第6話 アズマギクの餞別 4

 日本 青森県むつ市 八月十三日


 ふわぁ。

 海陵謝はのんびりとした速度で走るバスの中であくびを噛み殺した。

 ゴトゴトと道なりに揺れる座席の振動が、退屈に輪をかけて眠気を誘う。

 昨晩は宿泊したホテルのベッドがやわらか過ぎるほどで眠れなかったのだ。そもそも、自分は枕が変わると寝付きが悪くなるタイプだったとは思わなかった。一人で寝ることには抵抗もなかったのに、意外な発見である。これが自分探しの旅というものか。

 謝にとっての初めての一人旅は驚きの連続で、また同時に新たな自分の発見の連続でもあった。

 それも、ひとまずの行程はあと少しで終わりそうである。


(ええっと、目的地までは少し歩かないといけないんだったっけ)


 なるべく小さくした鞄から、控えめながらも美しい金で縁どられた白い封筒を取り出す。その中から謝の名前の入った入山許可証と招待状と銘打たれた手紙を広げ、そしてそれとは別に事前に自力で調べた恐山周辺の地図を広げて見比べた。


(このあと、また少し歩けば良いのかな)


 空港で買った観光ガイドブックと事前調べの地図を照らし合わせると、この地図は幾分か古いものだったのだとわかる。


(確認大事。良かった……事前に調べただけじゃ、心許なかったもの)


 思ったよりずっと整備されていた道に驚きながら、謝は故郷の山々を思い浮かべた。

 

  ☆


 中国 青海省竜宮通村 八月十日


 俺の妹は可愛い。とても可愛い。そう、非常可愛(とてもかわいい)!

 国のほぼ中心部に位置する崑崙山脈のごく近く、青海省にある山奥に存在する竜宮通村。その村長家たる海陵家の長男として、俺、海陵瑳は生まれた。

 家族は祖母、父、弟妹。あと鳥が居たり居なかったり。

 弟妹は四人居る。都市部では人口統制として一人っ子とやらを推奨しているらしいが、田舎も田舎、秘境とも言えるほどに過疎しまくっている俺たちの村ではそんなものを気にしている家など無い。むしろ子どもが少ないと人手が足りなくて家どころか村の存続も危うい、そんな村なのだから仕方ない。

 ――と、言っても本当に人口が危うく、野良仕事の手が足りなくて重労働が増えるというくらいの危機であって、飢餓に喘ぐほどの危うさではないが……。うん、仕方ないけどまだ平気だ。

 それでも若い者の幾人かは都会に憧れて村を出て行くことだってあるし、秘境の村といっても隣村(とはいえ山をいくつか越えたところにあるような隣だ)との交流もそれなりにある、そんな村だ。

 そんな村に住む俺の一番可愛い末妹の名は謝。今年で十四歳になる、可愛い可愛い女の子だ。

 この謝が俺の妹になったのは十四年前。母の喪が明けて直ぐのことだった。

 ある日の早朝に突然、祖母、海陵凌(ルー)が、生まれたばかりにしか見えない赤子の謝を抱えて帰ってきたのだ。当時の俺は十になったばかりの子どもで、幼い弟妹たちは眠たそうな目を擦りながら、祖母の腕に抱えられる小さな赤子をぽかんと眺めていた。

 祖母は息子である俺の父、海陵柘(ジェ)に養子にするように命じ、父は驚き困惑していたのをよく覚えている。

 祖母曰く、その子は【竜王の御子ロウワン・ニ・ユース】。この村に伝わる竜神の御子なのだという。



 この村には他の村にはない(らしい)言い伝えがある。

 大昔も大昔、人と神がまだ一緒に暮らしていた頃、大きな事件があった。それは竜神の長とその兄弟たちのいわゆる兄弟喧嘩だったらしいのだが――詳細は祖母でもわからないといっていた。

 その争いから長と長の兄弟は決別し、世界を違うこととなる。

 傷付いた長は小さな村を作り、そこに自分の眷属や従ってついてきてくれた人たちを住まわせた。

  その末裔こそが、この竜宮通村の人たち、つまり俺たちなのだという。

 幼い頃から祖母や大人たちに耳にタコができるくらい聞いた昔話だ。俺を含めた若い世代はただの昔話や寝物語として聞いていた。

 だがその竜神の祠を管理する巫女だった――というか未だ現役で独り熱心に管理している祖母だけは、その話を頑なに信じ、毎朝欠かすことなく古い竜神の祠に通っているのだった。元気なのはいいが、怪我だけはしないでほしいと思っていた矢先のことだ。

 その道中にその幼子を拾ったのだという。

 寝耳に水どころの騒ぎではない。我が海陵家は上へ下への大騒ぎとなった。

 もちろん父は反対した。

 俺たちも【竜王の御子】などという話は頭から信じていることはない。

 それでも、確かに祠の近くにある大きな池――湖の底には、氷漬けになった大きな青い竜のようなものが沈んでいるのが見えることは知っていた。湖は遊泳禁止なので、誰もそれが本当はなになのかはわからない。

