第15話 また会う日を待っていた
そんな地獄の生活の中でも、一人の友達が出来た。きっかけは、
だけど
わたしは何も悪いことなんてしてない。なんでこんな想いをしなくちゃいけないんだろう。
次第に心身が摩耗していくわたしを見かねた友達は、こんな提案をした。
「一緒に逃げよう! 今夜にでも、すぐに!」
わたしはその申し出を快諾して、一緒に
だけど、わたしたちは失敗してしまった。
わたしが、脱走防止用の塀を上り終えたその時だった。異変を察知した
「降りてこい!」
怒号を飛ばす
逃げなきゃ。
塀の向こう側に回られたら終わりだ。
猶予を与えることを知らない時間は、刻一刻とわたしの逃げ道を塞ぎにかかる。
混乱して、呆然とするわたしは、
「ネリネ……! 行かないで! あたしを一人にしないでっ!」
涙を振り撒きながら、友達は懇願した。
いつも森の開けた所で、私の膝に頭を乗せて寝ていた友達の寝顔が脳裏に表示された。その幸せそうな顔と、いま目の前で悲痛に顔を歪ませている顔が、重なり合う。
心臓が口から飛び出そうなくらい鼓動がうるさくなる。
「あ、ああ…………っ!!」
なにも言えなくなり、思考が止まって身体が勝手に動き出した。
気づけば、自分は塀を降りていた。―――
そして、一生懸命走った。
逃げて魔女を呼べば
勇気を出したんじゃない。
ただ、戻る方が、逃げるより怖かっただけなのだ。
「ネリネぇーっ!」
背後から、涙に浸った悲壮な声が届いた。
恐怖か罪悪感か、とにかく涙が溢れてきたけど、足を止めずに走り続けた。
―――みんなを助けるためだ。
何度も、自分を洗脳するように言い聞かせた。
月に雲がかかって、森林は真っ暗だった。
草木を掻き分けて飛び出すと、視界が開けた。
突如の浮遊感に、全身に悪寒が奔る。自分が屹然とした崖から落ちているのだと、しばらくの時間を要してから理解した。数十メートルもの高さから落下したわたしは、下に待ち受けていた川に頭から落ちて、意識を失った。
―――
川に落ちて下流まで流されたわたしは、たまたま通りかかった元魔女によって保護された。彼女はずっと、わたしの身体を治療しくれていたようで、七年という月日も彼女から聞いた。
七年経っている――その言葉で混濁していた記憶が覚醒したわたしは、自分がいた
でもその魔女から伝えられたのは「その
足元が崩れる、なんて表現じゃ足りない。
地面だけでなく、空や物、人間などあらゆる万物が瓦解したかのような喪失感。その空っぽになった胸中に流れ込んでくる絶望感。両肺が潰れたみたいに呼吸が出来なくなり、思考を介さず涙がボロボロと零れた。
その瞬間、わたしが友達を見捨てたという事実は、盤石に固定された。
どんな言い訳をしようとも、友達の懇願を無視して自分だけいち早く助かったという結果は、楔によって打ち付けられ、絶対に揺らぐことがなくなったのだ。
どうせ助かるのなら、あのとき友達の元に戻れば良かった。そうすれば、友達を捨てることだって無かったのだ。過去は変えられない。罪は帳消しにすることは出来ない……。
―――でも、たった一つだけ、清算することが出来る道が残っていた。
だから
助け損なわれた友達を、今度こそ自分の手で助けるために。
ちゃんと「ごめんね」を言って、もう一度友達に戻るために。
自分が
そんなことを考えてしまうたびに、自分の勝手さと邪悪さに厭悪が湧いて、何度も胃の中身を吐いた。仲直りの機会が無くなるだけだ。彼女が一回でも少なく
自己嫌悪はどんどん肥大して、いつしか理由付けの出来る自傷行為として、【魔術書】の同調を積極的に行うようになった。
自分の身体を金鎖できつく縛り上げ、何度も水の中に沈めた。肌に跡が残るほど強く『束縛』して、何度も自分の身体を痛めつけた。窒息すればするほど、心に絡みつくどす黒いなにかが圧縮され、胸の奥底に沈んでいくその感覚が心地よかったのだ。
溺死する寸前まで自分を傷つけるから、度々、助けてくれた元魔女には叱られてしまった。止められてもやっていたし、強くなる方法として適切でもあったから、ついには元魔女の方が折れて「溺死しないように、彼女がネリネを水に沈める」という折衷案に行き着いた。
正直、元魔女には申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
