■ 128 ■ ベクター・グリーズの困惑 後編






 暗に溶け込む闇色の毛皮。同じく漆黒の瞳に、黒光りする爪。その体躯はベクターの四倍以上にも上る獣が、


「ウォオオオオオオオーーーーン――!」


 邪魔をするなとばかりに雄叫びを上げて、先ずは最も柔そうな魔術師ユクタを狙う。


「やらせません!」


 盾役ガイアンがその横っ腹に大楯を構えて突貫、全力で叩き付けるが、まるで大岩を押しているかのようにびくともしない。

 踊る薄刃が盾を回り込んでガイアンの腕を深々と切り裂き、次いで響くはチィンというかん高い擦過音。


「こいつ、後ろに目があるっすか!」


 斜め後方からアシャーの投げたナイフが易々と薄刃に弾き落とされたのだ。


「薄刃もそうだが伸びる影に注意しろ! 影に捕まるとその場に縛られるぞ!」


 攻防一体の薄刃複腕を自在に操り、四方八方からの攻撃に対応する。自身の影を伸ばしての影縛りの秘跡紋フォーミュラを使う。そのどちらも厄介だ。

 薄刃影狼ウェプアウトはできればAランク冒険者で固めたパーティで囲みたい危険な魔獣だ。


「ガァッ!」

「やらせん!」


 盾を取り落としたガイアンを無視してユクタに迫る軸線に、無理矢理ベクターは割り込んだ。大剣型鍛紋器フォーミュリス熱剣シュヴェルメを振るう。

 刀身から炎が炎蛇の如くに牙を剥けば、流石の薄刃影狼ウェプアウトも生物だ。これは受けられぬとばかりに後退する。

 その隙を狙って、


火神プロメテスの火は汝が罪を清めたもう! 【火槍フラーマ】ッ!!」


 放たれたユクタの魔術は威力もタイミングも申し分なかったのだが、十字交差された薄刃が易々と炎の槍を切り裂き、あっさりかき消してしまう。

 生身でありながら平然と火の魔術を切り裂けるのは、ラジィが多用する【エンシス】系魔術と原理は同じだ。


――拙いな。かなりの手練だぞ、こいつ。Aランクの上澄みだ。


 己の生み出す炎故ではなく、内心の焦燥からベクターの首筋に冷や汗が伝う。

 回復ポーションでガイアンは持ち直したが、ガイアンの手管では無傷でユクタやアシャーをカバーできない。ガイアンが無傷でやれるのは自衛が限界だ。アシャーやユクタには自衛すらできない。

 これではアシャーやユクタという的を二つ小脇に抱えたベクターが、サシで薄刃影狼ウェプアウトに挑むようなものだ。


 ベクターはどちらかというと威力重視の戦士であり、盾役と牽制によるサポートがある方が本領を発揮できるタイプである。

 当然、単独ソロだと弱いというわけではないが、他人をカバーしての戦いは正直苦手と言える。ましてや相手が脚力に優れたタイプであれば尚更だ。


――これ程の猛者が……何故出てきた!? ここはまだ奴らの住処ではない筈だ!


