第10話 空走列車の夜
「はあ~戦ってもないのに疲れたぁ……」
広縁に置かれた一人用のソファに腰を下ろして、私は盛大に息を吐いた。直接的な命のやり取りをしたわけではないが、互いの腹を探り合うような会話はどうしても疲弊する。
ライエと別れた私たちは、従業員や警察官の目を掻い潜りながら館内を捜索し、
私の反対側の椅子に、ネリネも座った。開け放たれた窓からは涼しい夜風が入り込み、明日の戦いに備えるよう疲れを労ってくれているように感じた。
今日で
明日にでも、強襲を仕掛けることが出来るだろう。
「もうすぐ定期通信だ」
私は耳に付けていたイヤリングを外して、机の真ん中にことんと置いた。
なので、それぞれの
ちなみにネリネの定期通信は昨日だったけど、散弾銃で撃たれた時に失くしたらしかった。
壁掛け時計の短針が九を指し示した時、机の上に転がっていたイヤリングが淡く点滅した。
『こちら
「サヨ・ノーチラスです」
『……声紋認証完了です。こんばんは、サヨ・ノーチラスさん。任務の遂行状況はどうですか?』
指導役のような余裕を持った声音に、私たちの間に張り詰めていた緊張の糸が緩んだ。少しだけ脱力して、よく空気が通るようになった喉から私は言葉を紡ぐ。
「
『は、初任務でそこまで……! さすがトリシエラさんの娘さんですね』
「あー……えへへっ、そうですかぁ?」
褒められたことが素直に嬉しくて、こんな状況なのに普通に喜んでしまった。
『それはそうと……私たち、というのは? 他の
自分の番が回ってきたというようにハッとして、ネリネは少し前のめりになって口を開いた。
「あのっ、えっと……ネリネ・ステンノートです。〈泥濘の魔女〉の捜索の一環として、サヨと
ネリネの名前を聞いたオペレーターさんは、安堵するように大きく息を吐いた。
「ステンノート……!? 良かった、無事だったんですね! 昨日の定期通信で連絡が付かなかったから、てっきり何かあったんじゃないかって……」
どうやら、私とネリネの担当オペレーターさんは同じ人だったようだ。
ネリネは通信霊装を紛失した理由として、霊装補遺店で
『警察は
「はい。昨日の昼頃、〈泥濘の魔女〉と数名の
「完全に雲隠れしているってわけですね……。他に得た情報はありますか?」
そう言われて、私たちは小声で話し合いながら、ウィーンに来た初日からの記憶を回想した。
そして一番最初に、まだ話していなかった――重要な人物の名を挙げた。
「
淡々と述べたネリネの言葉を受けて、イヤリングの向こう側にいるオペレーターさんが沈黙した。通信越しでも感じられる情動は、困惑と混乱だった。
「ライエ……その名前は……間違いないですか?」
急に変化した空気間に呑まれながら、私たちは確かめるように顔を見合わせて、頷いた。
「間違いないっていうか、本人はそう名乗ってたけど……」
怒られている子どものように、消沈した声音で私が返事をしてから数秒後。
「……双方の状況は分かりました。追って通信を待っていてください。たぶん、二時間後には作戦の立案が完了していると思います」
深い、水底で呼吸しているかのように、オペレーターさんは苦しそうに言葉を発した。つい数分前までとは、明らかに段階が異なった緊迫感が滲んだ声。得も言われぬ恐怖心に肌を撫でられ、寒気がした。未だ人物像が定まらないライエが不気味な影を帯びている。
「あの……ライエって、いったい何者なんですか?」
慎重に言葉を選んでいたのか、尋ねてからオペレーターさんが答えるまで少し間が空いた。
「彼女は、
おそらく明日の朝には、
聞いた第一印象として、かなり急な話だと思った。
それから私たちは、謎の焦燥感と切迫感に駆られて稼働した脳から、思い出せる限りの情報を吐き出した。ライエの魔術のことや、ハナニラに関することなど……。
通信は十分程度で終わってしまったが、私たちには一時間くらいやり取りしていたような気がした。ネリネがふうと疲労の息を吐いて、冷蔵霊装の中から取り出した冷えた水を飲んだ。私にも一本くれた。
「作戦の立案は二時間後って言ってましたけど、それまで仮眠した方がいいでしょうか……」
不安そうに目を伏せるネリネに、私も今度ばかりは楽観的な言葉を返せなかった。
「……そうだね。作戦が決まったら、寝てる暇もなくなるだろうし……明日の戦い、もしかしたら――ハナニラとライエ、〈泥濘の魔女〉って感じで三人連続の連戦になるかもしれないから」
もちろん、他の
「……アネモネ……」
誰に言うわけでもなく、私は小さくその名前を呟いた。
もうすぐだ。五年間も待たせてしまったけど、もうすぐアネモネを助けられる。会えるんだ。
こんこん、こん。
昨晩も聞いた、女将さんがノックする音が静謐な室内に響いた。時間的に考えると、夕飯を持って来てくれた捉えるのが自然なはずだったが……どうにも、その音には私たちから余裕を削ぎ落すような、焦りが感じられた。
ネリネの方は夕飯だと素直に思っているのか、朗らかな表情で玄関口に行って、そして一つの紙束を持って戻って来た。それを凝視するネリネの目は、動揺と混乱で惑っている。
「ネリネ……それ、なに?」
「……さ、サヨ、これっ……!」
差し出された紙束を、私は受け取った。それは今日の夕刊だった。左上には一番目立つように大々的なタイトルが飾られて、その下にはヒルダさんの写真が載せられていた。自分が視認したものが信じられず、私は写真とタイトルを何度も視点を往復させて、言葉にした。
「ヒルダさんが……殺され、た?」
衝撃的な情報で乱される思考を繋ぎ直し、下の文章に目を滑らせる。
「昼頃に、死体が警察署前に突如として現れた……胃の中が泥で満たされていたけど、直接の死因は腹部からの失血死……」
「サヨっ! 溺死じゃなくて失血死ってことは……!」
「そっか……! 情報を吐かせ終わったから〈泥濘の魔女〉が殺したんだ……!」
泥による溺死だったならば、ヒルダさんは〈泥濘の魔女〉の拷問に屈せず死んだことになるが、失血死ということは用済みになったという意味――つまり〈泥濘の魔女〉が、ヒルダさんから
私たちの周りに〈泥濘の魔女〉が現れないと思っていたが、それは当然だったのだ。なにせ、彼女は私たちが距離を取っていた警察の方で動き回っていたのだから、相まみえるはずがない。
「死体が見つかったのが昼頃。そこから防護魔術の再起動と費やした魔力の回復待ち……それを考慮すると、もう〈泥濘の魔女〉は
悲鳴を上げるように叫んだ私を見て、ネリネが何かに耐えるように唇を噛みしめた。
脳裏に浮かぶのは、〈泥濘の魔女〉による地下空間での大虐殺。
「どうしようネリネ……っ! 定期通信はもう終わっちゃった……。次の通信まで――二時間も待ってられないよ!」
「わ、わたしも、どうすればいいか……」
「あ……ごめん……」
困ったように俯いてしまったネリネに、私は消え入るような声で謝った。ネリネは私と同じように、今回が初任務なのだ。こんな逼迫した状況の解決方法を要求するのは、身勝手だった。
しばらくして、窓から聞こえてくる雑踏を皮切りに、ネリネが話し出す。
「わたしたちが出来ることは、二つです。一つは、〈泥濘の魔女〉を倒しに
私たちは〈泥濘の魔女〉の所在を知らないが、
その代わり、想像しうる最も過酷な状況――〈泥濘の魔女〉とライエとハナニラの三人を、連続で相手することになる。命令に背いた私たちは、
「もう一つが、次の通信を待つことです。抜擢者のライエは、
敵に期待するというのも奇妙な話だが、その流れが私たちにとって最も望ましいものだろう。
私たちの労力は割かれず〈泥濘の魔女〉は死に、後は彼女との戦闘で疲弊した
だけどもし、〈泥濘の魔女〉が勝利してしまったら――
今回が初任務で、まだ経験値のない私たちには決断できないほどの、重い選択肢が並んだ。
お互いに何も言い出すことが、決めることが出来ない沈黙に耐えられず、私は口を開く。
「でも……ライエは、ハナニラのことを見限ろうとしてたし……」
国立歌劇場で、ライエは冷めた目ではっきりと「いらない」と言い切った。そんな彼女が、
その時、パッと部屋の明かりが突如として消え、視界が暗闇で眩んだ。
窓の外に広がるウィーンの街並からも、橙色の灯りが次々に消失していく。
「ウィーンの街明かりが、消えていく……?」
さっきまでモダンで魅了的な光に包まれていたウィーンの街が、夜闇に沈んだ。周囲に蟠る暗闇の中からは、悪意に満ちた意図が滲みだしているように感じた。
続けて響き渡った汽笛の音で、さっきのネリネとの会話は、脳内から完全に掻き消えた。
代わりに、震える鼓膜から思考に伝わってきたのは――猛然とした焦燥感と、絶望。
「なんですか……? この音は……」
ぼおおぉぉぉ、という溌溂に発せられる汽笛の音が夜闇を劈いた。
駅から離れているこの場所まで、列車の音が聞こえるはずが――ないわけが、ない。
たった一つだけあった。私が好きな、見たいと思っていた、地面を走らない列車が一つ。
「まさか……っ!」
人生で感じたことのない悪寒が背筋に奔り、私は窓辺に走り寄って空を仰いだ。
そこには、何両にも連なった列車が夜空を走っていた。煙突からは蒸気の代わりに『夜空』を吐き出し、窓から漏れ出る黄色い明かりは、光沢のある黒色をした列車の体躯を石炭のように輝かせる。線路は進路に沿って自動的に組み上げられ、通ったところからボロボロと灰のように崩れていく。星々が瞬く夜空を走る列車は、まるで、本の世界からやって来た銀河鉄道のようだった。そして灯台のように、ウィーンの頂上だけ橙色に灯っている。
「やられたっ!」
昨日の朝までは覚えていたけど、ハナニラやヒルダさんのことが思考に入り込んだことで、どうでもいいと脳が切り捨てた空走列車の存在を、考慮することが出来なかった。
今なら、国立歌劇場でライエが言っていた『君たちじゃあ、私とは戦いにならないよ』という言葉の真意が分かる。あれは実力が違い過ぎるという意味ではなく――そもそも今夜には、ライエはウィーンを発つという意味だったんだ。
国立歌劇場の天辺、その空中で空走列車が停止した。すると列車の周りに、透き通った青色をした疑似駅舎が構築され始めた。大小様々な透明感のある建材が、積み木のような簡便さで組み合わされて、並べられ――数分もしないうちに、まるで結晶で出来たような玲瓏な駅舎が出現した。
「ネリネ……ライエはあれに乗って逃げるつもりだ! ウィーンの
考え得る限りで最悪な結末が、私たちに訪れようと動き出した。
このままでは――〈泥濘の魔女〉は
止める方法はただ一つ、私とネリネの二人だけで、彼女ら三人を打ち倒すこと。
ネリネがさっき上げた二つの選択肢――そのデメリットだけが綺麗に選び取られ、私たちに唯一の選択肢として提示された。
私がもっと情報を集めていれば、もっと迅速に行動していれば、他に違う選択肢があったんじゃないか……そんな現実逃避に近い反省で思考が潰されていく。
ばちんッ、と自分の両頬を、私は思いっ切り力を込めて引っ叩いた。
現実逃避も反省も、後でも出来ることだ。今は失敗を取り返すことを最優先にしないと。
ああそうだ、トリシエラならきっとそうする。
自分が苦しもうと、自分が死ぬことになると分かっていても、絶対にそうする。
たとえ助けられる可能性が限りなくゼロ等しくても――ゼロであっても、助けようとする。
ならばもう、私がこの選択をすることに迷いはない。
「ネリネ。私はこれから、
壁に掛けていた鞘袋の中から、ホウキを取り出した。夜闇に紛れず、輪郭は鮮明に見えた。
「成功は絶望的で、生きて帰って来ることも出来ないかもしれない。
私がこれから起こす行動に、言葉を当てはめることが出来るとすれば、それは蛮勇か自殺だ。自分よりも強大な敵を、三人も相手取るなんて正気の沙汰じゃない。
「だけど、私は諦めたくない。トリシエラがそうしてくれたみたいに、私は最後まで戦いたい」
五年も経つのに未だ鮮やかな、トリシエラが私を助けてくれた時の記憶が浮かぶ。その時の冷たい空気が、口内を汚す血の味が、胸の中で萌える意思が、今の私に重なった。
もう、心の中には恐怖はない。
私はそこで振り向いて、言いづらそうに言葉を濁しながらネリネに言う。
「あー……でもね、出来れば良いんだけど……その……ネリネの任務だけ手伝ってくれない?つまり〈泥濘の魔女〉を倒すことだけでも」
三人連続で戦うことはどのみち無謀なのだが、せめて〈泥濘の魔女〉の時だけでも手伝った欲しかった。ネリネの任務は元々〈泥濘の魔女〉の処断だし、それだけなら甘受してくれると思ったのだ。俯いているネリネの表情は見えないが、身体は小さく震えていた。
「……イヤです」
「……そっか。うん、無理言ってごめんね」
私は身を翻して、窓の外を見た。
無理を言ってるのは私の方なのだから、断られても仕方がない。
普通に考えれば二時間後の通信を待つことが得策なのだから、ネリネの任務がどうこう関係なく、ネリネが私に付き合う義理はないのだ。
私は
「わたしも最後まで戦います」
背後から聞こえてきた声に、動きを止めた。
振り向くと、ネリネは顔を上げてこちらを見ていた。責めるように細めた両目からは、涙がぼろぼろと零れ落ちている。それから、涙で滲んで、掠れた声をネリネは絞り出す。
「わたしは
ネリネの震える声で涙が散って、夜闇に溶けて消えていく。
「そうじゃなくてもっ、わたしはサヨの友達なんだから……付いて来てって言ってよっ!! わたしが苦しい時だけ助けてくれるんじゃなくて、サヨが苦しい時には、わたしにサヨを助けさせてください……っ! もう友達を失うのは……あんな気持ちは、イヤなんですっ……」
捨てられる子どものように、悲壮感を言葉に纏わせてネリネは痛切に叫んだ。
その姿を見て、心臓がぎゅうっと締め付けられる。
……ネリネの言う通りだ。
だって、もし私が逆の立場だったら、ネリネを一人で行かせたりなんかしないから。
「……ごめん」
まず最初に、一人で行こうとしたことを誤った。
「お願い、ネリネ。私は〈泥濘の魔女〉を止めたい。ライエを逃がしたくないし、ハナニラも倒してアネモネを助けたい。欲張りで勝手かもしれないけど……こんな私を、助けてほしい」
「もちろんです。絶対に勝ちましょう!」
お互いに顔を見つめ合って、一度頷いただけ。たったそれだけなのに、すごい力を手にした気持ちになった。何も示し合わせをしないでも、次の言葉は自然と重なった。
「「―――
ホタルのように、夜闇の隙間から現れた光子が私たちの身体にまとわりつく。動き出した私たちにびっくりしたホタルが一斉に飛び去り、後には
国立歌劇場に停留する空走列車を見据えながら、私は真っ暗な街に手を伸ばし、詠唱する。
「――――めいめい烏瓜の橙火を持ってやって来るのを見ました」
「――――天の川がしらしらと南から北へ亙っているのが見えます」
「――――闇の中をまるで海の底のお宮のけしきのように燈ります」
それは、わたしが大好きな『銀河鉄道の夜』の文章たち。詠唱化された言葉に魔力が帯び、組み込んでいた魔術が発動する。。
ぼうっと虚空から、青に輝く灯籠が顕れた。深海の彩を掻き集めたような、優しい青色の光に照らし出されるウィーンの街並みは、人魚の都のように幻想的で果無く見えた。
「行こう、ネリネ!」
「はい!」
丘の天辺に停まる空走列車を目指して、私たちは空を飛んだ。
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