怪物、再び
■ 363 ■ 天竺は未だ遙かに遠く
いったいどれほどの時間をここで過ごしているのだろう、と少女は思う。
冷たい石畳みに、濁った空気。吐瀉物と排泄物に加え、血の匂いが薄く入り交じったそこは、しかし程々に清潔さが保たれている。
不潔ではない。ただ、清潔さが常時保たれているわけでもない。
石牢の中には御不浄代わりの壷などもなく、いや仮に備えられていても使用できるわけではない。
何せ少女は身動きできないように壁に金属の枷で縫い付けられていて、そこから身動き一つできないのだから。
こうやって壁に貼り付けにされた状態で、もう何日経過したのかも少女には分からない。
日光の差し込まぬ石牢では、視界は常に変化することなく、腹の空き具合、なんてものはもう完全に失われている。
定期的に投与される麻薬による多幸感と、それが抜けた後の離脱症状による身体をバラバラにしかねない激痛が繰り返されるここでは、食欲なんてものが残るはずもない。
「ダァリアァアアアー、会いに来たぜ。俺の家族、愛しい家族よぉおおお」
気付けば、いつの間に石牢の扉が開かれていたのだろう。
朦朧とする視界の先には、桃色の瞳に慈愛を湛えた、濃紺の髪の男がいて、そっと少女――ダリアの頬に愛おしげに掌を添えてくる。
「あ、あぁあああああがぁあああああっ!!」
たったそれだけ、ほんの少しだけ身体に触れられただけで、離脱症状によって鋭敏になっていたダリアの身体に凄まじい激痛が走る。
そうやってダリアが悶え苦しんでいるのに、男は愛おしげに何度も何度も、優しくダリアの頬を撫でていて気にした風もない。
「苦しいだろ。もうこれ以上苦しみたくないだろ? だからさ、家族になろうぜダリア。俺が、俺がお前を苦しみから救ってやる。俺だけがお前を救えるんだからさぁ」
「おげぇ――……っは、あ――っふ、ジョウダン、じゃ、ないわ」
「お前を捨てた家族のことなんか、何時までも引きずっててもお前は救われねぇ。お前は捨てられたんだよ、お前を捨てた相手を求めてどうするんだよ、なぁ。そんなの苦しいだけだろ」
男がそう、心底哀れむようにダリアの両頬に手を当てて、そう優しく言い含めてくる。
それについては男の言う通りなのだ。
§ § §
ダリアは裏路地に捨てられた孤児だ。正確には孤児になった元貴族、ダリア・アッカーソンだ。
世襲貴族として、まぁそこそこの生活を送っていたアッカーソン一家は、しかし当主であった父が上位貴族に濡れ衣を着せられお取潰しになった。
競争社会である貴族というのは、一度没落すると酷いものだ。
平民は貴族に従いつつも妬み嫉んでいるから、没落した貴族に対しては相手を人とすら見做さないほどの苛烈さで迫害する。
そうやってダリアの両親は死に、ダリアもあわや死ぬほどの危険に晒されたが――ダリアの兄だけは別だった。
元々貴族は魔力が多めの者たちが婚姻を重ねているものだ。だから世襲貴族というのは魔力が多めである。
そんなアッカーソン家の長男だったダリアの兄だけは、長子を流行病で失った別の貴族に養子に取られたのだ。
両親はゴミのように死に、ダリアは裏路地で他者の残飯を奪い、服を奪い、尊厳を奪いながら辛うじて生きているというのに。
兄は貴族家に引き取られ、これまでと変わらない暮らしをしている。
その事実を遠目に、窓越しに一度ダリアは確認して、そして生まれ故郷を離れたのだから。
「兄貴はクソさ。でも――お前は兄貴、以上のクソだよ」
「ちげぇよぉダリア。お前の兄貴はお前に見向きもしねぇ。でも俺は違う。毎日ずっとお前の事ばかり考えてる。お前やサリタ、コルナをどうすれば幸せにしてやれるかをさぁ!」
ダリアの、地下牢に拘束され身体を洗うこともできないからフケだらけの紫色の髪を撫でながら、男は涙でしとどに頬を濡らす。
「何でお前みたいな罪もない子が苦しまなきゃいけねぇんだって。俺が、俺が幸せにしてやらなきゃ。それが愛ってものだろダリアよぉお」
泣きながら男がダリアの腕に麻薬を注入してくれば、身体の痛みがスッと消えて、ダリアはわけも分からない幸福感に満ち満ちてくる。
「家族になろうぜ。俺が俺がお前を愛してやる! お前の全てを愛してやれる! 俺が、俺なら! なぁダリアぁあ!」
男の顔がぐにゃりと曲がり、溶けて、兄の顔と重なれば――そうだ。兄のことなんか忘れて――いいやそうじゃない、この男が兄で、家族なんだっけ?
そうだ、ダリアには家族がいて、愛してくれる家族がいて、だからその言葉にただ一言頷けば――
――なんか、いる。
ぐにゃりと撹拌されていくダリアの視界の中に、何かがいる。真っ黒いゴキブリだ。いや、ゴキブリにしては大きい。
ダリアより大きいゴキブリが鉄格子の向こう側で、
「ダリア、聞こえるかダリア」
真っ黒のゴキブリがギチギチ顎門を鳴らしながらダリアを見ている。アハハ、これからゴキブリの餌になるのか、とダリアがケタケタ笑うと、
「もう少しだ、もう少しだけ耐えてくれ。もう少しでダリルが君を助けに来る。君の本当の兄が、君を助けに来る。だからそれまで耐えて、生きろ」
「フハッ、あっははははは! ゴキブリがなんか変な事言ってるぅ!? はへ、兄貴が? こんなとこくるわけないじゃん。いまごろケーキの上で兄貴はイチゴと手を取ってダンス踊ってるって! ほら、見えるでしょ? そこにいるよ?」
そう、ダリアには見えている。ダリアの方を見向きもせずに令嬢とダンスを踊っている兄の姿が今もちゃんと見えている。
「こんな近くにいるのに兄貴は私を見ない。私をいないものと見做している。ほら、見れば分かるじゃない」
そうダリアが顎で示すと、ゴキブリがガシャンと鉄格子を掴んで、あれ? ゴキブリなのにどうして鉄格子を掴めるのか、それがダリアには気になって仕方がない。
「あと三日。あと三日だけでいい。そこまで耐えれば君の兄が絶対に君を助けに来る。諦めるな、ダリア」
「なに言ってんのよ、私の兄ならさっき私に会いに来たよ。グラナは私を気にかけてくれてるもん」
「それは嘘だ。まやかしだ。ニセ者なんだ。頼む、俺の言うことを信じてくれ。ダリルが必ず君を助けに来る。必ずだ!」
そうゴキブリが必死になって話しかけてくるのが、薬物でハイになっているダリアにはおかしくて仕方がない。
「あっひゃひゃひゃ! 兄貴が来るわけないって! だってこれまでだって一度も私のことを助けになんて来なかったもんねぇ!?」
「君がどこにいるかが分からなかっただけだ。ダリルはずっと君を探していて、今だって探している。だから必ずダリルは君を助けにくるから、信じてくれ、ダリア」
「ふひ、うひひひひひ! わっらえるー。でも久々のお話だしぃ? ゴキブリの言うことでも聞いてみてもいっかなー? よくない? ダメ?」
「……また、隙を見て忍び込む。耐えてくれダリア。君と、サリタと、コルナは必ず俺とダリルが救ってみせるから――」
ああ、とその名を出されたダリアは少しだけ持ち直した。妹分たちの面倒を見なきゃいけないんだった。
強がりサリタと泣き虫コルナ。
自分と同じく貴族の家から捨てられた二人を、姉貴分として自分が助けてやらないと。
そうとも、自分を捨てたダリルみたいにはダリアは絶対にならないのだ。
自分は家族を見捨てない。ダリアみたいに妹のことを忘れて生きる屑にはならないって、そう決めたのだから。
だから、再び自分以外いなくなった石牢でダリアは笑うのだ。
笑え。強がりでも笑顔を作れ。偽物の笑顔でも笑えば、人は少しだけ幸せになれる。
だから、ダリアは笑うのだ。
「あはっ、あははははははは! 兄貴が来るってさ! そんなわけないのにねぇ!」
そうやって笑いながら、ダリアは涙を零すのだ。
一人ならば、誰かに泣き顔を見られることもないから。泣き顔を見せて、不安にさせてしまうこともないから。
強く、あらねば。
妹分たちを、心配させないためにも。
けど、もう。
「兄貴、兄さん、助けて、助けてよ……」
もう、とっくにダリアは擦切れきっている。
ほんの少しの衝撃で、粉々に砕け散ってしまいかねないほどに。
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