第15話 また会う日を待っていた

 花庭園ガーデンでの生活は、覚悟していた数十倍はつらかった。それこそわたしは〈ネリネ〉という被験花の名を与えられ、初めて花栽培ガーデニングを受けた一日目で死にたくなった。

 そんな地獄の生活の中でも、一人の友達が出来た。きっかけは、花庭園ガーデンに置いてあった本の趣味が一致した、なんて他愛もないことだ。数少ない娯楽を共有し、語り合えるその友達は、わたしにとって心の拠り所になっていた。

 だけど花栽培ガーデニングは、友愛で稀釈できるほど優しいものではない。

 わたしは何も悪いことなんてしてない。なんでこんな想いをしなくちゃいけないんだろう。

 次第に心身が摩耗していくわたしを見かねた友達は、こんな提案をした。

「一緒に逃げよう! 今夜にでも、すぐに!」

 わたしはその申し出を快諾して、一緒に花庭園ガーデンから逃げようとした。

 だけど、わたしたちは失敗してしまった。

 わたしが、脱走防止用の塀を上り終えたその時だった。異変を察知した花師ガーデナーがやって来た。まだ塀の下にいた友達は、大人の腕力にかなうはずもなく、容易く花師ガーデナーに掴まった。

「降りてこい!」

 怒号を飛ばす花師ガーデナーにわたしは震え、塀の上で静止する。

 逃げなきゃ。

 塀の向こう側に回られたら終わりだ。

 猶予を与えることを知らない時間は、刻一刻とわたしの逃げ道を塞ぎにかかる。

 混乱して、呆然とするわたしは、花師ガーデナーに掴まる友達を見下ろした。

「ネリネ……! 行かないで! あたしを一人にしないでっ!」

 涙を振り撒きながら、友達は懇願した。

 いつも森の開けた所で、私の膝に頭を乗せて寝ていた友達の寝顔が脳裏に表示された。その幸せそうな顔と、いま目の前で悲痛に顔を歪ませている顔が、重なり合う。

 心臓が口から飛び出そうなくらい鼓動がうるさくなる。

「あ、ああ…………っ!!」

 なにも言えなくなり、思考が止まって身体が勝手に動き出した。

 気づけば、自分は塀を降りていた。―――花庭園ガーデンの方ではない。花庭園ガーデンの外の方だ。

 そして、一生懸命走った。

 逃げて魔女を呼べば被験花みんなは助かる。みんなを助けるために逃げるのだと、自分に言い訳をして、一度も振り返ることなく走り続けた。

 勇気を出したんじゃない。

 ただ、戻る方が、逃げるより怖かっただけなのだ。

「ネリネぇーっ!」

 背後から、涙に浸った悲壮な声が届いた。

 恐怖か罪悪感か、とにかく涙が溢れてきたけど、足を止めずに走り続けた。

 ―――みんなを助けるためだ。

 何度も、自分を洗脳するように言い聞かせた。

 月に雲がかかって、森林は真っ暗だった。

 草木を掻き分けて飛び出すと、視界が開けた。

 突如の浮遊感に、全身に悪寒が奔る。自分が屹然とした崖から落ちているのだと、しばらくの時間を要してから理解した。数十メートルもの高さから落下したわたしは、下に待ち受けていた川に頭から落ちて、意識を失った。



 ―――花栽培ガーデニングの後遺症と打ちどころの悪さで、わたしは七年間も昏睡状態に陥った。

 川に落ちて下流まで流されたわたしは、たまたま通りかかった元魔女によって保護された。彼女はずっと、わたしの身体を治療しくれていたようで、七年という月日も彼女から聞いた。

 七年経っている――その言葉で混濁していた記憶が覚醒したわたしは、自分がいた花庭園ガーデンのことを、その元魔女に告発した。一秒でも早く助けを乞わなければ、自分だけ助かろうとしていたことが堅固に定まってしまいそうな気がした。

 でもその魔女から伝えられたのは「その花庭園ガーデンは、数ヶ月前に異端審問官インクイジターにより壊滅した」というものだった。

 足元が崩れる、なんて表現じゃ足りない。

 地面だけでなく、空や物、人間などあらゆる万物が瓦解したかのような喪失感。その空っぽになった胸中に流れ込んでくる絶望感。両肺が潰れたみたいに呼吸が出来なくなり、思考を介さず涙がボロボロと零れた。

