■ 266 ■ 天使ラミをめぐる戦い






「うおー! ひっじょーにまずい状況になってるぅー!」


 いきなり土中から飛び出してきたティナを前に、クィスたちはおろか一瞬イサクまで何事か、と動きを止めてしまう。

 その隙にティナ――を操るラジィは即座に何事にも鈍いティナを走らせ、フィンの背中に跨がらせて安全を確保する。


「唱えて。【接続コンタギオ】」


 耳元で囁かれたその一言で、流石はエルダートファミリーのラジィに次ぐ知恵袋と言うべきか。

 フィンは今ティナがどういう状況にあるか一瞬で察したようだ。


「【接続コンタギオ】。ご無事だったのですね、主さま」

「肉体的にはもう駄目よ。今ここにあるのは私の意識じゃない。所詮は【霊算機マシヌラ・カリキュメトリア】の中に組み上げられた、実体無き【演算スプタティオ】のラジィ・エルダートに過ぎないわ」


 走り回るメルカバを躱しながら、ラジィは現在の自分の状況をフィンと共有する。

 肉体的には既にラジィはミカの制御下にあり、今ティナを動かしているのはミカが手出しできない、ラジィが最後に発動させた運命神フォルトゥナ魔術でしかない。


「ただ今現在、私が運命神フォルトゥナ魔術を行使しているせいで封魔神オーディナリスと拮抗、遅滞戦術を仕掛けているからもう少し時間は稼げると思う」


 記憶の消去、上書きは何もラドゥエリだけの専門分野ではない。同じ書庫ビブリオシカ魔術の使い手であるラジィにもラドゥエリほどではないが可能だ。

 だからそれを駆使して、ラジィは【霊算機マシヌラ・カリキュメトリア】で【演算スプタティオ】を発動させつつも、肉体の中からはその記憶を抹消した。

 だからラドゥエリがどれだけラジィの記憶を【写本トランスクリーヴォ】して読み解いても、【霊算機マシヌラ・カリキュメトリア】の存在に辿り着くことはできなかった。


 これがラジィがいまわの際に用意した抗い。

 自分の思考をラドゥエリらの手の届かない場所にて運用し、ミカたちの望む未来に楔を穿つ最後の悪あがきだ。


「アズライルが集めた天屍たちは全員、私というかミカに同調するよう調整された上で、世界の主だった神教の本部神殿付近に配備されているはずよ」


 天屍たちは皆、ミカの臨界に引きずられて神へと臨界するようアズライルに作り換えられている。

 神臓そのものにはアズライルも手は出せないが、天使の肉体であれば死屍神ヤマ・ヤミーにはやりようがある。


 ラジィが第三段階に到達し、封魔神オーディナリスの神殿が世界中にまで薄く大きく広がれば、天屍たちもそれに共鳴同調して神化を開始する。

 そうしてミカに引きずられ一気に第三段階まで臨界した二十を超える神臓は、凄まじい勢いでこの世界全土を封魔神オーディナリスの神殿下に納めてしまうだろう。

 そうなれば、


魔力が使えないと生きていけない劣等人種・・・・・・・・・・・・・・・・・・・である魔術師は誰もがその場で息絶えるわ。それがアズライルの狙い」

劣等人種・・・・、なるほど。魔力持ちとは優れた人種などではなく、環境に合わせて変化した人の方向性の一つということですか」

「アズライルの研究が正しいならね。間違ってることを祈りたいけど……アズライルが思い込みだけでここまでのことをやるバカだったら私としては助かる、って話よ」


 だから恐らくアズライルは既にそれが事実であると何らかの裏付けを取った上で、ここまで周到な準備を終えてこの場を作り上げた。


「私の遅滞戦術が効いている間に何としてもアレを焼き払うの。多くの無辜なる民の死を防ぐにはそれしかないわ」


 であれば楽観に世界の未来を託すのはやめておいた方がいい。何としてでもあの、


「ジィ、今のあのジィとミカが混ざったアレってなんて呼べばいいかな」

「ティナ……この緊迫した状況で真っ先に考えるのがそれとか貴方頭おかしいわ。私でもミカでも何でもいいでしょ」


 ラジィが呆れ口調でティナの声を紡ぐが、


「でも、あれを焼いちゃったらジィは死んじゃうんでしょ」


 ティナからすればそれは意識の切り替えに重要なのだ。


「肉体的には私はもう殆ど死人も同じよ。残っているのは【霊算機マシヌラ・カリキュメトリア】の中でラジィ・エルダートの思考を再現する【演算スプタティオ】だけなのだから」

「だからさ! せめてあれをジィとは呼びたくないっていうか、そういうの分かってよ!」


 ティナの意味不明な訴えの意味を、しかし少しだけだがラジィも理解することができた。

 あれが既に生命としてラジィの意思を宿していなくても、【霊算機マシヌラ・カリキュメトリア】と【演算スプタティオ】を発動しているのは間違いなくあの肉塊なのだ。


 そしてそれを破壊するということは、ティナとクィスに家族殺しをさせるということ。今ここにあるラジィはただの演算だ、魔術が再現した仮想人格だ、と言って納得してくれるような二人ではない。