だって、自分が七年間も命を繋いできた子どもが、自傷癖にも似た自罰を繰り返し――ましてやその一端を担うことになったのだから。
ネリネという名前を使い続けることにしたのも、たぶん、自罰なんだと思う。
―――元魔女に助けられ、彼女に魔術を学んで五年が経過した。
わたしは彼女の推薦を受けて、
かつてわたしが、花庭園に置き去りにしてしまった友達を助けるために。
獰猛な生命体のように吶喊した『海百合』が、金鎖に『束縛』されて動きを止めた。ライエは後ろ姿しか見えないけど、その背中からは確かに驚愕の気配が漏れ出ている。
ネリネの体表を『鎖の痣』が蛇のように這っていた。緊縛痕にも似たそれは、黒衣箒に隠れている柔肌も余さず犯して広がっていく。
「――――
魔力は人間活動――食事や睡眠、そして情動によって魂から溢れて出す。
それと同様に情動は、魂と密接な関係にある【魔術書】の『性質』もまた強化する。
「わたしは誓ったんです……あの日、わたしが置いて行った友達を必ず助けるって……ッ! 二度と友達を失わないように強くなるんだって! そのために、わたしは
ライエの『海百合』を『束縛』していた金鎖が狭窄する。
病的な白色をした『海百合』に亀裂が奔り、ついには金鎖に骨のように砕かれた。断面では海底のような青色が、動揺するように揺れ踊っていた。
小石サイズに砕けた『海百合』を踏みつけて、ライエが舌打ちをする。
「
再生したライエの『海百合』は、さっきとは違って乳白色に近い色になっていた。絡みつく金鎖を千切りながら、ネリネの
だがその攻撃が、ネリネまで届くことはなかった。
硬度を優先に再構築された『海百合』を、私の『夜空』の腰帯が切り落としたのだ。夜属性を対策されたらどうしようもないけど、単純に硬いだけならトリシエラの『夜空』で『侵食』できないはずがない。
ライエは『海百合』を盾代わりに使って、舞台上まで低空飛行で退避する。
身体の前に構えられた『海百合』は、夜属性に耐性があるもの。だけど硬いだけのそれは、ネリネの金鎖からしてみれば壊すのは容易い。ネリネを襲おうとしていた『触物』は私が腰帯で掃討し、対してネリネは『海百合』を破壊してくれた。
私とネリネの共闘に、ライエは当惑で瞳を揺らしていた。
トリシエラから譲り受けた『夜空』をホウキに灯し、私はライエに言う。
「だから言ったでしょ。二人なら、ちゃんと全部掬えるはずだって!」
振り下ろされた私のホウキが、ライエの身体を切り裂いた。作り物めいた鮮血が雨粒みたいに舞って、仄暗いホールの中を彩る。夕焼けのような橙色のライトは、心なしかさっきよりも光量を抑え暗くなったようだった。
舞台上に降り立ったライエは、少しだけ身体をよろめかせた。〈泥濘の魔女〉のこともあって、少し浅く切りすぎたかもしれない。それでも、常人であれば【魔術書】を閉じてしまうほどの痛みがあるはずだ。
「……ふっ、あははっ! あっはははは!」
にもかかわらず、ライエは『海百合』はそのままに笑い声まで上げていた。舞台上に立って笑う彼女はひどく演劇めいていて、今の戦いが余興だったかのような余裕さえあった。
笑い声が響いている。
三人だけの歌劇場、
「……そうか。サヨは、トリシエラとは違って、誰かと征くことを選んだんだね」
「……ライエは、なんでトリシエラを知っているの。あなたは、トリシエラのなに?」
自分の理想であるトリシエラに触れられそうな不快感に、私は目を細めながら尋ねた。
前に知り合いの
そのトリシエラの生き方を、なんでライエが知っているのか。
そしてさっきライエが言った――トリシエラを敗かしたとか、どういう意味なのか。
アネモネのことも忘れたわけじゃないけど、それを聞かずにはおけなかった。
あなたはトリシエラのなにか、という私の質問に、ライエは答える。
「そうだね……名状したことはなかったけど、ファンってとこかもしれないね」
暴風のような魔力の気配に、私とネリネが悪寒で身体を震わせた。悠然と、しかし暴力的な多分な魔力は、まるでこれから戦闘開始と言っているようだった。
「――――
ライエが発した言葉の意味は分かる。
だがこのタイミングで、その言葉を発する意味が分からない。
「リーディング……? まだ戦うつもりですか?」
怯えた心を戦意で武装したネリネが、毅然とした声音でライエに尋ねた。
ライエは、呆れるような顔で笑った。
「まだ? いやいや、これから戦うんだろう?
ネリネより一足先に理解した私は、自分の手が震え出すのを感じていた。舌が乾き始める。座席の下や舞台の裏側、そういう見えないところにまで心が恐怖を抱き始めた。
昼間、国立歌劇場に潜入する前に――ネリネが【魔術書】を紐解かずとも、ネックレスを作れたように、多少の魔術であれば【魔術書】を紐解かずとも使うことが出来る。
その多少が、さっきまでのライエだったのだ。
―――ライエはまだ【魔術書】を使っていない。
舞台上に一本の亀裂が奔る。そこから湧き上がる冒涜的でおぞましい『触物』の化物たちが群れて、結合し、混ざり合い、本能的に嫌悪感を抱く様相を形作っていく。それは退廃の具現。命の尊さを忘れた捕食者の姿だった。
「――――
最終的に産み落とされたのは、巨大な花のような生命体だった。茎の部分は虫の卵のようなもので埋め尽くされ、触手が産声を上げてエサを求めてうねっている。花の部分はラフレシアのような形をしており、その真ん中から、
病的なまでに白い肌をさらけ出しながら、ライエは私たちを見下ろす。その邪神めいた様相が持つ現実感は、舞台が持つ演劇性でも払拭しきれていない。
「さあ、第二幕後半といこうじゃないか。まだ萎えないでくれよ、トリシエラの
ライエが身体を前に倒すのと同時に、茎部分の触手が私たちに伸びて来た。数えるのも億劫なほど大量の『触手』は、地獄に引きずり込もうとするように禍々しく、本能的だった。
私は『夜空』の腰帯で切り落とし、ネリネは金鎖を叩きつけて払い除ける。しかし、高速で再生と伸縮を繰り返す触手たちは際限がなく、ライエの周りを固めていた。
「触手が多すぎて近づけない……っ! このままじゃ、ハナニラがアネモネさんを……っ!」
舞台上にいるライエから距離を取り、ネリネは息苦しそうに言った。ネリネの体表をなぞる鎖の痕は、熱を帯びるように赤くなっている。金鎖を強化してられるのも時間の問題か。
私の方も、胸がじりじりと焦燥で焼け爛れるのを感じていた。
そんな私たちの心象を慮ることもなく、ライエはランチタイムのように楽し気に言う。
「サヨの魔術を見た瞬間に分かったよ。トリシエラが自分の想いを託したんだってね。憧憬とは呪いのようなものだとは思わない? 一方的に受け取らされ、その後の生き方を縛られる。でも縛られる本人も、その憧憬を捨てたがらないから酷い。憧憬ってのは誘蛾灯のようだよ」
「―――っ、私はトリシエラに縛られてなんかない! 憧憬は、真っ暗な夜闇に灯った烏瓜の橙火なんだ。私たちの周りは照らせなくても、遠くで私たちを待ってくれている。――だから憧憬は、その人を支えても縛ったりなんてしない!」
「支えは拘束の一種なんだけどね。それに――私がなにより厭悪するのは、その継続性だよ。せっかく私が壊したというのに、次のトリシエラが用意されてしまったんだから」
「ライエが、壊した……?」
まだ聞く前だというのに、いち早く理解した理性が吐き気を誘った。
ライエはさっき、自己犠牲の生き方はそのままに、それが出来ないようにしたいと言った。
そしてトリシエラは、北欧での戦いで魔力炉心に傷を負って、戦えない身体になった。
だからそれは―――ライエがトリシエラを知っている理由だ。
「―――そうだよ。北欧でトリシエラの魔力炉心を壊したのは、私だ」
すぐには怒りが湧いてこなかった。たぶん頭が理解できてなかったからだと思う。そうして数秒を経て、私の全身が焼かれているように熱くなった。
「彼女が『極星王』との戦いが終わった直後に、私が壊した」
私にとって母親代わりの――トリシエラの生き方は、ライエに壊されてしまったのだ。
「サヨっ!」
私はネリネの制止も振り切り、単身でライエに吶喊する。迫って来る触手たちにはもう恐怖はない。感じた恐怖心や不快感は、全て怒りの燃料に変えられ、怒りは魔力に変わって『夜空』に換わっていく。
「どう、して……ッ! トリシエラを傷つけたの、ライエッ!! トリシエラは今も、自分が戦えないことを苦しんでる……傷つく誰かを救えなくなった自分を、許せないでいるのにッ!」
「だから言ったじゃないか―――ファンだからだよ。私は自己犠牲に生きる人を美しいと思うし、その生き方をする人は好きだけど、その生き方が幸せだとは思わない。だから壊すんだ。その美しい理想を抱いたまま、幸せな人生を享受してほしいのさ。だってほら、推しには幸せになって欲しいと思うのがファンだろう?」
ライエに接近するに連れて、触手の再生速度は上がっていく。それに『夜空』の腰帯が追い付けなくなり、私は大樹のような触手に殴りつけられて、後方の座席に吹き飛ばされる。
心配して駆け寄ってきたネリネが、手を差し出してくる。
私は自力で立ち上がり、ライエを睨みつける。
「サヨ……っ! 待ってください。二人で協力しないと彼女はっ……!」
「……ごめん、ネリネ。分かってる。でも、ライエは私がやらないと……!」
私にとって命の恩人で、母親代わりで、憧憬の対象だったトリシエラの生き方は、ライエに奪われてしまったのだ。北欧で誰かを守ろうと戦ったトリシエラを、不意打ちしてまで。
だからこれは、トリシエラの
私はネリネを置き去りに、ライエに向かって飛ぼうとして―――。
「―――待て」
「ぐえぇっ!」
飛ぼうとした私の首にネリネの金鎖が絡みついて、首が絞まって変な声が出た。あとごきっと変な音がした。ウィーンに来た初日、自分のマフラーを踏んで首が締まった時のことを思い出した。
硬い鎖で首を絞められた私は、座り込んでげほげほと咳込んだ。
「な、なにするのネリネ……?」
私が涙目になりながら顔を上げると、ネリネは苛立ったように目を細めていた。いつもの臆病な印象とは違った冷たい気配に、私は「待て」を言われた犬のように硬直する。
私を見つめるネリネの目は、一人だけ荷物を持たされてる人を見ているようだった。
「……さっき、サヨが言ってたんじゃないですか。一人だけじゃ全部は掬えないけど、二人でならもっと多くのものを掬えるって。わたしが掬いたいものを、サヨが掬ってくれるって」
それは最初にライエを交わした、守れるものには限度がある話。お椀で掬えるのには分量があるから、一人だけでは全部は掬えないと言われて、私がライエに言い返したことだった。
ネリネがもう一度、私に手を差し出してくれる。
「だったら――サヨが掬いきれないものを、わたしにも分けてください。そしたら、サヨの分も取りこぼさなくて済みます」
ああそっか――私が言ったことじゃないか。
一人じゃ全部は掬い切れないから、お互いにその掬えなかった分を掬い合おうって。
たぶんそれが信頼するってことで、友達になるってことなんだ。
「……うん、ごめん。そうだった」
差し出されたネリネの手を、私は取って立ち上がった。
「一緒にライエを倒そう!」
「もちろんです。周りの触手は任せてくださいッ!」
低空飛行する私を先導するように、ネリネの金鎖が奔って触手を追い払う。貰ったのは言葉だけだったのに、どんな魔術よりも身体が軽くなった感じがした。胸に渦巻いていた焦燥感も、今では別の温かいものに取って代わられていた。
触手群は金鎖が相手していたけど、ライエの『海百合』は私が相手しないといけない。
肉薄する私を突き殺そうとするように、捕食者めいた蠢動を繰り返す『海百合』が『夜空』の腰帯と剣戟を織りなす。ライエが可笑しそうに口元を歪めている。虚無感がとぐろを巻いた彼女の瞳は、私の奥底にあるトリシエラへの憧憬を見ているようだった。
「……ああ……君の在り方は歪で美しいよ。トリシエラの自己犠牲とは、また違った美しさがある。トリシエラが『銀河鉄道の夜』なら、君はさしずめ『幸福な王子』だね。だが――私はやはり、トリシエラの方が好きだったな。だから君も、彼女の憧憬者として、彼女と同じ結末を迎えてくれ! たった一人で、自分だけが戦い、そして誰かを守った挙句に斃れてくれ!」
ライエの『海百合』が私に牙を剥く。四本に増えた『海百合』は、ただの『夜空』では壊せないだろう。
ホウキから『夜空』が溢れ出す。
