第13話 泥濘に微睡む

 単なる偶然だった。

 侵攻戦線オーヴァーフロントの魔女にも休暇があったから、夫と娘の三人で旅行に行き、たまたま花庭園ガーデンを発見した。そして居合わせた異端審問官インクイジターと共闘して、娘を攫おうとした花庭園ガーデンを潰した。

 きっかけは、単なる偶然だったのだ。

 所属を侵攻戦線オーヴァーフロントから弾劾戦線リアフロントにしたのだって、単純な理由だ。自分の一人娘と、同じくらいの年齢の被験花子どもたちに同情して――娘と被験花ひけんかの姿が重なって、ひどく痛ましかったから、異端審問官インクイジターになった。

 どこにも、特別な要素はない。

 ありきたりな理由から、〈泥濘の魔女〉は――ラスピナは異端審問官インクイジターになった。

「ママ!」

「どうしたんだい、リーシャ」

 夜光虫の淡い明かりが海に灯っていた。綾波に揺曳する青白い光の粒は銀河のように輝いていて、空から零れ落ちた星空のように鮮やかでうつくしかった。

 侵攻戦線オーヴァーフロントで異生命を相手にしていたラスピナは、異端審問官インクイジターとして優秀な働きをしていた。花庭園ガーデンに堕ちるのは、異生命に敗けた魔女たちだ。異生命を打ち倒せるラスピナにとっては、花師ガーデナーの相手は難しくない。

 だが精神的に、異生命を相手するよりもきつかった。

 それで今日は気分転換がしたくて、娘と二人で旅行に来ていた。夫は急な仕事で来れなかったが、ラスピナは明日からまた任務に行ってしまうので、旅行くらい許されるだろう。

「ママ、あたしね、将来ママみたいな魔女になる!」

 リーシャに言われ、思わずラスピナは苦い顔をしてしまう。

 それはつまり、異端審問官インクイジターになるということ――異端者を殺害して生きるということだ。才能があったラスピナは、特段、悩むことなく魔女になり、正義感から異端審問官インクイジターになった。

 しかし、娘にも同じ道を生きて欲しいかと問われれば、頷けなかった。

 なれるといいね、とあやふやに答えられるほど、ラスピナは器用でもなかった。

「止めときな」

 実の母親に将来の夢を否定され、娘であるリーシャは悲し気な顔をする。

「なんで……?」

「ママは……ママは、リーシャにはもっと、真っ当な仕事に就いてほしいねぇ」

「魔女は―――ママのは、ちゃんとした仕事じゃないの?」

 リーシャの声音には、期待を裏切られたと言わんばりの悲痛さを内包していた。

 それでもラスピナは、リーシャの中にあった高潔な魔女の幻想を打ち壊したかった。

 悪い敵をやっつける――字面だけ見れば善行のようだけど、実際は人を殺しているのだ。そして、人を殺すとはつまり、人に殺されても文句は言えないということ。

 だからラスピナは、リーシャの「魔女になりたい」という夢を潰そうとした。自分の娘に人を殺させたくなかったし、なにより死んでほしくなかったから、戦場に身を置くような仕事を目指してほしくなかったのだ。

 ラスピナは、リーシャの問いに答える。

「難しい言葉を使うとね、魔女は必要悪なんだよ」

「……必要悪?」

 聞き慣れない言葉に、リーシャが首を傾げて訊き返した。

「そうだねぇ……いない方がいいけど、いなかったら困る奴……かねぇ。とにかく、目指してなるようなもんじゃないんだよ、魔女っていうのは。そういう仕事は気づけばなってた奴と、それ以外には成れない奴が成るもんだ。だからリーシャは、どっかで働きながら、いい男の人を見つけて、結婚して……そんな生活が、一番いいのさ」

 侵攻戦線で、ラスピナは何度も見てきた。毎日のように襲来する異生命に震え、恐怖し……でも魔女以外の生き方が分からなくなって、戦い続ける人たちを。いつの間にか、自分の命の重さを忘れて、平然と天秤に乗せられるようになっていく様を覚えている。

 生きることが、作業になっていく感覚に苛まれるのだ。

 憧憬を抱いたリーシャなら、そうはならないかもしれない。

 だけどラスピナとしては、やはり魔女にはなってほしくない。

 世界のためなんかじゃなくて、自分の幸せのためだけに生きて欲しいのだ。

 鼻をすする音が自分の隣から聞こえて、はっとする。優しく諭したつもりだったけど、想定していたよりもリーシャは傷ついたようだった。とはいえ、泣かした張本人であるラスピナは投げかける言葉など持ち合わせておらず、何も言えなかった。

「…………ママは……なんかじゃ、ない……っ!」

「リーシャ……?」

「ママは、悪者なんかじゃないよ……っ!」

 夜雨のように、ポロポロと砂浜に落としながら、リーシャはか細く言葉を紡ぎ出した。

 悪者――必要悪という言葉から、ラスピナの言い草から、リーシャは「魔女は悪者」という認識になったのだろう。

「魔女は悪者なんかじゃない……っ! あの時だって、ママはみんなを助けてたもん……」

 あの時――家族三人で旅行して泊まった山奥の旅館は、花庭園ガーデン被験花ひけんかを調達していた場所だった。泊まりに来た子連れの親を殺害して、子どもを被験花ひけんかにするという姑息な手法を使う奴らだった。

 リーシャを攫われそうになったラスピナは、魔女としての能力を発揮して花師ガーデナーを撃退。そして潜伏していた異端審問官インクイジターと共闘し、花庭園ガーデンを潰した。

 だから、異端審問官インクイジターに保護される被験花ひけんかたちを、リーシャは目撃していた。

「着てった新しい服もボロボロにして、みんなのこと助けてたっ! 人を助けるのは良いことだって、ママも言ってたでしょ!? だから、ママは悪者なんかじゃないよ……っ! 苦しむ人のために戦う、正義の味方だよっ!」

 必死に訴えかけるリーシャの姿に、ラスピナはさっきまでの毅然とした主張が声にならなくなる。

 ―――正義は麻酔だ。人間は正義があるから殺人が出来る。

 正義のある殺人は、戦争、正当防衛、死刑として社会的に容認される。正義があれば、殺人はどこまでも肯定される。どんな非道も許される。

 異端審問官インクイジターだって同じだ。正義があるから、心を痛めず人間ガーデナーを殺害することが出来る。処断さつじんが容認されている。

 容認されていようとも――正義によって許されていようとも、やっていることが殺人であることには変わりない。しかし同時に、異端審問官インクイジターがいなければ、被験花ひけんかは助けられない。

 だから、いないに越したことはないけど、いないと困る存在――必要悪だとラスピナは言った。

 その論理だった主張を、ラスピナは言えなかった。

 娘のたった一言――「正義の味方だよ」という、たったそれだけの言葉で「それでいい」と思えてしまったのだ。

 せめて、娘の前だけでは「必要悪」ではなく「正義の味方」でいようと思ったのだ。

「…………そうだね、ママは、正義の味方だよ」

「……! そうでしょ? リーシャ知ってたもん!」

 胸を張ったリーシャを見てたラスピナは、髪をくしゃくしゃと撫でた。「くすぐったいよお」とリーシャが笑う。夜光虫でほんのり照らされたリーシャの顔が、瞼の裏に焼き付いて、十年以上経った今でも鮮明に残っていた。



 淡い青色をした〈烏瓜の橙火〉で、サヨは夜光虫に照らされているようだった。リーシャの姿とサヨの姿が、フィルムのバグった映写機のように重なる。

「必要悪なんかじゃない! 根底に何があっても、偽善者でも、誰かを助けようとするその心は絶対に間違ってなんかないっ! だから異端審問官インクイジターは正義の味方だ……! 苦しんでる誰かを助けるために戦う、正義の味方だよ!」

 サヨの声に当てられて、頭の底で埃をかぶっていたテープが回り出す。

『着てった新しい服もボロボロにして、みんなのこと助けてたっ! 人を助けるのは良いことだって、ママも言ってたでしょ!? だから、ママは悪者なんかじゃないよ……っ! 苦しむ人のために戦う、正義の味方だよっ!』

 娘に責め立てられているようで……「昔のママに戻って」と言われているようで、ラスピナは耐え切れず怒号を飛ばした。

「目障りだ……ッ! お前は……アタシの前から、秒一秒でもさっさと消えろッ!!」



 任務から帰ったら、リーシャが失踪していた。

 一緒に家にいた夫は殺されていて、ラスピナの直感はこれは花庭園ガーデンの仕業だと確信していた。

 自分の娘が日々、花栽培ガーデニングを受け続けていると思えば、寝食すら無駄な時間に感じた。だから探し続けた。来る日も来る日も、花庭園ガーデンだけを探し続けた。

 手掛かりは残っていないか。移送されるとしたらどこの花庭園ガーデンか。

 ……いっそのこと、そこら辺の子どもを攫ってきて、花師ガーデナーをおびき出す囮にしようか。

 色々なことを考えながら、毎日を忙しなく生き続けた。憎悪も厭悪も後回しに、リーシャを助けることだけを考えた。

 それなのに、一向に見つからなかった。リーシャのいない、どうでもいい花庭園ガーデンは腐るほど見つかるのに、肝心の、愛娘がいる花庭園ガーデンは全く見つからなかった。

 一年、また一年経っても、その熱意が冷めることはなかった。むしろ、時間が経つに連れて、娘を花栽培ガーデニングし続けている花師ガーデナーへの憎悪が膨れ上がり、より精力的に捜索を続けた。

 ―――そうして、五年が経った。

 異端審問官インクイジターの中には、花師ガーデナーになって潜入する者がいる。

 花師ガーデナーのフリをする以上、自分が守るはずの被験花ひけんか花栽培ガーデニングすることになるので、心を病んで異端審問官インクイジターを辞める者も少なくないけど、内部に味方がいるので、被験花ひけんかのリスト化、花師ガーデナーの人数、花庭園ガーデンの構造などの情報が手に入り、奇襲作戦は格段に成功しやすくなる。

 五年経ったある日、奇襲作戦に参加することになったラスピナは、手渡された被験花ひけんかのリストの中に、リーシャを発見した。

 五年も経ってしまったけど、写真の顔は見紛うことなくリーシャだった。

 作戦決行日――その日は、月光を微かに残して雨が降っていた。花庭園ガーデンの内と外からの同時攻撃により、花師ガーデナーたちの布陣は容易く瓦解。異端審問官インクイジター側の死者はゼロ人で、呆気なく奇襲作戦は成功を収めた。

 遊撃を任されていたラスピナは、花栽培ガーデニングルームに攻撃を仕掛けた。花師ガーデナーを生きて捕まえれば、別の花庭園ガーデンも芋づる式で発見できるので――リーシャのいる花庭園ガーデンも見つかるかもしれないと期待して、ラスピナは今まで、花師ガーデナーを極力生かすことにしていた。

 でも、もう関係なかった。愛娘リーシャ花栽培ガーデニングしていた花師ガーデナーどもの命なんて、殺したくて殺したくて堪らず、皆殺しにした。一人殺す度に、心が沈んでいた器からヘドロが抜け落ちていくかのような、爽快で気持ちのいい感覚が沸き上がった。

 戦いが終わり、瓦礫の真ん中に立っていたラスピナは、すぐに被験花ひけんかたちが眠っている部屋の方に―――異端審問官インクイジターに保護されたリーシャに会いに行こうとする。

 長かった。

 心の中で、リーシャに言いたかったことが、会う前から噴き出す。

 五年もかかってごめんね。ずっと探してたんだよ。ママが助けに来た、もう大丈夫だよ。お前を苦しめてた奴らは、もういないから安心だよ。

 会う前なのに、嬉しさから涙が溢れてきた。

 一秒でも早く会いたい。そう思うラスピナの視界の端で、辛うじて生きていた花師ガーデナーが身体を起こした。映画のラストシーンを見ている最中に邪魔されたかのような不快感に襲われ、ラスピナは殺してやろうとそちらを振り向く。

 花師ガーデナーより、まず最初に目に付いたのは、地面に転がっていた被験花ひけんかだった。事前に『泥』で探知した際に生きている子どもはいなかったから、元から死んでいた――花栽培ガーデニングの際に死んでしまっていたのだろう。可哀想に。ラスピナが同情したのと同時に、風で雨雲が流れて、月明かりが鮮明に死体を照らし出した。

『ママっ!』

 リーシャの声が、聞こえた気がした。

「リーシャ……?」

 死んでいた被験花ひけんかに駆け寄って、ラスピナは抱き上げる。五年も経って、目じりはラスピナによく似ていた。髪のクセだって、自分が子どもの時のようで思わずラスピナは指で梳いた。

 見紛うことなく、よく見れば見るほど、その被験花ひけんかはリーシャだった。

「リーシャ……?」

 もう一度、名前を呼んだけど返事はしてくれなかった。

 右腕がもげていた。

 奇襲作戦に巻き込まれたんじゃない。破裂した血管は、花栽培ガーデニングの副作用だ。死体は冷たくなっていたけど、腐敗は全く進んでいないから、死後数時間しか経っていない。

 たった数時間前に、リーシャは花栽培ガーデニングで命を落としたのだ。

 あと数時間。たったの数時間早く来ていれば、リーシャは死ななかった。

 ほんの数時間、救出が遅れただけで、一つの命が――ラスピナが五年もかけて探していた愛娘の命は、目前で失われた。

「ああ……ああ……っ……ああああああっ!」

 雨粒がリーシャの顔を伝い、まるで泣いているようだった。

 ラスピナは冷たくなった娘の死体を抱きしめて、くしゃくしゃと髪をさすった。

「くすぐったいよお」と笑うこともなければ、再会を喜んでくれもしない。ただ、だらんと弛緩して冷たくなっていくばかりだ。何度も、名前を呼ぶ。雨音で消えないように、奇跡が起こって息を吹き返すことを願って。でも、変わらずリーシャは微動だにしなかった。

 ラスピナは、目を開けることが出来なかった。

 目を開けてリーシャを見たら、死が確定してしまいそうだったから―――。

 カタンッ、という瓦礫が崩れる音で、悲痛と寂寞は憎悪へと変容する。目の前にいる――生き残った花師ガーデナーに、自分の悲歎を全てぶつけてやろうと顔を上げ、思考が停まる。

「……ラナンキュラス……?」

 眼前の黒衣箒ローブルームを纏った少女を、ラスピナは知っていた。

 異端審問官インクイジターになったきっかけは、五年前、旅行先で花庭園ガーデンと戦ったこと。

 ―――その時、ラスピナが初めて助け出した被験花ひけんかが、目の前にいた。花師ガーデナーとして。

「どう、して……?」

 裏切られた悲痛。助けなければ良かったという後悔。自分がリーシャを死なせる起点だったという罪悪感。痛みを知っているはずの被験花ひけんかが、花師ガーデナーになったことへの疑念。ありとあらゆる感情が席巻し、ラスピナの瞳から一縷の涙が雨に混ざって、瓦礫に落ちた。

 ラナンキュラス――そう呼ばれ、少女もまたラスピナのことを思い出したようだった。

 わなわなと口を開閉させて、飛び出した言葉は――。

「違うのよ……! そいつが勝手に死んだのよ! 五年もここいるくせに、二十番台の花栽培ガーデニングも出来なかったら死んだのよ!」

 なに言ってるんだ、こいつは。

 そうじゃない。そういうことじゃないんだよ。

「どうして、被験花ひけんかだったお前が、花師ガーデナーになったんだ? お前なら、被験花ひけんかの気持ちが痛いほど分かっただろう……?」

 怒りが絶頂を越えると、叫ぶ気にすらなれなかった。冷静に、感情の精彩が欠けてきたラスピナとは対蹠的に、ラナンキュラスはどんどん饒舌に舌を回す。

「仕方ないじゃないっ! 異生命に勝てなかったんだから私より才能ある奴を育てるしかないでしょ!? 普通に暮らせなんて言われても何が普通か分かんないし、そもそも異生命のせいで私がひどい目に合ってたんだから悪いのはアイツらでしょ! 恨むんだったら、私をこんな風にした花師ガーデナーを恨んでよ! あんたは異生命と戦ったことがないから分かんないのよっ!」

 間違っているのは、お前の方だ。

 そう言われているようで……そこまで清々しいと、聞いてるこちら側の善悪の判断が不明瞭になってくる。

花栽培ガーデニングの……子どもの悲鳴を聞いて、なにも、思わないのか……?」

「うっ、運が悪かったのよ。わたっ、私が助けられたのは運が良くて、そいつは、運が悪かったのよ! そうよ……! 運が悪かったのはそいつなんだから、そいつが悪いんだから、恨むならそいつを恨みなよ!」

 そいつ、と。

 リーシャを見ながら、ラナンキュラスは糾弾した。

 リーシャが、ラスピナの娘だとは知らずに。

 野生の獣のように、ラスピナは駆け出してラナンキュラスに手を伸ばした。

 彼女を押し倒したラスピナは、成長したリーシャと同じくらいの年齢のラナンキュラスの首に手を掛けて縊る。大の大人から、馬乗りにされて首を絞められたラナンキュラスは、抵抗しようとラスピナの手首を掴むも、その努力は徒労に終わり―――遂には、か細い首が折れた。

 縊り殺したラスピナは立ち上がって、雨に打たれながら、笑った。

「殺したよ……! お前を苦しめてた奴らは、みんな殺した! もうリーシャを傷つける奴はいないんだよ!? これからは平和に、前みたく一緒に暮らせるんだ! だからっ、頼むから目を開けてくれよ、リーシャ……っ!」

 再び娘に歩み寄ったラスピナは、冷たくなった死体を抱きしめ続けた。

 雨で冷たくなったリーシャの身体は、記憶にある五年前の柔らかな身体ではなく、人形のように硬く無機質なものになっていた。



 ―――だから、被験花ひけんかを殺すことにした。

 生き残った被験花ひけんかは、禍根になる。文字通り、しっかりと根っこを残した花は、いずれ他の花々を苦しめる仇花に成長する。

 ならばいっそ、仇花になる前に、その場で摘み取った方が世の為じゃないか。

 そう思って、まずは一回目。

 娘を殺した奴らと同種になる、と考えれば――被験花ひけんかの姿に、まだ幼かった頃のラナンキュラスの顔を投影すれば、容赦なく殺すことが出来た。そうして一度目の被験花ひけんか狩りは成功した。

 言い訳として用意しておいた「花師ガーデナー被験花ひけんかと心中を図った」というセリフで、異端審問官インクイジターたちはラスピナを疑うどころか、同情さえしていた。

 助けられなくて残念だったね。ラスピナのせいじゃない。

 そんな励ましの言葉さえもらった。

 でも、アイツだけは違った。

 ―――トリシエラだけは、違ったのだ。



「君が殺したんじゃないのかい?」

 開口一番に、そう問われた。

「……なんのことだか、さっぱりだねぇ」

 娘が殺されたことは弾劾戦線リアフロントに知られていたけど、ラナンキュラスのことは報告しなかったため「昔助けた被験花ひけんか花師ガーデナーになり、その花師ガーデナーに娘を殺された」という構図にならない。

 そのためラスピナは、被験花ひけんかを殺しても疑われなかった。

 なのにトリシエラだけは、ラスピナが殺したんだと言い当てた。

 トリシエラは今のやり取りだけで、ラスピナが被験花ひけんかを殺していると察したようだった。

「あの子たちは純粋な被害者だよ。間違っても殺すなんてことは、あってはならない」

 純粋……あれがか?

 あれが純粋なら、邪心とはいったいなんだ。どれほどのものを指す?

 目蓋の裏でラナンキュラスの顔がちらついて、苛立ちが胸中で立ち込める。

「私たち異端審問官インクイジターの仕事は、異端者を狩ることじゃない。異端者に苦しめられる誰かを助けることだ。誰も助けないのであれば、異端審問官インクイジターなんていてもいなくても変わらない」

「……誰かを助けようが、異端者を狩ろうが、やることなんて同じだろう。目的なんざ、なんだっていいじゃないかい。結局やるのは人殺しだ」

「……そうだよ。私たちは人殺しだ。でもね、ラスピナ……助け損ねた誰かに、自分が殺した相手に、犠牲に心が痛まなくなったら人間は終わりなんだよ。自分は正義に準じているから。それが理由になって、人の死に心が痛まなくなったらダメなんだ。それが法の下の正義であろうとも、心を痛め続けなければいけないんだよ」

