第11話 仇花と放火魔

「――くそッ!」

 苛立ったハナニラに殴りつけられた机が、重い音を鳴らして狭い室内に響かせた。彼女の目の前に立っている花師ガーデナーは身を強張らせ、癇癪のはけ口にならないよう息を殺している。

 ハナニラはいつもの癖で爪を噛みながら、殺意の灯った目で虚空を睨みつけ、呟く。

「もうすぐ、〈泥濘の魔女〉がここに来る……ッ!」

 被験花ひけんかの調達をする地上組と、被験花ひけんかに魔術を施す地下組で分けることによって、ハナニラは情報が漏れ出さないように統制を図っていた。だがそのデメリットとして、地上で起こったことの情報を迅速に知ることは出来なかった。

 そのため、何か事が起こった際にはヒルダが知らせてくれたのだが――今回ばかりはそうもいかなかった。なにせ、そのヒルダが殺害されていたのだから。

 ヒルダと連絡が取れず、仕方がなく地上に向かわせた花師ガーデナーが、先ほど夕刊を見つけて帰って来た。

 机の上に置かれたその夕刊を視線で射貫き、ハナニラは怒りの呼気を漏らす。

 死因は溺死ではなく失血死。死体が見つかったのは今日の昼頃。……となると、すぐにでもここに〈泥濘の魔女〉がやって来るだろう。

「どう、しますか……?」

「はあ? 命乞いでもしろっての? どうするも何も、迎え撃つに決まってるでしょ」

 死体をわざわざ発見させたのは、ハナニラたちに対する宣戦布告だろう。

 お前たちの住処はもう分かったぞ。これからそちらへ向かってやる、という予約だ。

「ふんっ、やって見なさいよ」

 襲撃されることを察知したハナニラは、さっそく準備に取り掛かることに決める。【下巻】を使うことはまだ出来ないが……事前に来ることが判っている以上は、自分に有利なフィールドを作って待ち構えればいいだけのこと。

「最下層にある大講堂まで〈泥濘の魔女〉を誘導しなさい。あそこで戦えば、音も衝撃も地上までは響かない」

 情報を隠蔽するヒルダが死んだ今、ハナニラが憂慮していたのは戦闘によって花庭園ガーデンの存在が明るみになることだった。

 ハナニラの指令を聞いた花師ガーデナーが踵を返し、庭主室を出ようとした丁度その時だった。

 黒衣箒ローブルームに着替えたライエが、ハナニラの前に現れた。机の上の夕刊に目を落とす。

「ん……なんだ、あいつ〈泥濘の魔女〉に殺されたんだね。バチでも当たったのかな?

 それはそうとハナニラ。正義の反対は別の正義なんて、多様性に毒された手軽に知者ぶれる言葉遊びは置いておくとして――正義の反対は悪っていうのは、間違ってるとは思わない? だって、悪は正義の対義語じゃなくて、善の対義語なんだ。だから正義の反対っていうなら、退廃が相応しいと思うんだ。退廃―――ああ、この場所にぴったりな言葉だろう?」

 いつもの軽薄で道化じみた態度で喋り掛けられ、ハナニラは鬱陶しそうに目を細めた。

「悪いけど、あんたの禅問答に付き合ってる暇はないの。予約は埋まってるから後にして」

「予約なら、〈泥濘の魔女〉より先に私がしていたじゃないか」

「はあ……?」

 なおも食いついてくるライエに返答の間を与えてしまったのは、胸の中で無視するには大き過ぎる不安があったからだった。ライエはもったいぶることもせず、端的に約束を果たした。

「約束通り、今は二日後の夜だ。――私の目的は、この花庭園ガーデンを潰すことだよ」

「は?」

 言われた言葉を即座に受け入れることが出来ず、ハナニラは発声というよりも、息もれするような声で聞き返した。静かな、けれど重く、肺を圧迫する空気が部屋の中を一瞬で隅の方まで満たした。

「あんた……なに、言ってんの?」

 言葉の意味を少しずつ理解し始めたハナニラは、椅子を倒して立ち上がり、憤懣で顔を赤くして歯を食いしばった。凄絶な目で睨みつけられても、しかしライエの表情は穏やかなままだ。

「ハナニラ」

 我が子の名を呼ぶように、静かにライエは発音した。

「私がここに来てから、もう二ヶ月も経った。だが君は、依然として私の誘いを断り、大花庭園グランドガーデンに行こうとはしない。何故だか分かるかい?」

「……次の剪定者プルーナーに値する人材が、まだいないから――」

「違うだろう」

 静かで厳しい、熱の籠った声でライエは否定した。

「そんな奴が現れても、君は絶対に剪定者プルーナーの地位を差し出したりはしない」

 確信するようなライエの口調に刺され、ハナニラは押し黙った。

「君は怖いんだよ。この小さな箱庭から出て生きていけると、嘯けるだけの自信がないんだ。もう何年もずっと、花庭園ガーデンで暮らして来た自分が、今更違う場所で生きることなんか出来るのか。また昔みたいに――被験花ひけんかだった時のように、傷つくことになるんじゃないか」

 はっ、とハナニラの呼吸が止まった。

 一瞬、目の焦点が遠く昏い過去に向く。

「だから君は、外の世界に逃げ出せるだけの力を手にしたのに、剪定者プルーナーになったんだよ」

「…………なんで……」

 ライエの結論が図星だった――そんな些末なことはもうどうでもよくて、ハナニラの鼓膜は捉えてなかった。それよりも、怒りに近いところに根付いていたプライドが、絶対に聞き逃すことが出来ない事実を留めていた。

「……なんであんたが、あたしが被験花ひけんかだったことを知って――ッ!」

 ライエが浮かべている余裕の表情――こちらには悟れないだろうという、侮りの相貌。

 ほんの僅かに感じ取ったその既視感は、昨日、ライエと会った時のこと貌を思い出させた。

「あんた……アネモネと話したのね!?」

 ハナニラが被験花ひけんかだった過去を知っているアネモネを、ライエとは一度も会わせないようにしていた。自分の過去を、誰にも知られたくなかったから。

 だが昨日、アネモネの独房から出たハナニラに、待っていたライエはこう言った。

『今日はずっと被験花ひけんかと話していたさ』

 そうあれは――ライエが黙ってアネモネに会い、ハナニラの過去を聞き出していたのだ。

 いいや違う、きっとそれよりも前からだ――だから二日前の夜に、ライエはハナニラの過去になぞらえた『ゴミ溜めの少女』の話をしたのだ。ハナニラを嘲笑するように。意志を確かめるために。物語を聞かされていた時に植えられた黒いものが、ハナニラの胸中で萌芽する。

 そんなハナニラの瞋恚を無視して、ライエは罪を弾劾するように告げる。

「サヨを――ミモザを殺したかったのも、そういう理由なんじゃないのかい」

「ちがう、あたしはっ……!」

「と、思っていたいだけなんだよ。人の本音は言葉と行動の二つに分けられるが――君のそれは一致している。だから君のそれは、否定じゃなくてただの拒絶だ」

 反駁の言葉が思い浮かばず、ただ怒りと悔しさを反芻するハナニラに、ライエは続ける。

「同じ場所で、似た環境に共にいたはずなのに、サヨだけが花庭園ガーデンから助けられた。彼女は外の世界で正義を学び、道徳を尊び、誇り高い異端審問官インクイジターになって人並みに幸せを享受している。にもかかわらず自分は、剪定者プルーナーになっても、心は依然として花庭園ガーデンに囚われたまま。穴倉の中で、花師ガーデナーの次は異端審問官インクイジターの陰に怯えながら、細々と生きている。こんな陰気な場所を捨てて、未来に踏み出すことが怖くて仕方がない」

「……うるさい」

 俯いているハナニラは、怒っているように、悲しんでいるように、震える声で小さく呟いた。

 それが聞こえているかいないのか、ライエは冷めた表情のまま言葉を淡々と紡いでいく。

「それでもここは、どれだけ矮小で歪でも自分の箱庭だ。自分が生きられる、唯一の居場所だ――なのにそれを、よりにもよってサヨが壊そうとやって来た。まだ被験花ひけんかのアネモネでさえ、未来に希望を持つことは出来るのに、剪定者プルーナーになっても自分は未だに暗い場所で呼吸している」

「……うるさいって言ってんしょ!」

「だから君は私の誘いを断り続けたんだ。ここを出たくない、本当は出たい――そのジレンマに苛まれて先延ばしにした結果が、この無為な二か月間だろう」

 宙に咲いた一輪の『五芒星の花』から放たれた光線が、ライエの頬を掠めた。

 ライエは依然として平静なままだったが、ハナニラの怒りは頂点に達していた。隠していた過去を勝手に披歴され、婉曲な例えで心中を探り、奸計を巡らせて破滅を導く。

 ハナニラが抱くライエへの憎悪は、色濃く膨張して理性を圧迫した。

「だったら何よ……それの何が悪いってのよ! あんたは花栽培ガーデニングされたことなんてないから、そんなことが言えるのよ! 苦しい花栽培ガーデニングを乗り越えて、死ぬような想いをしてまで手にした地位なのよ!? やっとの想いで奪い取った幸せに縋りついて……何が悪いのよっ!?」

「別に私は、幸せの正邪をここで問うつもりはないよ。だが幸せとは、常に誰かの不幸を前提に成り立っているものだ。恋のキューピッドが恋敵から見れば悪魔なのと一緒さ。幸せってのは、誰かの不幸で自分が得をすることなんだ。いずれは遷り変る、暫時的なものに過ぎない。

 君が被験花ひけんかを不幸にして幸せになっているように、異端審問官インクイジターは自分たちが幸せになるために、君を不幸にしにやって来る。ただそれだけのことだ。――ああ、言ってしまえば、順番が回って来たんだよ。幸せを奪い取られる順番がね」

 ―――瞬く『五芒星』と揺蕩う『海百合』。

 ハナニラの『五芒星』から発射された光線は、ライエの腰辺りから伸びた奇妙な触手のようなものに弾かれて、光粒を散らして消滅してしまった。攻撃を仕掛けられたにもかかわらず、ライエの顔には微笑が浮かんだままだった。それは達観を越えて、万能感めいている。

「でも私は、そんな不幸の渦中にいる君を助け出せる場所に居るんだ。……上には空走列車が来てる。あと十分もすれば、私が放っておいた『触物』が制圧しきるだろう。空走列車に乗り、ここを捨てて逃げれば、ハナニラは大花庭園グランドガーデンに避難できる」

「あたしをその不幸の渦中にぶち込んだ本人が、どのツラ下げて言ってんのよ……ッ!」

 呪いに転じそうな殺意を滾らせるハナニラに、ライエは表情を一巡させて、再び道化じみた貌になった。

「私の目的はね、この花庭園ガーデンを潰すことで――君を大花庭園グランドガーデンに連れて行くことだよ。君を繋ぎ止めているこの箱庭を潰して、帰路を断つ。物語の主人公が、前に進むために自分の家を焼くだろう? それと同じだよ。君が閉じこもっている暗く狭い家を焼き払いたくて、私は異端審問官インクイジターがここに来るように仕向けたんだ」

 大々的にライエが市場で子どもを攫おうとしたのは、何かの陽動でも、自棄を起こしたわけでもなく――異端審問官インクイジターをウィーンに呼ぶつもりで騒ぎを起こしたのだ。まさか既に、この街に異端審問官インクイジターが来ていたとは思わなかったが――その偶然も、ライエにとっては好都合だった。

 むしろ、すぐに調査が開始されたおかげで、予定よりも一本早い空走列車に乗れるのだから。

 ライエはダンスに誘うような、嫋やかな仕草でハナニラに手を差し出した。

「さあハナニラ、自分の未来を今ここで決めてくれ。焼け落ちる家から外に踏み出すのか――それとも家と一緒に焼死するのか」

 ウィーンの花庭園ガーデンは完全に終わっている。被験花ひけんかの調達を隠蔽するヒルダは殺され、花庭園ガーデンの場所も異端審問官インクイジターに察知された。ましてや〈泥濘の魔女〉までやって来るのだ。

 隠蔽者は舞台を去り、追跡者は差し迫り、殺戮者は武器を振り上げている――。

 ハナニラに勝ち目など、万が一にでもあり得ない。大花庭園グランドガーデンに来ざる負えないだろう。

 だがもし、ここまで追い込んでも、燃え朽ちる家に執着すると言うのなら―――。

 高い熱量で構築された光線が奔った。ジィンという高く鈍い音が鳴り、続けて床に何かが落ちる音がした。それはライエがハナニラに伸ばしていた、左手だった。

 抜擢者であるライエの腕を焼き落としたハナニラは、決然とした態度で言い放つ。

「さっさと消えろ、放火魔」

「……そうっ、なら仕方がないね」

 ライエはけろりとした態度で、たった今、斬り落とされた自分の腕を断面にくっつけた。

 すると、ものの数秒ほどで元の状態に戻ってしまった。普通に、指まで動かせている。

「化物が……ッ!」

 怒りと軽蔑が混ざった目で睨みつけられたライエは、鷹揚に踵を返した。

「じゃあね、ハナニラ。もう会うことはないだろうけど」

 自動で開いたドアを通ったライエが、廊下からハナニラの方を振り向いて、置き土産を置く。

「ああ、それと一つ思い出したよ。サヨは――ミモザは生きてるよ」

「なっ……!」

 時間切れとでも言うように、そこでドアは勝手に閉まってしまった。ライエが出て行ったことで、室内に蟠っていた空気の重さは多少軽くなったが、先ほどよりも冷たく鋭利に尖った。