冬至の夜空から鋳って造り出したこれは、トリシエラから譲り受けたもの。刀身を包み込む『夜空』は、私の分だけじゃなくて、トリシエラの想いも含んでいるようだった。
「――――
〈泥濘の魔女〉の攻撃すら退けた一撃がライエに放たれる。夜属性に対策している『海百合』と言えども、至近距離から放たれた大質量の『夜空』には打ち勝てず、その白い身体は夜空色に染まり崩れ出す。
攻撃手段であり、防御手段でもあった『海百合』を失ったライエは、しかし勝利を確信したように笑う。
「魔力が底を尽きたね。私の勝ちだよ、サヨ。君は私の理想のまま、幸せに生きてくれ!」
蝶を標本にするような身勝手な美意識で、ライエが茎部分から新たに触手を伸ばした。もがき苦しむように渦巻く触手たちが、波濤のように私に襲い掛かる。ネリネの金鎖は、他の触手を相手していて手が離せない。
はらりと、髪の毛が舞った。
私が自分の髪の毛を鷲掴みにして、ホウキで切り落としたのだ。
聖書において、数千人の人間を殺したサムソンという男がいる。彼は髪の毛を剃られて力を失ってしまったが、神への祈りが聞き届けられ力を取り戻した。つまりは、髪の毛は力の源流ということ。
物語の文章を詠唱として使えるように、そういった解釈もまた魔術に出来る。
「――――おとりください」
手から離れた黒髪が、灰色に光ると『夜空』の断片を散らして蒸発した。
魔力が、みなぎる。
敗北を悟ったライエは、物語に続きが出てしまったような、寂しそうな顔をした。
「君はどうやら、自分が幸せになるよりも、誰かを幸せにする方が好きなようだね」
「そうだよ。誰かを幸せにすることが、私の幸せだから」
戦いの最中だというのに、何もかもが静かだった。
蠢く触手も、滑る金鎖も、揺蕩う『夜空』も、みんな黙って私たちの話を聞いていた。
「……なるほど。憧憬は正義と同じで、麻酔なのか。――やっぱり君は、いつか私が
綺麗に終わる物語を読んだように、満たされたように、ライエは最後にそう言った。
「――――
溜まった魔力を『夜空』に換え、私はライエに至近距離から放った。空を覆うように拡がる夜空色の息吹は冷たく、柔らかく包み込むように大気を侵す。ライエを取り込んでいた触手の生命体は、そのおぞましく退廃的な全貌を、色鮮やかな夜空色のシルエットに変えて散った。
そしてライエの身体もまた、夜空色の灰になり出した。
「この肉体はもうダメだね。本体に戻ることにしよう」
ライエはまるで、たくさんある人形の一つを捨てるように吐き捨てた。
「サヨ、また会おうね」
二人で舞台上に落ちゆく中、ライエは私に優しくそう言った。そして私の顔に両手を遣り、自分の顔を耳元に近づけてくる。
「―――でも『幸福な王子』なら、ツバメは最初に死なないとダメだよ」
あの作品は、何度も読んだからどんな話か覚えている。『幸福な王子』が身体中の宝石や金箔をツバメに取らせて、不幸な人たちに配らせる話だ。だからライエの言うツバメが誰なのか、私にはすぐ分かった。
「―――ネリネっ!」
夜空色の灰となって消えたライエに背を向け、私は後方で戦っていたネリネの元に飛んだ。
触手の相手をしていたネリネは、ボロボロになって倒れていた。
私はネリネの
どうにか止血の方法を探して、周りを見渡す――私が巻いている白いマフラーが揺れた。
「そうだ、これなら止血できるかも……!」
このマフラーには『堤防』の概念が編み込まている。その性質は『抵抗』だから、傷口に当てれば出血を抑えることに効果を発揮してくれるはずだ。
真っ白いマフラーがネリネの鮮血で赤く染まっていく。
それに気づいたネリネが、顔色を悪くして瞠目した。
「サヨっ……! それは、サヨがトリシエラさんから貰った大切なものなんじゃ……っ!」
「命より尊いものなんてないよ! マフラーは洗えばまた使えるけど、ネリネは死んだら生き返らないでしょっ!?」
焦っていた私は、声を荒げて言葉を返してしまう。
少しずつ真っ赤に染まるマフラーを見つめながら、私は声を涙で潤ませて叫ぶ。
「お願いトリシエラっ、ネリネを助けて……っ!
