第11話 青年、肝を冷やす

 音のした方向に目を向ける。

 そこにあったものは、蔓のかたまりだった。

 あれが理由だとすぐ理解でき、ぞっと総毛立っていく。

「なんてことだ」

 途方に暮れたつぶやきは、私自身のもだった。

 ――誰かが悪さをしたのだ。

 植物との意思の疎通は難しいことが多いものの、彼らはおおむね静かで温厚な隣人だ。ただこちらの悪さの度が過ぎると、急激に牙を剥き容赦をしなくなる――ちょうど往来をこちらにやってくる、緑の蔓のかたまりのようになる。

 あれと意思の疎通を計ろうとせずとも、ひどく怒っているのだとわかる。

 怒り、その怒りの深さのあまり住み処を出てきたのだろう。

 蔓のかたまりは、ひとりの子供を追いかけていた。

 犬の子だ、身軽そうな身体を必死に動かして走っているが、足がもつれて時々転びそうになったりもしている。

 周囲にあるものをなぎ倒し、耳を覆いたくなるような轟音をまき散らし、ひたすら蔓は子供を追っていた。

 目当てはあの子供で間違いない。

 ならばあの子が逃げ切れたら、それであの蔓は沈静化するはずである。目的が消えればいいのだ。

 植物の暴走などそんなものだが、あの子が逃げ切れるのか、と緊張が走る。

「小僧、なにやった!」

 商品をなぎ倒された軒先で、店主が怒鳴った。

「や、社で……!」

 最後まで子供はいえなかったが、周囲の空気が凍りついた。

 ――最悪だ。

 社の植物というなら、そこを守るか、そこにいる強い存在の庇護のもと育った植物だ。いわば社の守り手か眷属ということになる。

 ならば、あれはただの植物ではない。

 簡単にいうなら、植物のなかでも冷静で賢いほうなのだ。

 滅多に怒るものではない。

 それが怒っているならよほどのことで、専門のものの手を借り詫びを入れなければおさまらないだろう。

 蔓の勢いからして、激昂しているのは確実だ。

 激昂し、疎通のはかれなくなった相手はやっかいだ。身を挺して止めるにも、蔓の規模は大きい。高さも建物の二階くらいある。

 止めるにはどうしたらいいか――燃やすのはだめだ。周囲に火が広がるし、詫びて済む話ではなくなる。

 今度は社を治める存在の怒りを買う覚悟が必要だ。

 子供がひとの多い通りに駆けこんだのも理解できた。植物が少ないほうを選んで走ったのだ。賢い選択だった。社におさまっていた植物なら、怒りを周囲に伝染させる可能性がある。芋づる式に植物があの子を追いかけはじめる、恐ろしい捕り物がはじまっていたかもしれない。

 あの子供が餌食になれば、蔓の怒りはおさまるかもしれない。しかしそれは避けたい。子供も蔓も無事であってほしかった。

「せめて、注意が引ければ……」

 蔓と子供との距離は縮まりつつあり、私の周囲では途方に暮れた空気が濃厚になっていた。

 前進してくる蔓は、長大な自身で球体をかたちづくっている。

 よくよく見れば、自身で幾重もの層をつくっていた。その内部で蔓は急速に動き続けている。

 その動きの源が怒りだと思うと、足がすくんでしまう。ひどく恐ろしい光景だった。和菓子屋の列にいた客がばらばらと散らばっていき、犬の子供はまた足をもつれさせて転びそうになった。

「危ない!」

「きゃああ!」

 方々から悲鳴が上がる。

 前進する蔓は、通り過ぎるときにあたりのものをなぎ倒し、壊していっている。、あれの力は相当なものだろう。つかまったら最後、おそらくあの子の生命はない。粉砕された塀や看板の仲間入りをしてしまう。