 その瞬間、わたしが友達を見捨てたという事実は、盤石に固定された。

 どんな言い訳をしようとも、友達の懇願を無視して自分だけいち早く助かったという結果は、楔によって打ち付けられ、絶対に揺らぐことがなくなったのだ。

 どうせ助かるのなら、あのとき友達の元に戻れば良かった。そうすれば、友達を捨てることだって無かったのだ。過去は変えられない。罪は帳消しにすることは出来ない……。

 ―――でも、たった一つだけ、清算することが出来る道が残っていた。

 花庭園ガーデンから保護された被験花ひけんかの中に、友達が含まれていなかったことだ。別の花庭園ガーデンに移送されたらしい。

 だから異端審問官インクイジターになろうと思った。

 助け損なわれた友達を、今度こそ自分の手で助けるために。

 ちゃんと「ごめんね」を言って、もう一度友達に戻るために。

 自分が異端審問官インクイジターになるより早くに、友達が助かったらどうしよう。

 そんなことを考えてしまうたびに、自分の勝手さと邪悪さに厭悪が湧いて、何度も胃の中身を吐いた。仲直りの機会が無くなるだけだ。彼女が一回でも少なく花栽培ガーデニングを受けなくて済むなら、それに越したことはないのに。なんでわたしは、わたしのことしか考えられないんだ。

 自己嫌悪はどんどん肥大して、いつしか理由付けの出来る自傷行為として、【魔術書】の同調を積極的に行うようになった。

 自分の身体を金鎖できつく縛り上げ、何度も水の中に沈めた。肌に跡が残るほど強く『束縛』して、何度も自分の身体を痛めつけた。窒息すればするほど、心に絡みつくどす黒いなにかが圧縮され、胸の奥底に沈んでいくその感覚が心地よかったのだ。

 溺死する寸前まで自分を傷つけるから、度々、助けてくれた元魔女には叱られてしまった。止められてもやっていたし、強くなる方法として適切でもあったから、ついには元魔女の方が折れて「溺死しないように、彼女がネリネを水に沈める」という折衷案に行き着いた。

 正直、元魔女には申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 だって、自分が七年間も命を繋いできた子どもが、自傷癖にも似た自罰を繰り返し――ましてやその一端を担うことになったのだから。

 ネリネという名前を使い続けることにしたのも、たぶん、自罰なんだと思う。

 ―――元魔女に助けられ、彼女に魔術を学んで五年が経過した。

 わたしは彼女の推薦を受けて、異端審問官インクイジターになった。

 かつてわたしが、花庭園に置き去りにしてしまった友達を助けるために。



 獰猛な生命体のように吶喊した『海百合』が、金鎖に『束縛』されて動きを止めた。ライエは後ろ姿しか見えないけど、その背中からは確かに驚愕の気配が漏れ出ている。

 ネリネの体表を『鎖の痣』が蛇のように這っていた。緊縛痕にも似たそれは、黒衣箒に隠れている柔肌も余さず犯して広がっていく。

「――――鎖状傷痕フラストレート

 魔力は人間活動――食事や睡眠、そして情動によって魂から溢れて出す。

 それと同様に情動は、魂と密接な関係にある【魔術書】の『性質』もまた強化する。

「わたしは誓ったんです……あの日、わたしが置いて行った友達を必ず助けるって……ッ! 二度と友達を失わないように強くなるんだって! そのために、わたしは異端審問官インクジターになったんだッ!」

 ライエの『海百合』を『束縛』していた金鎖が狭窄する。

 病的な白色をした『海百合』に亀裂が奔り、ついには金鎖に骨のように砕かれた。断面では海底のような青色が、動揺するように揺れ踊っていた。

 小石サイズに砕けた『海百合』を踏みつけて、ライエが舌打ちをする。

夜抗性やこうせいに偏らせすぎたかっ……! だったら、この硬度だったらどうかな!?」

 再生したライエの『海百合』は、さっきとは違って乳白色に近い色になっていた。絡みつく金鎖を千切りながら、ネリネの黒衣箒ローブルームを刺し貫こうとする。ネリネは周辺の『触物』に金鎖を割いていて、ライエの必殺の一撃を止める余裕がなかった。

 だがその攻撃が、ネリネまで届くことはなかった。

 硬度を優先に再構築された『海百合』を、私の『夜空』の腰帯が切り落としたのだ。夜属性を対策されたらどうしようもないけど、単純に硬いだけならトリシエラの『夜空』で『侵食』できないはずがない。