 雄叫びを上げてベクターは薄刃影狼ウェプアウトへと斬りかかる。牽制として火弾と火鞭を叩き込んだ上での袈裟切りは薄刃に弾かれ、相手の身体には届かない。

 やはり全力で振り抜かねばあの薄刃にいなされる。だが相手の方が射程が長く、牽制の火術で適時影を消さないと間合いにも踏み込めない。


 しかも相手は二刀でベクターは一刀。一撃の威力で勝るが手数で負け、間合いは相手の方が長く、足の速さはあちらが上で間合いに入れば前脚の爪も脅威だ。

 手傷を負うことを覚悟で攻めようにも、あの鋼のような毛皮とその下にある脂肪と筋肉は生半可な一撃では切り裂けない。


 だからとて相打ち覚悟で攻めて、ベクターが圧せなくなればアシャーやユクタが危険だ。これではまるで千日手だ。


 引くにも引けず、圧すにも圧せずにいたベクターを前に、だが突如として薄刃影狼ウェプアウトがまるで怯えたかのように一度ベクターから視線を外した。

 それと同時に、


「援護するわ、おじさま」


 その場に響くは場違いなほど玲瓏にベクターの耳朶へ滑り込む、ハープの弦を爪弾いたかのような声音。

 何事か、とベクターが思うより早くに視認したのは白だ。


 白い、そう。


 髪も、

 肌も、

 服も。


 まるで等身大に作られたビスクドールのような人影が、猛然と両手に携えた装飾剣を振るって薄刃影狼ウェプアウトの薄刃と鎬を削っている。

 その動き、その荷重移動、安全圏を確保しつつも隙を見逃さない位置取り、振るわれる両刀の剣舞はベクターが一瞬見とれてしまうほどに美しい。

 だから、


「救援感謝する、ラジィ・エルダート!」


 少女が右半身側に薄刃影狼ウェプアウトの薄刃を引きつけてくれている間に、左側に回り込んでベクターは冗談に大きく熱剣シュヴェルメを構える。

 視線の動きから察するに、薄刃影狼ウェプアウトもそれに気が付いているが――少女の連撃を防がねば死ぬ、と敏くも理解できてしまっているのだろう。


 そうして自分が詰んだことを理解した薄刃影狼ウェプアウトは王手詰みを避けるために活路を正面へと見出し、


「やらせませんよ!」


 正面へ踊り出してきたガイアンの大楯に進路を塞がれ、


「吠えろ! 熱剣シュヴェルメェッ!」


 剣閃一閃。

 業火を纏いて大上段から振り下ろされたベクターの大剣は、その薄刃ごと薄刃影狼ウェプアウトの首を叩き、切り裂き、焼き落とした。


 勝負ありだ。ほぅと安堵の息を吐き、額の汗を拭ってベクターは、


「救援に感謝する、レディ・エル――」


 自分の支援をしてくれた少女に目をやって、それが想定していた人物と合致していないことに気が付いた。


 白い肌、白い髪、白い服。そこまでは同じだ。だが、瞳の色が違う。

 ラジィ・エルダートは青い瞳であるはずなのに、目の前にいる少女の瞳は透き通るほどに赤く、紅く、それはまるで鮮血のようで――


「――そう、あの子はラジィ・エルダートという名前なのね」


 そう仄かに笑う少女の顔は――顔の造りが、というより形容しがたい何かがあまりにもベクターの記憶にあるラジィと似通いすぎている。


 だが、別人だ。ラジィ・エルダートは十二、三歳ほどの外見だが、目の前にいる少女の年の頃は十五、六ほど。

 腰まである長い髪は生糸の如くほの暗い森の中でも光を照り返して輝き、衣装は腹部をボタンで留めて絞った純白のコルセットドレスという、あまりに場違いな服装。

 少女の愛らしさと女性の妖艶さ。その狭間に位置する娘が、両手に持つ装飾も豪奢な剣を納刀しながら、


「ごめんなさい、どうもこいつら私たちの狩りから逃げるために、本来の住処から移動しちゃったみたいで」


 ベクターに申し訳なさげに頭を垂れる。

 白い御髪がさらりと零れる様は、さながら貴賓の姿を隠す御簾のようだ。


「つまり貴方たちがこいつに襲われたのは私の責任なわけだけど――手助けはしたし、手打ちにして頂けないかしら?」


 そう問われるも、ベクターには状況が掴めない。この少女たちの手で、薄刃影狼ウェプアウトはリュカバース寄りに追いやられていた、ということになるが……

