第4話 青年、来訪者に戸惑う
私の生活に関するものすべてに、化けものは驚いた様子を見せた。
こちらにしてみれば日常的なものだ。
しかし化けものにしてみれば、あれやこれやははじめて目にするものらしい。いったいどこから来たのか、あまりに暮らしにまつわることに疎かった。
そのため化けものには、なにもかもを一から教えなければならなかった――とはいえ、目の前で一度手本をしめすだけでいい。
電灯も勝手に使うし、踏み台があれば流しに食器もつけておいてくれる。ざっと身振りでしめしただけで、厠も風呂も問題なく使えているようだ。
化けものは食が細く、またよく眠った。
まさか体調が悪くなっているのではないか、と気を揉んだが、どうやら化けものというものはよく眠るらしい。
昼夜関係なく化けものはよく眠り、私が不在の間どうしているのか首をひねる。
化けものがどこかに出かけている様子はなかった。
たった十日ほどが過ぎたころには、私はこの化けものを隠し続けたいと考えるようになっていた。
言葉もなにも通じないここでは、あまりに化けものは立つ瀬がない。
彼らと接触しただけでも警邏が動くとされているのだ、みずから手を貸そうというものはそうそういないだろう。
化けものに対する正しい対応は、即座に警邏を呼ぶか、逃げて距離を取ってから警邏を呼ぶか。
かかわっていくなど、あってはならない。
なぜなら、相手は化けものなのだから。
世間はそんな状態だ、ここでおとなしくしているほうが、化けものにとってもいいはずだった。
ただ私はずっと家にこもっていられない。日がな一日、付き添いや監視をしていられる身の上ではなかった。
化けものがここを出ていこうと思えば、いつでもそうすることができる。
それでもわざわざ警邏に届け出ることもなく、静かにここで化けものが暮らしていけたら――考えかけ、私はぞっとする。
それではまるで、化けものを飼い慣らそうとでもいうようではないか。
向き合った私たちは、時折意思の疎通をはかろうとこころみた。
おたがい通じない言葉でしばらく話し合うが、成果はない。最後はいつも、それぞれが落とし重なったため息でしめくくられる。
しかし落とすため息が持つ、徒労だったという落胆はおなじに思える。
そろっておなじ意味合いのため息を落とせるのだ、まだやりようがあるのでは、と考えた。
ふと思いつき、紙と硯、筆などの一式を化けものに与えてみた。
「これ、使い方はわかるかな」
迷った様子はなく、化けものは背中をまっすぐにして紙に向かい合う。
扱いはわかっているようだった。筆を手にし、立てて持ち、化けものはそこに大きくみっつの文字らしきものを書いた。
残念ながら私の知っている文字ではない。似たようなものはあるものの、これはどんな意味なのだろうか。化けもの自身の名か。
筆を置きこちらを見た化けものが、なんだか得意そうな顔をしている気がする。そこは相変わらずぼんやりとしていて、私の印象なのだが。
私は黒毛で覆われた手で、なんとなく拍手をしていた。
明かりをちらりと気にしてから、化けものもおなじく手を叩いた。ゆったりと二度、でなければ、そちらは反応しない。
ため息同様、探せば化けものと共通の文化があるかもしれない。
わかり合えていないだけで、おたがいの間には見えていない道がある――そう考えると楽しくなってきた。
筆と墨、紙を多目に用意し、それで化けものがひとりの時間を潰せれば、と考える。
その裏で、熱中してくれればきっとここから出ていかない、という気持ちがあったのは確かだった。
●
休日の夕方、こんこんと化けものは眠り続けていた。
私は雨戸がしっかり閉まっていることを確認し、離れに足を向けた。
たまには一途くんと晩飯でも、と思い立ったのである。
もうじき季節も冬になる。その前に冷や酒でうまい肴をつつきたい。もし一途くんが不在なら、以前硫黄さんがおつかいに出ていた総菜屋をのぞいてもいい。
とにかく腹が減っている。
離れを前にしたとき、ほぎゃあと声がして、私は首を巡らせた。
「わあ、めずらしい」
私はそちらに歩を進める。
それはほぎゃあほぎゃほぎゃと鳴き、くるくると空中をまわっている。
「おまえさん、どこからきたの。どこの子?」
離れの横にある雑木林のなか、私の胸くらいの高さでくるくるまわっているそれ――銀魚である。
銀地に黒く輝く鱗がうつくしい。赤い革の口輪が銀魚の動きに引きずられ、くるくると踊っている。
「もしかして迷子? ほら、怖くないよ、おいで。名札はある? 見せてごらん」
ほぎゃ、と鳴く声は少々うるさかった。
それは価格の高い、あまり市場に出回ることのない魚だ。賢い魚なので、きちんとしつければよく主の意思を汲んで働くようになるという。
私は手をのばす。
まだ体躯のちいさい銀魚だが、口輪もしているし、どこかからはぐれて出てきてしまったのだろう。野良の銀魚というのは聞いたことがない。
「名札はないねぇ」
