第四章 魔女たちの夜明け

第12話 花潰しに夜空色を

 家庭内霊装に魔力を送っていた設備施設が陥落し、夜のウィーンは純黒の闇に蔽われていた。たぶん、ライエがやったんだ。街中の明かりを消して混乱を起こし、唯一明かりが灯る国立歌劇場に一般人を呼び寄せて、私たちがライエを止めづらい――戦いづらい状況にしようとしているんだろう。次々と伏せられていたカードが表になり、状況は不利な方へと変転していく。

 街中に浮かぶ〈烏瓜の橙火〉は海の底のお宮のようにともっているが、人々の不安や恐怖を完全に拭えるほど、幻想的な景色は効力を持ちえない。この停灯がイベントでもないと一般人が気づいた時が最後、一気に混乱が爆発するだろう。

 観光客や多くの人々で賑わい路面列車も走っている本道の方からは、混沌に転じそうな不穏な気配を感じる。しかし中には、音楽で混乱を鎮めようと尽力している人もいるようだった。

 そちらの方とは対蹠的に、私たちが飛行している住宅街の方は、っそりとした様相が維持されており、室内には――蝋燭か普遍魔術か――炎のような淡い明かりが灯り始める。

「このまま路地を通って行きましょう。メインストリートから国立歌劇場に行けば、観光客が付いてくるかもしれませんし」

 ネリネの提案を受けて、私たちは人通りが少なそうな場所を選んで、国立歌劇場に向かって飛行する。〈烏瓜の橙火〉は私たちの飛行に付随していて、少し先まで淡く照らしてくれていた。

 遠くの方――国立歌劇場の真上にある、空走列車が止まっている疑似駅舎。爆発が起こったと思うと、そこからライエの『触物』が宙に放り出されて落下していった。おそらく、制圧のためにライエが差し向けていたものだろう。

「時間がない……もっと急がないと……!」

「サヨ――っ!」

 劈くようなネリネの悲鳴を受けて、下方で暗闇に紛れていた〈そいつ〉の存在を察知した。

 空に翔け上がったきた水流を躱して、私たちは身を翻して地面に降り立つ。

 実際に会ったのは今が初めてだったけど、『泥』を使い、花庭園ガーデンに向かう私たちを襲撃するというだけで、ネリネから説明を受けずとも、眼前の女が〈泥濘の魔女〉なんだと理解する。

 街路樹の影で泥のように息を潜めていた〈泥濘の魔女〉が、私たちの前に姿を現した。

 僥倖なことに、どうやら彼女はまだ花庭園ガーデンに到着していなかったようだ。まずは、被験花ひけんかを巻き込んでの乱戦にならないという事実に、胸中で小さな安堵の目が芽吹いた。

「おや……あの時、あたしが見逃してやった桃毛のガキもいるんだねぇ。向いてないって先輩の意見は無視かい?」

「わたしが異端審問官インクイジターに向いてないことなんて、わたしが一番よく分かってます……。だけど、そんなことを言い訳にして、友達を一人で行かせたくない……ッ!」

 決然と叫んだネリネを、〈泥濘の魔女〉は値踏みするような態度で眇めて見たあと、小馬鹿にするように鋭く息を吐いた。

「正義の味方みたいなこと言ってんじゃないよ。異端審問官インクイジターを何だとはき違えてんのさ!」

「ネリネは何も間違えてない」

 嫌悪感はそのままに、蛇のように威圧的な目で〈泥濘の魔女〉に睨まれる。

 だけど、私は臆することなく言ってやる。

「魔女は……異端審問官インクイジターは正義の味方だよ。勘違いしてるのは、あなたの方だ」

「……ああ、お前は――あたしがキライな奴を思い出すよ」

 私の言葉がよほど癪に障ったのだろう――〈泥濘の魔女〉の身体から魔力が漏れ始める。

花庭園ガーデンで邪魔されても面倒だ。その無意義な誇りに仲間も添えて、溺死させてやるよ」

 私たちは〈泥濘の魔女〉と正面から向かい合った。

 身体から溢れ出す三人分の魔力が、双方の間でぶつかって空気を軋ませる。

「「「――――いざ紐解かんリーディング」」」

 三人分の声が綺麗に重なった。

「――――【夜夜の天際ファーゼストナイト】!」

「――――【鎖状黄金椅子サルニエンシス】……!」

「――――【泥塊水槽クァッグァリウム】ッ!」

 私の黒衣箒ローブルームホウキに『夜空』が投影され、ネリネの十指の指輪から金鎖が伸ばされた。〈泥濘の魔女〉の背後では、透明な容器に象られるように『泥』が四角形状に満たされる。

 同時に、動き出す。

 魔女が地上戦をする際の常套手段、地面すれすれの超低空飛行。駆け出し、正面から迫って来る私に向かって弾丸のように『泥鰌』が発射された。私の横を通り過ぎた『泥鰌』は、後ろに停まっていた車両霊装に被弾すると、その小さな体躯からは信じられないほどの衝撃を発し、まるで砲弾でぶち抜いたかのように破壊する。

『泥鰌』の口が開いてるせいで、被弾した瞬間にその窪みでソニックブームが起きているのだ。対象の内部を破壊することに特化した、ホローポイント弾に似た現象を再現しているんだろう。

 私は黒衣箒ローブルームに『夜空』を投影し、ネリネは防護魔術を最大まで強化済みではあったけど……正直、『夜空』の防御力や防護魔術だけで、どれくらい衝撃を減少させられるかは未知数だ。

 たった一度の被弾で、内臓を潰される可能性だって十二分にありえる。まだ攻撃を視認しただけだというのに、冠号エイリアスを持つ〈泥濘の魔女〉と自分たちの実力の差を早くも痛感させられる。

 ネリネの金鎖が虚空に弾みながら、〈泥濘の魔女〉の元へ突き進んだ。混乱を誘うトリッキーな動きが、夜闇を裂いて対象を捕縛せんとその身を伸ばすも、〈泥濘の魔女〉の背後に鎮座する『泥の水槽』が唾のように飛ばした砲弾に被弾して、接近を拒絶される。

 状況が一進一退を繰り返して、時間が失われていくことはもどかしかったが――それは、私たち二人と〈泥濘の魔女〉が辛うじてだが鬩ぎ合い、拮抗しているという意味でもある。

 だから何か、彼女を出し抜ける一手を打てれば、一気に勝負を決めることも――。

「自分たちでも勝てそうって、そう思ってないだろうねぇ?」

「――っ!」

 内情を悟られ、ねめつけられた私は、堅く結ばれていた集中力が解けて反応が遅れた。

 いつの間にか街路樹の葉の中に潜んでいた『泥鰌』が、黒衣箒ローブルームで覆われていない私の頭部にじっと視線を定めて狙いを付けていた。街明かりがないせいで気づけなかった。

 一瞬の細隙を鋭敏に察知した『泥鰌』は、狙撃手の冷静さを以てわが身を撃ち出した。銃弾よりも遅く砲弾よりも小さい。だが頭部を破壊するには十分すぎる威力と効果を伴っていた。

 がくん、と腹部を殴りつけられたかのように体がくの字に曲がり、『泥鰌』が頭上を通過していった。その拍子に下を向いた頭で自分の腹部を見ると、金鎖が絡まっていた。ネリネが私の身体を引き寄せてくれたのだ。金色の命綱に引っ張られ、後退した私は体勢を立て直した。

「ありがと、今のは危なかった……!」

 私は感覚を研ぎ澄ませる。『泥鰌』が息を潜めていそうな物陰は勿論のこと、悠然と道の真ん中に立っている〈泥濘の魔女〉を注視する。彼女の表情には殺し損ねたことによる敗北感や、ネリネに邪魔された怒りなどはなく、ただ不快感に眉根を寄せていた。

「見くびられたもんだねぇ……いいや、あたしが見くびっていたから、そう見れるだけの慢心をお前らに与えちまったんだねぇ。時間も無いし――早いところ潰しちまおう」

〈泥濘の魔女〉の肉体から、莫大な魔力が突風のように吹き荒んだ。感情を明瞭に反映させる、魔力の波から感じ取れたのは――無垢と呼べるまでに純粋な、研ぎ澄まされた殺意。

「――――展開式アンフォルディング

 その枕詞が何を意味しているのか、私はまだ使えないけど知識としては知っていた。ネリネも〈泥濘の魔女〉が何をしようとしているのか悟ったのか、口は小さく開きっぱなしになり、瞳が驚愕で揺れ動く。

 それは魔術書が持つ最強形態――私がまだ借りることが出来ていない、【下巻】の紐解き。

「――――聿修魔術書篇ウィッチクラフト・インデックス

 まるで雨が滴り落ちる様を巻き戻すように――重力が逆転したかのように、地面から湧いた泥が上空へと遡上を始めた。泥の雫は互いに結びつき、繋がり合って膜となり……それを繰り返して、どこまでも空高く壁を建てていく。

