第3話 アズマギクの餞別 1
◆黒崎煌夜の場合
――ノエル・フェレクトの評論
耳をつんざくブレーキの音。
女性の悲鳴。
次に来るはずの恐ろしい痛みと苦しみはなく、ただ全身が転んだときのように痛い。
手を擦りむいている。多分、膝も真っ赤になっているだろう。
(痛い)
泣き出したい痛みに小さく呻きながら、■■は起き上がって周りを見渡した。
いつの間に一方通行の車道を渡ってしまったのだろう。
周囲が妙にざわついている。
父は、あの子はどこにいるのだろう。
今日は大切な、とても大切な日だというのに。
■■は振り返る。
そして見てしまった。
――真っ赤な海に沈む、あの子の姿を……。
☆
日本 青森県むつ市 八月十三日
ふう、と煌夜はため息を吐いた。視線を落として、既にしわが寄りくしゃくしゃになってしまっている手紙と目の前の看板の文字を交互に見比べる。
――恐山麓まで■■■メートル
……擦り切れていて読めない。長いあいだ雨水や砂風に晒されていたのだろう、朽ちかけた看板が煌夜の中の不安をより一層かきたてる。
黙々と歩き続けてどれだけ経ったのだろう、身体はとっくに疲れきっていて、少し歩くだけで呼吸が乱れる。
いや、もとより体力に自信がある方ではないのだが。
荷物を少なくしてよかった、と煌夜は振り返って来た道を眺める。一般観光ルートからはとうに外れていて周囲に人影はない。道は舗装されたものから獣道に近いものへと変わっていた。
「……こっちであっているんだろうな?」
返事がないのはわかっているが、つい呟く。一人暮らしが長いとどうも独り言が増えてしょうがない。
いや、元来お喋りなたちではないのだが、こうも閑散として獣の気配すらしないとなると、流石の煌夜も寂しさを感じるのか、つい独り言が増えるようだ。
だいたい、何故自分は学生にとって長くも短い貴重な夏休みを潰してまでこんなところまで来てしまったのだろうか。今更ながらに悔やまれる。そもそもの発端である人物を思い出しながら煌夜は舌打ちした。
あれは今から四ヶ月ほど前、煌夜が高校二年生に進級してすぐのことだ。
☆
『SGC』――あえて長い名称にするならば「Stranger General Corporation」、直訳すると異邦人を導く組織 という企業をご存知だろうか。
物売りならば釦やボールペン、果ては情報、戦艦空母まで(噂では核まで)なんでもござれ。失われそうな民族工芸品や情報技術、言語の保存に不動産や海運業エトセトラエトセトラ……手を出せるところはなにでも手を出す大企業 それが『SGC』。
首を突っ込まない場所はないといわれている『SGC』。もちろん、学校法人にも……。
日本 東京都 四月某日夕刻
私、ノエル・フェレクトがあの子と再会したのは、かの人物が私の勤め先である高校の新入生としてやってきたときのことである。
その子は大学時代の友人である黒崎仁という男性の子どもで、名前を黒崎煌夜といった。
彼そっくりの黒髪と目付きの悪さ、奥方と同じ金色をした強い双眸に思わず笑ってしまったのはどれほど前のことだったろう。あの友人たちに瓜二つの顔が小さくあどけない幼児となってそこにあるというのはなんとも言い難いむず痒さがあった。自分にもしも子が出来たら、あのように小さな自分と同じであり違う生き物が生まれてしまうのだろうか。
それから十数年。高校生になったばかりのその子はその特徴を残しながらも、それでも見違えるほどに成長していた。
無理もないだろう。なにせ最後に会ったのは当の友人の その子の父親の葬儀の日、以来なのだから。もう何年も前のことだ。
彼の葬儀でその子は泣きもせず笑いもせず怒りもせず、ただただ母親譲りの瞳でじっと位牌を見つめていたのが印象的だった。
当時の黒崎煌夜という子どもの瞳に、ノエルという、父の友人という人間は映っていなかったことだろう。きっとあの子は私のことを覚えていない。そんな確信があった。
それでも。
それでもうっかり声をかけたのは、彼の面影をあの子に感じ、懐かしいと思ってしまったからだろうか。
――私はあの子に関わるべきではなかったというのに。
そんなちょっとした罪悪感と後悔を抱えながら、今日も今日とて私は自分に与えられた英語科教務準備室と名付けられた校内の片隅で授業用のプリントを作成する。
とは言っても今作っているプリントはずっと先に使用する予定のものであって、急を要するものではない。そのうえ集中しようにも既に飽き始めているため、さっきからあくびが止まらなかった。定時まで仕事をしているという体を装うのも一苦労だ。この日本という国で働くのは楽しいが、そういうところが息苦しいとも思う。
長時間、とうとう無意味に握りっぱなしだったペンを放り出して伸びをする。首や肩のあたりからポキポキと小気味よい音がした。首から下げた十字架が呆れたようにカチャリと鳴る。
窓の外からは放課後の部活動に精を出す生徒たちの元気な声が遠くに聞こえた。
ふわぁ、もう一度あくびを噛み殺しながら左右を埋める本棚を眺める。担当する学校英語関連の本以外に、一応の本職とも副職ともいえる聖書や教会関連の本などがところ狭しと押し込められた本棚だ。更には本来、教務にも本職にも関係のないジャンルの本まで並べてあるのは完全に私の趣味である。
趣味といえば、そもそも私が普段から着ているカソックに近い形状の黒い修道服も一種の趣味のようなものである。(と、こういってしまうと信仰心厚く生真面目な同系統職者に怒られそうだが、しかし私としてはそれ以外に言い様がない)
本に埋もれ本棚に囲まれた生活というのは全読書家の夢であり、幸せの一つといってもいいだろう。その夢を叶えただけのことだ。
自室でやれといわれればそれまでだがなんのことはない、自室は既に本で埋没している。
打って変わって、この部屋の壁を埋め尽くす本棚には一冊一冊が丁寧に挿入されていた。
並大抵の書店や図書館でもこれほどまでにきっちりと揃えられていないと思えるほど几帳面に並んだ本は、いっそ触れることすら戸惑いそうだ。
だが棚の一角、一部の真新しい装丁の本ばかりが無理な体勢で押し込まれている。 これは私が先の休日に読み終わったのをそのまま突っ込んだ分であり、まだ私以外の誰も手を触れていないという証だ。
それは私という人物を真に知らない人間が見ればちぐはぐで、ちょっとした違和感を覚えるかもしれない。
これでも私は――自分でいうのもなんだが――品行方正、几帳面で温厚な頼りがいのあるしっかりとした聖職者という、完璧という完璧を揃え並べ見本市に出したような人間として通っているのだ。これはそんな人間の所有物、棚の一角とは思えない惨状だろう。
まぁ、これにはわけがあって、ただ単に本来の私という人間は人の見ていないところではズボラでいい加減な、完璧とはほど遠い人間であるというだけのことだ。
というかそんなに完璧な人間などいるわけがない。確かに私は几帳面な部分も持ち合わせているが、個人用の本棚をまるで書店か図書館のように、いやそれ以上にきっちりどころかがっちりといわんばかりに作者、タイトル、刊行年月等々を揃えた挙句に一ミリの狂いもなく上下左右大きさを合わせて並べるなんて七面倒くさい真似などしたくもない。むしろできない。
なんのことはない――それをしてのけたのは私が担任を務めるクラスのいち生徒であり、私の頭を悩ませる要因の一つなのである。
そして件の棚の足元に座り込むその子は、数時間前ここに現れたときとなんら変わりない体勢でつまらなそうに分厚い本の頁を捲っていた。
ぺらり、かさりと小さな音を立てて捲られるそれは、その子が今日ここに来てから読み始めたシリーズの最新刊だ。刊行ペースが早い本だから、いくらか数はあったはずだが。昔から頭の良かったこの子のことだ、読むのも早いのだろう。
読み終わったらしき既刊本は既にきちんと他の棚と同じように理路整然と、昔からそこにそうして正しく収まっていましたという顔で収まっていた。
あの乱雑に押し込まれた一角が丁寧に整頓されるのも時間の問題だろう。
ぺらり、かさり、細く白い指が新しいページを捲っていくのを眺める。
整った横顔は長い前髪に隠れて見えなかった。
「黒崎くん、楽しいですか?」
その子――黒崎くんこと黒崎煌夜に問いかけてみる。
しかし待てども答えは返ってこない。集中しているだけでなく意図的に無視しているというのが、なんだかんだの付き合いでわかってしまった。
わかっても嬉しくはないのだが。
この先生と生徒よりは近く、友人や恋人同士よりは遠い関係が始まったのはこの子の入学式の日のこと……私がうっかり話しかけてしまったあのときから細々と続いている。
とは言っても教師としての本分は忘れていないし、他人に知られてやましいことは全くない。むしろ一度冗談めかして口説いてみたのだが全く相手にされなかったという虚しい過去があるほどだ。ちょっとしたお茶目のつもりだったのに。
ついでにいえば、朴念仁と揶揄されるような私にだって一応の理想や好みだってあるのである。確かにこの子は両親に似て綺麗な顔立ちをしているし、成績も素行も悪くない。ただ少し対人関係は苦手なのだろうなと思われる節はあるにしても、特定の誰かと対立したり孤立したりすることもない。
悪くはない。悪くはないのだが私も当人もお互いをそういう目で見ることはない。説明しようにも、ただないのだからないというしかない。
――などと考えながらぼんやり黒崎くんを眺める。伏せられた長いまつげの影が白い頬に落ちているのが見えた。
鬱陶しそうに、僅かに視線をこちらに寄越したのが前髪越しに見えた気がする。気のせいだといいなと思うほどに冷たい視線だ。
それ、担任教師に向ける視線じゃなくない?
「……黒崎くん、楽しいですか?」
もう一度問うてみる。
やっぱり答えはない。
予想していた通りの反応のなさに、私はわざとらしくため息を吐いた。
前々からわかっていたとはいえ、この子は私をただの本の管理人とでも思っていそうだ。現に今だって、わざわざクラスの英語科係なんてものに就任してまでこの個室にやってくる。
私に会うため――ではもちろんなく、この偏った書籍を読破するために。
ある意味こちらとしても、本棚や室内が綺麗になるので、その部分に関しては感謝しているともいえなくはないが。
(あとは……たまに私が話す、仁さんの思い出話を聞くため、でしょうね)
くすりと思わず笑みがこぼれる。
その笑い声が聞こえたからか、ようやく黒崎くんが顔を上げた。頭の後ろで一つに結われた艶やかな黒髪がさらりと揺れる。
「……なに笑ってんの」
不機嫌そうに眉間にしわが刻まれる。せっかく綺麗な顔立ちをしているのだから、あまりそんな風にしない方がいいのに。
いえ別に、とこぼすと更に眉間のしわが増えた。
じろりと切れ長の金目がこちらを向く。
私がこの子の存在を持て余しているように、この子も私の存在が悩ましいようだ。
……嫌われているわけではないはずだが。
「ただ、そうですねぇ……黒崎くんが構ってくれないから先生は暇でーすよー」
「テストでも作っていればいい」
食い気味に一言。
いうが早いか黒崎くんはまた視線を本に落とす。
嫌われているわけではないはずだ。多分。きっと。本当に。……大丈夫ですよね?
