第10話 青年、ふーわふわ
「なによ、月子じゃないの!」
門の意匠とおなじ紋が染め抜かれた前かけをした猪が、息せき切ってこちらに駆けてくる。
「なんであんたがくるのよ! おかしいでしょうよ!」
足の動きに合わせて地面が鳴るような感覚があり、それにふさわしい声を猪は張り上げていた。
庭瀧工房は風を扱う商家が昔はじめた加工場で、いまでは独立して営業している。
とくに大きな嵐を得意とする工房だ。
強さだけでなく見栄えもよく、工房の主である庭瀧さんの美意識がうかがえる。庭瀧さん以外にも、とても評判がいい職人を抱えた工房だ。
敷地に入ってすぐから、洗練された光景が広がっていた。
四角い箱を規則正しく並べたような工房の数に驚かされる。剪定された庭木が通路の左右を飾り、ついつい自分の雑多な職場と比べてしまった――散らかっているようで、その実私の職場は居心地もよく仕事がしやすい。
「硫黄んとこの職人がくるんじゃなかったの!」
上司が呼び捨てにされ、私はひどく驚かされた。そこまで彼女が怒っているのか、とも。
「うん、それで私も一緒に……
月子さんの言葉をさえぎって、猪は肩を怒らせる。
「やらかしたの、あんたのおじさんでしょうよ! 本来だったら、硫黄がごめんなさいしにこないと駄目でしょうに!」
猪はまっすぐ月子さんのほうにやってきて、私には一瞥をくれただけだった。
「でも、私久しぶりに陽春ちゃんに会いたくって。お仕事中ごめんね」
「そうやって身内を甘やかさないの!」
いかにも怒っている、という顔をする猪から、月子さんは私に視線を移した。
「皮剥さん、こちらで技師をしてる、友達の陽春ちゃんです。女学校のときからの友達なんです」
女学校からの知り合いか。しかもかなり親しそうだ。だから怒っている、と聞いても気楽な態度でいたわけか。
「なによ月子、硫黄の部下って聞いてたけど、このひとでしょ、あれ、ほら、皮剥って。品評会で見た」
「あの、はい、皮剥と申します」
我ながらどうにも腑抜けた態度だが、私はへらへらと名乗っていた。
お詫びに、と出向いてみれば、月子さんの友達がいるのだ。きちんと硫黄さんが悪い、と断言している相手で、私は笑うしかなかった。
「皮剥さん、品評会に連れていってくれたの、陽春ちゃんなんです」
「ああ、そうなのですか」
工房に勤めているのだ、品評会に出かけてもおかしくない。関係者以外入場禁止、という場でもないため、友達の月子さんを誘ってもやはりおかしくなかった。
うなずく私に近づき、陽春さんは念入りに検分するような目でにらみつけてくる。
「このたびはたいへんなご迷惑をおかけいたしまして……」
風呂敷包みを差し出しつつ私が口を開くと、陽春さんは大きな声で笑った。
「なんか怒って損しちゃったわ! 当人はこないで、あんたらの逢い引きのだしに使われるんじゃ、怒ってるだけ馬鹿みたいじゃない!」
逢い引きだなんて、と月子さんが顔を覆い、私は軽く笑うに留めた。たぶん硫黄さんもそういうつもりなのだ。
「なによ、否定もなにもなし? 月子のこと泣かしたら、あんたのこと八つ裂きにするからね」
否定をしたりするような間柄ではないんですよ――その言葉はいわずじまいだった。
両脇に倉庫の並ぶ小道の先、ひときわ大きな建物の入り口に、硫黄さんといい勝負だろう体格の虎が現れた。無意識に私は言葉を止めていた。
「陽春! さぼってないでお客さんにお茶を出さんか!」
こちらの御仁の声は雷鳴のようだった。
受け取った風呂敷包みを抱え、陽春さんは虎のほうへ駆け出した。
あちこちの建物から、風を制御しようという気配が流れてきている。私の親しんだものだ。
風を研ぐには集中力がいる。
建物の入り口には長さのあるのれんがかけてあり、気配が強くなるとバタバタと暴れ出す。まだ日が浅く、腕に自信のない職人なのだろうか、焦れたような声が聞こえて私は微笑んだ。
「師匠、お茶なんて出すことないです! ここでお茶飲む時間があるなら、そのぶん逢い引きにいかせてやってください!」
大声でそんなことが聞こえてきて、さすがに「なんてことを」と口から出てしまった。慌てて月子さんを見れば、顔を覆うどころか指の間からまん丸くした目がのぞいている。
まず先に挨拶を、とそちらに向かい、私は頭を下げた。
「このたびは……」
「ああ、堅苦しいのはいいよ。体よく硫黄が遊びにくると思ってたのに、なんで若手がって思ってたら」
太い声で虎――庭瀧さんはいい、私と月子さんとを見てにんまりした。
「いえ、まだ知り合ったばっかりで、そういう関係では……ね、月子さん」
「は、はい」
「それじゃあ、この先そうなるかもしれないな」
庭瀧さんは前かけの物入れに差しこんであった、白い封筒を私に差し出した。
「詫びに出向いてもらったんだ、今回は水に流すってことで」
「師匠! なんで水に流すんですか、恩売っておきましょうよ!」
異を唱える陽春さんに、庭瀧さんは苦い笑みを浮かべた。
「そういうな、硫黄だってわざとじゃ」
「わざとじゃないなら、ここで穏便にしておいて、なんとか貸しにしましょう!」
「どうやって?」
「それは師匠が考えてください! あ、これ師匠の好物ですよ!」
陽春さんは器用に片手を使い、風呂敷の間からなかを確認していた。
ちらりとのぞいた外箱は、職場で主任がくれたきんつばの包み紙とおなじ紋様だ。くだんの店は、贈答用にとても高価な品も扱っていたはずである。箱の大きさを考えれば、工房のみなさんでどうぞ、ということだろう。
「おお。これはいいな」
庭瀧さんが相好を崩すと、陽春さんは風呂敷包みを抱きしめるようにした。
「食べ過ぎるといけませんから、これはまず奥さまにお渡ししますね!」
「ええっ、あとで、休憩のときに食べないのか? 食べたらいいだろう。ここのはおいしいから……」
「日持ちするんです、今日すぐに食べなくて大丈夫ですよ! あとで奥さまから受け取ってくださいね! じゃ、月子も皮剥くんも、あたしは仕事に戻るから。気をつけて帰るのよ!」
旧知のように皮剥くんと私を呼び、現れたときとおなじく地鳴りをさせて彼女は建物のひとつに消えていった。
月子さんは成人のお祝いをしたばかりで、陽春さんは女学校の友達で。ならば庭瀧さんに弟子入りし、そう日は経っていないのではないか。あの物怖じしない気質はうらやましいほどだ。
その師匠である庭瀧さんは、私を追い払うようにぞんざいなに手を振った。
「ほら、あんまりぺこぺこしてると首がもげて落ちるぞ。詫びがあったってことが重要なんだ。もう硫黄の件は仕舞いだよ」
「は、はい、ありがとうございます」
これといって私はなにもしていない。
ここでずっとまごついていても、庭瀧さんの仕事の邪魔になる。
頭を下げて辞そうとすると、風の気配の強い工房から低い悲鳴が聞こえてきた。
長さのあるのれんが高く舞い上がり、続いて開け放してある工房の扉から、つむじ風が飛び出してくる。つむじ風は工房内の書類などを巻きこんでいて、それを追いかけあどけないほど若い職人がまろび出てきた。
「待ってくれよ!」
彼の手の届かない高さにまで、書類は逃げてしまっている。
つむじ風は書類をはるか上空まで運ぶと、突然消えた。
書類がはらはらと舞い落ちる様子に職人が悲鳴を上げ、庭瀧さんが息をつく。自分の修行時代を見ているようで、なつかしいが気恥ずかしくなった。
私はいま一度庭瀧さんにお礼をいって、工房を今度こそ辞することにした。
私と月子さんが門をくぐって出ていくまで、庭瀧さんは手を振って見送ってくれていた。
竹林に囲まれた庭瀧さんの工房を出てから、ぐるりと道なりに歩いていく。竹林が切れるころでは、足元が土から石畳に変わっていた。
道が変わると風景も変わり、通行人の数が増えていった。
仕事がある時間帯に大通りを歩くのは、私にはめずらしい経験だ。ついあたりをきょろきょろしてしまう。
「皮剥さん、お疲れさまでした」
「いや……私はなにもしていないので……それで月子さん、話してた和菓子屋さんは」
「あっちです、そんなに離れてませんから」
ちょっとはやくなった歩調の月子さんと店を目指す。職場でもらったきんつばもおいしかった。甘いものもなかなかいい。
「今日は朝から、いいこと続きなんです」
となりの月子さんは上機嫌だ。
「母が好きなおかずばかりつくってくれて、ひさしぶりに陽春ちゃんに会えて、皮剥さんとお出かけできて」
最後のほう、声が小さくなっていく。
私は軽く笑うしかなかった。
月子さんはどうやら私と逆だったらしい。
私にしてみれば、友達の怪我だなんだで、この突然の休憩ともいえる直帰がありがたい一日なのだ。
だが私と月子さん、ふたり分を足して割ったら調度いいかもしれない。
私がいつも往来を歩く時間と違い、いまはゆったりと歩を進めるひとが多い。表情ものんびりしている。
みんな空腹も疲労もなく外出を楽しんでいるのだから、それもそうだろう。
まっすぐ和菓子屋に向かわず、ゆったりした気分で小物屋だの量り売りの菓子屋だのをのぞいた。
「たくさんあると、目移りしますねぇ」
楽しそうな月子さんの声を聞くと、私まで楽しくなってくる。
「せっかくの量り売りなんですし、ちょっとずつ買いませんか」
煙の出ていない煙管を加えた川獺の店主が腰を上げた。
「ゆっくり選んでって、おふたりさん。ほらこれ味見して、新しく入れたんだよ」
それははじめて食べる菓子で、分けてもらうなり口に放りこむ。餅のような食感の生地の間に、甘く煮こんだ果実が包まれている。
「おいしい!」
歓声を上げる月子さんに私が同意すると、店主は我が意を得た、という顔をした。
「ほかじゃあ、まだ扱ってないお菓子なんだ。ほかのお菓子もおいしいから、お土産にどうぞどうぞ」
あまりに月子さんが楽しそうなので、ついつい菓子をいくつか買ってしまった。
手のひらに乗るくらいの丸い石が量りの片方に乗せてあり、石ひとつ分の重さごとに料金が加算されていく。
財布に少し多目に入れていてよかった、と会計のときに思う――たぶん、今日は硫黄さんからの小遣いは使わないだろう。月子さんと出かけているときに、ひとのおごりで過ごす気になれなかった。
買った菓子を歩きながらふたりでつまみ、そこかしこの店先をのぞいてゆっくり進んだ。
目当ての和菓子屋が見えてきてときには、正直なところ腹七分目になっていた。
店を前にして、私たちの歩みは止まった。
「……すごい」
行列ができ、歓談しながら待つひとの数に感心するほどだ。
店の前に、女性の比率の高い列がぞろっと連なっている。先頭には六人掛けの長椅子が三本置いてあり、きれいに埋まっていた。
「これ、みんな和菓子屋さんのお客さんかしら」
店員らしき顔がなにやら説明をしていて、とりあえずそちらで事情を聞くことにした。
なんでも最近、人気役者がここの和菓子がうまい、とどこかで話したらしい。
それを私も月子さんもまったく知らなかったが、そのために列ができる混雑になったそうだ。
店内にいくつか席があるが、そちらを利用するには長時間待つことになる。さいわい、買って帰る分にはそんなに並ばなくてすむという。
「それじゃあ、いくつか包んでもらいませんか」
「はい……ちょっと残念です。ここ、お茶が二種類出るんですよ、甘味と一緒に飲むのと、食べたあとに出されるのがあって……」
月子さんは心底がっかりしている。はげましたくなるような様子だった。
「……それなら、今度またきましょう」
「い、いいんですか?」
「はい。その、私がお相手でよければ。評判が落ち着いたら、きっとそんなに並ばないですみますよ」
「わあ……う、嬉しいです」
えへへ、と私は笑い、月子さんもおなじく笑い――そのとき、歓談していた列や周囲がしんと静まり返った。
ふっと全身の毛が逆立つ感覚がした。原因を求め顔を上げかけた私の耳に、轟音が届く。
状況確認をするより先に、あたりが悲鳴に包まれた。
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