首の太い婆

大沼史尾

首の太い婆


 その婆に出会ったのは、蕎麦屋でのことだった。その日の天気は覚えていない。蕎麦屋は飲食店に足る快適さを提供していたし、僕にとってはどこまでいっても婆についての出来事で、外に降っていたものが日差しか雨かということに意味はない。

 二十四になっても職のない僕に、親はもう何も言わないし、その日も――彼らにしたら――少量の小遣いを握らせて、それで一日の収支をやりくりしろと言わんばかりに放置した。

 最早彼らは僕のその唯一の収入を数える気もなくして、その日の運勢を占うように、握った分の小銭と、掴んだ分の札を僕に渡す。僕が肥えれば彼らにはラッキーアイテムが必要になり、僕が彼らの足取りは軽くなる。そんなゲームだ。それによって得た小銭、大きさの異なるそれは七枚あって、僕はそいつを積み上げて、相手のいない賭け事を楽しんでいた。相手のいない賭け事、青いユニフォームが勝つか、赤いユニフォームが勝つか。テレビの中で懸命に駆け回る彼らの名前を知っているわけでもない。やがてそれにも飽きが来て、腹が減り、今日はどこへ、そんな気分に変わっていく。

 生活習慣は悪くない。自由気ままな生活が、いかに長く続くか、そういったことを考えると、必然的にそうなる。僕への興味は消え失せているものの、発狂する可能性はある。僕と彼らの間には確かな断絶があって、僕はそれを彼らが与えたものだと信じていたし、彼らは彼らで「どうしてそんなになってしまったの、何が気に入らないの、わたしが悪いっていうの」と言って、それは僕が提供したものだと主張している。明確な相反が生じているにもかかわらず、それはどうにも断絶である。つまり取っ組み合いにはならないし、目線も言葉も交わらない。僕らの間に広がる空気は、どこまでも無関心が占めている。つまり彼らが発狂する可能性は低くて、この生活の存続は、社会情勢と健康にかかっている。

 散歩で行ける距離がいい。それが僕の動機だ。ささやかでありながら、この生を十分に楽しむために、必要最低限度の健康的要件。それを満たすことを動機とした行動。どこまでも堕ちた思想。

 自堕落な僕は、むろん生まれながらの特性ではない。自分への失望を社会へのそれと取り違えて、失敗と失態を塗り返す機会を、恥というたった一点によって取りこぼす。一度転げ落ちた坂は、大した高さもないが、自分の堕ちた距離を確認することに恐れをなして、まだ大丈夫、そうささやくことだけが生きがいになり、足先で下界の居心地を確認することが趣味になる。そうして形成されたこの生活に、再び堕ちた距離を見返す機会は到来しない。いまだに到来していない。

 

 行きつけの店だった。清潔だし、なにより優雅すぎない。騒がしい子供を連れた夫婦も、臆さず入っていける。案の定ぐずりだしたって、周囲の客は穏やかな笑みを送る。

 豪奢な貴婦人もおられる。羽休めだ。下品な金の使い方ができる店じゃない。上界の方には上界の激流が流れている。だから、たまにはこうして止まり木を見つける。一方僕にはそんなものは必要ない。波風一つ立たない無流の中で、気ままな回遊を行い、弛緩しきった体を置くだけの場所である。

 

 僕が注文を終えたあたりで、その婆が現れた。彼女は傍らに老人を連れている。つまりは老夫婦で、二人はそれなりにきれいな身なりだ。それでも、見せつけるようなものじゃない。よく馴染んでいたし、見ていて落ち着かなくなることもない。

 その婆の衣装は、ツナギのようであった。白いシャツの上に着ているそれは、淡いブルーのもので、独特な雰囲気を感じたが、あくまでそれは衣装の印象であった。その時点で、僕は彼女に大した想いを抱いていない。ただ、彼女たちが案内された席が、大変観察しやすい場所だった。僕から見て右斜め前の席に向かい合って座っていて、不自然さもなく眺めていられるような位置関係であった。

 ちょうどピークを過ぎたのか、店から数組がぞろぞろと去って行って、店内は静かだった。座席が近いこともあって、その老夫婦の会話は自然と耳に入ってくる。

 なんとなく頼むものを決めた様子で、爺のほうが店員を呼んだ。

「この、天ぷらのついたざるで」

 爺は直前まで話していたその品を頼んだ。すると婆は、

「冷たいのがいいかしらねえ」

と言った。

 すでにそれまでの間で悩み倒していて、店員を呼んでから、性懲りもなく悩み始める婆に、爺はたまらないといった様子でこらえたような笑い声を発している。婆は、まるでとぼけているかのように、こっちもいいねえ、なんてつなげ始めて、店員も苦笑いだ。

「ほら、これじゃないのか? 待ってくださってるぞ」

と爺が促して、またとぼけたように、

「そうね、それにしましょう」

と、今までの時間をなかったことにした。

 今風に言えば、天然で、もしくはただの阿呆なのかもしれなかった。

 そんな会話を聞いても、特段不思議な感情はわいてこない。しかしその様子を眺めているうちに、なんだか何かが気になって仕方がなかった。内側にふつふつと湧き上がるそれの正体を探るうちに、僕の品が来て、彼女たちの品が来た。

