第6話 青年、戸惑う

「気軽に飲もうねぇ」

 庁舎を出るときに、硫黄さんはいつもの温厚そうな声でのたまった。

 なら、これから向かうのは気軽な店なのだろう。私はそう信じ切っていて、軽い足取りで硫黄さんに着いて歩いた。

 ゆったりとした歩行に見えるのに、硫黄さんの速度はややはやい。私は大股で歩き、周囲に目をやった。

 先日硫黄さんと会った飲み屋街に入り、さらに奥へと進んでいる。見慣れた景色に気軽に構えていたが、硫黄さんはどんどん先の道に足を伸ばしていく。

 飲み屋街の裏手が花街が鎮座している。

 背中合わせに飲み屋街と花街がそれぞれ展開していて、飲んでそんな気分になったら、気軽に出かけられるようになっていた。

 飲み屋街も花街から外れたものは、女性や家族連れでも気軽に立ち寄れる店構えとなっている。

 また、さらに花街の中心から離れれば離れるほど、酒を出さず菓子を中心に振る舞う店や、定期的に朗読会や演劇を観せる店が増える。

 気軽に立ち入ることのできる区画が広がり、ところによっては昼からにぎわっているそうだ。

 昼には仕事があって私は実際に立ち入ったことはないが、同僚でそういった店での催しが好きなものから聞いている。有休をあててまで足繁く通うというのだから、趣味嗜好が合えばよほど病みつきになるものなのだろう。私は気軽に飲み食いがしたいから、飲み屋街で事足りている――そういうことだろう。

 硫黄さんは先日話していたとおり、料理を買って帰ることが多いらしい。

 どの店がなんの料理が上等で、どの店ではいずれ腰を落ち着けて食事をしてみたい、と歩を進めながら希望を並べている。ひとりごとに近いが、楽しそうな声は聞いていて気分がよかった。

 飲み屋街を奥へ奥へと進んでいくと、道はゆるやかな下り坂になっていった。

 いくつかの角を折れ、短い階段を下り、道を照らす街灯も数が減っていく。

 本格的に花街ととなり合わせの一帯に入ったころには、店はどれもこれも老舗などと呼ばれる由緒正しい料亭ばかりになっていた。道も広く、牛車が乗り入れられるようになっている。

 そのころには、すっかり私は黙りこくっていた。

 こんなところで飲もうなど、硫黄さんはなにを考えているのか――もしかして目的の店に行く前の散歩なのだろうか。

 せめて店の名前だけでも尋ねてはいけないだろうか、と考えたころ、硫黄さんは一軒の店を指差した。

 しめされた店を前に、私は固唾を呑んでしまった。

「あの……硫黄さん、まさかここなんですか」

「けっこう距離があったなぁ、こんなに遠いと思わなかったよ。皮剥くん、すまなかったね、ああおなかがすいた。おいしいもの食べようねぇ」

 返事などできない。

 軒を並べる店のかまえに圧倒され、時折すれ違う通行人の身なりのよさにどぎまぎし、目当ての店ののれんをくぐる前から私はおとなしくなっていた。

 入るなり女中に案内されるような店など、いい歳になってから入ったことは一度もないのだ。おさないころ、親類の祝いごとに便乗してお邪魔したていどである。当然そのときに食べたものの味など、まったく覚えていなかった。

「よかったねぇ皮剥くん、庭の見える部屋だって」

 硫黄さんに話しかけられて、私はガクガクと頭を上下にした。

 女中の説明など、私の耳を素通りしている。

「いやぁ、やっぱり見事なもんだねぇ、さすがだよ」

 硫黄さんにうなずくことしかできない。

 屋号は私でさえ知るものだった。老舗中の老舗であり、私など場違いもいいところである。そこで頓着しない態度でいる硫黄さんはすごい。

 内装はすべて木と紙とでつくられていた。

 つやつやと磨かれて光る柱や梁や天井に、これだけ掃除を徹底するのは大変だ、と私は首を巡らせた。

 足音を立てずに歩く女中について進むなか、いくつかのふすまを通り過ぎた。

 なかに客がいるのかわからない静かなふすまと、おいしそうなかおりが漂うなか閉じられているふすま。

 右手にふすまが並び、左手には手入れのされた庭が一望できた。

「ずいぶん広い庭だねぇ」

 硫黄さんがつぶやくと、歩調をゆるめた女中がなにやら解説をはじめる。

 庭師が宮家御用達だとか、斬新な意匠を取り入れるのがならいだとか。料理だけでなく、目でも楽しめるようにとの気遣いらしい。

 やたらと植物が植えられていて、あまりのんびりできなそうな庭だ、というのが私の感想だった。老舗とあって、利用客は名も身分もある方が多いだろう。見事な庭園は、そのまま警護の篤さにもつながる。なにせ植物たちは自分の縄張りにうるさいのだから。