 

 結局最後に折れたのは父だった。捨てたと思しき親たる人物が見つからなかったこともある。

 そもそもこの村では子どもはどこの家の者だろうと――こんな小さな村だ――兄弟姉妹のようにして育てられている。誰が引き取っても同じなら、村長である自分が引き取ったほうが良い、そう父は考えたようだった。

 そして、その日から俺には妹が一人増えた。

 

 そして、そして、そして今、その可愛い末妹が遠く海を越えた先の外国  日本国とかいう島国へ旅立とうとしているという一大事を迎えているのであった!


 

「………………なぁ、謝。本当に、本当に、本当の本当に行くというのか?」


 隣村へ行く時くらいにしか使わない、村の入口の印として作られたあまり大きくない簡素なアーチを潜りながら、前を歩くまだまだ幼い頭に投げかける。

 愛らしい二つのお団子に結われた艶やかな黒髪が木漏れ日に照らされて夜の空のように蒼く光る。

 くるりと振り返った末妹は、大きくて丸く愛らしい瞳をぱちくりさせて俺を見上げた。深い深い青色が真っ直ぐに俺の目を見る。本でしか見たことのない海の底の色というのは、きっとこんな色なのではないだろうか。


「だって、もう準備して、ここまで来ちゃったし」


 くすり、謝はおかしそうに笑う。

 それで全部なのかと問いたくなるくらい小さな鞄を背負い、桃色と水色を基調とした村の少女用衣装を纏っている謝は、不安そうな表情一つ見せずに初めて出る村の外への道を眺める。

 ああ、その鞄は先の誕生日に俺がプレゼントしたものじゃないか。それに気付いてしまい、ただでさえ決壊しそうな涙腺がきゅうと刺激された。

 それが少し寂しくて、また、どうしても、と尋ねてしまった。


「瑳大哥、あのね」


 謝が照れたような顔で少し俯く。お団子頭にぐるぐる巻いた桃色のリボンが小さく風に揺れる。

 いつもは自分で結うのに今朝だけは俺に結ってほしいといったお団子頭だ。

 なにを言うのか待っていると、謝は顔を上げる。きゅっと引き結んだ小さな唇が戸惑うように開いた。


「あのね、私、瑳大哥や哥哥たちや姐姐たちの妹で、柘父の娘で、凌祖母の孫で、海陵家の子で、幸せなのよ」

「謝?」


 なんでそんな今生の別れのようなことを言うのだろう。

 思わず一歩前に出ると、謝は一歩、後ろに下がった。若干、傷付く。

 この妹と自分たちの血の繋がりが無いと、少女が知ったのは数年前。本当はもう少し大きくなってから、ちゃんとした場を設けて話すはずだったのだが、父のうっかりで末妹の耳に入ってしまったのだ。

 それ以来、ほんのつい最近まで謝は父の書斎に引きこもって本ばかり読んでいた。

 引きこもった場所が父の書斎だったのは  恐らく無意識の父への反抗心だったのかもしれない。以来この末妹は書痴と言わんばかりの本好きだ。元来頭の良いこの子は、今では恐らく村一番の知恵者だろう。

 なにを言いたいのか測りかねている俺に、謝は続ける。


「SGCの……ITに参加してみたのは、本当は不安だったから。不安で、自分がどこに立っているかわからなくなったからなの」


 ごめんなさい、と謝が泣きそうな顔で笑う。

 何故、謝るのだろう。妹はなにも悪いことなどしていないのに。

 いつもにこにこと微笑んでいて、わがまま一つ言わなかった末妹がSGCとかいう商社の実施するITというものに参加したいといったのに家族全員どころか村全体で驚いたのは数ヶ月前のことだ。

 でも、その御陰で謝はまた部屋の外に出るようになった。それが幸か不幸かはよくわからないのだけど。

 謝は続ける。


「合格通知が来て、招待状を見て、思ったの。私、皆になにか出来ないかなぁって」

「なにか?」


 謝は頷く。


「私は、大哥(にいさん)たちにいっつも助けられて、甘えてばっかりだから、このままじゃ自分で自分が許せなくなりそうだったの。それで、外に出てみたらどうかなぁ、って思ったんだ」


 そんなことない。その一言を言う前に、謝はまた口を開く。


「きっと大哥たちにそんなこと言ったら怒られるって思ったから黙ってたんだけど。それでね、考えたの。私はまだまだ子どもだから、たくさん学ぶことがある。学べることがある。じゃあ、外に出てみようって」

