第3話 青年、手探りながら
淡々とした生活であることに、なんら変わりはなかった。
ただ私の家に、化けものがいる。
目を覚ました化けものは温かいままだった。
反応の鈍さから、もしかしてどこか悪いのだろうか、と私はにわかに慌てはじめた――のは、よく眠っている化けものを置いて仕事にいき、帰宅してからのことだ。
化けものが家のなかを動きまわった様子は見受けられず、寝床がわずかに荒れているだけだった。
「具合が悪い? もしかして」
化けものの顔がぴくりと動く。
動いただけだ。
「なにか飲める?」
長い息を吐き、化けものは上掛けに潜りこむようにしてくるまった。私の問いかけさえも拒むその様子に、こちらに取り合うのも億劫なのだと思わされる。
戸棚から薬箱を取り出す。置き薬のそれは、長く開けた記憶のないものだ。
私たちの飲むような薬が、化けものにも有用なのか判断がつかない。
不安があるが、それでも処方されてから日の経った薬紙をにぎり、布団のわきで私は化けものの顔をのぞきこんだ。
「起きられるかな」
――化けものとの接触は取り締まられ、それだけで有罪対象となる。
それがどんな咎で、どんな償いを求められるのかは知らない。そこまで聞いたことがないのだ。
ただある日突然ひとが消え、その後には「どうやら化けものと接触していたらしい」という声が残る。
たんなる噂のようでもあるが、実際そういうものだ。身近で起きなければ、実態まで知ることはできない――たいていのことが、そうだろう。
化けものが出たあたりではいつもより警邏の数が増え、役所には機密の封がされた書類が行き交う。
そして私のいる部署には、「化けものの気配を散らすため」「特急仕上げ」という注意柿のある、勢いのある風がいくつも発注されてくる。
私は屈みこんだ姿勢で、石になったように動けなかった。
――どうしてまた、家に上げてしまったのだろう。
もしここに化けものがいるとわかれば、私はどうなるのか。
いまさらだった。
もう私は化けものと接触してしまっている。
「薬と水を飲んでほしいんだ。起きられるかな? 言っていること、わかる?」
自身の先行きがどうなるか、そんなことを考えるのはやめておいた。いまはこの化けもののことを考えよう。どうしたらいいか。これはほんとうに化けものの具合が悪いのか、常態なのか。それさえも私にはわからないのだ。
なにより化けものについて、誰にも尋ねることができない――そう思い、だが考え直した。
私は身を起こし、雨戸を少し開けた。
雨戸と雨戸の間に見えるおもての景色、そこには離れがある。
一途くんは、もうあそこにいるだろうか。
昨晩は硫黄さんに驚いて逃げてしまったが、昼のうちにでもやってきたかもしれない。
明かりの漏れていない離れをにらんでいると、背後で化けものの呻く声が聞こえた。
振り返ると、化けものはちょうど寝返りを打ったところだった。かすかな音とともに、腕が布団の上に落ちていく。
――一途くんだったら、化けものの病についてなにか知らないだろうか。
尋ねるにしても、どう切り出そうか。
雨戸を閉め、私はうろうろと部屋を歩く。
ざこざこと畳をひづめがこする音に、化けものが眉をしかめる。私は自然と息を詰めていた。
すり切れた畳の目は、瞬く間もなく勝手に直っていく。青々とした畳をそっと歩き、私は廊下に出た。
そのままおもてに出、これといって名案もないのに離れの戸を叩く。
「一途くん、いますか。皮剥です」
かけた声に返事はなく、私の声は宵闇に溶けて消える。
「一途くん」
近所に住まうものはなく、雑木林のただなかに私の家はある。そんなさみしい場所で友人を呼ぶ声は、我ながらはかないものだった。
声をかけるのをやめ、私はいつも鍵を隠してある場所を確認する。
離れの玄関の横には、金魚の稚魚を二匹放した睡蓮鉢がある。その背後の土に埋もれるように隠している鍵は、いまはそこになかった。
ならば一途くんは、一度はここにやってきている――はずだ。鍵を頻繁に確認しておらず、いささか確信に欠ける。
一途くんはきっと出かけているのだろう、私は化けものの待つ母屋に引き返した。
ふと私は、化けもののあの様子は、私たちでいうところの寒気や怖気のようなものだろうか、と思い当たった。
たまに体調を崩してしまったとき、寒気に襲われて身を凍えさせたり、気力が萎えて思考能力が落ちてしまうことがある。
それらはゆっくり休んだり、医者に薬を処方してもらって難を逃れるものだが、そういったものだろうか。
化けものでも、私たちのように病むことがあるのか――特有の病でもあるのだろうか。
そうならば、もし私に感染したら、それこそ奇病扱いになりかねない。
私は玄関の三和土で立ち尽くし、しばし考えこんだ。
いますぐ警邏に引き渡すか、と考えてみたが、それはいやだった。具合の悪い化けものが殺されてしまうのでは、と情の湧いたようなことを思う。
眠る化けもののもとに向かい、私は自分が寝ついたときに両親がしてくれたことを試すことにした。
私の親は奮発して買った黒糖を溶かした白湯と、やわらかい粥を用意してくれたものだ。
黒糖はともかく、病気のときの食事は取り立ててうまいとかうれしいものではない。だが寝ついたときにしか食べられないもので、特別という気持ちはとっくに成人したいまでも変わらない。
台所に立ち、私はそれらを用意することにした。
それでだめなら、一途くんに事情を打ち明けるなり、警邏に話を通すなり方法がある――どちらも最終手段だ。
「無理はしないでいいから、食べられるだけ口に。なにも食べないでいると、体力がなくなるから」
喜ばしいことに、化けものは白湯も粥も口にした。
