいた。
先週までは冷夏とさえいわれていたのが嘘のような真夏日である。
これなら上着などの荷物は減らせそうだ、とアクアは快晴の空を見上げて目を細めた。
最近まで黒系の服が多かったアクアだが、今日ばかりは特別だ。
二週間ほど前、SGCからIT合否通知が届いた。
いずみは残念ながら日本での平均点程度の成績だったようだが、何故かアクアだけは合格だった。もちろん、いずみのいっていた通りの体力面で。
送られてきた書面には、合格者たちに、とある場所に来てほしいという旨が書かれていた。簡素なパーティを用意しているとのことだ。
ついでにいずみ名義の通知では、例の応募券で二等が当たっていた。二等は国内ペア温泉ツアーセット。いずみが生前、もし当たったら両親にあげたいといっていたものだった。
今更、運命の女神は彼女に微笑んだのか。皮肉に思わずにはいられなかった。
温泉旅行チケットはいずみの遺志を理由に彼女の両親、赤星夫婦に押し付けるようにして渡した。あの若い母親はまた泣き出してしまったが、亡き娘からの贈り物なら、と最後には笑顔で受け取ってくれたので良しとしよう。
おそらく来月か再来月くらいには、今度は夫婦がアクアに手土産を持ってくるのだろう。
ならば、とアクアは自分に宛てられた通知を見た。
『SGC日本青森支部保有旅館案内』
『IT合格者の皆様へ』
『ITプロジェクトへのご参加ありがとうございました』
事務的な字面を目で追いながら、合格者や関係者が集うことになるという、その遠い場所を思う。
いずみとの思い出はまだ終わっていない。
アクアはなんとなく、彼女に背中を押されている気がした。
『せっかくなんだもん、行ってきなよ』
彼女がいたら、きっと一緒に国内旅行だとはしゃいでいただろう。
通知を受け取ってから既に二週間弱。指定された日時までに集合地であるという青森県へ向かうには今日がギリギリだ。悩みに悩んで――アクアは結局、行くことにした。
そして今、アクアはいずみがふざけ半分に買ってくれた真っ赤なツナギを着ている。上は流石に暑いので袖を通さず腰に巻き、白いシャツを身に着けているが、それでも汗が吹き出るほどに暑い。
日本の夏独特のじめっとした暑さに、アクアはまだ慣れる気がしない。
頭には同じくいずみが合わせて買ってくれたツナギと同色のヘアターバン。赤は日本の特撮ヒーローリーダーの色で、太陽のように明るく暑苦しいアクアの色――というのは生前のいずみの言い分だ。
確かに赤は好きだし、ツナギ服も楽だからいいのだが……しかし生半可な人間が着れば間違いなく悪目立ちするデザインで、ド派手過ぎる赤いそれは、流石のアクアでさえ少々気後れしてほとんど袖を通すことはなかった。
だけど、今日は。今日ばかりは特別だ。
いずみの墓前でアクアはパンッと頬を叩いて喝を入れる。
よし、と頷き、足元に置いていたバケツの水を全て墓石にぶちまけた。
「ほな、行ってくるな。いずみ」
にーっと笑って墓に宣言する。
頭上では鳶がぴーひょろろろと鳴く。
抱え直したリュックの重みを再確認し、赤黒いグローブをした拳をぎゅっと握り締める。
『いってらっしゃい』
そんな少女の声が聴こえたような気がした。
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