■ 206 ■ さようなら、弱いあなた






 そうして、六日目の晩にクィスを呼び出したコルナールは何を語るでもなく、先行してクィスの先を歩いている。

 その背中は隙だらけで、クィスがもし後ろから刺そうとしたらいくらでも命を奪うことができただろう。


 もっとも祭りの終わりが近いリュカバースの夜はまだまだ熱を帯びており、いやそもそも新色町は相変らずここからが本番だ。

 独身、ないしは男だけでリュカバースにやってきた客たちで新色町は賑わい、幾らクィスがマフィアでもこの人目がある道ばたでいきなり人を刺すことなどはできないが。


「少し、お酒飲んでもいいですかね?」


 コルナールにそう問われて、クィスは少しだけ嫌な予感がした。


「いいけど、五日前に初めて飲んだんだろう? 量には気をつけてね。いくら安全って言っても道ばたで眠りこけてたら何されるか分からないよ」

「はーい、わかってまーす」


 露店にて、サングリアを二つ購入したコルナールが一つをクィスに押しつけて、そっとワインの果実割りを口へと運ぶ。


「うん、これぐらいだと飲みやすくていいですね」

「飲みやすい、っていうのは潰れやすいでもあるから危険だけどね」


 そうやって新色町の喧騒から離れて海辺近くに向かうと、内陸から来ている客なのだろうか。

 海が珍しいのかクィスたちみたいに男女のペアで語り合ったり遠くを眺めたり、抱き合って口付けを交わしたり。クィスたちに意識を向けてくる連中は皆無である。


 そうして空になった木製のジョッキを弄んでいたコルナールの背中に、


「君たちが今、リュカバースを攻めている魔術師なのか」


 クィスが問いかけると、振り返ったコルナールが儚げな笑みを浮かべ、否定も肯定もしなかった。


「何故そう思うんです?」

「ウチの頭のいい妹が宿泊客のリストから割り出した。予約だけして宿泊しない、存在しない客の存在をね」

「なるほど、予備の避難場所を用意しておいたのが裏目に出ましたか」


 マフィアと街が癒着しているリュカバースならではですね、とコルナールは笑い、暗にクィスの言葉を認めた。


「何故、こんなことを?」

「命令なので、仕事として」

「命令なら無関係な人たちを巻き込んでもいいと、君はそう思うのか?」

「いいわけないですよ。ただ命の優先順位があるだけで。クィスさんもそうでしょう?」


 そうコルナールは何でもないように語るが、その内心が口調通りでないことはクィスにもよく理解できる。

 優先順位があるからそうなるだけで、それは他人の命をなんとも思ってないことと同義ではないのだと。

 ラジィとマクローからそれを学んだクィスは、だからコルナールがやりたくてこんなことをやっているのではない、と推察できてしまう。


「……何故、こんなことを?」


 だから自然と問いは同じものになってしまい、それが同じことを問われているのではないとコルナールにも分かるのだろう。


「もうお察しかもしれませんが、私とサリタは孤児でした。もっとも私は庶民で、サリタは下っ端貴族の娘で親に捨てられた子という違いはありますが」


 コルナール自身はその従者枠というか、側仕えのような存在だった。

 いわゆる同年代のお世話役だ。ティナで言うところのアウリスのような存在だろう。


「まぁ、実家で色々あって、サリタと私はサリタの義母によって島流しされちゃいまして、流れ着いたのがこのリュカバースです」

「……君たちもここに住んでいたのか」

「あ、知らない振りして無駄な案内させてたわけじゃないですよ。私たちが知っている頃とこのリュカバース、街並みごと変わってますし」


 サリタとコルナールが知っているのは貧民街までであり、その貧民街は徹底的に区画整備されてほぼ消滅している。

 故に知っていながら知らない振りでクィスの案内を受けていたのではない、というどうでもいい説明は、しかしコルナールには必要だったらしい。


「ただまあ、いきなり貴族の子が貧民街で生きていける筈もないわけでですね、あっという間に私もサリタも身ぐるみ剥がされて無一文、そこをダリアって子が助けてくれて」


 ダリアはサリタとコルナールに貧民街で生きる方法を教えてくれた。

 即ち、他人を食い物にして食いつなぐ方法を、だ。


「ただまあ私は鈍いんで? サリタはすぐできるようになりましたけど。従者のくせにサリタのおかげで死ななかったようなザマですよ」


 そうコルナールは酷薄に笑う。従者でありながら主に守られて生きることしか出来ない無能が自分だったと。

 ああ、サリタのあの手の早さはそういう理由だったんだな、と場違いな理解がふいにクィスの脳裏に閃いた。


「ただ、他人を食い物にする奴はそれよりもっと強い奴に食われるのが常ですからね。結局私たちは別の孤児グループにボコボコにされて――そこをグラナに拾われました」