「べ、勉強なんて、今までみたいに外の学校からの通信教育で良いじゃないか」

「うん。でもそれだと、実際に見たり体験したりは出来ないでしょう。甘やかされているばっかりじゃ、私は駄目になっちゃうもの」


 もうなにを言ってもこの末妹は、何気に頑固なこの少女は変えられないのだろう。

 そう分かってしまって、俺は開きかけた口を閉ざした。


「でもね、瑳大哥」


 謝を見ると、今までで一番良い顔で微笑んでいる。さっきまで泣きそうな顔をしていたとは思えないほどに可愛い笑顔だった。


「私、この村が大好き。大哥たちも姐姐も、もちろん柘父も凌祖母も村の皆も大好き! だから、それを再確認するためにも、外を見ておくのは悪くないよね」

「……ああ、そうだな」


 帰ってくるつもりはある。それが言外に込められたのに気付いて、俺は頷く。もう何を言っても引き止められない悲しさと、あんなに小さかった妹が成長しているのだと気付かされた驚き、嬉しさ、それが混ざって胸の中を満たしていた。存外、悪くない感情だ。

 だけど、と俺は続ける。

 不思議そうに首を傾げた謝の頭を撫でる。


「皆に黙って出て行くのは酷いだろ。皆、謝のことが心配なんだから」


 そう言って、俺は背後を示す。

 謝ははっと目を見開いた。

 俺の弟妹、謝の他の兄姉がぞろぞろと顔を出した。


「駄目じゃない。勝手に出て行ったら、家出になるんですからね」


 既に目に大粒の涙を溜めて、長女の亥(ファイ)が鼻をすする。


「そうそう。柘父なんて、書斎が空っぽだって泣いてたぞ」


 けらけらと笑う次男、遷(クィ)が同意する。


「父の書斎の本、全部読みきったもんだから随分と大人びた奴だと思ってたけど、まだまだオトナに心配かけるお子様だなー」


 苦笑して、三男の実(シィ)が続ける。


「ま、帰ってくるつもりがあるなら、その可愛さに免じて許しましょう」


 冗談めかして次女、依(イー)が笑う。

 哥哥、姐姐、と謝が小さく呟いたのが聞こえた。

 何気に強がりなところのある末妹は、困ったときのように笑っていた。笑ってはいるが、くるりと丸い瞳には膜が張ってあり宝石のように煌めいている。


「も、もぅぅ……大哥のばかぁ、旅立ちは笑顔でって決めてたのにっ」


 膨れ上がった雫が謝の濃紺の瞳から溢れる。同時にぽつりと雨粒が俺の頬を打った。

 ぱらぱらと天気雨が降る。

 昔から、謝が泣くと空も泣くのだ。まるで謝の気持ちを表しているかのように。


「ほら、謝が泣くのはお空も悲しいってさ」

「そうそう。旅立ちは笑顔で、なんだろう」


 年の近い三男と次女がくすくす笑い、謝の頭を撫でる。

 やめてよーとはにかむ末妹を下の弟妹がぐりぐりと撫でまわしている間に天気雨は何事もなかったかのように止んでいた。

 幸い道をぬかるませるほどの雨は降らずに済んだ。見ると、謝もまだ鼻はぐずぐずさせていたものの、笑っている。

 雲の切れ間が謝にスポットライトを当てるように光った。


「ごめんなさい、黙って行こうとして。……凌祖母と柘父は?」

「祖母さんにはいってたんだろ? わかってるから、見送り行ってこいって、教えてくれた」

「父さんは……ま、後でちゃんと説明しておくから心配しないで」


 実と依がにやりと笑う。二人は少し謝と年が近い分、数年前の父の失態を未だに恨めしく思っているのかもしれない。さり気なく父に冷たい。

まぁ嫌っている訳ではないようなので、と放置している俺も俺だが。

 そっかと頷く謝に他意はないのだろう。亥に抱きしめられて、苦しそうにしながらも笑った。


「それじゃあ、柘父には書斎お邪魔しましたって伝えておいて」


 亥の腕から抜け出して、微笑む謝が言う。

 俺が頷いて見せると、謝は満足そうにまた笑った。


「あら、帰ってきたらまた占領してくれても良いのよ?」


 くすくすと妹たちが笑う。微妙に目が笑っていないのが怖い。

 謝はそれに曖昧な笑顔で応える。

 それじゃあ、ひらりと桃色のリボンと裾を宙に舞わせて末娘が一歩、村の外に出る。


「そろそろ行かなくちゃ」


 もう? と依が寂しそうに問う。

 弟たちも口には出さずに同じことを問いたそうだった。俺もだ。


「うん。そろそろ行かないと、日が暮れる前に山越えられなくなっちゃう」


 流石にその理由には抗えなかった。暗い道を一人歩かせることも、野宿させることも絶対に避けたいことだ。

 途中まで送るという言葉は、どうしてだか俺たちの口から発せられることはなかった。

 行ってらっしゃい、弟妹と口々に告げる。

 謝はことさらにっこりと微笑み、


「はい、行ってきます!」


 と大きく手を振ったのだった。

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