「月子さん、どこかに避難していてください」

 どこに、と指示できない。とにかくこの場を離れてほしかった。

「皮剥さんはどうするんですか」

「どうしよう。あの子、どうにか逃がしてあげられないかなぁ」

 前後を失っているようでいて、植物は目的を果たしたり標的を見失ったりすれば落ち着く――はずだ。それは野の植物でも、社のものであってもおなじだろう。

 あの子の親はどこだろう、どこかに姿がないか周囲をうかがうが、それらしき犬の姿はいない。あの子がなにかをやらかしたなら、単独で遊びに出てのことかもしれない。

 徐々に短くなっていく少年と蔓との距離、私も私で冷静ではなくなっていく。

 これだけの騒ぎなのだし、警邏の耳に入って彼らがやってくるまで、そうはかからないはずだ。

 それまであの子供が蔓につかまらなければいい。

 私は列がばらけたときに散らかった、店で使っている盆をためしに蔓に向かって投げてみた。

 遠くてぶつからない。

「さすがに無理かぁ」

 警邏がくるまで蔓の注意が逸らせれば、なんとかなるかもしれない。くたくたに疲れているあの子供よりは、私のほうがもうちょっとましに逃げ回れるのではないか。

 それも儚い考えだった。

 こちらと怒れる蔓との距離が縮まるにつれ、自分が引き受けよう、という考えが消えていった。

 無理無理これは無理怖い怖い逃げたほうがいい――怖じ気づくのは一瞬だ。

「月子さん、とにかく」

 逃げてだか逃げようだか言いかけたとき、騒動の周囲にいたひとびとが手近なものを一斉に投擲しはじめた。

 わあっ、と歓声に似た声が上がり、湯飲みや看板やのれんなどが飛んでいく。

 緑の蔓のかたまりに効き目があるようには思えないが、やや進みが遅くなったようだった。

「もっと投げろ!」

「なんでもいい、あのあんちゃんに遅れるな! 投げろ投げろ!」

 どこからともなかく、怒鳴る声が続けざまに上がっていく。

「小僧、さっさと走れ!」

「もうちょっとだ、死にたくないだろう!」

 道の両脇に並ぶ店から、戸板やら食器やら、大振りの鍋が中身をまき散らしながら飛んでいく。

「わああああ!」

 言葉にならない悲鳴を上げ、子供がこちらに駆けこんできた。

「ぼうや、こっち! なかに!」

 店員にうながされ、子供は和菓子屋に転がりこんだ。すかさず店員も飛びこみ、戸がぴしゃりと閉じられる。

「こ、これは」

 残されたのは、ずるずると進む蔓とその正面にいる私である。

 続けざまに投げつけられていたものは、やがてその数が尽きていった。

 蔓は子供を見失ったが、こちらにやって来ていたことは理解しているようだ。警邏は、とあたりに視線を走らせたものの、興奮し狼狽したひとびとが様子をうかがう視線があるばかりである。

「つ、月子さん……逃げて」

 ほろほろとかすかな音がする。蔓が鳴いているのだ。

 そういえば、と私は生唾を飲む。

 ――最初にものを投げつけたのは、私だった。

 それを蔓がしっかり覚えていたら。

「皮剥さん……!」

「いいから、月子さん……逃げてください」

 足が地面に縫いつけられたようになって、動かなくなっていた。

 その内側、幾重にもなった蔓自身の蠢く速度が増していく。ほろほろという音が、おうおうと大きな猛りに変わった。

 こちらに近づいている。

 私はうわごとのように、月子さん、とつぶやいていた。

 しかし遠くから高い音がして、はっと我に返る。

 警邏の使う呼び子の笛で、幾重にも重なっていく。

 笛の音は確実にこちらに近づいていた――それよりもはやく、蔓は私のほうに近づいているが。

 頭のなかが真っ白になる。

 おうおうというこの音は、いったいどこから出ているのか。

 蔓が自身でつくる無数の層、それぞれが動いているのがはっきり見て取れる距離になっていた。

 きっと痛い――正面からぶつからなければ、もしかすると生命を拾えるかもしれなかった。もしくは、早々に医者に担ぎこんでもらえれば。

 この距離では逃げ切れるともかわせるとも思えず、怯えから私は目を閉じようとしていた。

 そのとき、月子さんの声が聞こえた。

「皮剥さんに近寄らないで!」

 同時に、六人掛けの長椅子が空を飛んでいったのだった。

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