 囲まれたことに不安を感じながら、せめて見慣れた石畳の地面が残っていることに安堵していると、今度は整然と並んだその石畳の隙間から泥が滲み始めた。象牙色の表面を泥が這い、沼のような昏い色で染め終わると、気泡が弾けるように膨らんで破裂。その下には、終わりが見えないほど深い空洞が続いていた。

 ついに私たちは、〈泥濘の魔女〉と一緒に、泥で出来た筒状の空間に閉じ込められた。縦長いこの空間を傍から見れば――大量の『泥鰌』が泳ぎ回っていることもあって、水族館の水槽のように見えるかもしれない。

 自分に有利なフィールドを展開した〈泥濘の魔女〉が、詰るように【下巻】の名を唱えた。

「――――【収斂する泥濘水槽レセプタクル・クァッグァリウム】」

 いくつかの言葉が唱えられただけで、ここが対等に凌ぐ戦場から、たった一人が命の褫奪を連続させる処刑場へと一転した。諦観という段階を越え、ネリネが茫然とした面持ちで呟いた。

「現実世界の上に……魔術書で異界が構築された……? これが【下巻】の力……っ!」

 ここが現実世界とは位相がズレた一つの異界である証明に、人の気配は私たち以外にない。

 辺りにあった家々は全て泥々に溶け切り、今では弾丸の役儀を担う『泥鰌』に姿形を変えて、私たちを凝視したまま〈泥濘の魔女〉の指示を待っている。

 濃厚に濁り切った泥によって、外部の光は透過を許されない。この薄暗い晦冥を払う光源は、青色に輝く〈烏瓜の橙火〉のみ。泥が蠢く鈍い音が鼓膜で蟠り、空間が縦に長いということもあって、さながら巨大な化物に嚥下されているような絶望的な気持ちにさせられた。

「さあ終わりだよ、青臭い正義感を抱いたクソガキども。溺死か射殺か、好きな方を選びな!」

 元は家々、今や『泥鰌』となったそれらが弾丸として発射される。【下巻】による効果なのか、はたまた単純に上空から撃たれているせいか、『泥鰌』の速度はさっきよりも目に見えて増しており、こちらが飛行速度を僅かでも緩めたり、軌道を単調にした瞬間即座に被弾するだろう。

 私たちは水槽の中を泳ぎ回る魚のように、不自由に飛び回って殺意の追跡を回避する。『夜空』を投影した腰帯を振るわせ、待機している『泥鰌』を屠りはするものの、すぐに新たな個体が孵化するように壁から生まれるためキリがない。ネリネの方はもっと深刻で、拘束に特化した金鎖では『泥鰌』を防ぐことも屠ることも出来ていなかった。

 驟雨のように急速に押し寄せる死の気配を感じて、私の中にあった疑問が膨らみ始める。

 私なんかとは全然違って、〈泥濘の魔女〉は本当に強い。機転の利かせ方、魔術の精度と規模。どの視点から考慮しても、彼女が持っている実力は絶対に高水準だったはずだ。花庭園ガーデンを相手に戦うのは言わずもがな、普通の魔女が尻尾を撒くような異生命だって打ち倒せるに違いない。

 間違っても彼女は、異端審問官インクイジターから異端者に堕ちるような人間じゃなかったはずだ。

 なのにどうして、彼女は異端者に堕ちるその決断をしてしまったのか。

「これだけの力があったのに……! どうしてあなたは、被験花ひけんかも皆殺しにするのっ!?」

 胸の奥から精一杯吐き出した言葉は、しかし泥が蠢動する音によって稀釈されてしまった。

 異端審問官インクイジターだったはずの〈泥濘の魔女〉が、異端者になった理由――それは、花師ガーデナー剪定者プルーナーだけでなく、異端審問官インクイジターが助けるはずの被験花ひけんかまで、皆殺しにしたからだった。

「お願い答えて! どうして被験花ひけんかまで殺す必要があるの!? 投降する花師ガーデナーを殺すのは……やっちゃダメだけど、気持ちは分かる! やっちゃダメだけど! でも、被験花ひけんかはただの被害者なんだよっ?」

 かつては四角形をしていた『泥の水槽』は、今ではローブ状になり〈泥濘の魔女〉が身に纏っていた。巨大な蛾のような様相になった〈泥濘の魔女〉は、悲鳴を上げるように糺す私を見下ろし、ほんの一瞬だけ憤怒で瞳を滾らせてから――冷笑するように鋭く息を吐いた。

「お前たちは知らないかもしれないが――異端審問官インクイジターに助け出されたあいつら被験花ひけんかは、侵攻戦線オーヴァーフロントに引き取られて異生命と戦う魔女になり――今度は自分たちが花師ガーデナーになるんだよ!」