「…………ずっとお前が嫌いだったよ、トリシエラ……ッ!」

 我慢しようと思った。実際、自分にとっては十分に我慢した。

 でも、純然たる正しさであろうとする人間を前に、ラスピナは耐え切れなくなった。

 被験花ひけんかを殺すことは、最も効率のいい方法だ。だが人間である以上、どれほど自分で割り切れていると思っていても、心なしの罪悪感は内包されている。

 トリシエラと話していると、段々、上手に隠していた罪悪感をあぶり出されていく。効いていた正義ますいが切れ始め、道徳心が機能し始めるのだ。

 感情を殺して、最も効率よく花庭園ガーデンを根絶しようと戦うラスピナ。

 感情は生かしまま、殉教のような、つらく険しい理想を抱えて戦うトリシエラ。

 同じ所を目指しているのに、凄惨なまでに対象的なトリシエラに嫉妬した。

 死んだ娘が目指していた正義の味方に諭されているかのようで、ひどく虚しく、自分が惨めに思えて発狂しそうになった。発狂までとはいかなかったものの、ラスピナは口調を荒げた。

被験花ひけんかなんざ助けたって、結局最後は花師ガーデナーになるじゃないか! 花庭園ガーデンにずっといたせいで花庭園ガーデン以外での生き方が分からないだの、才能がなかったからだの、そんな理由で花師ガーデナーになる! 文字通り、恩を仇で返す仇花になる!! 被験花ひけんかを皆殺しにした方が花庭園ガーデンを根絶する近道になるって、どうして分からない!?」

「それじゃあ花庭園ガーデンと同じじゃないかッ!」

 今度はトリシエラが声を荒げて反駁した。普段の冷静な姿との差に気圧されて、ラスピナは言葉を詰まらせた。トリシエラはそのまま続ける。

「異生命との戦争が終わる近道だと思って、花師ガーデナー花庭園ガーデンを守ろうとしているっ! 奴らと同じ考え方になってどうする……ッ! 私たちの方が化物になってどうするんだ!?」

「お前の理想論なんか綱渡りなんだよ! だから魔力炉心に傷を負って、戦えなくなったんじゃないかッ!」

 ぐっ、とトリシエラは言葉を詰まらせた。

 数年前の戦いで、トリシエラは魔力炉心に傷を負ってしまい、魔術がほとんど使えなくなっていた。身体の方もボロボロで、魔術を使うのは自殺行為に等しいと、医者から忠告まで受けている在り様だ。もう、全盛期の十分の一も戦えやしない。

「勘違いするんじゃないよ、トリシエラ……ッ! 異端審問官インクイジターは正義の味方じゃない……ただの必要悪――処刑人だッ!」

 異端審問官インクイジターは正義の味方なんかじゃない。

 正義の味方だったのなら、どうしてリーシャは死んだ。

 どうして、助けた子どもを殺すことになった。

 いっそ必要悪と言われた方が清々しい。割り切って人を殺せる。

 にも関わらず、そうして欺瞞に落とし込むことをせず、苦痛と懊悩を決して忘れないトリシエラの眩しさが疎ましく、それは憎悪に変貌して明瞭に言葉にする。

花師ガーデナーになる被験花ひけんかどもは、アタシが皆殺しにするッ! 異端審問官インクイジターとアタシ、どっちが先に花庭園ガーデンを無くせるか……戦えないお前は大人しく見ていればいい、トリシエラ……ッ!」

 異端審問官インクイジターとラスピナ――自分はもう異端審問官インクイジターではないと、ラスピナは婉曲に告げ、トリシエラの前から姿を消した。

 逃げることは容易だった。弾劾戦線リアフロント本部なら不可能だったけど、トリシエラが呼び出したのは外だったのだ。「被験花ひけんかの死はラスピナの仕業じゃない」と、心のどこかで願っていた――トリシエラの甘さが招いた失敗だった。

 おかげでホウキは失うことになったけど、その穴は、泥を呑んで同調して埋め合わせた。

 無事逃げ切れたラスピナは、これまで以上に花庭園ガーデンを駆け回り、被験花ひけんかを殺し尽くした。

 異端審問官インクイジターを辞めたことに、後悔など微塵もなかった。

 同様に、自分がやってきた被験花ひけんか殺しも、まったく。

 後悔などなかった。

 後悔などなかった。

 後悔などなかった。

 後悔など、ないはずだったのだ。


「私は戦い続けるって決めたんだ……っ! トリシエラがそうしてくれたみたいに、花庭園ガーデンがなくなるまで、被験花ひけんかを一人残らず助けるって決めたんだ!」

 トリシエラと同じ『夜空』を使うだけで目障りなのに、トリシエラが言いそうなことまで、サヨは言った。

 それがラスピナを苛立たせ、トリシエラに抱いた憎悪と似たものが湧き上がる。

「その青い理想で、いったいどれだけの人間を救うことが出来たッ!?」

 自分は救ってきた。これから花師ガーデナーになるであろう被験花ひけんかを殺すことによって、新たな被害者を生み出すことを防いできた。可視化できるものではないけれど、トリシエラ以上に守ってきたはずだと、ラスピナは自問自答する。

