第29話 青年、隠蔽したり研究したり
竹林のわきの社にある泉は、ちいさいが底が深いのだと教わった。枝垂れた枝の先に木札が吊してあり、その真下に出入り口があるのだ、とも。
そこにある透明の板は、離れの風呂桶に沈んでいるものよりずっと大きいのだそうだ。それは最初に行き来した場所にあったもので、あちらへの出入り口になるのだと理解した一途くんは、砕いたものを持ち帰っていた。そして方々の水場にまいて使っていたのである。
荷物を横において水面をのぞきこみ、どうしようかと迷っていると、蔓がそばにやってくる。
あたりにひとがいないのを確認し、私は蔓に相談を持ちかけた。
「この真下に、透明の板があるんです。ちょっとそれが必要で……取れませんか」
自分で取る腹づもりでいたが、下手をすれば凍え死ぬ、と氷のような夜気に気持ちが揺らいでいた。厚着をしているかどうかの問題ではないだろう。
水底は真っ暗闇で、目視ではそこに板があるか判断がつかない。
ほろろろろ、と不思議な音を上げ、蔓は自身の先端を泉に入れた。
するすると底を目指し、少しすると板をつかんで戻った。
大きな板がある、と一途くんから聞いていたが、どれだけ砕いてあちこちにばらまいたのか、手のひらていどの大きさのものだった。
受け取って礼をいい、私は蔓に尋ねてみる。
「……先日、私がものを投げてしまった……蔓の方ですか」
ほろろ、と弱い声がした。
意味がわからないが、そうだとこたえたように感じる。
「あのときはとっさとはいえ、失礼をしました。お許しください」
ほろろろ、とさらに声は弱くなる。
私は社入り口にあった松明に、透明の板を投じて社を後にする。
去り際に一度振り返ると、蔓が見送ってくれている。軽く会釈をしたところ、蔓は身をふるわせるような動きをした。
あの蔓が荒れ狂った原因を伝え聞くことはなかった。透明の板の沈んでいた泉のそばに暮らすのだ、化けものの毒にでもやられたのか――こたえはないので、私はただ足を前に動かす。
重要な用事を終え、私は軽い足取りで河原に向かう。
寒くて寒くてたまらないが、空が白み朝日がのぼりはじめると、ぐっとあたりの空気が暖まった気がしてくる。
黒い布包みを抱え直し、河原が見えてくると小走りになっていた。
広い河原は水面を風が渡るためだろう、やたらと寒く、手がうまく動くか自信がなくなった。
品評会に出す品の試作品を持ってきている。
試し打ちをするには、河原のように広い場所が必要になるのだ。
向こう岸に同僚がいて、おなじく大きな荷物を持っている。
眠そうな顔をした彼は私に「おうい」と声をかけ、私も「おうい」を声を返した。先に到着していたのは彼だ。私は場所を移るべく、朝日のなか川に沿って延々続く道を歩き出した。
水面が朝日を照り返してきれいだった。吐く息が白く、滅多にない時間帯に出かけている妙な高揚感がある。
道の先、遠目にもそれとわかる警邏がいて、私はそちらに声をかけた。知っている顔だったのだ。
「朝吠さん、おはようございます」
「おはやいですね――風の、ですか?」
「はい」
品評会を前にした時期は、河原に警邏がいてもおかしくない。私や同僚のように試しに来るものがあり、過去には事故が起きたことがあるからだ。
「このあたり、品評会関係のってけっこういそうですか?」
「この道の先はいまのところどなたも。あなたがいらした方向に、お三方いらっしゃいました」
「ありがとうございます、私はこの先でやらせていただきます」
品評会に出すものは、正直まだ同僚に見られたくない。向こうもそうだろう。
場所を確保できるまでしばらく歩き、寒い寒いと歯を鳴らしながら荷を広げた。
河原の冷たい風に打たれているのに、試し打ちの準備をするうちに私は汗だくになっていた。
用意が調ったときにはすっかり日ものぼっていて、出勤か、道を歩くひとの姿がぱらぱらと見られる。
この調子では一度試し打ちをして終わりかもしれない。
微調整ができればいいのだが。
うまくいきますように。
そう祈りながら、私は試作品に手をかけた。
●
びっくりした。
風の道をつくり、起点と終点の間で物品を行き来させる。
私はその案で、品評会で特選をいただいた。
筒状にした風のなかに手紙を入れ、それを起点から終点に向け飛ばすと一瞬だ。
それを品評会で実演したのである。
実技の後すぐ、会場にきていた月子さんが「すごい!」と手を叩いて喜んでくれた。正直それで報われた気分になっていたのだ。
特選の報を受けてからの記憶が、非常に曖昧になっている。
表彰を受け、お偉方に声をかけられた気がする。
どのていどの重さ、大きさまで運べるのか、真剣に尋ねられた。なんとこたえたかよく覚えていない。
五年後の花見の時期には実用化しよう、ということになり、計画の主任に硫黄さんが就いた。
ちなみにべつの仕事も並行して硫黄さんは進めるため、庁舎にいる間ずっと憤然とした顔つきになっている。
すっかり気候も暖かくなってきて、新緑を眺めて散歩でも、と月子さんを誘った。
風のないよく晴れた日に出かけ、そこでした求婚に彼女は応じてくれた。
嬉しくて、つい彼女の手をにぎってしまった。
月子さんがにぎり返してくれて、求婚の日にはじめて手をにぎった、と私がわたわたと喜んでいると、
「以前、一度手をにぎってますよ」
「……えっ」
そうだっけいつだっけ、と汗をかきかき思い出そうとすると、月子さんはにんまりと笑う。
「前に狐の方と、夜道でお会いしたときです。私が驚いて悲鳴を上げたら……」
「ああ……」
そんなことがあった気がする。
どちらかというと、いきなり月子さんのお母さんと対面したことで、ほかの記憶が薄くなっていた。
一途くんがいなくなり、火立くんもさとに帰った。所帯を持ったら、これまでみたいに友達と飲んで、ということはできなくなる。
きっとさみしいなどと思う余裕もなく、ばたばたと忙しいだろう。
家族間の挨拶やら、いろいろとやることがある。
月子さんとなら、たぶんやっていけるだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます