第17話 青年、歌声にすやすやと
涼しげな声である。
「あ、金魚」
あれは心待ちにしていたものだ。
りり、りり、りりり、とくり返しさえずっている。
小走りに離れの前にいき、暗くてろくに見えない睡蓮鉢をのぞきこむ。私に驚いてしまったのだろう、ちょっとの間金魚たちは黙っていた。
ややあって歌いはじめ、りりり、とうつくしい旋律に私は満足していた。
堪能した私は、明日の朝明るいうちにまた様子を見ることにする。ただでさえ小粒でかわいらしい姿だ。歌う金魚はきっと愛らしいだろう。
母屋に入ると、ふすまの隙間から薄く明かりが漏れている。化けものが起き出しているのだろう。雨戸を閉めているからおもてに明かりは漏れていないが、ここがひとの多いあたりだったら、光や物音、気配などから化けものの存在が露見したかもしれない。
「やあ、ただいま」
卓袱台には月子さんから預かっていたお重があり、私はそれの風呂敷を解いた状態にしていた――これまでにないごちそうを、化けものは堪能しているところだった。
「月子さんがつくったんだ、おいしい?」
私が卓袱台を挟んで腰を下ろすと、化けものは紙を何枚か寄こした。
絵手紙の束だ。私が受け取ると、化けものは食事を再開する。甘い味つけのものが好みらしく、箸がよく動いていた。
「それ、おいしいよね」
もう化けもののほうも、私と言葉は通じない、と悟っているらしい。
声をかけるとこちらを見るが、以前のような、反応をうかがう気配はまったくなくなっている。
紙は一枚あたりにつき四角がふたつ、上下に並んで描かれていた。
四角のなかに絵が描いてあって、残念ながら内容が読み取れない。困った。
化けものを見ると、私に首をかしげた。わからない? と尋ねられている気分になる。
「そういえば……どうして、きみのこと怖くないんだろう」
紙をそろえて卓袱台に置く。
「きみのことは全然わからない。なのに、どうしてか怖くない。きみがちいさいからかな、見てわかる範囲で、あやしいと思わないからかな」
化けものは箸を置き、両手を合わせて頭を下げた。なにかいったが、これまでどおり聞き取れるものではなかった。
化けものが起き出しているので、私は布団の敷布などをまるごと取り替える。そのうち洗濯をすることにして、私は月子さんのお重がどのくらい残っているかのぞきこんだ。
一緒になってのぞいたあと、化けものは身振り手振りをはじめる。ぱたぱたと忙しなく手が動く。
それがおいしくておなかいっぱいになった、といっているように感じられて、私はうなずき返していた。
「月子さんは料理がとても上手なんだよ。きみにもおいしかったんなら、ほんとうによかった」
私が見ている前で、化けものは紙と筆などの一式を取り出し、なにやらしたためていく。
考え考え、慎重な動きで化けものが筆を動かす。まず曲線が大きく描かれ、こまかく色々描き足されていく。なんだかわからなかったが、紙面が線で埋もれていくにつれ、それがどこかの地図なのだと理解した。
「きみの住んでたところ?」
書き終わった化けものがそれをよこすので、じっくり眺めて考える。
この近所ではなさそうだ。知っている場所が当てはまらないか考える。いったいどこだろう。各地の地図ち比べていったら、化けものの住まいを見つけられるだろうか。
「見たことがない気がするなぁ」
化けものがなにかこたえた。
なにをいっているのかわからない。
そのとき私は、きっとこの化けものは帰りたいのだろう、と思った。
見た目や言葉が違うだけで、この化けものから脅威を感じない。ひどいことをされたり、おぞましさを感じたりすればべつなのだが、あいにくそんな経験はないのだ。
急に化けもののことが不憫になり、その晩私は来客用の取って置きの毛布を出してきた。
化けものの布団に入れてやると、横たわった化けものは短く声を出した。そしてじきにすやすや眠り出したから、きっと気に入ったのだろう。
私は自分のぺらぺらの万年床を敷いてある別室にいき、化けものとおなじくすやすやと眠った。
●
「あれぇ」
昼になってのぞきこんだ睡蓮鉢には、金魚の餌となる藻がほとんどなかった。
前は内側に、びっしりとまではいかないが、けっこうな量の藻が生えていたのだ。金魚が食べるのとほぼおなじはやさで藻は成長して増え、これといって餌をあげないでいい気楽な飼育状況だった。
どうして、と考えた私は、すぐに気がついた。
「……そうか。大きくなったんだから、前より食べるよねぇ」
りりりりん、と軽やかな音で鳴く金魚たちに手を振り、私は離れの戸を叩いた。
「……皮剥くんか……」
一途くんは離れに戻っていた。
ひどい顔色をしていて、さらになにかいおうとしたが、言葉はなくひたすら深呼吸をくり返している。私も宿酔いで吐き気のするときによくやるやつだ。潰れてすぐ寝入っていたが、かなりひどい宿酔いになっているらしい。
明け方に目を覚まし、火立くん共々飲み屋を後にし、離れに帰ってきたそうだ。それだけを話し、一途くんはふたたび深呼吸をする。
「なにか買い出してくるから、あとで離れでどうだろう。話をしながら……平気かな?」
宿酔いの様子からして無理ではないか、と思いながらの私の提案に、一途くんはかろうじて「うん」とうなずく。
宿酔いのときに食べて気力の湧くものを見つくろえたらいい。化けものも昨夜からよく眠っており、物音を立てないよう支度をした。
やっていないだろう、と思ったが、庁舎近くの「満腹」に向かう。
やはり開店しておらず、仕込みの最中だった。持ち帰りで料理を包んでもらうわけにもいかない。どこかほかの店を、ときびすを返した。
「皮剥さん、待って」
背中で月子さんの声を聞き、飛び上がりそうになるほど驚いた。
そこにいたのは間違いなく月子さんだ。どうして、という疑問はすぐ解ける。難しいことではなく、店の仕込みの手伝いに出ているのだ。
「離れに泊まってる友達が宿酔いになってるもので、なにか元気の出るものでも調達したくて」
「昨日のお料理は……?」
「……それが、食べてしまって……」
ひとりでではないが、今朝残っていた料理を私が平らげたところだった。量があったので、まだ空腹を感じそうにない。
「おいしかったです、ありがとうございます……重箱、どうしましょうか。お店にいるときに返しても、迷惑になりますよね」
「おじさんに預けてもらっても」
それだと一緒に出かけたことが硫黄さんにバレてしまう。
正直なところそれはいやだと思ったのだが、
「庭園、ゆっくり見られなくて残念でしたね。あそこ、おばさんとおじさんに教わって」
「硫黄さんたちに?」
「はい。昨日おじさんたちも、また庭園見物に出かけていったみたいです」
硫黄さんの家と月子さんのご実家は隣接していると教わっている。
嬉しくない情報だ。私と月子さんが出かけたことは、とうに筒抜けのようだった。
「……じゃあ、硫黄さんにお願いして預けますね。仕事中にすみません、お邪魔してしまって」
見やった「満腹」の薄く開いた厨房の窓や戸口から、それぞれつぶらな目がこちらをじっと見つめていた。
この店が身内の経営するものだということを忘れていた私は、取りつくろうようにそちらに会釈をする。
まだ飲み屋がはじまるには日が高く、しかし飯屋などはのれんをしまっている時間だ。
総菜をみつくろって離れに戻るころには、日がかたむきはじめていた。
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