いっそいわれた通りにこの子でさえ悩むようなテストを制作してやろうかとも考えたが、それをすると他の生徒が解けずに評価が下がるなぁなんて思い直す。まぁもとより作る気はないのだが。面倒くさいし。(あと評価も実際はどうでもいい)
待てど暮らせど相手をしてくれない黒崎くんから視線を外して机へと向き直る。資料や余ったプリント類が散乱する机上を見て、プリント作成の続きをしようという気はものの見事に霧散した。昨日片付けたばかりだというのにどうしてこんなにも散らかっているのだろう。謎だ。
机の上は諦めて、なにか面白いものでもなかったか、と、引き出しを開けてみる。
「あ」
古い聖書の間に挟まった白封筒が目に入った。
さらりと撫でると、長いこと放置されていて乾いた紙の感触が指に伝わる。
聖書を開いて白封筒を抜き出す。
あまり大きくはないそれには無骨な、ちょっと癖のある字で『煌夜へ』とだけ書かれていた。
「ねぇ、黒崎くん」
黒崎くんに背を向け、封筒から目を逸らさないまま、名前を呼ぶ。
ページを捲る音が止まり、私を見つめる視線を背に感じた。
背を向けているから、私の唇が細い三日月のように歪んでいることには気付かないだろう。
「――賭け、を、しませんか」
封筒をそっと撫でる。
「……賭け?」
心底胡散臭そうに、愛しい生徒の声は低い。
裏返す。封は受け取った当初のように閉じられたままだ。
「そう、賭けです。君が勝ったらイイモノをあげますよ」
最低でも七年ものなのだ、よく見れば端が少し黄ばんでいるのがわかる。
「……お前のいうイイモノが本当にいいものだった試しがない」
差出人の名前は、やはり無骨でちょっと癖のある字で書かれていた。
「くろさきじん」
読み上げると、背後で息を飲む音が聞こえる。
私は――ふぅと一息ついて、上がった口角を元に戻した。
「彼からのお手紙です。これを差し上げますよ、といっても賭けには乗ってもらえませんか」
振り向き、黒崎くんの目の高さにその封筒を差し出してみる。
猫のような金目が丸くなる。
滅多に見られないであろう顔に、また笑みが浮かぶ。
黒崎くんが手を伸ばしてきたところを見計らって手首を返し、封筒を懐にしまった。
待てをする犬猫のような表情で黒崎くんは目を瞬かせているのを見ていっそう笑みが深まる。
「欲しかったら、賭け、しませんか」
「……っ」
にやり、と、できる限り意地悪く笑ってやると、今度は人を殺しそうな目で睨まれた。
気の弱い人間ならこれだけで土下座くらいさせられそうですね、なんてそんなどうでもいいことを考えてしまう。
まあ、父親であれば本当にそれだけで人すら殺せそうだったのだが。
「……なんで、お前が、それ……父さんから、の、封筒……手紙? を、持ってるんだ」
首を傾げて考えている素振りをして見せる。黒崎くんはまた眉間にしわを寄せて舌打ちした。
最近の若い子はキレやすいというが、この子もそうなのだろうか。
いや、私とともにいるこの子はいつも不機嫌な気がする。……本当に、嫌われてはいないと思うのだが。
「なにで、と、いわれましても。頼まれたのですよ、高校生の黒崎煌夜に渡してくれ、と」
「父さん……父、に?」
今更ながらに言い直す様が普段よりずっと年相応の子どもらしくて、ふと笑う。それが気に障ったのか、またまたじろりと睨まれた。
気を取り直してにっこりと人好きのする笑顔を浮かべて口を開く。
「ええ。なにせ、仁さんとは大学時代からのよい友人でしたからね」
今でも友人だと思っていますよ、とそう彼に伝えられたら、伝えたら彼はどんな顔をするだろうか。
そんなことを考えていると、不機嫌そうな視線を外される。おやと思っていると、黒崎くんは薄桃の小さな唇を開いた。
「――賭けって、なに」
乗ってきてくれたことが嬉しくて、また頬が緩む。
ただ、目の前の子どもは非常に不本意そうで、とてもぶすくれて可愛らしくない顔をしているが。
「なに、簡単なことですよ」
半身で机に向き直り、溢れる紙の山をかき分ける。目的のものは案外すぐに見つかった。
くしゃりとだらしなくよれた用紙に事務的な文字が並ぶ。一応、大事な書面だったはずだが、まあ折れたものは仕方がない。
それを黒崎くんに渡して告げる。
「この度、定期試験に代わってとある技能テストプロジェクトを行うのですが」
黒崎くんの白い指が破れかけた用紙を摘む。整理整頓くらいしろと小言が聞こえたような気がするがきっと幻聴だろう。気のせい、気のせい。
黒崎くんの(心持ち呆れたような)石のような瞳がプリントの文字を追う。
「そのテストに合格すればいい。――ただ、それだけのことですよ」
警戒した猫のような瞳が驚きに見開かれる。
プリントには『SGC主催、ITプロジェクト』と書かれていた。
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