玉手箱


 その婆さんは親戚の知り合いだとかで、毎日の景色に強制的に割り込んできた。そこは日々の時間のほとんどを過ごす職場であるが、おれに総菜屋としての誇りはない。だからその婆さんに対するおれの苛立ちは、職場の先輩としての立場からくるものでも、総菜への愛が駆り立てるものでもない。婆さんの愚鈍な手つきと物覚えの悪さに、自分の時計が思い通りに進まない感覚を強いられ、作業の滞りと疲労の蓄積が比例する関係を、破壊したい衝動に駆られているだけだった。

 おれに対する周囲の評価は、黙々とする作業が得意という一点に落ち着くしかなかった。学生時代の人間関係による失敗、晒し上げた醜態を目の当たりにした親族は、下手な慰めを寄越さなかった。優しさが他人を傷つける可能性について、彼らは十分な議論を行っていた。そしてそういった気の使い方も、おれの中では優しさに変わり、蝕んでいた。それでも、いただきます、ごちそうさまでした、ありがとうございました、おはようございます、お疲れさまでした、それを欠かさず、自惚れることなく、あくまで最低限度だ、そういい聞かせて、自分の作業を評価した。コミュニケーションの不足とへたくそな笑顔が足を引っ張るおれの生活は、その最低限度の仕事をこなすことで支えられていた。周囲の気遣いが胸に刺さるときも多々あるが、その気遣いは決しておれの心には踏み込んでこない。だから良い方向へ向かう変化はないが、悪化の一途を辿っていた引きこもりの時代よりは、はるかにましだった。だから親族というで入ったその総菜屋の居心地は、そんなに悪いものじゃない。雨が降ってもそこへ行くことに、気怠さを覚えなかった。

 そんな毎日も終わりを告げ、出来の悪い婆さんの後始末に追われるようになってしまった。おれだけでなく、皆が、何度も同じことを教えている。衛生上よくない仕草、総菜がただ詰め込まれているだけでなく見栄えよく並んでいること。気になるのはそういった価値観や習性にとどまらず、作業の単純な遅さもだった。募る一方の苛立ちは、吐き出す先を求めていた。こちらの教えに対し、わかっているとも言いたげな、はいはい、という気のない返事は、それを加速させた。同じように感じていたパートのおばちゃんの愚痴が、それだけが、おれを鎮めていた。その一方で、たとえこれが爆発したところで、大したことが起こらないということも分かっていた。あるいは、おれにそんな力はないのだ、おれの怒りごときが爆発することなどないのだ、ということを、おれ自身が分かっていた。自分が人間関係において求めていることは、おれの心を揺らさないでくれ、という懇願だけだったからだ。繰り返す自傷行為のようなフラッシュバック。日常に潜むあらゆる引き金が、そのトラウマを上映し始める。過去の対人関係における失態は、おれによく言い聞かせる。孤独だけが、おれの安全であることを。

 婆さんに対してもその法則は同様に働き、彼女に怒り狂うことはとてもできなかったし、結局のところ、する気にさえならなかった。耐える日々は、慣れる日々に変わり、怒りは呆れに変わる。慣れは日常に溶け込んで、そして呆れは、別の感情になった。

 いくつもの精細さを欠く手つき、散漫な注意力、霧散していく記憶たちを見て、いつしか、彼女を見る周囲の視線が変貌していった。もう半分、ボケてきているのではないか――。病人に対するそれ、同情の眼。しょうがない、しょうがないことなのだ。おれの心にもそれが満ちてきて、自分の視野の狭さを思い出した。

 おれはここで、愛想笑いといくつもの会話の傾向を学習して、人間に戻る訓練をしているのだ。同世代の人間と視線が交差すると唇がわななくなど、その他複数の症状をもたらすこの病を治療する、おれはそんな哀れな病人の一人なのだ。そして彼女もまた、症状は違えど、その一人なのだ。


