■ 366 ■ 二週目なのに勝てる気がしない
「な、何だってんだよ、俺が何をしたってんだよ!?」
マフィアの
敗走、そう。敗走だ。
男、バシリオ・オルバネハはリュカバースの円卓に席を持つ、歴とした中堅マフィアファミリーのボスだ。
現在のドンであるコルレアーニのシンパでもあり、コルレアーニの邪魔になる敵を排除したのも一度や二度ではない、優秀なマフィアだ。
それが今や、恥も外聞も無く、ただひたすらに脇目も振らず闇に閉ざされた街を遁走している。
「なぁにをしたかってぇ? そんなこと、その程度も分からねぇからお前はカスなんだろうがよぉ!」
それを追いかける、二十代半ばほどのぼさぼさ髪の男の足取りは軽い――というか胡乱な千鳥足で、恐らく麻薬でもやっているのだろう。
「お前らよぉ、忠誠ってのは無駄遣いしちゃいけねぇぜ? 忠誠ってもっと大事なもんだろ? 女を騙して財産を奪うような男に忠誠誓ってどうするんだよ、なぁ?」
親しげな言葉と共に、ポンとソルジャーの右肩に置かれた手がそのまま無造作に下げられれば、
「ギャァアアアアアアアッ!!」
右肩ごと、ソルジャーの右半身が
素手で、予備動作もなく人の肉体をその筋力だけで削り取ったのだ。とても人に行えるような暴行ではない。
「主よ、この身を捧げます。肉も、臓腑も、血の一滴すらも余さず愛しき
身体強化をした魔術師ですら、それを真似をしようとしてもただ肉体そのものが纏めて潰れるに留まるだろう。
圧倒的な速度と膂力がなければ、人の身体から肉体の一部だけを削り取るなんてそんな凶行、成し得るはずもない。
皮膚や肉の一部ならさておき、骨ごと纏めてなど夢のまた夢だ。それをこの濃紺の髪の男は無造作にやってのけたのだ。
「わかんねぇか? なぁ、わかんねぇか? 忠誠ってのはもっと大事に使えって、命とセットだろそれぇええ? 女を食い物にしてのし上がったクズにそんなキラッキラした綺麗なもの注いでも穢れて返されるだけだ、ってわぁかんねぇかなぁーあぁ?」
男の裏拳で、ソルジャーの頭蓋がパァンと弾けて爆ぜる。
人の肉体で最も強靱な頭蓋骨を、拳一つで跡形もなく砕く。そんなものはまさに歩く嵐と言っても過言ではない。
「わかんねぇなら……悲しいが死ぬしかねぇよなぁ。ああ愛がねぇ無駄な殺しだ、何やってんだよ俺ぇ……愛のために戦ってんだぜ俺はよぉ。なのに全然愛がねぇじゃねぇかこれぇ……クソが、誰も彼もがお前のために無駄死にじゃねぇかよぉなぁバシリオ・オルバネハぁ!」
必死で逃げる
そうやって、
「追い詰めたぜぇバシリオ・オルバネハぁ、
退路を断った男がニンマリと笑えば、追い詰められた男は腰が抜けたのだろう。ずるりと路地に崩れ落ちて、もはや離脱も抵抗もままならない。
「な、何故だ! 何故ドンの魔術師であるお前が俺を襲うんだ! ドンが許すはずがねぇ!」
「コルレアーニは笑って許してくれたよぉ、『そうか、救済なら仕方ねぇな』ってさぁ」
ドンが認めた、というその言葉を、
「嘘だ、嘘だぁ! 俺がこれまでどれだけドンのために貢献してきたと思ってるんだ! その俺をドンが捨てたのか!」
「諦めなぁバシリオぉ、コルレアーニは俺の救済には口出ししねぇんだ。俺たちゃバディだからなぁ」
そうやって、路地で失禁し闇雲に手を振り回す
「ヒセラ、見てるかヒセラぁ! ちゃんと見てろよお前を苦しめたカスがゴミみてぇに死んでいく様をよぉ!」
真っ直ぐ上に上げた一本足の踵落としを上から下に振り抜くと、バシリオ・オルバネハの身体が足一つ分の隙間を空けて真っ二つに両断される。
そうやって踵の下に圧縮された肉片を爪先で踏みにじりながら、男は左右に倒れた人の残骸には見向きもせず、
「見ててくれたよなぁヒセラぁ! お前のおかげだ、お前が家族になってくれたから俺はこのゴミを掃除できたんだ、愛してるよヒセラぁ!」
両手を天に掲げて、まるで見えない喝采でも浴びているかのように哄笑する。
「愛してるよヒセラぁ! でも、もう俺は二度とお前には会えないんだよなぁ。情けねぇ、生きている間にお前を救えなかった弱い俺を許してくれヒセラァ、ああヒセラぁ!!」