 今度は明確に、〈泥濘の魔女〉は言葉に怒気を滲ませて、突き刺すように言い放った。

 花庭園ガーデンにいる花師ガーデナーたちは、元は侵攻戦線オーヴァーフロントで異生命と戦っていた勇敢な魔女たちだ。

 彼女たちは日々この世界に襲来する異生命と延々と戦い続けているが――次第に精神が摩耗し、身体は傷ついていく。明確な勝利や達成感が訪れる瞬間はなく、ただ毎日の生活の中に、命を懸ける時間だけが組み込まれている。

 だから、終わりの見えない異生命との戦いに絶望した魔女は――自分が戦うことが出来なくなった魔女は――異生命を滅ぼせるだけの新たな希望を生み出そうと、花庭園ガーデンに堕ちていく。

〈泥濘の魔女〉は、その残酷な循環に気づいて絶望してしまったんだろう。

 助け出された行き場のない被験花ひけんかたちは、侵攻戦線オーヴァーフロントに引き取られて魔女になり――異生命と戦い続けて、絶望する。

 そうして、彼女たちもまた花師ガーデナーになるのだ。かつて、自分たちがいた花庭園ガーデンという場所に、今度は被験花ひけんかではなく花師ガーデナーとして立ち戻るのだ。

 そして、そんな彼女たちを、私たち異端審問官インクイジターが処断する……。

 異端審問官インクイジターがやっているのは、ただの堂々巡りに過ぎないのだと、〈泥濘の魔女〉は気づいてしまったのだ。

 魔女と花庭園ガーデンと異生命―――この悲劇的に絡み合った螺旋に、〈泥濘の魔女〉が憤怒の形相を浮かべて叫ぶ。

「虐待されて育った親が、自分の子どもを同じように育てるのと一緒さッ! 幼少期を花庭園ガーデンなんて場所で育ったせいで、被験花ひけんかどもは異生命も魔女もいない――花庭園ガーデン以外での生き方が分からず、最終的にはそこに帰結するんだ。異生命に敗けたから、戦うのは怖いから、自分には才能がなかったから……理由なんて、他にもいくらでもほざきやがったよッ!」

 私には、彼女が何を経験して、どんな惨酷な光景に相会したのかなんて、分からない。

 被験花ひけんかを助けようと異端審問官インクイジターになった彼女が、その立場を捨て、かつて自分が追っていた異端者側に身を堕とす決断を、選べるようになった境遇を……私は知らない。

 でも〈泥濘の魔女〉の言葉には、確固たる信念と意志が込められていることだけは、私でも感じ取れた。悲歎や無視という逃避に類するものではなく、守りたかった理想と叶えたかった願いを、未だ希求している敢然とした姿勢……。

〈泥濘の魔女〉と私たちが目指す場所は、同じところなのだ。

 ただ、相容れないように過程が異なってるから、私たちは戦わなければいけない。

「一つの花庭園ガーデンを潰して終わり、花師ガーデナーどもを捕縛して終わり、被験花ひけんかを助けて終わり――そんな単純な構造なんかしていないんだよ! 被験花ひけんかという禍根を残せば、それは次の花庭園ガーデンが出来上がるきっかけになる。本当に花庭園ガーデンを根絶させたいなら……皆殺しにする他ないのさッ!」

 自分の意志と思想を決然と示した、〈泥濘の魔女〉のローブが可変し、泥の砲弾が放たれた。ここに来て途端に『泥鰌』とは速度も質量も異なった攻撃が行われ、ペースを乱されたことでネリネが被弾した。

「きゃあああぁっ……!」

 着弾の衝撃で身をよじらせながら、ネリネはひゅるひゅると撃ち落された鳥のように下方に落下していく。飛行を再開しないことから察するに、おそらく意識を失ってしまっている。

 脱力して無抵抗になったネリネに、『泥鰌』が手持ち花火のような苛烈さで追撃を始める。

「ネリネっ……!」

 全身を捻って方向転換した私は、ネリネの真上に移動して降り注ぐ『泥鰌』の群れを腰帯で防御した。『泥鰌』は腰帯に投影された『夜空』に触れた刹那に、燃え朽ちるように瞬時に消し飛ばされる。背後に腰帯で防衛網を築いた私は、ネリネに向かって一直線に降下する。