「……ど、どうしますか、これから……?」

 圧し掛かる沈黙に耐えられなくなり、息を殺していた花師ガーデナーが吹き返した。

 俯いたまま、感情を濃縮させるハナニラは小さく呟いた。

「…………ろす」

「はい……?」

「アネモネを殺す……ッ!」

 眉間に亀裂を刻み、殺意で目を細めたハナニラの相貌に花師ガーデナーは絶句する。

 だがすぐに、花師ガーデナーとしての自分の使命を思い出して進言する。

「で、ですが……彼女には契約の刻印が発現していて―――」

 諫言を呈した花師ガーデナーの足元に光線が撃ち込また。怯んだ花師ガーデナーは尻餅を付き、震えながらハナニラを見上げた。

「そんなこと言われなくても分かってるわよッ! いいから早く、アネモネを大講堂まで連れて行きなさいッ!」

「は、はいっ!」

 野獣から逃げようとするように、花師ガーデナーは床に躓いて前のめりになりながら走り去った。

 部屋に一人残ったハナニラは、呪殺するような憎悪を抱き、サヨに殺意を向ける。

「あたしだけ不幸になり続けるなんて許さない……ッ! お前も私と同じように、絶望を知るのよ、ミモザ……!」



 ハナニラたちの前を去ったライエは、垂直移動霊装エレベーターに乗って地上に向かっていた。縦移動するこの狭苦しい四角柱の空間が、ライエにとって最後の密閉空間だ。もうこの花庭園ガーデンとは、今日でおさらばなのだから。

 ライエの脳裏に、凛然と立つサヨの姿が過る。

「まあ、ハナニラならアネモネを殺してくれるだろう。ああいった人種は、自分と同じ環境にいた奴が抜け駆けで幸せになるのが、許せないタイプだからね」

 サヨの生存をわざわざ最後知らせたのは、サヨの矛先を自分から花庭園ガーデンに逸らすためだった。

 正義感と責任感の強いサヨのことだ――〈泥濘の魔女〉もライエもハナニラも――その全員を打ち倒さんと発起するだろう。自分の命や未来の摩滅を代償に、天秤に乗せられたもの全てを救おうと戦うはずだ。

 だがそれでは、空走列車に乗って逃げるつもりの自分としては非常に困るわけだ。せっかく変送魔力所も破壊して、街の明かりを消して混乱まで引き起こしたというのに、異端審問官インクイジターに邪魔されると面倒なことになる。

 そういうわけで、ハナニラにはサヨの生存を教え――アネモネを殺そうと動いてもらうことにした。それならサヨも、ライエに構っている暇など無くなり、ハナニラの方に行かざる負えなくなるだろう。

「まったく、無為な二か月間だったな……ああいや、ウィーンの観光は十分に楽しめたか」

 垂直移動霊装エレベーターが地上に到着したライエは、ポケットに入れていたカギを捨て、目の前に佇むドアを腰から生えた『海百合』で破壊した。その先は関係者だけが利用している廊下だったが、もうこの花庭園ガーデンは終わりなのだ。人の訪れを妨げるカギやドアなんて、もはや建築物の装飾品でしかない。地面に落ちて跳ねた金属音が、誰もいない廊下に甲高く響いた。

 ライエがドアを破壊した音を聞きつけ、何人かの警察官が駆けつけてきた。空気を弄ぶように畝るライエの『海百合』を見て、警察官は悲鳴を上げて銃把を握るも、引き抜くより前に、首を断たれた。ムカデのように小さな触手を蠢かす『海百合』の掌の上で、警察官の首が瞠目しながら「え?」と間抜けに声を漏らして絶命する。

 穢れを知らない深海の砂のように白い『海百合』は、今や鮮血で赤黒く彩られ、橙色の館内照明によって金属的な光沢を帯びて、もはや海百合というよりもムカデの様相に近かった。

 ライエは夕方にサヨたちと訪れた、観劇ホールの舞台上にやって来た。

 空走列車の警備は侵攻戦線オーヴァーフロントの魔女が担っているので、制圧にはまだ時間が掛かりそうだ。

 他に行くところもなかったことだし、制圧までの少しの時間は、ここで待つことにしよう。

「さあ魔女たち、死ぬ気でホウキを振るうといい」

 七並べで八を止めているような、友好的で意地悪な笑みを浮かべてライエは囁いた。

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