「う――」


 クィスの、コルナールを見る目に理解と、それを上回る憐憫と絶望が翻った。

 グラナに拾われたものがどうなるかは――クィスはその目で見ていたから嫌と言うほど知っている。それは地獄の始まりなのだと。


「もう彼女は長い路地裏暮らしですり減ってたんでしょうね。まず真っ先にダリアが折れました」


 そうやってダリアがいなくなり、もう心の支えを失ったサリタとコルナールも折れかけたところで、


「ダリルが、妹のダリアを助けにグラナの隙を突いてやってきて――運良く私とサリタはダリルに助けられました」


 その時に、コルナール、サリタ、ダリルの人生は定まってしまったという。

 クィスにはダリルというのが誰だか分からなかったが、恐らくは常に前衛を張っていたあの心呑神デーヴォロ魔術師の名前だろう。


 そうしてダリルに助けられたサリタとコルナールは、恩人であるダリルに恩を返そうと誓った。だが、ダリルはもう遅かった。あと一歩が遅かったのだ。

 あと一歩、あとほんの少し早くダリルがグラナの地下牢へ踏み込めていれば、こうはならなかったのに。ダリルは、間に合わなかったのだ。


「ダリルとダリアがどうして別々の暮らしをしていたのかとか、そういうのは私は知りません。過去に何があったかはダリアもダリルも語らなかったので、無理に聞き出す気もありませんでしたし」


 ただ、その時点からダリルとサリタ、コルナールの生き方は定まった。妹の、恩人の仇を取る。グラナを殺す。

 その為にダリルの雇い主であるというママ・オクレーシアの元にサリタとコルナールは付き、グラナを殺す為の魔術を身につけるべく必要な神派の門戸を叩いて魔術師になった。


「他の皆も、そんな感じなのかい?」

「他に行き場がないという理由では、ええ。自らの地位を脅かしそうな才能ある新人をいびり倒して病ませるっていう、クズな上司の脳みそを焼き味噌にして、神官をクビになったのがシェリフだそうです。ジェロームは庶民の出の魔術師で、自分をドアマットにしていた横柄な貴族を再起不能にして逃げてきました。ヤナは……ミソッカスとしていじめ抜かれていたところをダリルが拾ったそうです。そうして私たちはチームになってグラナを倒すために集結し、魔術を磨いていて――」


 だが、そうやって集められたコルナールに出撃命令が下るより早くに、


「あのグラナが討ち取られて、私たちの存在意義いきるいみは何一つなくなりました」


 その為に力を付けたのに、その為に育てられていたのに。

 ずっとずっと、その為だけに生きてきたのに、コルナールたちは舞台に上がる前から用済みになってしまった。


「笑っちゃいますよね。ここまで無意味な人生ってあります? 最初から無価値ならまだ分かりますよ。でも努力して努力して、時間と人生をつぎ込んで、ひたすら積み上げた全てが無意味になっちゃうって、そんなのナシですよ」

「僕たちが……君たちの存在意義を奪ったのか」

「そうです、貴方たちウルガータファミリーが奪ったんです」


 そう、涙を湛えた瞳でコルナールがクィスを初めて睨み付けてきた。怒りと憎悪を、剥き出しにして。


「ならもう私たちがやることなんて、ウルガータファミリーにお礼することぐらいしか残ってないじゃないですか」


 そう敵意を叩き付けられているのにどこか的外れな印象を受けるのは、クィスが最低なほどに鈍いからじゃなく、


「でも、それ君の望みじゃないだろう?」


 コルナールのそれはもっともらしい建前を並べ立てているだけだ、とクィスには分かっているからだ。


「君の望みは舞台袖でもう聞いている。サリタが幸せになることが君の望みで、そしてサリタも復讐なんて考えていない」

「……そういう核心だけ都合よく分かってさくっと言い当てちゃうの、クィスさん卑怯ですよ」


 コルナールがクィスを咎めるように睨む。今度の恨みは正しくクィスを目標と貫いていた。


「サリタは、何を望んでいるんだい?」

「ほらー、そういうところですよクィスさんの駄目なところ。私のことは理解できてるのにサリタを全く分かれてない」


 だから貸し一つです、とコルナールが微笑んで少し、クィスとの距離を詰める。


「サリタの願いはダリアの分もダリルにお礼をすることです。恩義に恩義で報いること、サリアはダリアに救われた分だけダリルを救わなければいけないと、そう信じているんです」

「ダリルを愛している、とかではなく?」


 その問いに、コルナールは苦笑しながら首を横に振った。


「愛と言うより仁義です。助けられたから助ける、分かりやすく言えば一飯の恩ですよ。これを返すまではサリタは自分の人生を始められないんです、精神的に不器用なんですよ」