 未だ意識が戻らないネリネの下方で、泥が蠢動を始めて輪郭を整えだす。出来上がったのは、凶暴な歯列を携えたウツボのような生物だった。

 ネリネの身に力が入る。どうやら意識を取り戻してくれたようだ。

 しかし、ネリネが今から減速したところで、間に合わないことは確実だった。このまま鋭利な歯列で噛み殺されるか、泥で窒息して溺死するかの二択が、ネリネの脳裏に提示される。

「ネリネっ、金鎖を伸ばして!」

 肺腑の底から怒号を絞り出して、私は余していた腰帯の一本をネリネに向かって伸ばした。私の真意を悟ってくれたネリネもまた、手を伸ばすように金鎖を寄越してくれる。

 腰帯がネリネの金鎖と絡み合った。私は減速を掛けながら、飛行を水平方向に切り変える。

 がちん、とウツボの口が閉じられた。私が水平方向に飛行軌道を変えたこともあり、ネリネのつま先はウツボの歯の数センチ上で難を逃れた。ネリネも自律飛行を再度開始し、私たちは互いに合流した。

「ありがとうございます。サヨがいなかったら、今頃は……」

「お互い様だよ。……それより、どうやって〈泥濘の魔女〉を倒せばいいと思う?」

 降り注ぐ『泥鰌』の散弾を躱し防ぎながら、私たちは必死に思考を巡らせる。きっとこれは塹壕の中で敵と向かい合う気持ちに似ていると、ずっと前に読んだ小説のワンシーンを想起させながら思った。

 上空から降り注ぐ『泥鰌』だけでも厄介だというのに、〈泥濘の魔女〉は泥のローブから砲弾まで撃ち出せるとまできた。この手数の差は、さながらたった二人で戦艦を相手しているようなものだ。上空を取られている不利も効いて、かなり状況は切迫していた。

「一つだけ、考えが……」

 ネリネが苦汁を飲みこむような、言葉とは矛盾した厳しい表情で呟いた。

「えっ、ほんと? どんな考え?」

 死に転換する直前の、濃厚な危機感。それに急かされるように、私は食い気味に訊いた。

 しかしネリネは、私と周囲に視線を往復させた後、言いづらそうに目を細めた。

「でも、これだとサヨが危険すぎるっていうか……その、もしわたしが失敗したらサヨが……」

「それでもいいよ、やろう」

「え……」

 まだ内容も聞いていないのに即答した私を、ネリネは困惑気味に見つめた。今では上空から降り注ぐ泥製の死の散弾も、刻一刻と進行する花庭園ガーデンのことも、何もかも他人事になったような感じがした。まるで、世界に二人きりだけになったような。

「ネリネ。自分から何かしようって決められた瞬間が、『向いてる』になれる大切な最初の一歩なんだよ。友達の私を助けようと、ネリネは付いてきてくれた……なら今度は、ネリネが『向いてる』って思えるようになれる手伝いを、私にさせてくれないかな」

「……はい!」

 慰撫するような、しかし強かな意志が込められた言葉を受け止め、ネリネは一度目を瞑ってから豁然と見開いた。

「まず……〈泥濘の魔女〉に上を取られてるからには、近づくには正面からしかないです」

 それは最低限、私も覚悟していたことだ。この空間は決して横に広くはないし、螺旋を描くように壁際に沿って上昇したところで、〈泥濘の魔女〉もそれに伴って浮上するだけだ。それではこちらが先に限界を迎える。〈泥濘の魔女〉まで距離を詰めるには、正面特攻の他ない。

