第5話 青年、怖い話を耳にする

 硫黄さんはあごをこすった。

 じゃりじゃりとかたくこまかい音がして、指と毛の間から鉄砂が落ちてくる。

「この間のお友達。ほら、蛙の子よ、いたじゃない?」

「はい」

 応じた自分の声は、どことなく弛緩したものだった。

 ほんとうは緊張している。

 だが呼び出してきたのが硫黄さんだったから、心底救われた気分でもある。

 硫黄さんは仕事ができる上、面倒見のいい御仁なのだ。

 この仕事に就いたころから、なにかと世話を焼いてくれている。

 私だけでなく、とくに新入りにとって硫黄さんはありがたい存在といえた――問題は、飄々としていることと、あまりひとの話を聞いていないことがある、という部分だろう。

「皮剥くんは、あの蛙の子と親しいの?」

「顔なじみです、時々酒を飲みにいくことがあって」

 うなずいた私は、先日顔を合わせた一二三という狐のことを考えた。

 一途くんはなにかしでかしてたのだろうか。

 化けものについて調べるだけでも、そんな監視されるようなものなのか。

「そっか、顔なじみね」

「その……失礼な態度を取ってしまったようで……」

「いいよ、だって僕身体大きいし。びっくりするひともいるから。ほんと怖がられちゃうんだよねぇ。それでね、警護隊から皮剥くんに挨拶をしたって聞いたんだよ、会ったんじゃない? 狐の」