 最初はラジィの関係者かと思ったが、森の奥側からリュカバース側に追い立てていた、となるとラジィと手を組んでいるとは思いがたい。


 ラジィの目的はファーレウスの森の魔獣の数を減らすことであって、Aランク魔獣の駆除ではない。

 目的が、この少女とラジィでは異なっているのだ。


「君は……何者だ?」

「あらこれは失礼。私はミカ、ミカ・エルフィーネよ。何者か、と問われると難しいけど、単なる在野の魔術師ね。特定の社会や政治団体には所属していないわ」


 フリーのハンターみたいなものよ、と微笑む顔はしかし――何故かどうしようもなくベクターにラジィを彷彿とさせるのだ。

 顔の造りが似ているわけでは、決してないというのに。


 遅れてベクターたちも自己紹介を済ませると、


「できればこの魔獣の死骸は私のほうで頂きたいのだけど、許可して下さる?」


 少女が少しだけ申し訳なさげに、しかし甘えるような上目遣いでベクターを見やる。


「どうぞ、と言いたいところだが、我々も魔獣討伐の任務中でね」


 少女の問いに、ストレートに半分寄越せとはベクターも言えなかった。色目に流されたからではない。少女が乱入してこねば、間違いなく薄刃影狼ウェプアウトは仕留められなかったどころか、身内から被害者まで出していたかもしれないからだ。

 そんな状況で権利のみを主張する厚かましさを、少し冒険者としては残念だがベクターは備えていなかった。ベクターは愚直な男なのだ


「むむ、ならここよりもう少し北に行ったところに私が仕留めた魔獣が転がしてあるから、それと交換ということにしましょ? 数だけはあるから、好きなのと交換ってことで」


 そんな少女に導かれ、【尽務オペラ・炎】が向かった先には、


「うわ……すげぇっす」

「全て一刀で殺害、ですか」

「質も完璧、ですね」


 首を半ば両断されたBランク魔獣の死骸が累々と転がっている。ザッと見て二十体は軽く超えているだろう。


「こちらと交換、ということで宜しいかしら?」

「あ、ああ。ただ全部は不要だ。そこのそれとそれ、あとあの二つだけあればいい」


 誠に残念ではあるが、ベクターたちには討伐上限が課せられている。涙を呑んで一部は諦めねばなるまい。


「そうなの? じゃあ不要な分はこっちで回収しておくわね。あとできれば私と出会ったことは誰にも言わないで欲しいの。酌んで下さる?」


「他者に迷惑をかけたのがバレたら怒られてしまうの」と言うミカが誰に怒られるのかという疑問はあったが、ベクターは頷いた。


「……分かった。こちらが損をするわけじゃないからな」

「ありがとう!」


 そう喜び微笑む少女の許可を得て、ベクターたちは持ち運びが比較的容易な小柄の吹雪狐ブリザードフォックスの死骸を回収し、


「それでは壮健なれ、冒険神アーレアの輩。皆さんに冒険神アーレアのご加護のあらんことを」


 ミカ、と名乗った少女と別れを告げ、宿営地目指して歩むベクターたちの帰路には――既に薄刃影狼ウェプアウトの死骸すら見当たらない。

 ガイアンが確かに流したはずの血痕すらも綺麗さっぱり消え果てている。


「兄貴、俺たち狐にでもつままれたんでしょうか……」


 当然、振り返ってもあの麗しき少女がいた気配の残滓もない。

 異様な生気の薄さ、存在感の欠如。目を惹く容姿なのにそこにあったことすら幻と感じてしまう希薄さ。

 やはりあれは、狐に化かされたのではないかと。


「だったら、宿営地に着いた途端にこの死骸は馬糞にでもなってるだろうよ」


 そうして宿営地に帰還したベクターたちは上質な吹雪狐ブリザードフォックスの死骸九つと引き替えに九百点の加算を得て、


「ちぃっ! ベクターめ運があったわね!」


 無事カルシダ率いる【尽務オペラ・蜂】の得点を上回れたのだが、内心は複雑だ。

 死闘を生き延びて、その結果の対等な取引として双方合意で得た正当な成果ではあるが――


――自分たちが会ったのは本当に、本当に夢幻ではなく実在の人物だったのか?


 歴戦の冒険者であるベクターですら、そんな疑念を拭えずにいるのである。






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