 ライエは『海百合』を盾代わりに使って、舞台上まで低空飛行で退避する。

 身体の前に構えられた『海百合』は、夜属性に耐性があるもの。だけど硬いだけのそれは、ネリネの金鎖からしてみれば壊すのは容易い。ネリネを襲おうとしていた『触物』は私が腰帯で掃討し、対してネリネは『海百合』を破壊してくれた。

 私とネリネの共闘に、ライエは当惑で瞳を揺らしていた。

 トリシエラから譲り受けた『夜空』をホウキに灯し、私はライエに言う。

「だから言ったでしょ。二人なら、ちゃんと全部掬えるはずだって!」

 振り下ろされた私のホウキが、ライエの身体を切り裂いた。作り物めいた鮮血が雨粒みたいに舞って、仄暗いホールの中を彩る。夕焼けのような橙色のライトは、心なしかさっきよりも光量を抑え暗くなったようだった。

 舞台上に降り立ったライエは、少しだけ身体をよろめかせた。〈泥濘の魔女〉のこともあって、少し浅く切りすぎたかもしれない。それでも、常人であれば【魔術書】を閉じてしまうほどの痛みがあるはずだ。

「……ふっ、あははっ! あっはははは!」

 にもかかわらず、ライエは『海百合』はそのままに笑い声まで上げていた。舞台上に立って笑う彼女はひどく演劇めいていて、今の戦いが余興だったかのような余裕さえあった。

 笑い声が響いている。

 三人だけの歌劇場、花庭園ガーデン異端審問官インクイジターの渦中で、ライエだけが笑っていた。

「……そうか。サヨは、トリシエラとは違って、誰かと征くことを選んだんだね」

「……ライエは、なんでトリシエラを知っているの。あなたは、トリシエラのなに?」

 自分の理想であるトリシエラに触れられそうな不快感に、私は目を細めながら尋ねた。

 前に知り合いの異端審問官インクイジターが言っていた。トリシエラはいつも一人で戦っていたって。誰かが傷つくのを見たくないから、気が付いた時には一人で先に征ってしまうと。

 そのトリシエラの生き方を、なんでライエが知っているのか。

 そしてさっきライエが言った――トリシエラを敗かしたとか、どういう意味なのか。

 アネモネのことも忘れたわけじゃないけど、それを聞かずにはおけなかった。

 あなたはトリシエラのなにか、という私の質問に、ライエは答える。

「そうだね……名状したことはなかったけど、ファンってとこかもしれないね」

 暴風のような魔力の気配に、私とネリネが悪寒で身体を震わせた。悠然と、しかし暴力的な多分な魔力は、まるでこれから戦闘開始と言っているようだった。

「――――いざ紐解かんリーディング

 ライエが発した言葉の意味は分かる。

 だがこのタイミングで、その言葉を発する意味が分からない。

「リーディング……? まだ戦うつもりですか?」

 怯えた心を戦意で武装したネリネが、毅然とした声音でライエに尋ねた。

 ライエは、呆れるような顔で笑った。

「まだ? いやいや、これから戦うんだろう? 紐解きリーディングは、戦い始めにするんだから」

 ネリネより一足先に理解した私は、自分の手が震え出すのを感じていた。舌が乾き始める。座席の下や舞台の裏側、そういう見えないところにまで心が恐怖を抱き始めた。

 昼間、国立歌劇場に潜入する前に――ネリネが【魔術書】を紐解かずとも、ネックレスを作れたように、多少の魔術であれば【魔術書】を紐解かずとも使うことが出来る。

 その多少が、さっきまでのライエだったのだ。

 ―――ライエはまだ【魔術書】を使っていない。

 舞台上に一本の亀裂が奔る。そこから湧き上がる冒涜的でおぞましい『触物』の化物たちが群れて、結合し、混ざり合い、本能的に嫌悪感を抱く様相を形作っていく。それは退廃の具現。命の尊さを忘れた捕食者の姿だった。

「――――いざ紐解かんリーディング・【魔女の溘焉ダンウィッチ】」

 最終的に産み落とされたのは、巨大な花のような生命体だった。茎の部分は虫の卵のようなもので埋め尽くされ、触手が産声を上げてエサを求めてうねっている。花の部分はラフレシアのような形をしており、その真ん中から、黒衣箒ローブルームを脱ぎ捨て裸になったライエの上半身が生えていた。

 病的なまでに白い肌をさらけ出しながら、ライエは私たちを見下ろす。その邪神めいた様相が持つ現実感は、舞台が持つ演劇性でも払拭しきれていない。

「さあ、第二幕後半といこうじゃないか。まだ萎えないでくれよ、トリシエラの後継者サクシード

 ライエが身体を前に倒すのと同時に、茎部分の触手が私たちに伸びて来た。数えるのも億劫なほど大量の『触手』は、地獄に引きずり込もうとするように禍々しく、本能的だった。

 私は『夜空』の腰帯で切り落とし、ネリネは金鎖を叩きつけて払い除ける。しかし、高速で再生と伸縮を繰り返す触手たちは際限がなく、ライエの周りを固めていた。

「触手が多すぎて近づけない……っ! このままじゃ、ハナニラがアネモネさんを……っ!」

 舞台上にいるライエから距離を取り、ネリネは息苦しそうに言った。ネリネの体表をなぞる鎖の痕は、熱を帯びるように赤くなっている。金鎖を強化してられるのも時間の問題か。

 私の方も、胸がじりじりと焦燥で焼け爛れるのを感じていた。

 そんな私たちの心象を慮ることもなく、ライエはランチタイムのように楽し気に言う。

「サヨの魔術を見た瞬間に分かったよ。トリシエラが自分の想いを託したんだってね。憧憬とは呪いのようなものだとは思わない? 一方的に受け取らされ、その後の生き方を縛られる。でも縛られる本人も、その憧憬を捨てたがらないから酷い。憧憬ってのは誘蛾灯のようだよ」

「―――っ、私はトリシエラに縛られてなんかない! 憧憬は、真っ暗な夜闇に灯った烏瓜の橙火なんだ。私たちの周りは照らせなくても、遠くで私たちを待ってくれている。――だから憧憬は、その人を支えても縛ったりなんてしない!」

「支えは拘束の一種なんだけどね。それに――私がなにより厭悪するのは、その継続性だよ。せっかく私が壊したというのに、次のトリシエラが用意されてしまったんだから」

「ライエが、壊した……?」

 まだ聞く前だというのに、いち早く理解した理性が吐き気を誘った。

 ライエはさっき、自己犠牲の生き方はそのままに、それが出来ないようにしたいと言った。

 そしてトリシエラは、北欧での戦いで魔力炉心に傷を負って、戦えない身体になった。

 だからそれは―――ライエがトリシエラを知っている理由だ。

「―――そうだよ。北欧でトリシエラの魔力炉心を壊したのは、私だ」

 すぐには怒りが湧いてこなかった。たぶん頭が理解できてなかったからだと思う。そうして数秒を経て、私の全身が焼かれているように熱くなった。

「彼女が『極星王』との戦いが終わった直後に、私が壊した」

 私にとって母親代わりの――トリシエラの生き方は、ライエに壊されてしまったのだ。

「サヨっ!」

 私はネリネの制止も振り切り、単身でライエに吶喊する。迫って来る触手たちにはもう恐怖はない。感じた恐怖心や不快感は、全て怒りの燃料に変えられ、怒りは魔力に変わって『夜空』に換わっていく。

「どう、して……ッ! トリシエラを傷つけたの、ライエッ!! トリシエラは今も、自分が戦えないことを苦しんでる……傷つく誰かを救えなくなった自分を、許せないでいるのにッ!」

「だから言ったじゃないか―――ファンだからだよ。私は自己犠牲に生きる人を美しいと思うし、その生き方をする人は好きだけど、その生き方が幸せだとは思わない。だから壊すんだ。その美しい理想を抱いたまま、幸せな人生を享受してほしいのさ。だってほら、推しには幸せになって欲しいと思うのがファンだろう?」

 ライエに接近するに連れて、触手の再生速度は上がっていく。それに『夜空』の腰帯が追い付けなくなり、私は大樹のような触手に殴りつけられて、後方の座席に吹き飛ばされる。

 心配して駆け寄ってきたネリネが、手を差し出してくる。

 私は自力で立ち上がり、ライエを睨みつける。

「サヨ……っ! 待ってください。二人で協力しないと彼女はっ……!」

「……ごめん、ネリネ。分かってる。でも、ライエは私がやらないと……!」

 私にとって命の恩人で、母親代わりで、憧憬の対象だったトリシエラの生き方は、ライエに奪われてしまったのだ。北欧で誰かを守ろうと戦ったトリシエラを、不意打ちしてまで。

