第2話 青年、酒に親しむ
私は公職にある。
風研ぎ職人だ。
空を渡る風を研ぎ澄ます職であり、多忙で気を張ることが多いのだが、それなりの待遇を約束されている部署にいる。
技術職のためだろうか、頭数がいつも足りない部署でもある。とはいえ、そもそもの採用率が低かった。
私は昔から風研ぎに興味があった。
一度入った大学を途中で抜け、職人に弟子入りしたのも興味が絶えなかったからだ。
新たに学ぶことになった座学も実技も、これといって苦にならなかった。兄弟子を差し置いて師匠の覚えもめでたかったと思うのは、身びいきではないだろう――たぶん私はこの職に向いている。
試験を受けると一度で通り、稀に見る快挙だと親や友人は喜んでくれたが、実際は師匠の推薦が大きかったのだと思う。季節の挨拶にはいつも、高官の名の入った包みがたくさん届いていたひとだ。
よく研がれた風は、遠くまで疾く渡る。
二年前の品評会で銀賞をいただいてから、私の給金は上がった。
上がった分だけ、知己と飲みにいく回数が増えている。
その日私が飲み屋で差し向かいにしたのは、仲間内から親愛をこめて「一途」と呼ばれている蛙だ。
大学で知り合った彼は、元々は藻の研究に打ちこんでいた。第一線でがんばっている、ともっぱらの評判だったのだ。だがあるときふらりと旅に出て、戻ったと思ったら研究から退いてしまっていた。
求めるものがなくなった、と彼はしれっとした態度で口にしていた。
しかし研究者としての性分は変わらないものらしく、彼はべつの題材に飛びついていた。
化けものである。
どこからきて、どんな生態なのか、化けもののことはまったくわかっていないといっていい。
それなのに、見れば化けものだとわかるのだという。
そういった希有な存在――昔はじめて耳にしたとき、化けものというのは便利な言葉だな、と感じたものだった。
彼のそれは道楽の一種ととらえられ、だが熱心なあまり「一途」と呼ばれている。
私もそう呼んでいる。
あちらこちらに出向いて、彼は化けものについて聞き取り調査をしていた。地方地方で怪異とされていることと、過去現地で目撃談のある化けものとの関連づけなどもしているらしい。
内容について尋ねても、そのうち本にまとめるからそのときに感想を、としか彼はいわない。
飲み屋に先に到着していた一途くんは、私の姿が目に入ったのだろう、のどをまるくふくらませ、げこりと挨拶した。
「皮剥くん、ひさしぶり」
「元気そうだね、一途くん」
「うん」
一途というあだなで呼ばれても、彼は気にした様子がない。
「皮剥くんも元気そうでよかったよ」
「おちおちしょんぼりする暇もないからね、達者な身体が資本ですよ」
「確かに。あ、お先にいただいてますよ」
「ちょっと、私もおなじものを」
店員に声をかけると、間を置かず一途くんとおなじ熱燗が供される。
「つまみは?」
「適当に頼んであります」
「気が利くね」
一途くんとは食べものの好みが合う。一緒に飲むのが楽しい相手だ。
「そりゃそうですよ、皮剥くんは気前のいい財布なんですから。このくらいさせていただきます」
さらりといい、一途くんは猪口を軽く掲げた。
「ほめられたんだし、気前よくいい酒を頼もうか」
一階級上の酒を頼み、その到着を待たずにおたがいぽつぽつと近況報告をする。
一途くんのいうとおり、いわゆる財布役になるため、どうしても仲間内と顔を合わせるのは私が一番多くなる。
それぞれの近況に通じやすく、近く彼と性の合わない鼬がさとに帰るそうだよ、と私は囁くように知らせた。
「それは朗報ですね」
一途くんは猪口の酒を一息に飲み干した。ぷは、と一息に出された息は、酒よりも青い水のにおいが強い。
「それならあいつがいなくなる前に、一度顔を見てやらないといけないね」
「見納めに?」
「そうなるかもしれない。めでたいことだね」
性が合わないというくせに、なぜか彼と鼬はおたがいを気にし合っている。
「最後に見る顔ともなれば、違う顔に見えるかもしれない」
「最後最後といっても、案外同窓会かなにかで会うかもしれないよ。そのときは一途くんも出席しないと」
げこり、とのどを鳴らし、一途くんは舌を出した。
帰郷の話を私にしたとき、鼬の彼もまた、最後に一途の阿呆面を見ないとな、とうそぶいていたのだ。
そろそろ私の働く部署は忙しくなってくる。それが落ち着いて閑散期に入ったら、一途くんたちが会する席をどこかで設けてもいいだろう。
私がそんなことを考えながら徳利を空にすると、目の前の一途くんが真剣な顔をして姿勢を正した。
「申しわけないのだが」
顔の前で手を合わせ、一途くんは拝むようにしながら頭を下げる。
察し、私はあごを引いた。
「何日くらい?」
「当面の間」
「かまわないよ。鍵の場所はわかってるよね、変わってないから」
私が了承すると、一途くんは相好を崩した。
「そんないちいち頼みこんだりしないで、好なように使えばいいのに」
仕事から帰ったら、いきなり一途くんが逗留している――いやな気分にはならないだろう。
「いや、皮剥くんの嫁さんでもあるまいし、そんな真似はできないよ」
じつは一途くんは、決まった住まいを持っていない。
対して私の住まいは、裏手に離れ――というにはおこがましいような建物があった。といっても、水回りが完備され暮らすには充分だ。
私の住まいは、何年か前に親類に譲ってもらったものである。