「お通しいたしますお部屋から見えますお庭は、昨日ととのえたばかりでございます」

「楽しみだねぇ、皮剥くん」

 話しかけられて、私はまたガクガクと頭を上下させる。

 位置としては、奥まった場所にあるらしい部屋に通された。

 女中が無駄のない動きで出ていき、私はほっと息をついていた。横で硫黄さんは笑い出し、頓着しない態度で薄い襟巻きを座卓に放り出した。

 案内された部屋の奥にふすまがある。いくつか続きの部屋になっているようだ。

 豪華な部屋だ、と素直にうなずける。

 部屋のつくりなど、私の家や離れと基本はおなじはずだ。特別な建築法などではないだろう。

 家屋の古さは老舗であるこちらのほうが上のはずである。我が家は古びくたびれて見えるが、こちらは威厳あるたたずまいだ。

 この差は念入りな掃除だろうか。

 こちらは居心地を悪く感じるほど、部屋が手入れがされていたのだ。部屋の壁であっても、うかつに手をついてはならない気がする。私はくつろげないでいた。

「硫黄さん、なんでまたこんな高級な」

 尋ねる私の声は、情けないくらい非難がましかった。硫黄さんは気分を害した様子はなく、頭をかいている。

「姪にさ、成人のお祝いになにがいいか、って訊いたら、おいしいもの食べたい、っていうもんだから……」

「お、お祝い?」

 忘れていた。

 姪御さんがいらっしゃるとかなんとか、誘われたときに言われた覚えがある。

「そうだよ。せっかくだから、めったにいかないところで食べたらさ、記念になるかと思って」

 お祝いだなんて話は聞いていない。私は背をのばし、部屋を見回していた。

「姪御さんは、ほんとうに」

 いらっしゃるのですか、と尋ねようと私の目の前で、奥の部屋へと続くふすまが音を立てた。

 ことりことりと音を立て、ちょっとずつふすまが開く。

 隙間に目がひとつ現れた。

 ほそめられたそれは黒々としている。硫黄さんみたいだ、と思う私の前、今度はすぱっとふすまが開かれた。

 そこにいたのは大きな熊だ。やはり硫黄さんに似ている。

 こちらが姪御さんか、ずいぶんとおとなびた方である――となりを見れば、硫黄さんが唖然とした顔をしていた。

「ちょっと、なんで蔦子がいるの。用事あるんじゃなかったのか」

 ふすまの間で正座をしていた熊は立ち上がった。

 してやったり、とでもいうような、愛嬌のある笑みを浮かべている。顔つきはともかく、雰囲気がどう見ても硫黄さんそっくりだった。

「がんばって身体空けたのよ! おいしいもの食べるんだから、あたしだってご相伴したいもの。こんないい店選ぶだなんて、あんたもひどいわ。あたしがいないとずいぶん奮発するじゃないの!」

 よく通る声である。

「そ……それならそうと、先にいってくれないと……お店にだって、いきなり数が増えますなんて迷惑だろう」

「先に連絡しましたよ、知らなかったのはあんただけ」

 硫黄さんはたじたじになっていた。

「は……払いだって」

「額の裏にあったあんたのへそくり持ってきたから、そのあたりは大丈夫よぉ」

 ああああ、と濁声で呻いてから、硫黄さんは蔦子さんと呼ばれた熊を手でしめした。すっかり肩を落としてしまっている。

「うちの家内。蔦子っていうの」

 細君は勝ち誇ったような笑顔である。

「お……奥さまですか、はじめまして、皮剥と……」

「皮剥さんはじめまして! お噂はかねがね……ほら月ちゃん、こっちいらっしゃいな、あんたも挨拶なさいよ」

 蔦子さんが自分の後方に声をかける。

 畳を擦る音がし、蔦子さんの肩ほどの大きさの熊がそっと顔をのぞかせた。硫黄さんや蔦子さんと一緒にいるためか、深々と頭を下げた姿をずいぶんと小柄だな、と感じる。

「つ、月子と申します」

 正装をした大きな熊と小さな熊を前に、私は慌てて膝を折る。

「皮剥と申します、本日は硫黄さんのお招きで……」

「いいのいいの、そういう堅苦しいのは!」

 大きな手で蔦子さんに肩を叩かれた。腕力が強く、私は舌を噛みそうになる。

「今日はほんとは、僕と月子と皮剥くんの三人のはずだったんだけど……」

 どことなく残念な響きの声に、蔦子さんが嬉しそうな顔をする。

「月ちゃんのお母さんね、あたしの妹なの。今日は外せない用事があってさ、とりあえずうちのひとのお財布からおいしいもの食べにいこ、って」

「私がお邪魔なんかしても……」

 費用の一部は、どうやら硫黄さんのへそくりからまかなわれるらしい。せめて自分の分だけでも払いたくなっている。かなうなら、お祝いだけ述べて帰りたいくらいだ。

「いいんだってば! またべつの席をうちのひとが設ければいいのよ! そのときもくればいいじゃない、妹も会いたがると思うわぁ」

「と、とんでもない……部外者がそんな……」

 こちらをじっと見つめている月子さんがくちびるを噛むのがわかり、私は口をつぐむ。なにか失言をしただろうか。

「奥の座敷に食事の支度してくださるそうよ。あっちにもういっこ出入り口があって、呼ぶまでこのあたりでのんびりしててください、って」

 蔦子さんの説明に、月子さんがこくこくと小さく頭を上下させる。緊張の見て取れる動きで、つい「そうなんですか」と蔦子さんに返しながら、私もこくこくと頭を真似するように上下させていた。

「なんていうのかしらね、格調高いっていうの? あたしにはなんだか辛気くさいわぁ」

「おまえ、そういうことを大きな声でいうもんじゃないよ」

 蔦子さんはけらけら笑う。老舗の雰囲気の飲まれず、とても楽しんでいるのがわかる。つられて私も肩の力が抜けていくのを感じた。

「いいのいいの、よそさまの前でいわなきゃいいのよ」

 三人の熊に囲まれ庭を眺めたりして時間を過ごしつつ、私はなにをしにここにきたんだっけ、と内心首をかしげていた。

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