第8話 青年、おののく

 問答無用に繁忙期に入った。

 仕事が忙しければ、自然と自宅にいる時間は減る。離れで暮らす一途くんとも、しっかり顔を合わせる機会を持てなくなっていた。

 かたや化けものは、目を覚ましている時間に絵手紙を残すようになっている。

 紙に墨でなにやら線が書かれているのを見て、最初は化けものの文字は難解だなぁ、などと唸ったものだ。

 だがそれは文字ではなかった。

 化けものはなにか、絵を描いていたのだ。

 なにを描いているのかわからない、ということを伝えられず、そのことを私は幸運だと思った。

 ――字が汚いから読めない、絵が下手だからわからない。

 これらはきっと、書いたものには楽しい言葉ではない。

 字ではなく絵なのだ、と思ってのぞめば、そういうふうに見えてくる。

 おそらく黒い筒のように見えるものは、私ではないだろうか。単衣っぽいものも着ている。

 化けものに与えた紙を見れば、半分以下に減っていた。

 商店に寄り束で売っているものを買い、化けものにそのまま渡してあった。目覚めている時間に落書きをして過ごしているなら、もっと用意しておいたほうがいいだろう。

 見せようというふうに置かれていた紙を、私はまた卓袱台に戻す。

 化けもののために用意していた食事は、手つかずのまま残されていた。傷んでしまってはもったいないし、それを朝食にする。化けものにはべつに食事を用意していけばいいだろう。

 化けものは二日に一度目覚めることもあれば、三日に一度のこともある。

 眠った挙げ句、化けものはどうかなるのか。

 それもわからないまま、ひたすら眠る化けもののおとなしさも手伝って、私は問題を放置していた。

 登庁すると、仕事に追われてあっという間に退庁時間になってしまう。そしてどう勘定し直しても無理のある納期に、空腹をこらえて仕事を続けるのだ。

 私だけでなく同僚たちもみなそうで、職場はいまギスギスと音でもしそうないやぁな空気に満ち満ちている。

 硫黄さんの調整は最初は完璧だったのだ。

 だがそれらが担当に割り振られ、先方と幾度かやり取りし、訂正が何度も入っていった。それにつれ、どれもかしこも時間が足りなくなっていく。

 私はかろうじて休日を死守しているが、帰宅時間は如実に遅くなっている。

 部屋の掃除もままならず、自分も化けものも買って帰った出来合いの総菜を食事にあてることが増えていた――なのに私は、二度ほど月子さんと会っていた。

 初対面の席で飲み過ぎてしまい、私は彼女とどんな会話をして別れたか覚えていない。これといって硫黄さんからお咎めもなかったし、月子さんと会っても、くだんの席のことはほとんど話題に出なかった。