「……ああ、そういうとこサリタにはあるよね」


 クィスはストンと道理が胃の腑に落ちた思いだった。凄く良く分かってしまった。

 確かにサリタはそういう義理堅いというか、誇り高い部分を備えていると。実にサリタらしい不器用さだ、と。


「だからクィスさんに服を買って貰って、サリタが少しドギマギしていたのが本当に嬉しかったんですよ。やっとサリタの心が動いたって、そう思ったのに」


 手に持っていたジョッキを、コルナールが振りかぶって海へと投げる。

 だが身体強化をしていなかったからか、それはかろうじて海に落ちたものの、そのまま波に押し返されて砂浜に一つ、ぽつんと残ってしまう。


「またしても私が失敗したせいで、サリタはあっさりと自分の中に芽生えかけた感情の芽をあっさりと摘んでしまって」


 コルナールの言う失敗が何か、流石に鈍いクィスにも分かる。


「だからコルナールは今、僕に会いに来たんだな」

「はい。ここで私を殺せば、私の神殿が解除されます。貴方の行いは正義ですよ」


 そっとクィスとの距離をゼロにしたコルナールが、クィスに体重を預けてくる。

 そしてそれは同時に、コルナールはいつでもクィスに致命傷を与えられる距離でもあるということだ。


「殺すのが難しいなら、そうですね。あとは私を攫って行ってしまうとか。どこか、遠く、誰の手も届かないところまで」


 あるいは其方が、コルナールの本心なのか。いや、そうじゃないとクィスには理解できた。

 どちらも、コルナールの本心なのだ。人の望みが唯一でなければならない理由はないし、たった一つをひたすら願う心だけが美しく、二つを望むものは穢らわしいというわけではなかろうに。


 そして、だから。


「……そのどちらも、僕には選べない」


 クィスもまた、二つの本心を抱えて生きている。

 ラジィたちの生存率を僅かでも上げるためなら何でもすべきだという思考と、今ここでコルナールを殺すことも、共に二人だけで生きていくことも出来ないという事実と。その二つともがクィスの疑いなき本心で、だから。


「私たちは、そっくりですね」

「……ああ」


 お互い自分の手で最適な行動を取れないから、その選択権を自分以外の相手に委ねている。

 強く生きられない。自分の望みのために進むべき最短の道が分かっていながら、その最短距離を進めない。そんな情けなくて弱い腰抜けがコルナールであり、クィスだった。

 自ら辛い道を選んでおきながら、その道の辛さに悲鳴を上げて、自分の幸せに逃げたがっているのに。それでも自分の幸せにも逃げ切れない半端者がクィスとコルナールだ。


 かつてのクィスはマクローを侮蔑し怒りを露わにしたが、そのクィス自身はマクローにすらなれなかった。

 誰かのためのヒーローになる力が、クィスには徹底的に足りないのだ。だから多分、クィスはラジィの家族にはなれても恋人にはなれなかったのだ。


 だからそっと二人の身体は離れて――

 クィスはコルナールを殺せないし、コルナールもまたクィスを殺せなかった。


「もう、行きます。明日が正念場ですから」

「退くことは、できないんだね?」

「ええ。結果を出せねば私たちはリュキア貴族に処分されますので」


 無意味な戦いだ。それはもうコルナールも良く分かっている。いや、ダリルも、シェリフも、ジェロームも、サリタも分かっているのだ。

 ここで第一分隊ファーストスクワッドが勝ってしまえば、不幸になる人間が増えるだけだと。


 戦略目的を失った時点で第一分隊ファーストスクワッドは解散しておくべきだった。

 戦術的勝利をどれだけ挙げても、第一分隊ファーストスクワッドはもう満たされない。


 なのにずるずるとそのまま在り続けてしまって、ママ・オクレーシアからの命令という、自分たちには存在価値があるのだと縋れる大義名分を得てしまった。

 第一分隊ファーストスクワッドは既に身体だけが生きているゾンビのようなものだ。こうなる前に、自分たちで自死しておかねばならなかった。

 そしてゾンビだからこそ、もう身体をバラバラにでもされねば止まらない。止まれない。


 クィスとコルナールの唯一徹底的に異なる差分がそれだ。

 リュカバースマフィアには在り続けるたたかう対外的価値があり、第一分隊ファーストスクワッドには在り続けるたたかう対外的価値が無い。


「クィスさんはあの、竜人の魔術師なんですよね」


 これが最後の質問とばかりのコルナールの問いに、クィスはだからサリタたちの退路を断ったのが自分だとついに理解してしまった。

 あの三人組がサリタたちだったというならば――クィスの放った言葉はその通りであるにしても、あまりに残酷だ。


「皆勘違いしてましたけど、よく考えたら竜から産まれた・・・・・・・竜牙騎士団員が竜になるのは・・・・・・・・・・・・・何もおかしくないですもんね」


――今、なんと?


 クィスの脳内に後悔を越えた何かが走り抜け、思考が巡り始める。

 多分コルナールは今、無意識に当人すら知らずにクィスの本質を貫いた。


 何かが繋がりかけたような、何かを掴みかけたような、そんな感情が――


「では、明日の戦場で。見事ダリルたちを倒すことができたら、その時は今度こそ私たちの首を取りに来て下さい」


 コルナールの笑みに、現実に引き戻され、そして。

 クィスは去って行く背中に何一つ贈れるものを持たなかった。


 凶器も。


 慰めも。


 何より別れの言葉すらも。






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