第16話 青年、転換期を察知
一途くんはなかなかつかまらず、顔を合わせたときには、鼬の火立くんと一緒にいた。
「やあ、皮剥くん。ひさしぶり」
火立くんも学友のひとりで、ふたりそろって母屋の戸を叩いてきたのだ。
「めずらしいね」
ふたりは視線を交わし、ちょっとの間いやそうにする。
火立くんはさとに帰る前に、方々の友人たちに挨拶をしてまわっているのだという。
まだ帰るのは先だと思っていたところ、刀自が転んで寝たきりになってしまい、急遽見合い話が持ち上がって――と立ち話には長そうな口上がはじまった。
「急に訪ねてすまないね、でも皮剥くんが元気そうでよかった」
「火立くん、これからどうだろう。前に一途くんとも鍋を食べにいこう、って話してたんだ。いまから三人でいかない?」
「ああ、そういえば、そんな約束をしていたね」
のんびりと一途くんがいうと、火立くんが軽やかな声で笑う。
「ひととの約束を軽んじるところ、相変わらずなんだなぁ」
「お恥ずかしい、火立くんみたいにいつでも暇だったらいいんだけど」
ふたりはにこにこしていて、そういうところはそれこそ昔から変わっていない。
士族の庭園見物から戻ったところで、私は外出着のままだった。
三人でさっそく飲み屋街にくり出した。酒も鍋も、どの店に入ってもうまいものが出てくる通りだ。空席のあった店にさっさと腰を落ち着けた。
一途くんと火立くんふたりの近況報告の皮を被った罵り合いを肴に、私は煮えていく鍋を監督する。
とてものんびりした気分である。
一日中うまいものを食べて、今日はずいぶん贅沢な日だ。
結局庭園はゆっくり見物できなかった。くちくなった腹で戻ってみても混雑は解消されず、川辺で弁当を堪能しただけだ――それでも満足なのは、月子さんと一緒だからかもしれない。
「見合いの相手がさ、遠縁の子なんだ」
話題はやがて、火立くんのひとり語りになっていく。
持ち上がっている見合いの相手は、知らぬ女性ではなく幼馴染みだという。
「まあ、あいつとなら所帯を持っても」
声からして、憎からず思う相手なのだとわかる。それなら、火立くんの展望は明るいのではないか。
「相手もそう思ってくれてたらいいねぇ」
そうつぶやく一途くんは、ずっとにこにこ顔でいる。
「心配してくれた? でも一途くんみたいに、ひとの気持ちがわからないわけじゃないから平気だよ」
「そんなにすぐ他人から心配されるなんて思うのか。まるで子供だなぁ」
ふたりがごちゃごちゃと、つばぜり合いというには子供じみた応酬をするのは、見ていて楽しい。
この席で、私はちょくちょく月子さんを思い出していた。
もしも彼女と所帯を持ったら、どんなだろう。少なくとも、硫黄さんがあれこれ口を出してくるのは予想がついた。
ついさっき出てきた家では、化けものがすやすやと眠っていた。新しく絵手紙が卓袱台に残されていて、よく見ないで出かけてしまっている。
「どうしたものかなぁ」
口からこぼれ落ちたぼやきは黙殺された。一途くんたちのやり合いの邪魔にはならなかったようだ。
仕事の話から郷里のうまいものの話、旧友が立ち上げた事業の話。会話はだらだらと流れ、全員がうんうんと耳をかたむける。
楽しかったが、だらだらと飲み続けた結果、一途くんたちは深酒になってしまった。
彼らの飲む勢いに気がついた私がたしなめたが、すべて無駄だった――ただ私だけ、酒でくちびるを湿らせるていどにさせてもらっていた。全員が潰れたら店に迷惑をかけてしまう。その頭があり、妙に冷静になっていたのだ。
「お連れさん、ご機嫌になっちゃったね」
ふたりが前のめりになり、ひたいを卓につけて無言になっていると、店員が声をかけてきた。
「ひさしぶりに集まったので、おいしいものを食べようと出てきたんですが……進みすぎてしまったようで」
「たまにはそういうこともあるよ。二階に布団があるから、休ませていったらどうだい」
「え、いえ、そんな」
「お兄さん、時々きてくれてるでしょ。酒屋の杉玉と話してるのも見かけたよ、あそこの杉玉は相手選ぶんだ」
「……そうなんですか?」
よくしゃべる杉玉で、挨拶だけで通り過ぎるのを許さない手合いだ。誰にでもそうなのかと思っていた。
「いっつもきれいに飲んでってくれるんだし、お兄さんたまにはうちに面倒かけていきなよ」
ひとりならまだしも、ふたりを連れて帰るのは正直いってつらい。私はお言葉に甘えることにした。
その二階の布団というのが店員の休憩用と思ったが、そうではなかった。
近隣の飲み屋での取り決めで、泥酔した客は帰さずに寝かせよう、ということらしい。
店員の手を借りて二階に上がると、それなりに広い板間に布団がいくつも敷いてあった。
そこにはすでに酔漢の先客が複数いた。横で音を立てても、まったく目を覚まさないで寝こけている。それは先客だけでなく、布団に転がされたふたりもおなじだ。
「すみませんが、お世話になります」
「お連れさんが起きたら、帰るようにちゃんと話すよ。お兄さん、金庫だけ立ち会ってって」
二階に運んで布団に転がしても、ふたりは正気づかなかった。
ふたりはそのままそこで休ませてもらうことにし、貴重品を店員が店の金庫にしまうところに立ち会ってから、私はひとり店を出た。
今日は火立くんは宿を確保しているとのことだが、無駄足になってしまっている。
まさか出先で酔い潰れるなんて、学生のころ以来ではないか。
学生時分には、ふたりは仲が悪すぎて話の切れ目がつくれず、延々と飲みながら罵り合っていたものだった。
そのふたりがこの歳になってからも、酔い潰れて並んで眠っている。本人たちには悪いが、おもしろい場面に立ち会えたものだ。
のんびり歩を進めていると、以前傘を貸してくれた飲み屋の前に差しかかった。
まだ傘を返していないことに思い至った。
それはつまり、この店に飲みに入っていないということだ。
ずっと気が向くまま気楽に飲み歩いたりしていたが、それはいつまで続けられるものだろう。
終わりのことなど考えて行動などしないが、酔漢の陽気な声が聞こえる夜道で考える。
いつにないことを思うときは、転換期がきているのではないか。
――なんの転換期か。
脳裏をよぎったのは月子さんの顔で、私は頭をぶんぶんと頭を振った。
そのまま帰路、距離を進めていくにつれてひとけがなくなっていく。
いつしかひとりで夜道を歩くことになり、私はどこか遠くからほぎゃほぎゃあ、と銀魚の声を聞いた気がした。
自然と一二三さんの顔を思い出していた。
その声は二度目は聞こえず、錯覚だろうと足を進める。気にしすぎなのだろう。
家までの道は閑散としていて、ああいった鳴く魚の飼育やしつけには向いている土地といえた。隣家までの距離があり、夜半に騒いだところでそこまで聞こえようがない。
家への道、街灯の途切れる真っ暗な場所で、りりりり、と涼しい声が聞こえてきていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます