第9話 青年、仕事の手を止めて
短くなった納期に振りまわされている。
やっとこさ、いざ納品だ、と終わりが見えたころになって、いきなり仕様を見直すので作業を中断せよ、という連絡がきた。
私はあまり怒らないたちだが、このときばかりは目の前が真っ赤になったような感覚に陥った。
不憫に思ったのか、主任が自分の引き出しからおやつ出して分けてくれる。
自分の事務所から顔を出してきた硫黄さんが、私の背中を叩いた。
「めずらしいなぁ、皮剥くんがカリカリしてるなんて」
「ああ硫黄さん、皮剥が担当してたやつが、また仕様変更で」
「ええ……またぁ? あそこ最近ひどいなぁ」
硫黄さんの頭には、すべての発注が入っている。私がどこの案件を担当したか、それも把握済みだ。
「年度末に担当が代わって、今度はふたりになったんらしくて」
「それで変更に拍車かかるのかな。迷惑だねぇ」
もらったきんつばをもぐもぐやっているので、すぐに会話に入ることができない。うう、と呻いてきんつばを飲みこもうとがんばる。
そうなんですひどいでしょう、と言いたかった。できれば大きな声でわめきたいくらいだ。しかも納期自体は変更しないっていってるんですよ!
頭に吹きすさぶ怒りで、きんつばを噛むあごに力が入る。せっかくおいしいと評判の店の品なのに、こんなに怒りながら食べるのは不本意だった。
「手が空くなら、皮剥くんに僕のおつかい頼んでもいいかなぁ。今日はそれやったら、直帰で」
直帰という言葉に、同僚たちが一斉に顔を上げた。
「帰すのか?」
「手ぇ空くんだろ?」
低いつぶやきとともに、ふたりばかりは席を立っている。おそらくその手に持っている紙束は、自分が担当する案件の仕様書だ。
「そっちの作業が止まるなら、こっちを手伝ってもらったほうが」
「やることならこっちもあるんだけど」
湿った声が方々から聞こえ、硫黄さんが首を巡らせた。
「こっちからの伝達で、ちょっとポカやらかしちゃってねぇ。せっかく手が空いたんだし、皮剥くんには、ちょっとお詫びにいってきてもらうから。ほら、庭瀧さんってわかる? あそこの技師さんが怒ってて……」
「うわ、庭瀧さん? 怒ってるんですか?」
「なんでまた、よりによってあそこが」
打てば響くように、いやぁな反応があった。
「カンカンではないよ、でも誰か皮剥くんと交代したいひといる?」
誰もいなかった。
庭瀧という名の方に面識はなく、腕は確かだが、やたら怖い虎だと聞いたことがある。
その名前が出た時点で、誰も異を唱えない。おとなしく席に戻り、または仕様書を手に作業場に出ていく。
そんなに怖いひとなのか、と血の気が引く私に、硫黄さんは声をかけてくる。
「受付のとこで待っててくれる? 荷物取ってくるから」
「あの、私なんかで……」
「手が空いたんでしょ? ちょうどいいちょうどいい、僕がいくよりずっといいや」
上機嫌な声を残し、硫黄さんは部屋を出た。その巨大な背中になにも言葉が出ない。
「あの、庭瀧さんって」
「いくらなんでも食われねぇから、まあいってこい」
そこに主任が追い打つようなことをいった。
「気をつけてな」
広い事務所の方々から、同僚たちの「気をつけて」が降り注いでくる。
朝から一途くんが怪我をしたと肝を冷やし、納期が変わってカリカリし、果ては怖いひとのところにお詫びにうかがう――なんて日だ。
いっそのこと体調でも崩れたらいいのに、あいにく私は身体が丈夫だった。
肩を落として一階の受付に足を向けると、すでに硫黄さんは風呂敷包みを抱えて立っている。
「これ、あちらさんにお土産って渡して」
「も、もうお土産を用意してあるんですか?」
渡されたその風呂敷包みは、けっこうな重さがあった。
「これを届けるお使いみたいなもんだよ、気楽にして」
硫黄さんに背中を押されるまま足を動かし、庁舎を出ていく。
「そんなに怖がらなくて平気だよ、庭瀧さんが怒ってるんじゃなくて、庭瀧さんとこの技師さんが怒ってるだけだから」
どちらにせよ、あまり変わらない気がする。
「いったいなにが……」
「あ、僕が間違って仕様書をほかのとこ送っちゃったんだ」
「は? い……いまなんて」
大変なことではないか。
「過ぎたことだし、まあそれはそれ、で」
耳を疑う私の前で、硫黄さんはふところから財布を出した。取り出した札を一枚、抱える風呂敷包みの間にねじこんでくる。
「これお駄賃ね。庭瀧さんとこいったら、帰りに一緒にお茶でも飲んできなよ」