学徒のころには親類が母屋に暮らし、私が離れを間借りしていた。数年前に親類が転居し、その際私が母屋に移ったものだ。
独り身の私には広すぎるのだが、気に入っていてずっと暮らしている。
放浪癖のある一途くんだが、しばし足を止めていたいとき、離れで寝泊まりする。
私の暮らす母屋を使ってもらってもかまわないのだが、そこまでふみこむのはいやだ、というのが一途くんの弁である。
酔漢一歩手前まで私たちはその店で酒肴を楽しみ、帰りがけにいくつか料理を包んでもらった。
荷物持ちをする、といって包みを抱えた一途くんと店を出た。
すっかりあたりは暗くなっている。暗くてひとけのない通りに、解放感を覚えて私たちは笑い合った。もっと飲めるまだ飲める、と胸のうちがわくわくしてくる。
「一途くん、いつもの酒屋に寄ろう。ひやおろしを入れるって、ちょっと前に杉玉が話してたよ」
「それはいいね、あそこに並んでる酒はどれもおいしいから」
帰路に酒と肴を確保する。それは一途くんが離れに寝泊まりするときの、いつもの流れだった。
酒を商う店先には杉玉が吊される。
丸く青々としたものや、ほどよく枯れたもの、そのどれもが酒に通じている。そして常連などの顔をよく覚え、みずから商いの手伝いをするのだ。
馴染みのその店の杉玉はどの季節でも饒舌だ。勧める酒がどれもうまいので、銘柄に迷ったときは杉玉の勧める酒を購入していた。
道を出てすぐのところで、一途くんが足を止めた。
湿った風が頬を撫でていくなか、彼の目線の先を私も確認する。
「あぁ、あれ……奇遇だなぁ」
巨大な熊がそこにいた。
知っている顔だ。身の丈は見上げるほど高く、たいていの戸口で屈まなければ彼は頭をぶつけてしまう。
名を硫黄さんといい、私の上司である。
「皮剥くん、こんばんは」
野太い声で挨拶し、硫黄さんは着流しに草履という、いたくくつろいだ姿でこちらにやってくる。
「一途くん、私の上司で硫黄さんという方なんだ」
耳打ちするようにすると、一途くんが小刻みに顔を縦に振った。
常にない、いささか緊張した態度である。
硫黄さんの巨体に圧され、初対面のときこんなふうになってしまうものは少なくないため、私は苦笑いを浮かべてしまった。
一途くんは私の家とは違う方向を指差す。
「野暮用が」
上擦った声だった。
「そうなの?」
「ちょ、ちょっと、約束が」
そういうのだ、私は一途くんの言葉に異を唱えなかった――それがあからさまに挙動不審なものであっても。
「わかった、それじゃ……」
「それじゃ」
一途くんの大きくつるりとした目が、おどおどと動く。視線が彼はどう見ても、硫黄さんに怯えた視線を送っていた。
「鍵の場所、変わってないからねぇ」
「ああ、うん……それじゃ、それじゃ」
あわてた様子の一途くんは、背を向けると走っていってしまった。
「皮剥くん、彼は」
すでに道に一途くんの姿はない。往来を歩く人出に消え、だが彼の消えた先を硫黄さんは指差している。
「友達なんです。ひさしぶりに会って夕飯を……その、野暮用があるらしいです」
どうしてか立ち去ってしまった。
たまたま硫黄さん居合わせて、その体躯に驚くものが少なくないとはえ、それを理由にしてこんなふうに逃げ出すなど起こり得るのだろうか――との疑問を、巨躯の持ち主に直接いえない。
あなたが怖いらしい、というのは、簡単に口にできるものではなかった。
「硫黄さんは、これから食事ですか?」
「その先の総菜屋の煮つけをちょっと。家内が好きでね、おつかいに」
そういわれて、包んでもらった料理を一途くんが持っていってしまった、と気がついた。
まだちょっと腹が足りないが、家にあるもので適当にすませよう。
「皮剥くんは、このあたりでよく飲むの?」
「連れがいるときは、よくきます。ひとりだともっぱら屋台か立ち飲みで」
「いいねぇ、僕はこれだけ身体が大きいでしょう、どうしてもお店に入ると迷惑をかけていけない」
そうため息交じりにいった硫黄さんの背後、すっと白いものがよぎる。
龍虫と呼ばれる顔だ。
「やっぱり雨かぁ、空気も湿っぽくなってたからね」
すいすいと白い顔が空中にいくつも浮かぶ。のっぺりとしていて、そこにあるように見えるのに、どうやってもふれることができない。
それらは雨のときにどこからともなく現れるものだ。不思議なことに、どんな豪雨であっても龍虫は濡れることがなかった。
雨が降る前に、と挨拶をして少し進んだところで、ぽつりときた。
「ちょっとお兄さん! 濡れるよ、寄っていかないかい」
硫黄さんと別れて飲み屋街を小走りで抜ける私に、いきつけの店の主がそう声をかけてくれた。
「いえ、走ればなんとか」
「それなら、これを持っていきな」
傘を貸そうという申し出をありがたく受け、濡れた地面を歩きはじめる。
人気のなくなったあたりで、大きな水溜まりに行き当たった。
酒気も手伝ってか、私は水溜まりを避けずに真んなかを突っ切る。
ひづめで水を蹴るように足を上げ、鼻歌まで出てきたところで雨が上がっていると気がついた。
短い雨の道を進む間に、酔いはすっかり覚めていた。
傘を畳み、私はしっとりとした龍虫漂う夜の空気のなか、家へと向かっていく。
化けものを拾ったのは、その道でのことだった。
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