「サヨに飛んでくる〈泥濘の魔女〉がローブから撃ち出す砲弾は、ぜんぶわたしが潰します。ですが……サヨには自分で、あの『泥鰌』の群れもどうにかしてもらうことに……」

 そこまで言って、ネリネは申し訳なさそうに目を伏せた。

 金鎖を操作するネリネの魔術は、私とは違って殺傷能力が低い。だから消去法で吶喊するのは私しかいないし、ネリネは離れたところからサポートに徹することになる。

 そして、そのサポートに失敗して死ぬのは、真正面から突撃している私のほうだ。ネリネは自分の方が危険性が低いことに――また自分の失敗で、私が死ぬことが怖いのだろう。

「それくらい全然大丈夫だよ。私にも考えがあるから『泥鰌』の方は任せて」

 ネリネの目をしっかりと見つめながら、私は不安を心底に押し込めて、大きく頷いた。

 私がここで死んだら、その後にネリネも〈泥濘の魔女〉に殺されてしまうだろう。ライエは空走列車に乗って逃げ遂せるだろうし――アネモネは〈泥濘の魔女〉に殺される。

 ネリネのために、アネモネのために――私はまだ、絶対に死んじゃいけないんだ。

 私の腰帯の防衛網をすり抜けてきた砲弾が、私とネリネの間をすり抜けて別った。

 悠長にしていれば、〈泥濘の魔女〉は覆しようがない一手を打ってくるかもしれない。

 彼女が私たちを見くびっている今が――私たちのこの作戦が、最初で最後の一手だ。

 胸の中で不安が嫌な瘴気を立ち込めさせる。失敗した時の痛みを想像してしまう。

 ……ううん、無駄だ。そんなの全部無駄なんだ。予測は攻撃を避けるための助けになるけど、悲観は動きを緩慢にする毒になる。

 粘つくような泥の湿気で満ちた中、私は最後に、大きく深呼吸をした。

 ネリネの金鎖の性質は、共闘する可能性も考慮して事前に教わっていた。ネリネの魔術なら、きっと最後まで私をサポートしてくれるはずだ。

「……よし、やるぞッ!」

 決死の覚悟でこころを武装した私は、〈泥濘の魔女〉を目指して、下方から一気に上昇する。

 真上では〈泥濘の魔女〉が地面に対して水平に――つまり、私に対して身体の正面を向ける体勢になり、泥製のローブの表面に砲弾を作り出した。延々と降り注ぐ『泥鰌』を払い除ける私に、〈泥濘の魔女〉が砲弾を発射した。大量の泥が凝縮されて精製された砲弾は、その高密度かつ高質量の体躯を重力で加速させて、私の顔面を目掛けて飛来する――。

 天使を捕縛しようとするような勇み立った速度で、下方から金鎖が伸ばされた。それらは、私たちを外界から隔離している泥壁に弾みながら上昇し――泥の砲弾に引っ付いて、縮んだ。

 金鎖に引っ張られた砲弾は軌道を変えられ、私の黒髪だけを穿って下方に落ちて消えた。私の飛行速度に負けじと、金鎖が〈泥濘の魔女〉に向かって防御網を築きながら昇り続ける。

〈泥濘の魔女〉が蚊に刺されたように、片目を細めて舌打ちした。

「……そうか『束縛』の性質か。いやらしい魔術だねぇ。たかがその程度で、劣勢を覆せるとでも思ってんのかい!?」

 砲弾を抑えられた〈泥濘の魔女〉は、今度はその情動も『泥鰌』に変えて弾丸として撃った。彼女の言う通りだ。私たちはまだ、〈泥濘の魔女〉の攻撃方法の一つを抑えたに過ぎない。戦いに勝つには、彼女の背後に従いている主武装たる『泥鰌』をどうにかする必要がある。

 でもきっと、私なら出来るはずだ。

 だって、私の魔術は……トリシエラと同じなんだから。

 私は、四本の腰帯を全て上空へと伸ばした。それら全ては〈泥濘の魔女〉の横を過ぎ去って、背後に従いていた数匹の『泥鰌』を切り裂いて動きを止めた。

「はっ、どこ狙ってんだい! まさか一匹ずつ潰していくなんて言わないだろうねぇ?」

 私を見下ろす〈泥濘の魔女〉の視線に、濃縮された侮蔑の色が滲んだ。彼女からしてみれば、自棄になっているように見えているのかもしれない。

「――――乖離、再投影!」

「な……ッ!」

〈泥濘の魔女〉の背後や周囲で、腰帯から『夜空』が剥離した。『夜空』の霞は急速に広がり、彼女の背後に従いていた『泥鰌』を侵食して消し去っていく。

 私がハナニラから逃げる時に、駅前でやったことの再現だった。あの時はハナニラの光線を防ぐことは出来なかったが――動きも止まっている『泥鰌』は、簡単に掃討することは出来た。

 私の思惑が成功したことで、〈泥濘の魔女〉の背後に蓄えられていた『泥鰌』の大半が『夜空』に侵食されて消し去られていた。それに巻き込まれないように降下してきた〈泥濘の魔女〉が、順調に上昇して来る私を、激しい怒りを燈した目で睨みつけた。

「お前たち異端審問官インクイジターは、いつだってアタシの邪魔をしやがる……! 目先の命を助けることばかりに固執して、合理的に考えようとしないッ! ちょっと考えれば分かることだろう!?被験花ひけんかは皆殺しに方が、花庭園ガーデンは根絶できるんだとッ!」

〈泥濘の魔女〉は物凄い早さで新たに『泥鰌』を生成し、完成したものから撃ち出し始めた。だけど弾幕の密度は落ちていた。もう次はない。この侵攻が、私たちの生死の境界だ。

 ネリネの金鎖も、私を先導しながらしっかりと砲弾の軌道をずらし続けてくれていた。『泥鰌』が被弾して砕けても、すぐに新たな金鎖が伸ばされて、自陣を堅固に立て直す。

 順調に私が距離を詰めるに連れて、『泥鰌』の速度が、威力が、重さが、堅さが増していく。腰帯やホウキで防いだ衝撃が強くなって減速を強いられる。

〈泥濘の魔女〉の激しい怒りの情動が、魔力を増幅させて魔術を強化しているのだ。

異端審問官インクイジターは正義の味方じゃない! 異端者を殺すだけの処刑人、それが異端審問官インクイジターなんだよッ! 悪党を狩る悪党――ただの必要悪さッ!」

『泥鰌』を躱し防ぐことに意識を集中させていたけど、彼女の「必要悪」という言葉で、意識の向かう先が切り替わった。

 ……必要悪なんかじゃない。そんなことないよ。私を助けてくれた時のトリシエラは、あの時私が見た姿は、紛れもなく正義の味方だった。

 だからすぐに、反駁の言葉は喉を通って声に出せた。

「必要悪なんかじゃない! 根底に何があっても、偽善者でも、誰かを助けようとするその心は絶対に間違ってなんかないっ! だから異端審問官インクイジターは正義の味方だ……! 苦しんでる誰かを助けるために戦う、正義の味方だよ!」

「―――っ!」

 心の一番柔らかいところを刺されたように、〈泥濘の魔女〉は言い淀んで悲痛に顔を歪めた。だけどすぐに、憤懣で顔を赤くして、喉を突き抜けるような怒声で叫んだ。

「目障りだ……ッ! お前は……アタシの前から、秒一秒でもさっさと消えろッ!!」

〈泥濘の魔女〉の頭上に、至る所から『泥』が収斂した。凝集して、濃縮された『泥』は闇夜よりも暗い純黒の色合いになる。蓄えられる圧倒的な魔力から、必殺の一撃が来るのは明白だった。ここが瀬戸際だと本能が理解し、思考するよりも早く詠唱が私の喉から出る。

「――――零時を回れ夜よ深まれッ!」

 煌く星々を湛えた『夜空』がホウキから溢れ出した。飛行する私に置いて行かれた『夜空』の残滓は、潮汐のように宙に広がっていく。〈泥濘の魔女〉の声が、頭の中でぐるぐる回る。

被験花ひけんかという禍根を残せば、それは次の花庭園ガーデンが出来上がるきっかけになる。本当に花庭園ガーデンを根絶させたいなら……皆殺しにする他ないのさ!』

 遠い将来を見据えれば、〈泥濘の魔女〉のやり方は……すごく認めたくないけど、効率がいいんだろう。小さな犠牲で、これから連鎖する悲劇の全てを、打ち止めに出来るから。

 でも……そんなの、あんまりじゃないか。

 無理やり連れて来られて、勝手に身体をいじくり回されて……何も悪いことはしてないのに、「いつか悪者になるかもしれないから」って理由で殺されるなんて、あまりに救われない。

 トリシエラが来てくれた時、すごく嬉しかった。助かると安堵した。かっこいいと憧れた。

 こんな風になりたいと願ったし、こんな風に誰かを助けたいと決心した。

 だから、私は―――。

「私は戦い続けるって決めたんだ……っ! トリシエラがそうしてくれたみたいに、花庭園ガーデンがなくなるまで、被験花ひけんかを一人残らず助けるって決めたんだ!」

「その青い理想で、いったいどれだけの人間を救うことが出来たッ!?」

「まだ救えてない! だけど、私はトリシエラに救われたっ! だからきっと救える……ッ!理想を捨てなければ、いつか私と同じ境遇の誰かをそこから助け出せる! そのために私は、トリシエラから『夜空』を継いだんだ!」

 私と〈泥濘の魔女〉の準備が整い、双方、必殺の一撃を放つ。

「――――残夜リメインナイト!」

「――――泥濘放流クァッグラントッ!」

 暴力的な泥の放流と息吹のような夜空。

 閘門を解き放ったかのような泥の水流は、溺死を連想させる猛然とした濁流となり、私を呑み込もうと大きく拡がった。表層は沸騰するように蠢動し、波がぶつかり合って生まれる襞は、命を食らおうとする貪欲な歯列を思わせる。

 対して私が放った『夜空』の息吹は、冬至の夜を連想させる鮮やかで透き通った色合いだが、世界の端まで塗りつぶさんとする苛烈さは泥に敗けてなんかいない。衝突した泥をすさまじい勢いで侵食して消し飛ばし、〈泥濘の魔女〉までその身を伸ばそうと夜を深める。