たいてい鑑札をつけるものだろうが、その銀魚にはそれらしきものはなかった。
「こっちにおいで、怖くないよ」
銀魚の綱を手にし、私は離れのほうを向く。
離れの前にある睡蓮鉢で休ませてやろうか。
あそこにはいま、春先に放したばかりの一対の金魚の稚魚がいる。
金魚は育つと、それはそれはいい声で歌うようになるのだ。飼育も簡単で、水場で餌を絶やさなければ、子供の手でも育てることができる。
銀魚と一緒にいたら、ほぎゃと鳴く金魚になるかもしれない。
「おまえさん、あそこでちょっと待ってなさい。お水と水草があるからね。飼い主さんもきっと捜してるから、あたりを見てこようね」
「それにはおよびません」
澄んだ声が遠くからかけられて、驚いた私は飛び上がりそうになった。
気がつかずにいたのだが、私の家へと続くさみしい道の向こうで、直衣を着こんだ人物が手を振っていた。
そのあざやかな紺色の官服は、警邏――警護隊のなか、とくに上位に籍のあるものに許される。
家で眠っている化けもののことを思い、私は緊張した。
ほけきょ、と銀魚が軽やかな声で鳴き、狐のほうへいこうとするので私は綱を放して見送った。
「静かな場所でしたので、遊ばせてやっていいかと……気が緩んでつい綱を放してしまいました。ご親切にどうも」
「いえ、いえいえ、まだなにもしていないので」
飼い主なのだ、銀魚は彼にすり寄っていく。
「はぐれたからでしょう、水のにおいを嗅ぎ取って、こちらにお邪魔したのかもしれません」
水――鉢までは距離がある。私ではわからないが、銀魚の鼻はそれほど利くものなのかもしれない。
「あちらに金魚のいる鉢がありますから……でも鉢までいかず、雑木林で惑っていました」
化けもののことが脳裏をよぎる。緊張してきたが、私は狐ではなく銀魚を目で追ってやり過ごそうと決めた。
「飼い主さんが見つかってよかったです。鳴いていたのも、飼い主さんを捜していたのかもしれませんね」
「鉢を見つけて、私のことを思い出したのかもしれません。水をやるときは、かならず私の許しがいりますから」
思わず狐を見た。
笑っているような、とても整った顔がそこにある。
「しつけですか」
「はい。好き勝手にはさせません」
水も好きに飲めないのか。ちょっとばかり銀魚が不憫になる。
「とはいえ、まだまだ先の長い話です。こちらの目を盗もうとすることもあります、拾い食いの癖がなかなか厄介で」
直衣の彼は、楽しげに目をほそめて笑った。頭の上にある、大きな耳がぱたぱたと動く。
見事な毛並みの狐だ。
狐には頭のいいものが多いと聞く。頭だけでなく、おそらく耳もいい。距離があったのに、私が銀魚に話しかけていた内容が聞こえていたらしい。
目の前の狐は高位に籍を置いているようだ。狐の家系は要職に就くことが多い――これまでの生活のなか、私は狐と深くかかわったことがなかった。あちらの身分が高すぎて、住む区画さえ違うのだ。
「こちらにはおひとりでお住まいで?」
私は狐を見つめた。
官服に身上を尋ねられたら、化けものがいなくても身構えてしまうものではないだろうか。
ちょっとの間を置いて、狐が笑った。
「突然こんなことを訊かれて、驚かれると思います。私の銀魚に親切にしてくださったのですから、正直に申します――離れに、ご友人が滞在なさっていますね」
うなずく。
声は出なかった。
一途くんをご存知なのですか、と尋ねられる空気ではなかった。
その反面、化けもののことは誰にも知られていないのかも、と妙に安堵していた。
「私がきたことを、ご友人にお話しされてもけっこうですよ。きっとご友人も予想なさっています」
「……あの、それは……その、どういった」
「彼は化けもの好きでしょう、それの関連です」
にんまりと狐は笑う。
嘲笑めいたそれに、私はぞくりと身をふるわせた。
ほけきょ、と場違いに美しく鳴く銀魚の声が、ひどく寒々しく響く。
一途くんのしていることは、化けものとの接触ではない。
ただの研究だ。
なにかを求めようというのだろうが、その子細はどんな酒席でもつまびらかにされない。一途くんが抱えている忌避とされるそれに、学友たちでもおいそれと踏みこまないでいた。
ただそれだけで、どうして警護隊が、しかも上役が現れるのか。
むしろ接触しているのは私なのだ。
「あの」
強張った声を上げた私を制するように、狐は先んじて声を上げた。
「ああ、私は皮剥さんを困らせたいわけではありません」
苦笑交じりに名を呼ばれ、私は今度は口をつぐむ。
突然滞在が決まった一途くんがここにいると把握しているのだ、私の名や職場もわかっているだろう。
――まさか、母屋に化けものがいることを、この狐はつかんでいるのだろうか。
「雷
狐は名乗るなり、私の返答も待たずに背を見せた。
ほけきょ、と軽やかな銀魚の声が、尾を引くようにあたりに響いていた。
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