「まだ救えてない! だけど、私はトリシエラに救われたっ! だからきっと救える……ッ!理想を捨てなければ、いつか私と同じ境遇の誰かをそこから助け出せる! そのために私は、トリシエラから『夜空』を継いだんだ!」

「―――っ!」

 その言葉で、ラスピナは強い衝撃に見舞われる。

 お前、被験花ひけんかだったのか……?

 トリシエラは、救っていたのか……?

 救出された被験花ひけんかの中には、異端審問官インクイジターになる者もいる。

 だが、ラスピナは出会ったことはなかった。基本的に異端審問官インクイジターは単独で行動するし――なにより、大半の被験花ひけんか花師ガーデナーに強い恐怖心を植え付けられて、まともに戦えないからだ。

 目の前に――ラスピナは初めて、庭園出身者の異端審問官インクイジターと出会った。

 トリシエラの意志を継ぎ、茨の道を征く後継者サクシードに。


『私は信じているぞ、ラスピナ!』


 頭の奥で――あの日、弾劾戦線リアフロントを去って行く〈泥濘の魔女〉に叫ぶトリシエラの声が、鮮明に木霊する。朝焼けを背景に湛えたその姿は、火あぶりにされる殉教者を連想させた。


『撒いた種が芽吹くように……いつの日か、全ての戦いを終わらせる希望が咲くことを、私は信じてる! 誰もが笑える日が訪れると、私は信じてるっ! 希望は命のように連鎖する! たとえ私が死んだとしても、私の想いは継がれて新たな希望が芽吹くんだ。いつか戦いは必ず終わるから……だから諦めないでくれ……っ! 未来の全部が悲しいものだと思わないでくれ、ラスピナっ!』


 ひどく痛む心を抑えるように、胸の服を握りしめて、トリシエラが涙を振り撒きながら訴えかけてくる。胸の奥底に押し込んでいた古いアルバムの中で、ラスピナに叫ぶ彼女は、誰よりも痛みを負っているようだった。ラスピナの正義ますいが褪せていく……。

 動揺は集中力を欠く要因となり、〈泥濘放流クアッグラント〉は打ち負かされる。

 動揺は不注意に結びつき、気づけば金鎖に『束縛』されていた。

「とどけえええええぇぇぇッ!!」

 サヨがホウキを突き出した。

 だがラスピナは、服の内に隠していた泥を拡げた。あとは、サヨを呑み込むだけだ。

 なのに、時間が引き伸ばされたように遅くなって、動けない。

 泥が生み出す湿気が髪を顔に張り付かせて、雨に打たれた後のようだった。ラナンキュラスを殺した――リーシャが死んだ、あの夜のような。

 ときおり、リーシャのことを考える。

 もし、生きていたら――花庭園ガーデンから救えていれば、どうなっていたか。

 きっと、自分と同じく異端審問官インクイジターになっていたんじゃないかと。

 正義の味方に憧れたあの子のことだ。

 トリシエラのように、崇高で、純然な異端審問官インクイジターになっていたかもしれない。

 分かっている。

 わかっているのだ。

 目の前にいるのは、甘い理想論を掲げた唯の子どもだ。顔だって声だって髪色だって似てない。

 なのに……サヨの顔に、リーシャの顔が張り付いて剥がれてくれなかった。

 リーシャが成長していたら、こんな子になっていたかもしれない。

 そう一度――たったの一度思っただけで、殺せなくなってしまった。

 ―――きっと、芽吹いているのだろう。

 自分が見たのは仇花だったけど、未来に向かって、たしかに希望の花は芽吹いているのだ。

 遠回りかもしれない。効率的ではないのかもしれないけど。

 花が次の種を落とすように、新たな希望は、しっかりと芽吹いているのだ。

 トリシエラを継ぐと大言を吐いたサヨの姿を仰ぎ見ながら、〈泥濘の魔女〉は小さく笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る