 ある日の総菜屋からの帰り道、白、あるいは薄桃色のそれが舞い散る遊歩道だった。おれはこの季節、歩道がどろどろとした汚さで埋められていくことが嫌で、そこを避けていたのだが、何てことない都合のせいで、そこを自転車で通り抜けることになった。昼下がりの休憩の時間で、おれはいつも一人の時間を求めて家に帰る。小一時間ほど本を読んで、頂いた余りもので腹を満たし、夕飯の買い物客で繁盛する午後の営業に備えて休養する。いつもの休憩時間の、普段とは違う帰り道、そんな隙間を縫ったような瞬間に、致命的な一撃をその婆さんが撃ち込んだ。

 婆さんはその日、休みだった。もともと毎日入っているわけではない。体の様子だってあるし、彼女にも都合がある。いつもと違うのは、その曜日はいつも彼女が毎週のようにシフトに入っている曜日だったことだ。彼女はその前後で埋め合わせをしてもいいと言って、わざわざその日を休養とした。そうせざるを得なかった理由は明かされなかったが、良いことなら嬉々として話すだろうし、悪いことならその逆だろう。根掘り葉掘りその用事を聞き出すことはせず、日に日に出来ることが増えていったその婆さんを労わるような目つきで、店長はその要求を受け入れた。つまり休養日の婆さんが、その遊歩道にいた。

 一瞬だった。自転車で通り抜けて、見返しもしなかった。凝視もせず、だけどもその瞬間は焼き付いて、心を焼いた。、おれは。後になって、そう気づいた。しかしもう遅かった。表面は大したことがないように見えて、それでも内側は熱されている。神経のほうがやられて、痛みすらも感じなくなる。ただそこにあるのは、おれの心が燃やし尽くされた事実だ。

 孫の手を引く婆さん。落ちてくる桜を両の手で包むやわらかい手。そこへ延びるしわしわの手。不器用ながら、精細さを欠きながら、何度も失敗しながら、それでもきれいに総菜を容器に詰め込めるようになった。その作業を可能にした、手。後方より婆さんと孫を眺める若い夫婦の目つきは、を見るそれだ。、彼女は。恐れを知らぬ幼い球体は、恐れを知り尽くし、そしてそれらのほとんどを忘却して、不遜な態度をとり続ける球体を見続けている。それはすぐに瞼によって閉ざされ、瞼は円弧状のしわを形成する。笑った、老人と子供が。それだけの景色だった。

 その景色はすでに遠ざかり、壁の薄いアパートへ帰宅した。おれは鍵を開けた。しかしこの扉は開けてはならない。そう告げられたような気がして、だけどもおれは休息するのだ、そのためにここにいるのだと考え、では逆に、休息できる場所は――そんな疑問がよぎる。すでに扉は軋んでいた。開けられてしまった。禁断の玉手箱から煙が上がり、おれを包む。婆さんがあの孫と老夫婦にたくさんの愛情とともに見送られ、そしてその数十年先で、それでもおれは孤独だ、おまえは孤独なのだ、と、おかえりの声一つない部屋が告げている。自然と腰が折れ曲がり、ただ淡々と総菜を調理し続け、その手つきは精細で、これ以上に覚えるべきことなど一つもなく、きちんと仕事をこなす数十年後のおれが、いまここにいる。今も昔も未来も変わらず、ここにいる。そして部屋には誰もいない。そしておれを見る周囲の目は、今も昔も未来も変わらず、

 昼の日差しがカーテンを突き抜けて部屋に入り込む。孤独と空虚が満ちた部屋の闇が、日差しとは反対に、外へ漏れている。向かいの雑居ビルで勤しむ社会人は、その闇に気づかない。昼の日差しが、すべてを焼き払っているのだ。

 その闇を追い出すように、部屋の明かりをつけた。人工的な光がおれを照らして、闇は外へ放出される。追い出された闇は霧散して、誰もこの部屋の孤独に気づかない。

 両隣の部屋からは、大学生の嬌声と、母親の怒鳴り声が聞こえる。耳を塞いでうずくまり、それが止むのを、ただ、待ち続けた。

 

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