「え?」
硫黄さんがあごでしゃくった方向を見ると、庁舎前の大きな通りに、月子さんが立っている。
「え、え?」
「じつはね、庭瀧さんとこの技師さんと、月子が顔なじみなんだ。懐柔は月子がしてくれるから、皮剥くんはとなりでいい男ぶってて」
「これはどういう……」
「道々、月子から聞いてよ。僕が月子といこうと思ってたけど、皮剥くんがいるならそっちのほうがいいや。あとはよろしくね」
庁舎へ戻る硫黄さんと、こちらにやってくる月子さんとを交互に見る。
とにかく、庭瀧さんのところにいかねばならないのは確かだ。
が、先方の所在地を私は知らなかった。
「あの、皮剥さん……こんにちは」
「ご無沙汰しております」
にこりと笑った月子さんは、立ち去っていく硫黄さんの背中を不思議そうに見送っていた。
「今日は庭瀧さんのところへ、皮剥さんとご一緒するんでしょうか……?」
「月子さん、庭瀧さんをご存じなんですか?」
「いいえ、庭瀧さんはともかく、おじさんが怒らせた技師さんを知っているので」
私はため息を噛む。庁舎に戻り、硫黄さんを引きずってでも連れてきたほうがいいのではないだろうか。
「月子さん、先方の所在地を教えていただけますか? こんなことに月子さんがつき合うことはないですよ」
風呂敷包みの間で紙幣が揺れている。高額紙幣のそれを私は引き抜いた。
「硫黄さんがお駄賃だっていってました、これでなにかおいしいものでも食べて」
帰ってください、と渡そうとすると、月子さんは満面の笑みを浮かべた。
「わあ、おじさん気前いい! これからいく工房のそばに、おいしい和菓子屋さんがあるんです!」
「え? いえ、それは私ひとりで……」
「お茶も飲めますし、皮剥さんがよかったらそこに寄りませんか?」
こんなことにつき合わせていいのか、と迷いはあるものの、月子さんはいたく乗り気のようだ。なによりも硫黄さんのおごりとなると、月子さんから遠慮が消えるらしい。
「いきましょう、皮剥さん!」
月子さんが歩き出すので、私はこれでいいのか迷いながらも歩を進めた。手のなかで揺れていた紙幣をしまう。いくら紙幣を預けられたとはいえ、使うわけにはいかないだろう。私は財布の中身を思い出そうとする。
連れ立って歩き出すと、月子さんは硫黄さんがやったことをあらためて教えてくれた。
硫黄さんが先ほど話していたとおり、二件の取引先の書類を取り違えて発送したのである。
けっこうな大事だ。
しかし長くいまの仕事を続けている硫黄さんは、どちらの取引先とも懇意にしていた。庭瀧さんも、もう一方の取引先も気にした様子がないらしい。
それどころか、取引先の双方同士が知己らしく、もう笑い話になっているのだとか。
しかしそれですまなかったのが、庭瀧さんの弟子である技師だった。
くだんの技師は激昂していて、おさまりがつかない状態らしい。それではお詫びに、ということになったそうだ。
わからないのは、そこに月子さんが呼ばれたことである。
「なんでも顔なじみだと聞きましたが……」
いくら顔馴染みでも、姪を引っ張りこむだろうか。
「怒っている庭瀧さんのところの技師、私の友達なんです。おじさんが今朝、謝りにいってくれないか、って頼んできて」
「それはまた……」
技師と友達とは、さすが硫黄さんの姪御さん、ととらえるべきか。
口元を手で覆い、月子さんはふふ、とくぐもった声で笑った。
「どうかなさいましたか」
「てっきりおじさんと出かけるんだって思っていました。なのに皮剥さんとお会いできた上に、おじさんがお駄賃までくれるなんて」
預かった金額は、和菓子屋でちょっと休憩したくらいで、硫黄さんから預かった駄賃はなくなる額ではなかった。
使うまいと思っていたが、いっそのこと、全額使うような店にでも足を運んでみるか。
一途くんと鍋の話をしたのは、つい今朝方のことだ。
そのせいか、月子さんさえよければ温かい夕食でも、と考えが流れていく。
私は咳払いをする。どうにも月子さんが前にいると、浮ついてしまうようだ。
「私がご相伴するなんて、月子さんのご迷惑でなければいいんですが」
「い、いいえ! ぜひ……」
いいかけて、月子さんの目元が赤くなる。
うつむいてしまった彼女と一緒に、いつもよりずっとゆっくりの歩調で、明るい道を歩いていった。
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