 きっとひどいことにはならなかったのだろう――と、信じたい。

 泥酔の後の対面は、軽く食事に、と硫黄さんに誘われて出向いた先だった。

 そこに月子さんが同席していたのだ。

 これはもう間違いなく浮ついた話だ。

 なんだか弱ってしまうが、彼女と会うのはいやではなかった。

 そのうち彼女が私に持っている「きれいな人物像」というものも、壊れてくれるに違いない。

 月子さんは私と違い、熊なのだ。

 どうにか転がって話がまとまったとして、異種婚になる。

 最近ではうるさくいうひとも少ないが、私の曾祖父くらいの代では禁忌というひとだっていたらしい。

 そこまでのことを考えるのは時期尚早――私はあくびをする。

 忙しくなってくると、万年床の居心地はことさら最高になっていった。

 その朝も、私は名残惜しさを振り切るように布団を跳ね除け、無理くりに起き出した。

 何度もこみ上げてくるあくびを噛み、身体の重さにうんざりしながら身支度を整える。

 無意識のうちに両手をすり合わせていた。

 そろそろ本格的に寒くなる。そのころまでに、化けもののことが終わっているといい――その終わりがどんなものか、どうしたいのか皆目見当がついていないのだが。

 襟巻きで肩を守るように厳重にくるみ、道をいこうとした足を、私は離れへと向け直した。

 ――一途くん。

 化けものについて調べたりしている彼に、なにか聞けないだろうか。

 一二三さんや硫黄さんが、遠回しに一途くんのことを気にかけていたのだ。

 彼がよくないことを知ってしまったか、知ろうとしているか。

 それは考えすぎだろうか――しかし化けものに興味を持つもの自体がめずらしいのだ、一途くんはさぞかし目立っているだろう。

 以前飲んだ帰りに硫黄さんの姿を見、一途くんは逃げ出している。

 いまではあれを、野暮用ではなく確実に逃げ出したのだ、と私は思っていた。

 一途くん自身、なにかしら自覚があるはずだ。

 自覚があるなら、なおのこと警告が必要かもしれない。

 危ない道を歩いている友人に、足元を気をつけて、と明かりを差し向けるのはおかしいことではないだろう。

 だが私は一途くんに、いまだ警告の類いを発していない。

 自宅にいる時間が合わず、先延ばしにしてしまっていた。いいかげん話をしたほうがいい。

 そのときに化けものを拾ったことをつけ加えるべきだろうか、私はそこは迷っている。

 私自身には化けものに興味を持つ理由がないのだ。

 ただ、拾ってしまった。

 いまではどうして自分が拾ってしまったのかわからず、家に置いている確固たる理由も見つけられず、考えてもいつの間にか思考が拡散していた。

 離れに目をやると、しっかりと雨戸も閉まっている。

 眠っているのか出かけているのか。一途くんを不在と思いつつ戸に手をかけると、施錠されておらず、すんなり開く。

「一途くん?」

 首をのばし、声をかける。

「起きてる?」

 とす、と奥から音がした。

 なかは薄暗く、私はもっと様子を知りたくて足を踏み入れた。

「おはよう、ちょっといいかな」

「皮剥くん……なんていうか、起きてはいるんだけど……障りがあるというか」

 迷いのある声とともに、ふすまの開く音がした。

 暗く冷たい空気が満ちる廊下を、下着姿の一途くんがやってくる。

「着替え中だった? ごめんごめん」

 そういいつつ、男同士だし障りでもなんでもないな、と私は両手を二度打った。

 薄暗かった廊下に明かりがつき、私はぽかんと口を開ける。

 ぞっと全身の毛穴が開くような感覚がする。

 一途くんは怪我をしていた。

 血が流れている。

「ちょっと、ちょっと、ちょ……」

 呂律がうまくまわらない。

「ああ、慌てないで」

 血を目にして取り乱しかけた私に、一途くんが疲れた笑顔を向けてきた。その弱々しさに、彼は無事ではない、と焦りが募り出す。

「だけど、それ大怪我だよ!」

「いや、それほどじゃ……」

 歯切れの悪い声だが、隠し立てする気はないらしく、一途くんが傷がよく見えるように身体をひねった。

 胸元から脇腹にかけて、抉れて見える傷があった。一途くんは鷲掴みにした手拭いを持っていて、よくよく見ればその赤い模様は柄ではなく彼の血をぬぐったものらしい。

 目の前でじわじわと血がにじみ出してくる。

「と、とにかく医者を」

「血も止まってきてる、平気だよ」

「平気じゃない!」

 私が声を荒げると、一途くんは目とのどを丸くし、げこりといった。

 それから笑みを浮かべた。

「いや、正直なところ、けっこうよくあるんだ……藻を取りに水に潜って、よそ見をしてたら流されて、岩にぶつかっちゃって」

「だ、だけどそんな」

「見せたらびっくりしちゃうでしょ?」

 私は三和土でしゃがみこみ、彼の言葉を頭で数度くり返す。

 そんなことあるのか、と彼を上目遣いにする。

 私は泳ぎに潜ったことなど、過去数度しかない。それも浅瀬に足をつけて遊ぶていどのものである。一途くんは蛙だ。私よりずっと水に親しんでいるし、そもそも彼は藻の研究をしていた。

 研ぎの最中にちょっと指先を切ったくらいなら、私だって大騒ぎはしない。軽く布をあてて止血して、うまく止まったらそれで終わりだ。

 一途くんの怪我も、そんなていどのものだろうか。

 それを信じてしまっていいものか。

「そこの鉢に金魚がいるでしょ、最近藻も少ないし、いつもと違う種類があったら喜ぶかな、って思ってあたりをきょろきょろして……その、ついうっかりして」

 ざっと血をぬぐい、一途くんは傷を見せてくる。

「怪我をしても、傷がふさがるのはやいんだよ。もう止まってきてるの、わかるでしょ?」

 傷口はすでに出血がなく、なだらかとはいい難いが皮膚に覆われつつあった。ぬぐっていた手拭いについた赤さだけが、ひどく痛々しい。

「だいじょうぶだって」

 だが私は彼を医者に連れていきたくてしかたがなかった。一番近くで荷台のある車を借りられるのはどこだ――必死に考えるのに、空回ってまったく思いつかない。焦ってしまっている。

 傷も血もめったに見るものではなく、友達が怪我をしているというのに、平気でいられるものでもない。

「い、一途くん、ほんとうに医者は」

「いらないよ、血が止まったら、軽く飯にして寝ようと思ってたくらいだし」

 この近所には、医者どころか人家がはない。

 ここはひどくさみしい場所なのだ。

 暮らすには気楽だ。遠縁から譲られた家賃のかからない建物で、私は気に入っている。

 だが怪我人をひとりにしたい場所ではない。

 なにかあったときに、助けを得られないのだ。

「うん、ふさがった」

 軽い言い方の一途くんに、私はいつの間にか食いしばっていた歯の力を抜く。一途くんの傷は一本の線となり、すぐにも消えてしまうように見えた。

「……ほんとうに、怪我はもう気にしなくてもいいの?」

「心配かけてすまない。まずい状態だったら、ここで血をふいてないで皮剥くんのところに駆けこんでるよ。……まあそうはいっても、怪我しないように気をつけないといけないなぁ」

 傷もふさがって、疲れ顔の一途くんと向かい合うと、休もうとしている彼の邪魔をしていることがひどく申しわけなくなってきた。

「ごめんね、皮剥くん」

 腰を上げた私は、彼への用事を思い出した。化けものについてなにか聞けないか、そういう話をする機会がほしかったのだ。

「一途くん、近いうちにまた飯でも」

「あ、いいねぇ。寒くなってきてるから、鍋でもつつきたいな」

「鍋か、名案だね」

 私がうなずくと、一途くんの腹が鳴った。

「……怪我が治ったら、今度は腹が減ってきちゃったよ」

 登庁しなくてはならないし、一途くんも休みたいだろう。

「食べるものはあるの?」

「うん、弁当を買ってきてあるから」

 私はもう一度上半身に視線をやり、彼が無傷になっていることを確認して離れから出た。ぐったりと疲れていたが、登庁しなくてはならない。

 離れにいた時間は思っていたよりは短かったが、焦って小走りになるには充分の長さだった。

 遅刻、と短く唱えながら走り、その甲斐あって時間に遅れずに済んだ。

 ほっとしたのも束の間――席で襟巻きを外す私に、さらに納期が短くなった、と無慈悲な声がかかったのである。

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