「……雷一二三さんと名乗っておられました」

 自分ではそう思っていないらしいが、硫黄さんは感情が顔に出やすい。

 あの一二三さんという方は、硫黄さんにとって思わしくない相手なのだろう。割と簡単に予測できた。

「そうそう、それそれ、一二三さんね。まあ一二三さんはともかく、あの蛙がちょっと危ない、って話を聞いたことがあるもんだから」

「危ないんですか」

「危ないよ。だから警護隊が目をつけちゃうんだ」

 硫黄さんはつぶらな目を私に向ける。こすっているあごから、いまもぞりぞりと鉄砂が落ちていく。

「なにか思い当たったりしない?」

「はい、化けもの好きということくらいしか」

 目を見開き、硫黄さんは手を止める。

「皮剥くん、怖くないの?」

 怖いものなのだろうか。

 げこり、と穏やかに笑う一途くんの顔を思い起こした。

 まったく恐くない。

 次いで家にいる化けものの様子が思い起こされた。

 そちらもまったく恐くない。

「まあ……好きなものはしかたないでしょうし……怖いことにあいつが巻きこまれなければ、それでいいんですが」

 硫黄さんは紙を取り出すと、机に散らばった鉄砂を集めた。

 鉄砂は小山をつくった。

「こんなで足りるかな……そっか、蛙の子は友達かぁ」

「腐れ縁だと思います」

 大学を辞めた後もつき合いの続いている学友たちは、みないい腐れ縁だ。

「しつこいけど、彼のことは怖くないんだね」

 数少ない好事家を巡って化けものの話をせがみ、文献を探し、そうしてあちらこちらを放浪している。

 藻の研究者だったときより、一途くんはずっと楽しそうで――だからか危機感に乏しく、問題だとは感じない。

 そもそも、問題を起こしているのは私なのだ。

 そして家にいる化けものは、どこにも危険な様子がない。

 一途くんが問題視されるなら、好事家たちはどうなのだろう。全員目をつけられているのか、私は腑に落ちない気分になっていた。

「そうですねぇ。本人が昔からああなのと、一緒にいて怖い思いをしたことがないせいかもしれません」

「それを聞いて安心したよ、皮剥くんは巻きこまれていないってことだね」

 つくづく、といった硫黄さんの声は、私の背中を粟立たせた。

「ちょ……ちょっと硫黄さん、そんな怖いこといわないでください」

「いやぁ、生きてるとさ、なにがあるかわからないでしょ?」

 これは忠告なのだと、鈍い私でもわかる。

 警護隊の一二三さんまで現れた。硫黄さんは私に対し、一途くんを警戒するよううながしてくれている。

 硫黄さんはわきにあったガラス瓶を引き寄せた。

 ガラス瓶のなか、黒い液体がもったりと揺れる。軽々とした動きではあったが、相当な重さがあるはずだ。

 大きなさじを扱い、硫黄さんは机上の鉄砂の小山に瓶の中身である糖蜜を垂らしはじめた。

 ぼっとりと重たい動きでそれは小山に落ち、注がれ、やがてまるい糖蜜の玉が小山からころりと転がり落ちる。

 ひとつ、ふたつ、みっつ、と玉は増えていく。ころころと紙上から逃げようとする玉を、硫黄さんはさじでつかまえていた。

「よいしょ」

 硫黄さんは大儀そうな声を漏らし、机の下から大振りのたらいを引き上げた。

 熊の硫黄さんが両手で持ち上げる大きさだ。張られた水には、すでにいくつか糖蜜の玉が浮いている。

 硫黄さんはさじとへらを使い、器用に机上の糖蜜の玉をたらいに落としこんでいく。

「あのね、皮剥くん。まじめに、率直に、包み隠さず話をさせてもらうね」

 たらいの水をさじでくるくるとかき混ぜ、硫黄さんは口を開く。

「彼は危ないから、皮剥くんにはあんまり仲良くしてほしくない」

「危ない、ですか」

 呆然とした声が出る。

 気のいい奴で、と擁護する言葉を頭で探してしまう。それをさえぎるように、硫黄さんは大きな黒い手を私に向けて振った。

「友達だとね、いろんな意味で警戒がゆるくなっちゃうんだよね。うん、それはよくわかるんだ」

 もう一方の手は、休まずさじを扱い続けている。くるくるとたらいの水に渦が生まれていた。

「危ないことが起こるとするでしょう。そうすると、友達だったがばっかりに、今度はかばったりしようとする」

 沈む糖蜜の玉と、浮かぶ糖蜜の玉。

 順繰りに浮かび、沈み、先ほど投入されたのがどれなのか、私の目には見分けがつかない。

「皮剥くん、僕はきみを気に入ってる。上司でなかったら、きっと飲みに誘っていたと思いますよ」

「……私でよければ、ご相伴させていただきますが」

 なにをいったらいいかわからず、私はそうこたえていた。

「ほんと?」

 目だけ上げ、硫黄さんは私を見た。

「誘っていいかな? 皮剥くん、立ち入ったことを訊くけど、浮いた話なんてないの? いい子とか」

 ああこれは、誘って怒るものがあるかないかを尋ねているのだろう。

 化けものが眠る姿が頭をよぎったが、私は手を左右に振った。

「いません。そんな相手がいたら、男友達相手に酒なんておごってません」

「おごってるの?」

「……ちょっと、月の手当が上がったので、なんとなくみんなと飲みに……」

「えぇ、そんな金蔓みたいな真似してるの?」

 そのとおり、金蔓だ。