ちらちらと私を気にしていたが、一通り食事をすると、化けものはほっとしたような息を吐いていた。
どうやら化けものにも、私たちとおなじように表情があるらしい。
ただ、どうにもとらえようがなかった。
対面しているというのに、明確な判断ができないのだ。とらえどころのない踊る湯気を、懸命に目で追っているような感覚になる。
化けものの顔を見つめるうちに、意識がどこかに逸れていくのだ。
布団に潜りこんで、化けものはなにか声を発する。一言二言、音が連なっていく。表情があるだけでなく、もしかするとなにか話しているのかもしれない。飲んでもらおうと思って薬包を見せると、化けものはそっぽを向き上掛けに潜りこんでいった。
薬がいやか、満腹だからもうなにもいらないか。
どちらにせよ、化けものが反応を見せてくれたことに安堵していた。
それから二日ほど化けものはよく眠り、うれしいことに発していた熱は治まっていった。
三日目には起き上がり、化けものは自ら布団を畳んだ。そして卓袱台の前にちょこんとすわる。
出勤前の忙しい時間帯だったが、私は自分の胸を指さしてみる。
「皮剥、といいます」
数度と「かわはぎ」とくり返し、ゆっくり発音して聞かせる。
「わかりますか?」
化けものは口を動かし、音を発した。
聞き取れない――なにかいっている、ということしかわからなかった。
化けものも自分自身を指差して、なにか言葉をくり返していた。
私の耳はおなじ音を数度聞き、たぶん化けものもおのれの名前を発しているのでは、と推理する。
表情も言葉もわからないが、そうしていると私たちとなんら変わらないのではないか。気持ちが楽になった。
化けものにも名があるなら、それは両親がよい名を、と祈るように求めたものだろう。
生涯を通して使われ、墓標にも標される。
昨今は両親が考えて命名することがあるそうだが、私くらいの年代では専門家に神託を求める。
狸の家のなかに、さずけさん、と通称される血筋がある。
さずけさんは、方々に神託所を展開していた。
占いや神託が得意な家であり、さずけさんは名づけのほかに失せもの探しや相談事にも応じる古い家だ。
私の皮剥という名も、郷里の神託所で授けてもらった。
公的な力はないが、民衆に愛され支持されている。
いつからそうなっているのかわからないが、私の親類縁故は全員地元のさずけさんに名づけてもらっているはずだ。
神託の体を取っているが、さずけさんのそれはあくまで装いだ。なかにはほんとうに神通力を持つさずけさんもいるらしいが、私の郷里のさずけさんは違っていた。
名付けをするくらいだから、学はある。
しかし金額を積めば、両親のつけたい名を、神託を受けたことにして授けてくれる。
そんな金を積むくらいなら、最初から自分で勝手につければいいと思うものの、なにぶん田舎である。年寄り連中はさずけさんの与えてくれた名でなければならない、と頑迷になったりもするのだ。
さずけさんのところへと、化けものの家族が出向く姿を私は想像した。
化けものたちの暮らす場所でも、そんな微笑ましい光景が展開しているのかもしれない。それは楽しい想像だった。
私と化けものは向かい合い、無言になった後短く笑った――たぶん、化けものは笑っていた。
名前を知ることができず、知らせることもできない。
だが私は化けものと笑い合えたことに安堵していた。たしかにこの生きものには感情がある。
雨戸のほうを指さし、今度は私は首を振った。
顔の前で手を振り、両手を広げて話しかける。
「ここにいて」
じっとこちらを見ている気がするので、私は言葉を続けた。
「家から出ないで、じっとしてほしいんだ。体調も崩したばかりですし」
通じたかどうか定かではない。だがひたすら化けものは、じっと私の訴えに耳をかたむけてくれていた。
元気になったなら、化けもののしたいようにすればいい。
ただそれはいまではない。
体調を崩したとき、そんな簡単には癒えないことだってあるのだ――自分の経験だが。
回復した化けものが出ていったなら、私は警邏の目を気にしなくていいだろうし、またいつもの生活に戻れるだろう。
手早く身支度をし、玄関で蹄鉄を打った私は外に出た。
よく晴れている。
いっそ出勤せずに、どこかにぶらっと出かけたくなる。そんな天気だ。しかし納期の近い仕事があるとすぐに思い出した。
出かけるついでに、私は離れに声をかけた。
今朝は一途くんはそこにいた。やたらと眠そうな顔をして、私の来訪にもぐもぐと口を動かす。
「うぅ……皮剥く……」
「ごめん、寝るところだった? 昨日はいなかったみたいだから、ちょっと様子を見に……ごめん」
うんともなんともいわず、げこりとのどを鳴らした一途くんに詫びる。
眠くてたまらない、という様子だった。一途くんに申しわけなくなりながら、私は離れを辞した。
それから出勤し、仕事をこなす。
凝り、眠ったようになっている風を一抱え、闊達に木立を揺らす強風に仕立てる案件が入っていた。
重なった仕様書をぱらぱらとめくる。
昼までに終わらせるのは難しいが、同僚が手のかかる研ぎに着手しているため、手の空くものは全員そちらを、という状態だ。自分の手元の仕事を早々に仕上げてしまいたい。
脳裏であれこれ算段しながら取りかかったが、気づけばいつもどおり作業に集中していた。上々の進行で、だが一息入れるとかならず化けもののことを思い出していた。
――どこかにいってしまっただろうか。
――家にいるだろうか。
帰宅すると、化けものは出かけたとき同様に卓袱台の前にすわっていて、私はやけにほっとしていたのだった。
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