それはあまりに残忍ながらもどこか宗教画めいた威容を漂わせていて、狂気の中に僅かに残る、人の心を揺さぶる何かを確かに備えていたのだ。
§ § §
「見たな? あれがリュカバースの救世主、ドン・コルレアーニお抱えの魔術師グラナだ」
黒仮面に連れられ、屋根の上から一部始終を見ていたダリルは流石に冷静でいられず、震える両肩を抱いて黙り込んでしまっていた。
あれは、なんだ。魔術師にしたってあまりに出力が違いすぎる。ガタガタと恐怖で情けなくも震える身体を止められないが、それを恥だとも思えない。
ダリルだって元貴族だ。無論、ダリルのよく知る
「あれに、あんな男にダリアが攫われたっていうのか……?」
ダリルの貴族として冷静な部分が、絶望を突きつけてくる。
ダリルは今年で十二歳になったばかりの少年だ。そして未だ自分が祈るべき神も定まっていない、魔術師としてスタートラインにも立っていない素人だ。
いや、どのような魔術を身につけたとて、笑うだけ笑って泣きながら去って行った、あのぼさぼさ髪の麻薬中毒魔術師に勝てる気がしない。勝てるヴィジョンが一切浮かばない。
「俺の調査だと、グラナは攫った女を麻薬漬けにして殺しているらしい。理由は不明だが」
そう何事もないかのように付け加えられた一言が、ダリルの顔から血の気を引いていく。
「ダリアは――あの男に麻薬漬けにされていると?」
「そうだ。もう後がないぞ。ダリアが苦痛から逃れて死を望むまで、もう三日も残されていないないと思え」
そう黒仮面に伝えられたダリルは一人、屋根の上で絶望に抜けた膝を付いて項垂れ――その一方で、ダリルの貴族として冷静な部分が一つの希望を見出した。
この黒仮面はいったい何のためにダリルにこの光景を見せたのだろう。若い身空で無駄死になどするな、妹のことは忘れて幸せに生きろと、そう伝えるためだとでも?
そんなはずはあるまい。黒仮面は自分に都合よくダリルを利用するために、ダリルにまず現実を見せたのだ。
まずは相手の心を折って、それから恩義を染みこませるというのは貴族にとってある意味基本とも言えるやり口だと、そうダリルは知っている。
「それで、私は何をすればいい」
ダリルがそう問うと、黒仮面は満足そうな身振りで頷いた。
「理解が早いなダリル。いいぞ、俺は魔術師の手駒を探している。妹の救援に協力してやる代わりに、お前の未来を俺に譲れ」
「私に、お前の軍門に降れと」
「そうだ。正確には俺の協力者の軍門に、だが」
なるほど、分かりやすい話だ、とダリルは頷いた。
「妹の安全は――ああ、俺はお前の妹の意思を折るつもりは更々ない。だからお前の妹が自身の意思で危険に身を投じない限りは、という制限付きで安全を保証してやる」
「……どういう、意味だ?」
「お前の将来は貰うが、ダリアに手出しはしない。そういうことだ。平穏を望むならギルドの徒弟となれるよう口利きもしよう。流石に貴族にしてやれるほどの伝手はないがな」
安全な環境は用意してやれるが、ダリアがそれを拒否するなら男はそれに干渉しない、というのは――ダリアを人質に取るつもりはないと明言したようなものだ。
言葉だけ取ってみればあまりに胡散臭いのだが、それが男にとっての誠意であるようにダリルには感じられた。この男は多分、嘘は言っていないのだと。
「……それが事実ならば妥当な取引だと思う。だが、それが嘘で無い保証は?」
「ないな。だが仮に俺がお前の妹を助け出しても、お前が軍門に降る保証もない。妹と共に何処へなりと消えるかもしれない。それでもあの怪物から妹を奪い返す協力をしてやろう、と言ってるんだ。理解しろ、ダリル」
そう黒仮面に諭されれば、確かにこれは黒仮面にとってあまり割のよい話ではないのだ、とダリルには理解できてしまう。
だからダリルは悩み、悩む理由がないことに気が付いた。
「ダリアを助けたい。力を貸してくれないか」
男が伸ばしてきた黒手袋に覆われた手を、ダリルはしっかりと掴んだ。
「契約はここに成された。裏切りには死を以て応えよう」
騙されているにせよ――まずはダリアを助け出すこと、それ以上に重要なことなどダリルには何もないのだから。
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