第18話 青年、明かされる
離れの雨戸を開け放ってみると、涼しい鳴き声が耳に届いた。
玄関口の睡蓮鉢の金魚だ。
りりり、という鳴き声に耳を澄ます。
席についてから、しばらく黙って金魚のさえずりを楽しんだ。銀魚のようなほぎゃ、という濁声は聞こえてこなかい。おなじ魚でありながら、あまりに違う声だ。
もしかすると金魚と銀魚は「おなじ魚」というだけで、私と化けもののように意思の疎通などできないのかもしれない。
だがそれでかまわないのだろう。
意思の疎通ができないくらいで、金魚も銀魚も困らない――そんなことをひとり考えこむほど、私と一途くんとの間で会話が出てこない。
気詰まりではないが、会話の糸口に困っているのは確かだ。
なにせ私は、化けものを拾った自分のことを棚に上げ、彼に化けものとのことを尋ねようというのだ。
化けもののことを尋ねることなく、うまく硫黄さんや一二三さんたちが目をつけていることを伝える――そんな器用な話術を私は持ち合わせていない。
会話がない代わりに、箸がやたらと動く。
買ってきた惣菜はどれも正解だった。
いくつか料理を見つくろったが、とくに魚の煮つけがうまい。私も一途くんも、そちらによく箸をつけている。
変わらず耳に届く、りりり、という涼しい鳴き声を聞くうちに、違う話題を私は口に出していた。
「藻のこと、ごめんね」
「藻?」
首をかしげた一途くんは、どことなく白い顔色をしている。陽の高いうちはずっと宿酔いに苦しんでいたから、そのせいかもしれない。
「ほら、ちょっと前に、一途くん怪我したでしょ」
「ああ……あれはすぐ治ったから」
「今日金魚の様子を見たら、藻がかなり減ってて」
睡蓮鉢にいる金魚は一対。
金魚の振り売りの話を鵜呑みにするなら、雄と雌なので成長すればいずれ稚魚が産まれるはずだった。そして親子の合唱が聴けるという。
「大きくなったから、食べる量も増えたのかもしれないね。そこまで考えていなくって」
「そんなに減ってる?」
「減ってたよ。食欲があるのはいいことだね、きっと」
青菜の炒めものの小皿を、一途くんのほうに押す。
酒瓶が空になっていて、新しいものを取りに母屋に走った。
化けものはまだすやすやと眠っている。抜き足で歩き、まだ口を切っていない酒瓶を抱え離れに取って返した。
外気に飛び出たときに、りり、ときれいな鳴き声を耳が拾う。それだけで得をした気分だった。月子さんにこのきれいな鳴き声を聞かせたくなった。金魚の鳴き声を好きになってくれたらいい。おなじものを聞いて、一緒にきれいな声だと思ってほしい。その欲は酒気のせいだろうか。
「おまたせ」
おたがいの空になっていた猪口に酒を注ぐと、一途くんはちいさな卓袱台に手をついて頭を下げた。
「大袈裟だなぁ、そんないい酒でもないよ」
「皮剥くん、迷惑をかけてすまない」
真剣な響きに、酒のことではない、と即座に理解した。
空の自分の猪口にも酒を注ぎ、私はそれを一息にした。
「話をするよ」
私のうん、という声と、一途くんのげこり、という音は同時に上がった。
酒と肴は、充分そろっている。
たまたま、だったという。
藻の研究に打ちこんでいたころのことだ。
一途くんはあちこちの水場に潜っては、そこに生える藻を採取していた。水流や岸の土壌、水域で暮らす生きものの種類で、藻の種類も変わる。それを調べるのが楽しくてしかたがなかったという。
泳ぐこと自体が好きで苦にならず、藻の様子を見ながらある水場に入ったとき、妙な感じがしたという。
「足がしびれたりするだろう? あんな感じがそこの水場でしはじめたんだ。そうと気がつくと、水の流れもおかしく感じられるようになって」
うまく説明できない、と一途くんは首をひねって唸る。
説明できない事象というものは、私も経験がある。
風の研ぎがそうだ。
勘ともいえるし、経験則ともいえる。職人によってたとえる言葉は「はまる」「流れる」「凪ぐ」など様々だ――しかしどれもがおなじ風の研ぎをしめしている。
そこでなにかが起きていて、一途くんは体感したのだ。
口をもぐもぐと動かしている一途くんのそれが、言葉を濁そうというのか、ただ迷っているのか。私には判断できない。
ふと、ほんとうのことを話さなくても、私には知りようがないのだ、と気がつく。
そして自分のなかにあるものに、私は笑いそうになった。
――一途くんは私に嘘をつかない。
そう確信している。
「水場の底に」
口に運びかけた猪口を一途くんは置いた。
「あちらにいける穴みたいなものがあった」
「あちら」
そう、あちらとしかいいようがないのだろう。
化けものは化けものであり、あちらはあちらだ。
あるはずがなくて、化けものと接触したとされるものの姿は消えてしまう。
接触したと目されてか、証拠をつかまれてか、一途くんは目をつけられている。
「僕は……水を通じて、あちらにいく方法を見つけてしまった」
静かな一途くんの声に、私はぞっとさせられていた。口をぱくぱくさせ、しかし言葉がなにも出てこない。