 だからこれは、トリシエラの後継者サクシードである私がやらなきゃいけないことだ。

 私はネリネを置き去りに、ライエに向かって飛ぼうとして―――。

「―――待て」

「ぐえぇっ!」

 飛ぼうとした私の首にネリネの金鎖が絡みついて、首が絞まって変な声が出た。あとごきっと変な音がした。ウィーンに来た初日、自分のマフラーを踏んで首が締まった時のことを思い出した。

 硬い鎖で首を絞められた私は、座り込んでげほげほと咳込んだ。

「な、なにするのネリネ……?」

 私が涙目になりながら顔を上げると、ネリネは苛立ったように目を細めていた。いつもの臆病な印象とは違った冷たい気配に、私は「待て」を言われた犬のように硬直する。

 私を見つめるネリネの目は、一人だけ荷物を持たされてる人を見ているようだった。

「……さっき、サヨが言ってたんじゃないですか。一人だけじゃ全部は掬えないけど、二人でならもっと多くのものを掬えるって。わたしが掬いたいものを、サヨが掬ってくれるって」

 それは最初にライエを交わした、守れるものには限度がある話。お椀で掬えるのには分量があるから、一人だけでは全部は掬えないと言われて、私がライエに言い返したことだった。

 ネリネがもう一度、私に手を差し出してくれる。

「だったら――サヨが掬いきれないものを、わたしにも分けてください。そしたら、サヨの分も取りこぼさなくて済みます」

 ああそっか――私が言ったことじゃないか。

 一人じゃ全部は掬い切れないから、お互いにその掬えなかった分を掬い合おうって。

 たぶんそれが信頼するってことで、友達になるってことなんだ。

「……うん、ごめん。そうだった」

 差し出されたネリネの手を、私は取って立ち上がった。

「一緒にライエを倒そう!」

「もちろんです。周りの触手は任せてくださいッ!」

 低空飛行する私を先導するように、ネリネの金鎖が奔って触手を追い払う。貰ったのは言葉だけだったのに、どんな魔術よりも身体が軽くなった感じがした。胸に渦巻いていた焦燥感も、今では別の温かいものに取って代わられていた。

 触手群は金鎖が相手していたけど、ライエの『海百合』は私が相手しないといけない。

 肉薄する私を突き殺そうとするように、捕食者めいた蠢動を繰り返す『海百合』が『夜空』の腰帯と剣戟を織りなす。ライエが可笑しそうに口元を歪めている。虚無感がとぐろを巻いた彼女の瞳は、私の奥底にあるトリシエラへの憧憬を見ているようだった。

「……ああ……君の在り方は歪で美しいよ。トリシエラの自己犠牲とは、また違った美しさがある。トリシエラが『銀河鉄道の夜』なら、君はさしずめ『幸福な王子』だね。だが――私はやはり、トリシエラの方が好きだったな。だから君も、彼女の憧憬者として、彼女と同じ結末を迎えてくれ! たった一人で、自分だけが戦い、そして誰かを守った挙句に斃れてくれ!」

 ライエの『海百合』が私に牙を剥く。四本に増えた『海百合』は、ただの『夜空』では壊せないだろう。

 ホウキから『夜空』が溢れ出す。

 冬至の夜空から鋳って造り出したこれは、トリシエラから譲り受けたもの。刀身を包み込む『夜空』は、私の分だけじゃなくて、トリシエラの想いも含んでいるようだった。

「――――残夜リメインナイト!」

〈泥濘の魔女〉の攻撃すら退けた一撃がライエに放たれる。夜属性に対策している『海百合』と言えども、至近距離から放たれた大質量の『夜空』には打ち勝てず、その白い身体は夜空色に染まり崩れ出す。

 攻撃手段であり、防御手段でもあった『海百合』を失ったライエは、しかし勝利を確信したように笑う。

「魔力が底を尽きたね。私の勝ちだよ、サヨ。君は私の理想のまま、幸せに生きてくれ!」

 蝶を標本にするような身勝手な美意識で、ライエが茎部分から新たに触手を伸ばした。もがき苦しむように渦巻く触手たちが、波濤のように私に襲い掛かる。ネリネの金鎖は、他の触手を相手していて手が離せない。