 彼女がそれを啜り始めたとき、僕はその正体を見た。

 食事の風景を観察するとき、自然と視線はその飯の行先に向かう。つまり彼女の喉へ向かう。特に蕎麦は、啜られる。つるつると喉に吸い込まれていく。そんなイメージが頭に浮かんで、ぼんやりと眺めた。視線がつるつると流れて、喉に――すなわち首に向かった。

 太いのだ、彼女の首は。そして視線は次に、ゆったりと動きまわる腕に向かう。その腕もまた、しっかりとしている。

 僕はそれに、職人のそれを連想したのだ。

 つまり彼女に、何かに傾倒し、熱中し、没頭し、やりつくし、そして今もなおその情熱を注ぎ続けている者だけが持つ匂いを感じた。

 太い首は、隆起して地表から飛び出た山の、その肌を思わせる。長年の積み重ねだけが形成するそれ。彼女の頭を支えているそれ。彼女の天然な、ともすれば阿呆とも見られてしまう発想、内側の世界。それを形成する彼女の歴史。すべてを支える太い首。

 しっかりとした腕は、何かをやりつくし続けている印象を与えている。削られるように年々細りゆくはずのそれは、現在も手入れが行き届いていて、なおかつこれまでの歴史が、それを洗練させている。

 実際のところ、彼女はそうではないのかもしれない。つまり、職人的な作業に傾倒することなく、これまでも、緩やかな生を過ごしていて、そして今もなお、老人の平凡の行き先――遊泳のような余生、資金と時間の浪費、無駄なあがき、それでも死とは明確に区別された生、彼らにとっての生、それを謳歌しているだけなのかもしれない。

 しかし僕は、食べ終わってもなお、それに夢中だった。あくまで職人としての彼女を想像し、その幻想に囚われていた。

 やがて食事と雑談も頃合いいなり、老夫婦は立ち去る。僕はゆっくり食べるふりをして、仔細に彼女を眺めていた。だから彼女たちが去って、食事も終えれば、僕にはここに用もないのだが、かと言って同時に出るのも居心地が悪い。だから少し時間をおいて、彼女たちを見送ってから、のんびり会計をした。その間も、僕には彼女のイメージが離れなかった。会計をする店員の女の子の首は、細くて、美しい肌をしている。それを見ても、貧相な人生を思い浮かべることはない。しかしだからこそ、婆の異質さが際立った。 


 店を出て帰路へ着く。右へ折れて、信号を待つ。そのつもりだった。

 なぜかまだ、老夫婦は信号待ちをしていた。信号が三度は変わるくらいの時間を、僕は過ごしていた。だから彼女たちはすでに遠い彼方へ行っていると思い込んでいた。

 しかしその出会いを、光明とは思わなかった。隣の干物屋にいたのだ。単純な回答を得て、特殊な状況下でないことを理解した。そのうえで、今までの自堕落な回遊にちょっとした変化をつけるきっかけをそこに見て、つい、話しかけてしまったのだ。

「あの、その、勘違いでしたら申し訳ないのですが、何かをなさっていましたか? つまりわたしは、どこかであなたを――あなたたちを見たことがあるような気がするのです」

 有名人ですか、そういった意味を主軸として、彼女の職人としてのそれの正体をあぶりだす質問をした。僕は緊張のあまり、婆ばかりを見てしまい、何もそれは後ろめたいことではないが、不信感を抱かれないように、老夫婦への、二人への質問に取り換えた。

「いや、あなたのような若者に知られるようなことはなにも――」

「そうねえ。庭に花を植えている、くらいかしら」

 そういう意味の質問じゃあないだろう、爺はそう言って苦笑いした。いつもの彼女の天然を、今までもそうしてきたであろう対処をもって、彼女の愛らしさを主張するかのように。

 震える喉、激流に身をもまれて尖り、それでも削られることなく、洗練される。そんな首が支える、彼女の頭、彼女の内側の世界、そこから漏れ出す吐息。空気とともに体外へ放出される言葉。それを包み込む首。僕はそこに、頸動脈があることを思い出し、はっと息を呑んだ。

 空虚な自分の頭蓋の中、堕ちる、降りるだけの毎日、静寂の中を回遊、すなわち――いつ死んでもいい。この場合のそれは、自分への失望からくる自殺願望ではない。環境が僕を殺すことに、何の違和感も持たなくなる、そういった自然の摂理への深い理解だった。僕は健康的で、やせ細っていない。際立つ無用な体の部位、僕の首。がらんどうの頭蓋を支える、僕の首。


 僕は適当なことをいって、無礼を謝り、彼女たちが歩みだしやすいような別れの言葉を送った。

 老夫婦はそれを素直に受け取って、軽いお辞儀のあと、横断歩道を渡って、向こう側へいく。

 僕はそれを、なんだか置いて行かれるような気持ちで、見送っていた。

 

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