 ぶつかり合っている衝撃で、両手で握っているはずのホウキがグラついた。『夜空』が『侵食』出来なかった泥が滴り落ちて、私の耳を舐めあげて悪寒を誘う。気を抜けばすぐに、まるごと呑み込まれてしまいそうだった。

 ギリギリのせめぎ合いの最中、自分でも驚くほど、私の心は恐怖を撥ね退けて勝利を欲していた。ネリネもアネモネがどうとかじゃなくて、単純に〈泥濘の魔女〉に敗けたくなかった。

 だってここで敗けたら、異端審問官インクイジターは必要悪だって――トリシエラは正義の味方じゃないって言われているみたいだったから。

 脳裏にトリシエラの姿が過る。ボロボロになって、吐血してもなお、被験花ひけんかを助けに行こうと立ち上がる彼女の姿が――。

「―――ああ!」

 そうだ。間違ってなんかない。誰に否定されようと、トリシエラは、私の正義の味方なんだ。

 篝火のように燃える憧憬が力になる。『夜空』を構成する、星と『夜』の濃淡が鮮明になる。隙間から滴っていた泥も、いつしか消えていた。

 時計の針が重なるような明確性。魔力の波の一瞬の変化を、私は本能で捉えた。

「はッああああああああァッ!!」

 鍔ぜり合うように動きが止まっていたホウキが軽くなり、私は一気に振り切った。龍の吐く息吹のような、悠然さと強かさを兼ねた『夜空』は泥の濁流を侵食して、後退させる。

 そして、世界の端を目指そうとすすみ続けて一滴も残さず消滅させた。周囲には『夜空』の粒子が色濃く残り、羽毛のように軽やかに散っていく。

 侵攻の道が開かれ、私は〈泥濘の魔女〉までの僅かな距離を直進する。

 必殺の一撃を凌がれた〈泥濘の魔女〉は、けれど潤沢な戦闘経験から瞬時に動揺を沈めて、ローブから砲弾を撃ち出そうと蠢かせた。超至近距離からの砲弾を防ぐ手段は、私にはない。

 ―――だが、砲弾を精製しようとするローブの動きは完全に沈黙していた。

 目を引く速度で、壁を弾んで上昇していた金鎖の一つが〈泥濘の魔女〉のローブを『束縛』していた。絡げたわけでもなく、ただ泥製のローブに金鎖が触れている――『束縛』している。たったそれだけで、ローブを可変させ、砲弾を射出することが出来なくなっていたのだ。

 眼前で、〈烏瓜の橙火〉に照らされ絢爛に輝く金鎖を見た〈泥濘の魔女〉が、雷撃に穿たれたかのように目を見開いた。

 彼女は気づいたのだ。ネリネの金鎖が――金色の鎖ではなく、金の鎖であるということに。

「そうか……金の性質、『不変』か!?」

 古来から価値が変わらないことに由来する、金の性質は『不変』。それは状態と事象の変化を停止させ、現在の状態と事象を永続化させることを意味する。

 故に――金鎖の『不変』が作用した泥製ローブの形状は、変わら『束縛』され続ける。

 私が『泥鰌』を潰すために乖離させた『夜空』は、目隠しの役儀を果たしていたのだ。

 私とネリネの思惑は成功し―――〈泥濘の魔女〉は、ホウキが届く距離にいる。

「とどけえええええぇぇぇッ!!」

 私は腰を捻り、思いっ切り腕を伸ばしてホウキを突き出した。空気を裂いた切っ先が、彼女の右胸に吸い込まれていく。

 だが次の瞬間、〈泥濘の魔女〉の黒衣箒ローブルームの内側から大量の泥が噴き出した。接近されることを危惧し、相手からは見えない服の内に別で隠していたのだ。経験と準備の差が、ここに来て致命的なクレバスとなって私と〈泥濘の魔女〉を引き裂いた。

 それでも私は、賭した命はそのままに、ホウキに魔力を乗算させる。刺突を敢行する。

 これが最初で最後のチャンスなんだ。いま退避したら、こんな絶好の機会は二度と訪れない。

 だから、たとえ相討ちになったとしても、〈泥濘の魔女〉は私が―――ッ!

「――っ、はあああああああッ!」

 気力が削がれたのか、はたまた私の雄叫びに怯んだのか――私を呑み込もうとしていた泥の動きが緩慢になった。〈泥濘の魔女〉の右胸を私のホウキが刺し貫いた。肉を抉る気持ちの悪い感触が、手のひらに蟠った。

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