「あちらの水場につながっていて……あちらはね、化けものの国で」
「……うん」
化けものの国。
以前ならその言葉にぞっとしたかもしれない。
だが化けものの国があるのだ、ということにぞっとせず、それはすんなりと胸に落ち着いた。
母屋には、現に眠っている化けものがいるのだ。ならば化けものの暮らす国があってもおかしくない。
化けものの国にいけば、あのちいさな化けものの家族もいるのだろう。
そこであれはまっとうな暮らしをするのかもしれない――もし私たち同様に、化けものにも日常や暮らしがあるというのなら。
母屋にいるときのように、ひたすら眠り、絵を描く。
それ以外の生活をするのかもしれないのだ。
それこそ、私たちのように暮らすのかもしれない。
あれがおとなか子供か私にはわからない。しかしおとなでも子供でも、化けものには化けものなりの生活がある。本来と違う生活を強いているのだとしたら、私はあの化けものにひどい仕打ちをしていることになるのではないか。
私ではあちらとこちらの行き来について知ることができなかった。
だが一途くんは知っている。
――一途くんなら。
彼なら、あの化けものを帰してやれるのかもしれない。
「あちらとこちらは、時間の流れが違うようなんだ」
「時間?」
「最初にあちらに行ったときはね、池……なんだろうと思う、こちらとつながっている池のまわりが、燃え盛っていた。ひどくうるさいし熱いしで、辟易したよ」
「火事……かね。物騒だね」
燃えたら全部が消し炭になりかねない。みな用心するから滅多に起きることではないが、火災が起きてしまったのだ、化けものたちに同情した。
「二度目は、やっぱりうるさいんだけど、悪い感じはしなかった。いまになって思えば、あれはお祭りでもやっていたんだろうね。聴いたことのない感じの音楽が流れてて、踊って……たのかな。化けものたちが集まってた。不思議だったなぁ。演奏してる奏者がひとりもいないのに、たくさんの種類の音がしてた」
燃えていたなら火事でも起きていて、祭りがあるなら化けもの同士で交流や奉るなにかがあるのかもしれない。
私たちとおなじような暮らしを化けものが送っているのだと、それを一途くんは自分の目で見て知っている。
私は動けなかった。
一途くんは化けものに接触しているのではない。国に接触した。訪ねた。
よく無事で、という気持ちと、複数回訪れたのだと――道を知っているのだと、そのことになにより驚かされている。
「化けものたちも、笑ったり怒ったりするんだよ」
「笑ったり……」
私から出た声は、かすれていた。そうか、あの眠る化けものだって笑ったりするのだ。なにもおかしなことではない。
「何度か通っていて……そのうちに、ある化けものを見つけた」
聞き落としそうな声量で一途くんは続けていう。
「どうしてか、見つけたと思ったんだ」
嬉しそうにする一途くんなら、これまでにも見たことがある。
だが焦がれるような目をした一途くんははじめてだ。
「一度見ただけだったんだ。でも、たぶん僕があちらに通うのは……あの化けものを捜してたんだと思う。どうしても会いたいんだ」
――通っている。
いつからその化けものを、と尋ねるか迷う。
尋ねなくとも、こたえがわかっていた。
通うために、一途くんは藻の研究を止めたのだ。
化けものの研究を、というのは嘘でもなんでもない。ひどい酔狂だ。そんなところに通うだなんて、化けものとの接触以上のものではないか。
そのころから一途くんは、なりふりかまわなくなっていたのかもしれない。
「捜す、というが」
一途くんが池から目だけ出し、あたりをうかがう情景を私は思い浮かべていた。
あちらにあるという池も、そのあたりにあるような水場と大差ないのかもしれない。
仲間内で出かけたときに、出先の水場に潜っていく一途くんの姿を何度も見ている。そのときと変わらない場所。
そんなありふれたものが、化けものの国にもきっとあるのだ。
大差ないという考えは、私のなかにしっくりおさまる。
大差ないからこそ、私の家で眠る化けものは、恐慌を来さずおとなしく暮らしているのだろう。
――捜す。
私の頭のなかの情景が変わる。
知りもしない化けものの国で、一途くんが物陰を進む姿を思う。こちらのような国だとして、それでもおかしなものはいないとは限らない。
――危ないことはないのか。
私は出かかった言葉を飲みこんでいた。
――危ないだろうと考えてしまうのは、間違いかもしれない。
眠る化けものだが、危険なことはこれまでなかった。
いつから私は、化けものが危険な存在だと信じるようになっていたのだろう。往来ですれ違う誰かとおなじかもしれない。寄り合い牛車で、たまたまとなりの席にすわる誰かとおなじかもしれない。
――私は化けもののことをなにも知らないのだ。
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