 はらりと、髪の毛が舞った。

 私が自分の髪の毛を鷲掴みにして、ホウキで切り落としたのだ。

 聖書において、数千人の人間を殺したサムソンという男がいる。彼は髪の毛を剃られて力を失ってしまったが、神への祈りが聞き届けられ力を取り戻した。つまりは、髪の毛は力の源流ということ。

 物語の文章を詠唱として使えるように、そういった解釈もまた魔術に出来る。

「――――おとりください」

 手から離れた黒髪が、灰色に光ると『夜空』の断片を散らして蒸発した。

 魔力が、みなぎる。

 敗北を悟ったライエは、物語に続きが出てしまったような、寂しそうな顔をした。

「君はどうやら、自分が幸せになるよりも、誰かを幸せにする方が好きなようだね」

「そうだよ。誰かを幸せにすることが、私の幸せだから」

 戦いの最中だというのに、何もかもが静かだった。

 蠢く触手も、滑る金鎖も、揺蕩う『夜空』も、みんな黙って私たちの話を聞いていた。

「……なるほど。憧憬は正義と同じで、麻酔なのか。――やっぱり君は、いつか私が破壊しあわせにしに行くよ」

 綺麗に終わる物語を読んだように、満たされたように、ライエは最後にそう言った。

「――――残夜リメインナイト

 溜まった魔力を『夜空』に換え、私はライエに至近距離から放った。空を覆うように拡がる夜空色の息吹は冷たく、柔らかく包み込むように大気を侵す。ライエを取り込んでいた触手の生命体は、そのおぞましく退廃的な全貌を、色鮮やかな夜空色のシルエットに変えて散った。

 そしてライエの身体もまた、夜空色の灰になり出した。

「この肉体はもうダメだね。本体に戻ることにしよう」

 ライエはまるで、たくさんある人形の一つを捨てるように吐き捨てた。

「サヨ、また会おうね」

 二人で舞台上に落ちゆく中、ライエは私に優しくそう言った。そして私の顔に両手を遣り、自分の顔を耳元に近づけてくる。

「―――でも『幸福な王子』なら、ツバメは最初に死なないとダメだよ」

 あの作品は、何度も読んだからどんな話か覚えている。『幸福な王子』が身体中の宝石や金箔をツバメに取らせて、不幸な人たちに配らせる話だ。だからライエの言うツバメが誰なのか、私にはすぐ分かった。

「―――ネリネっ!」

 夜空色の灰となって消えたライエに背を向け、私は後方で戦っていたネリネの元に飛んだ。

 触手の相手をしていたネリネは、ボロボロになって倒れていた。黒衣箒ローブルームは流血のせいで濃い黒に変色し、呼吸するたびに苦しそうにしている。

 私はネリネの黒衣箒ローブルームを脱がせ、致命傷の傷を圧迫する。だけど出血は全然止まらない。活性魔術で治すにも、この傷を治さないとどうしようもない。

 どうにか止血の方法を探して、周りを見渡す――私が巻いている白いマフラーが揺れた。

「そうだ、これなら止血できるかも……!」

 このマフラーには『堤防』の概念が編み込まている。その性質は『抵抗』だから、傷口に当てれば出血を抑えることに効果を発揮してくれるはずだ。

 真っ白いマフラーがネリネの鮮血で赤く染まっていく。

 それに気づいたネリネが、顔色を悪くして瞠目した。

「サヨっ……! それは、サヨがトリシエラさんから貰った大切なものなんじゃ……っ!」

「命より尊いものなんてないよ! マフラーは洗えばまた使えるけど、ネリネは死んだら生き返らないでしょっ!?」

 焦っていた私は、声を荒げて言葉を返してしまう。

 少しずつ真っ赤に染まるマフラーを見つめながら、私は声を涙で潤ませて叫ぶ。

「お願いトリシエラっ、ネリネを助けて……っ! 花庭園ガーデンを出て、初めて出来た友達なの……一緒に戦ってくれたネリネを、絶対に死なせたくないんだ。だから……私に力を貸してっ!」

 強く祈った。

 遠いスイスの森の中。そこで暮らすトリシエラまで、どうか届きますようにと。

 目を開けると、マフラーは赤色の染まることを止めていた。

 マフラーに編み込まれていた『抵抗』の性質が働いて、ネリネの出血を止めてくれたのだ。

「と……止まった……? よし、これなら活性魔術で……!」

 続けて傷を治そうとした私の手を、ネリネの手で汚れた手が握った。それはまるで、何かを託そうとしているようだった。ネリネの手は温かい。でもこれは血の温度じゃなくて、想いの温度なんだと思った。

「あとは、自分で治せます……だからサヨは、アネモネさんを助けに……どうか、ハナニラを止めてください。ハナニラは――わたしの、友達なんです」

 その真実を告げたのと同時に、ネリネの頬を涙が伝った。それはきっと、ずっと自分一人で抱え込んできた気持ちで、言葉にしたことで涙腺も壊れてしまったのかもしれない。

「わたしも、前は花庭園ガーデンにいたんです……たぶん、サヨがいたのと同じところです。花栽培ガーデニングがつらくて、死にそうだったわたしに、ハナニラは一緒に逃げようって言ってくれました。でも結局、逃げられたのは、わたしだけでした……」

 そうだったんだ――ネリネは、私が花庭園ガーデンに来る前にあそこから逃げ出したんだ。それで、ハナニラだけが置いて行かれて――そのあとすぐに、私とアネモネがやって来たのだ。

「わたしの、せいなんですっ……」

 涙で溺れているような、悲しい声でネリネが呟いた。前髪で隠れた目元からは、とめどなく涙が零れ続けている。自分のことを責めてしまっている。

「わたしが、ハナニラを置いて行ったから……あのとき、わたしが塀の上にいて、ハナニラが下にいたあのときっ……わたしが戻ってさえいればっ……。ハナニラは、剪定者プルーナーなんかにはんらなかった……っ! だから、ぜんぶわたしのせいなんですっ……!」

 鼻をすすり、ボロボロと涙を滂沱させるネリネを見て、私の目まで潤んできてしまう。

 自分のせいで、他人の心を歪めて剪定者プルーナーにしてしまった。もう取り返しがつかなくなった。

 そんな、どうしようもない罪悪感に、ネリネはずっと耐えてきたのだ。いいや、その罪悪感すら身勝手に感じてしまって、より自分の心を拉げてしまっているのだろう。

 アネモネはまだ、剪定者プルーナーにはなっていない。だから私はまだ間に合う。

 でもネリネは、もう間に合わないのだ。

 掛けてあげる言葉が見つからない。

 アネモネが剪定者プルーナーになってしまったら、私は、なんて言葉を貰えば救われるのだろう。

 たぶん、どんな言葉を掛けられようと救われない。

 そもそも、救われる権利すらないのだ。

 だってその罪悪感は、自分が裏切った責任なんだから、自ら救いを求めることは出来ない。自分が被害者ではなく、加害者なのだから、一生苛まれ続けることになる。。

 だから、ネリネが欲しがっている言葉は、私には見つけてあげられない。

 でも、ネリネが求めている結末は私でも分かる。

「大丈夫……大丈夫だよ、ネリネ。ハナニラは、絶対に私が止めるから。アネモネを殺させないし、ちゃんとネリネが仲直り出来るようにするよ!」

 もう取り返しがつかなくても――私だったら、もしアネモネが剪定者プルーナーになってしまったら、謝りたい。

 間に合わなかったことを。

 一緒に逃げようとしてくれたのに、一人ぼっちにしてしまったことを謝りたい。

「……っ、ありがとう、サヨっ……!」

 ネリネが私を見て、小さく微笑った。その目元に残った涙を、私は指で拭ってあげる。

 私は夕方、観劇の後に確認していた道順を辿って花庭園ガーデンを目指す。

〈泥濘の魔女〉には勝利し、ライエは倒すことが出来た。

 残る相手は、あと一人だ。

 従業員専用の通路を進んでいると、破壊された鉄製のドアが床に倒れていた。ムカデなどの節足生物を連想させる傷跡を見て、ライエがやったんだと理解する。

 垂直移動霊装エレベーターを使って、最下層まで降りる……ドアが開き、誇りっぽい狭い通路が姿を現した。そこでは十人ほどの花師ガーデナーたちが霊装を構えて話し合っていた。

 彼女たちは私を見るや否や、各々の霊装を構え、魔術を使うための詠唱を始めた。

 私は『夜空』の灯ったホウキを強く握り、隘路の床を蹴立てて、真正面から突っ込んだ。

「そこを……ッ、どけええええぇぇッ!!」

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