強く祈った。
遠いスイスの森の中。そこで暮らすトリシエラまで、どうか届きますようにと。
目を開けると、マフラーは赤色の染まることを止めていた。
マフラーに編み込まれていた『抵抗』の性質が働いて、ネリネの出血を止めてくれたのだ。
「と……止まった……? よし、これなら活性魔術で……!」
続けて傷を治そうとした私の手を、ネリネの手で汚れた手が握った。それはまるで、何かを託そうとしているようだった。ネリネの手は温かい。でもこれは血の温度じゃなくて、想いの温度なんだと思った。
「あとは、自分で治せます……だからサヨは、アネモネさんを助けに……どうか、ハナニラを止めてください。ハナニラは――わたしの、友達なんです」
その真実を告げたのと同時に、ネリネの頬を涙が伝った。それはきっと、ずっと自分一人で抱え込んできた気持ちで、言葉にしたことで涙腺も壊れてしまったのかもしれない。
「わたしも、前は
そうだったんだ――ネリネは、私が
「わたしの、せいなんですっ……」
涙で溺れているような、悲しい声でネリネが呟いた。前髪で隠れた目元からは、とめどなく涙が零れ続けている。自分のことを責めてしまっている。
「わたしが、ハナニラを置いて行ったから……あのとき、わたしが塀の上にいて、ハナニラが下にいたあのときっ……わたしが戻ってさえいればっ……。ハナニラは、
鼻をすすり、ボロボロと涙を滂沱させるネリネを見て、私の目まで潤んできてしまう。
自分のせいで、他人の心を歪めて
そんな、どうしようもない罪悪感に、ネリネはずっと耐えてきたのだ。いいや、その罪悪感すら身勝手に感じてしまって、より自分の心を拉げてしまっているのだろう。
アネモネはまだ、
でもネリネは、もう間に合わないのだ。
掛けてあげる言葉が見つからない。
アネモネが
たぶん、どんな言葉を掛けられようと救われない。
そもそも、救われる権利すらないのだ。
だってその罪悪感は、自分が裏切った責任なんだから、自ら救いを求めることは出来ない。自分が被害者ではなく、加害者なのだから、一生苛まれ続けることになる。。
だから、ネリネが欲しがっている言葉は、私には見つけてあげられない。
でも、ネリネが求めている結末は私でも分かる。
「大丈夫……大丈夫だよ、ネリネ。ハナニラは、絶対に私が止めるから。アネモネを殺させないし、ちゃんとネリネが仲直り出来るようにするよ!」
もう取り返しがつかなくても――私だったら、もしアネモネが
間に合わなかったことを。
一緒に逃げようとしてくれたのに、一人ぼっちにしてしまったことを謝りたい。
「……っ、ありがとう、サヨっ……!」
ネリネが私を見て、小さく微笑った。その目元に残った涙を、私は指で拭ってあげる。
私は夕方、観劇の後に確認していた道順を辿って
〈泥濘の魔女〉には勝利し、ライエは倒すことが出来た。
残る相手は、あと一人だ。
従業員専用の通路を進んでいると、破壊された鉄製のドアが床に倒れていた。ムカデなどの節足生物を連想させる傷跡を見て、ライエがやったんだと理解する。
彼女たちは私を見るや否や、各々の霊装を構え、魔術を使うための詠唱を始めた。
私は『夜空』の灯ったホウキを強く握り、隘路の床を蹴立てて、真正面から突っ込んだ。
「そこを……ッ、どけええええぇぇッ!!」
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