第19話 青年、知る
「びっくりすることにね」
どうしてか、一瞬耳を覆いたくなった。驚くようなことなどなにも知りたくない、というのが本音だ。
「あちらにいくと、姿が歪むんだ」
「歪む?」
「そう。僕だけじゃなく、たぶん誰が行ってもそうなんじゃないかな。水面に映った僕は……それこそ」
それ以上いわせてはならない気がした。
「一途くん」
さえぎる声は、自分でも厳しいと感じるものだった。
おたがいが黙りこみ、酒を口に運んだ。
そろって猪口を手にし、酒をあおる。
注ぎ、あおり、注ぐ。
いくらあおっても酒を飲んでいる気がせず、私は無言で立ち上がると母屋へ走った。
猪口では足りない。ずっと大きな湯飲みをふたつと、取って置きのため棚の奥にしまってあった上等の酒瓶を抱え、離れに取って返す。
金魚の鳴き声は耳を素通りした。
離れに入り、そこにすわる一途くんを目にしたとき、ふいに涙がこみ上げそうになった。
それをやり過ごせたのは、あらたに持ちこまれた酒瓶の銘柄に一途くんが目を見開いたからだ。
いつもの彼だ。
「そ、それ……手に入ったんだ」
入手困難の酒に、一途くんののどがげこりと鳴る。
身を強張らせた彼の様子に、私は笑った。笑い出すと止まらなくなった。笑いは伝染し、一途くんも笑い出す。
笑いすぎて腹が痛くなって、涙までが出てきて、それから私たちはまた飲みはじめた。
たぶん、すべてを話してもらえない。
そんな予感がある。
なぜなら、私は一途くんの言葉をさえぎったからだ。
彼の吐露を押し止めようとしたものが、すべてがつまびらかにされる場にいさせてもらえると思えない。
「捜すっていってたけど」
何度か湯飲みを空にしたあと、二種類の酒を混ぜて飲みはじめる。いい酒と軽い酒を混ぜていく。安酒がうまくなるまじないのようなものだ。
「うん、僕はあの化けものに会いたいんだ」
会ったところで、それが自分の求めるものだとわかるのか。私はいまだに化けものの顔がよくわかっていない。
「あっちにいくと、姿が歪む。僕だけでなく、ほかの誰であってもそうだと思う」
――もしかして、そういうことが化けものにも起こっているのか。
明確に判別できない顔、聞き取れない言葉。そういうものが歪みなのだろうか。
「化けものも、こっちに現れたらたぶんそうなる」
まるで私の思考を読んだように、一途くんはそういった。
「あちらは化けものの国なんだろう? 目当ての化けものを、そんなかんたんに見つけられるのかな」
研究を捨て、流浪に近い生活をし、警護に目をつけられる。
どうしてそこまで――ひとつうなずいて、一途くんはげこりといった。
「僕ね、化けものに取り憑かれてるんだと思う」
「取り憑く?」
表面が乾いてしまった総菜を見つめ、一途くんは明るい声でいう。
「化けものっていうのは、そういうふうに縛ってくるものなんじゃないかな」
眠る化けものを思い起こす。
私はあれに縛られているのだろうか。
雨上がりに出くわし、手招いて家に上げた。それからずっと食事を用意し、一緒に暮らしている。硫黄さんや一二三さんの警告じみた声を聞いても、家から出そうとも思わずにいる。
これは取り憑かれているということなのか。
「そういうふうに……縛る?」
「うん。会って、そばにいなければならない気がするんだ」
「そばにって……それは」
無理だろう。
接触するだけでもこちらでは大罪だ。
しかしすでにあちらに複数回通っている彼が本気なのだと、その理解は急激だった。
湯飲みの酒を半分ほど空けていると、一途くんが酒瓶をかまえて待っている。
継ぎ足してもらうと、とくとくと心がくすぐられる音がする。
この先、何度彼とこれを聞けるのか。
ひとりで勝手にさみしくなってきた。
私はもう、彼を止めたりはできないのだと、それもわかっている。理解している。ずっと彼はそう決めて動いていただろう。警護に目をつけられても止めなかった。
私が説得して、なにが変わるか――しかし私の口は動いている。
「なにがあるかわからないだろう、落ち着いてほしい……だってそんな、捜すだなんて」
生命を落とすようなことになったら、どうするのだ。
なにかあったとき助けは得られるのか。ちいさな化けものと、私は挨拶のひとつもできていない。そんな状況のところに出ていって、人捜しなど。
「ば、化けものの……国なんだろう?」
声をのどから押し出すようにした私から目を逸らし、一途くんは煮つけに箸をつけた。咀嚼する音と、りりり、という鳴き声。
湯飲みをあおっていると、一途くんが低く話しはじめた。
「……逆になるから」
「逆って、なにが」
「こちらに来たから、化けものは化けものになるんだ」
私は手にしていた湯飲みを取り落とした。空だった湯飲みは、ごろごろと耳障りな音を立てながら卓袱台を転がる。
「あちらにいったら、僕たちが化けものになる」
一途くんは両手でごしごしと顔をこすった。
水を通ってあちらにいき、その水鏡に映った自身の姿はどんなものだったのか。
「一途くん、そんな」
「異質なんて、そんなものだよ。皮剥くん、些細なことなんだよきっと」
転がっている湯飲みを起こし、一途くんは酒を注いでくれた。
「引き返せない」
湯飲みにたっぷりと注がれた酒は、照明を照り返しやわらかく揺れている。飲む気になれない。なんてことを聞いているのだろう。
「僕は……捜してたひとを、見つけてしまった」
「どうして、そんな……一途くん」
どうしてそんなに、一途くんは嬉しそうにいうのだろう。
どうしてそんなに、恋い焦がれるようなことになってしまったのだろう。
「わからない。だから、たぶん僕はあのひとに取り憑かれてる」
「これから、どうするの」
「会いにいって、そうしたらあのひとの近くにいようと思うんだ」
――化けものになってでも。
「無謀だよ」
「うん」
百も承知なのだろう、聞こえてくる金魚の声よりも澄んだ返答だった。
酔った気配のないまま、深夜に母屋に帰った。
知る限りの一二三さんたちのことを話し、私はのどがからからに渇いていた。
何度も話そうとしたが、母屋の化けもののことは口に出せなかった。のどが凝ったようになり、言葉が出て来なくなるのだ。
話を聞く一途くんの態度は、落ち着いていた。
銀魚を連れた一二三さんがこのあたりにまできていたことでも、硫黄さんが牛攻をつくっていたことでも、一途くんは揺らぐことはなかった。
硫黄さんと出くわして、泡食ったように逃げていったときとは別人だ――そんな揶揄も口から出ない。
一途くんの静かな表情に、彼は硫黄さんから逃げたのではないのでは、と内心首をひねった。
それともこれまでの日々で、こうまでも腹がすわってしまったのか。
流しで水をがぶ飲みし、私室の布団で眠っている化けものの様子を見る。
私がいるとそわそわすることがあるので、私室は化けものに明け渡している。私は客間の扱いにしている別室に万年床を移動し、睡眠を取るようになっていた。
化けものは布団でよく眠っている。
何度も一途くんは化けものの国にいっているのだ。
遠くとも、私ではあちらを訪ねる方法がわからなくとも、国があるのならそこがこの化けものの居場所なのだろう。
――化けものを帰してやれるのだろうか。
根掘り葉掘り化けものの国のことを尋ねるには、あまりに時間が足りなかった。私も冷静ではなかったし、いまになって頭のなかが興奮状態になっている。
これでは眠れないかもしれない、と不安になりながら万年床に潜りこんだが、すみやかに私は眠りに落ちていた。
そしてもう二度と飲まない、と思うような宿酔いで、昼過ぎに目を覚ましたのだった。
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