 家族殺しを強いる以上、少しでもティナの心理的負担を軽くするのはラジィの役目だろう。


「では間を取って天使ラミとでも呼びましょ」

「安直ぅ、ざつな上に凄く安直だけど了解!」


 意識を切り替え、肉塊改め天使ラミを破壊するには、


「クィス、アウリス、シンルー! 唱えて! 【接続コンタギオ】」

「なるほど、そういうことですか。【接続コンタギオ】」

「無事でよかった、【接続コンタギオ】」

「――【接続コンタギオ】」


 アウリス、クィスがそれに続き、そして恐らくシンルーはもうラジィが無事などではないことを悟っているのだろう。ただ一言のみで応答する。

 マルク、イオリベ、ヤナの三人は一度もラジィと接続した経験が無いため、流石にラジィにも制御できないが――


「速攻で仕留めるわ。【演算 再現スプタティオ レフェロ】開始!」


 ここで五人の連携を密にできる効果はかなり大きい。

 メルカバの車輪が縦横無尽に走り抜ける中を、もはやアウリスもクィスもまるでそんなものなど存在しないかのようにイサクへと肉薄する。

 メルカバへ注意を払うことなく行動し、しかし平然と鉄塊を紙一重で躱し始めた一同を前にすれば、


「っ!? 急に動きが見違えた、何が起こった!?」


 流石にイサクも動揺を隠せない。

 メルカバは確かに強力な獣魔だが、基本的には速度と重量の力押しだ。そしてそれは即座に足を留めて逆方向に移動し始められるようなものでもない。あくまで、メルカバは戦輪なのだ。


「厄介なのは速さと重さのほうだから、冷静に動きさえ先読みできれば対処は可能」


 天使ラミは肉塊だが、人が備えている部位を失ったわけではない。

 正確に言えば臨界開始前から失われていたラジィの分の手足こそ確かにないが、まだ目玉も脳もそこに残ったままだ。だからこそ、


「俯瞰して観測できれば、直線的な攻撃には対処できる。流石にございますね」


 支援から攻撃に転じたアウリスの聖霊銀剣が、イサクの双剣とぶつかって火花を散らす。

 その隙にクィスが背後から振るった爪はメルカバの鋼板に弾かれるが、それはあくまで囮の攻撃だ。


 遠心力で加速されたクィスによる尾撃を強かに打ち付けられれば、イサクも所詮は人一人の重量しかない死屍である。

 たとえメルカバの鋼板で防ごうとも重たい鞭のような一撃に吹き飛ばされ、そして空中では回避行動が取れないのは人である以上誰でも同じだ。


「浮いた! アウリス!」

「畏まりました」


 あえてクィスの火弾ではなく、


「我は毒にして人の罪なり。贖罪のために魔を駆逐する、人ならざりし異形なり!」


 聖句の詠唱と共にアウリスが秘蹟紋フォーミュラを発動。アウリスが取り込んだ魔獣、ブリザードフォックスの猛吹雪がイサクを巻き込んで荒れ狂う。

 当然イサクはメルカバの鋼板で魔術の直撃を避けようとするも、


「クソッ、そういう狙いか!」


 アウリスは氷柱を打ち込むでも氷塊で押し潰すでもなく、ただ凍て付く嵐で以てイサクを凍えさせる。

 冷風それ自体に攻撃力は無いが、イサクはあくまで人を素材にした死屍神ヤマ・ヤミーの死屍でしかない。

 そして人の肉体というのは所詮、氷点下まで冷え切った状況で万全に行動できるようにはできていないのだ。


 吹雪から逃れようとイサクが走るが、アウリスの吹雪はそれを先読みして暴風圏にイサクを捉え続ける。それにシンルーが攻撃力など一切ない、広範囲の散水を浴びせる。

 アズライルの失敗は、イサクが万全に力を振るえるよう、人としての感覚まで完璧に死屍に備えさせてしまったことだろう。

 だから厚着もしていない神官服のイサクでは、凍える吹雪の中であからさまに動きが鈍り始める。


「俺の、動きを……読み切りつつ、鈍らせる…………! 優秀な、魔術師たちだ……だが!」


 震え凍えるイサクがキッと睫毛に雪の積った眼を見開くと、周囲を疾走していた四体のメルカバが一瞬にしてその姿を掻き消し、だから、


「緊急回避! 頭上よ!」


 ラジィによるティナの号令はだから、ラジィが操っている肉体の持ち主と、何よりマルクたちへの注意喚起だ。

 空中で実体化したメルカバが質量でその下にいるものを惜しつぶさんと降り注ぐ。

 横っ飛びに何とかアウリス、クィス、マルク、シンルーがそれを回避するも、即座にメルカバが消失して再び空から迫りくる。


「ミカはやらせない! 今度こそ、今度こそ俺が守る! 守ってみせるんだよ!」


 実体化と解除を自在に操れる獣魔神フェラウンブラならではの、メルカバの重量を利用したそれはまさに見えざる金槌だ。






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