 あはは、と私が笑うと、硫黄さんも笑った。

「さっそくだけどさ、今度の休み……の前の晩にどうだろう。仕事終わったら、ちょっとつき合わない?」

「かまいません、お店のあては」

「あるある」

 たらいの中央に、浮き上がった糖蜜の玉が集まる。ひしめき合ったそれらはぶつかり合い、こつこつとかすかな音を立てていた。

「そんときに、姪がいてもいいかな」

「姪……御さん、ですか」

 なんでまた、と首をひねる。

「そう。よかったら、姪に会ってやって。品評会できみを見てから、ちょっと気にしてるんだ」

 また私はあははと笑ったが、今日で一番強張ったものだった。

 こつこつと鳴っていた糖蜜の玉のひとつが割れ、涼しい音とともになかから愛らしい魚が現れる。

 失敗した大福のような見た目のそいつは、硫黄さんがさじの先でつつくと、ばつんと凶悪な音を上げて姿を変えた。

 全身にとげのあるはりせんぼんに成ったそれを、硫黄さんはさじでたらいのすみに追いやる。現れていたほかの魚をさらにさじでつつき、硫黄さんは長い息を吐いた。

 ばつんばつんと激しい音が続いている。

「元気元気。元気すぎるな」

 私はまじまじとはりせんぼんを見つめていた。

 はりせんぼんの製造を目の当たりにするのは、勤めて以来どころか、まったくはじめてのことだった。

 使われるのは剣呑な用途ばかりのはず。

 それが大量につくられていることに戦慄を禁じ得ないが、硫黄さんがつくれるということにも少なからず驚いていた。

「硫黄さん、なにかあるのですか?」

 べつの糖蜜の玉をさじでつつき、口をもごつかせた硫黄さんは、呻くような声で「うん」といった。

「……僕もね、この牛攻をつくるのはひさしぶりなんだ。腕がなまってなくてよかった」

 まったく嬉しくなさそうな声だ。

 はりせんぼん――とくにそのなか、牛攻と呼ばれる種類のものは勇猛だ。

 これと決めた獲物がいたら、自分の針で仕留めるまでよしとしない。

 無意識のうちに、私はたらいのなかの牛攻の数を勘定しようとしていた。

 みっつまで数えたところで、残っていた糖蜜の玉が次々と弾けていく。もう私は数えるのをやめていた。

 金魚銀魚と違い、牛攻はとくに鳴かない種だ。硫黄さんのさじに順番につつかれ、ばつんばつんと雄々しい姿を披露する。

「これからしつけるからね。ちょっと時間がかかる」

 低い声だ。聞き漏らしそうで、私は硫黄さんのほうに自然と顔を寄せていた。

「一二三って狐さぁ、あのひと警護隊の長なのよ。邪臭を追放したいって動いてるんだ」

「じゃしゅう」

 聞いたことがない――気がする。

 空中に硫黄さんはその字を書き、私が飲みこむと言葉を続けた。

「いまは耳慣れないけど、そのうち出回るんじゃないかな」

 机の下から瀬戸物の蓋を持ち出し、硫黄さんはたらいにふたをする。閉じられるとき、あらたにばつん、という音がしていた。

「いままでは、警護隊で内々に使われてた言葉でね」

 硫黄さんは私を見、それから視線を逸らした。

「化けもののことだ」

 たらいを横の棚におさめ、硫黄さんは引き出しから厚い書類の束を引き出した。どさりと音がするような束のそれを、硫黄さんは私の鼻先に突き出す。

「僕がこれを承認すると、なにが起きるかわかりますか?」

 私は首を横に振っていた。

「僕が判を押して先方に返すでしょう、そうすると、続々とこまかい指示がついた発注がされます」

「ああ……」

 色々なことを聞かされて、平常心から離れていた気持ちが引き戻される――私たちは繁忙期に入るのだ。

「どう組み合わせていったら、うちの若い衆が効率的がうまい順調に仕事ができるのか。これから僕はそれを考えます」

 私はうなずき、しかし硫黄さんではなくたらいのおさまっている棚に目を向けていた。

 あのなかで勇ましい顔をした牛攻たちが、針を突き出す特訓でもはじめているかもしれない。

 その針はなにに使われるのか――私の頭に、一途くんの顔が思い浮かぶ。

 硫黄さんはこれといったことを話していない。

 なのに、私は一途くんが危ないのだ、と理解していた。

 理解し、だがそれを硫黄さんに確認をすることができない。

「いきなり呼び出してごめんね」

 硫黄さんの言葉は、私に仕事に戻るよう求めていた。

「はい……よろしくお願いします……」

 背を向け硫黄さんの部屋を出ようとすると、ひとりごとにしては大きなつぶやきが聞こえてきた。

「牛攻のしつけに、ちょっと時間かかるかなぁ」

 足を止めかけたが、私はなんとか歩を進めて部屋を出ていく。

「手を抜くわけにはいかないし、ほかの仕事もあるからなぁ」

 ――もしその間に、一途くんをどこかに逃がせたら。

 具体案などない。

 廊下の冷たい空気を吸いこむ。吸いこみすぎて、私はむせてしまった。

「おい皮剥、だいじょうぶか?」

 通りがかった先輩職人が、気遣わしげな顔で背を叩いてくる。

 礼をいいつつ彼といっしょに連れ立って歩き、平静を装った。

 様々な話を聞かされていた私は、すっかり疲れてしまっていた。

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