最終観劇

第8話 雨に沈みゆく

 ことんっ、すす……と本が書棚に仕舞い込まれる擦過音が、そこいら中から聞こえてくる。微かに漂っている匂いに懐かしさを感じながら、五年ぶりに訪れたことに深い感慨を覚える。

 居眠りから目覚めるように、私はぱっと目を開いた。

 いつの間にか、私は十字路の真ん中に立っていた――否、浮かんでいた。

 十字路を形成しているのは平らな壁などではなく、書棚だ。そこには【魔術書】が隙間なくぎっしりと詰め込まれており、きちんと整理されているように見受けられる。

 しかし、何よりも異様で現実離れしているのは、そのスケールだ。

 天井が霞んで見えないほどまで本棚は高く伸び、地面も同様に視認できないほど深く続いている。それは上下に限った話ではなく、前後左右、十字路の終わりも霞んでいて視認することは出来ない。

 その広大な、書棚でのみ構築された十字路の真ん中で、私はクラゲのように浮かんでいた。

 身体を起こした私はあたりを見渡し、この場所の名を声に出す。

「ここは……大図書館、だよね」

 地球という惑星の精神世界――その一区画。全ての【魔術書】が保管されている、大図書館と呼ばれる場所に私はいた。

「あれ……? なんで私は、この場所に……?」

 眠りから覚めてすぐに昨晩のことを思い出せないように、私もこの場所に来る前までの記憶に靄が掛かって上手く思い出せなかった。

 うんうんと唸っていた私の前方に、その人がどこからともなく顕れた。

 不思議な光彩を放つ真っ白いヴェールを羽織り、その身には金色の刺繍が施された鮮やかな紫色のドレスを纏っている。肩や腰回りの布は一部取り除かれ、僅かに垣間見える白皙の肌が彼女に淑やかな艶を帯びさせる。かつて、魔術を異端とした人間を皆殺しに、魔術が常識の今の世界を作り上げた張本人――〈原初の魔女〉がそこに佇んでいた。

 とはいえそれは、あくまで生前の話……今はここ、大図書館を管理している〈司書さん〉だ。

「あ、司書さん」

 私はトリシエラと【夜夜の天際ファーゼストナイト】を共同所有するために、一度この場所を訪れて、司書さんにその手続きをしてもらった。だから私としては五年ぶりの再会といった懐かしい感覚だった。

 対して司書さんは、私に呼びかけられても無表情のまま、無感動に無反応だった。その反応からすると、五年前から司書さんの方も変わりないようだ。

 ぱきっ、と焚火が弾けるような、軽やかな音が鳴った。

 横を見ると、青い炎のようなものが浮いていて――丁度、人魂のような見てくれのそれは、書棚の前で停止した。すると、まるで透明人間が本を読もうとしているかのように、書棚から勝手に【魔術書】が引っ張り出され、開かれてページが捲られた。

 ……そんなことが、そこいら中で行われていた。

 あの人魂のような青い炎は、いま現実世界を生きている人間の魂の断片だ。【魔術書】を使う際には、こうして魂の断片が、当人に代わって【魔術書】を開いて読むことにより発動されるのだ。【魔術書】を物理的に持ち歩かずに、精神的に所有していると言えば、適当かもしれない。

 ぱたん、と人魂が【魔術書】を閉じた。それなりに長い時間閲読していたけど、現実世界とは時間の流れが違うため――問題なく、当人はすぐに発動することが出来たことだろう。

「……あ、そうだ私……ハナニラに撃たれたんだ……!」

 現実世界に思いを巡らせたことで、活性し始めていた思考が自分の状況を思い出させた。

 私はハナニラに『五芒星』で身体を撃たれて、川に落ちて……命からがら、川の反対岸まで水中飛行して逃げたんだった。なら私の身体は……現実世界は、どうなって……。

「惜しかったですね」

 司書さんが残念そうに――気のせいかもだけど――静かな声で囁いた。

「あともう少しで、【下巻】の貸出条件を満たせたのに」

「えっ……!?」

 私は発した驚愕の声が、大図書館の静謐な空気の上を伝った。

 小説のように、固有魔術の【魔術書】には【上巻】と【下巻】の二種類が存在している。

 私もそうだけど、多くの魔女が使えているのはこの【上巻】の方だけだ。【下巻】ともなると、世界に影響を及ぼせるレベルの魔術が行使できると聞いているけど……実際のところ、【下巻】まで使える者などほとんど存在していない。

 理由は単純――【下巻】の貸出条件が【魔術書】によって違っているから。

『母親に頭を撫でてもらうこと』『親友が死ぬこと』『誰かと愛し合うこと』『百年に一度の流星群を見ること』――そんな、場合によっては二度と満たされない貸出条件がある【魔術書】も確認されている。つまりは、【魔術書】に応じて【下巻】の貸出条件は完全に異なっており、あまつさえ条件も教えてもらえないというわけだ。

 なので基本的に、多くの魔女は【下巻】を手に入れられず生涯を終えるのだが……自分がそこに近づいていたという事実に、私は喜びを隠せず笑みを浮かべた。少なくとも、【夜夜の天際ファーゼストナイト】の貸出条件は『十歳の誕生日を祝われる』とか、取り返しが付かないものではないようだ。

「でも私……ハナニラとの戦いで、何か特別なことってしたっけ……?」

 ハナニラとのあの戦いで、私が起こした何らかのアクションが【下巻】の貸出条件を満たせそうだったらしいだけど……うぅん……全然わかんないや。

「ですが――」

 司書さんは同情するような、悼むような目で私を撫でた。

「あなたのその生き方が変わらなければ、貸出条件は満たされるでしょう」

 そしてその時、私は再びこの場所に誘われるのだろう。

 トリシエラから教えてもらった色々なことが役立って、ここまで来れたんだと思うと、何だか誇らしい気持ちになった。現実世界の自分の体調のことなんか忘れて、私は明朗に頷いた。

「うん、わかった。わざわざ教えてくれてありがとう、司書さん」

 司書さんは「どういたしまして」も「お気になさらず」も何も言ってくれなかった。

 だけど、ほんの少しだけ微笑んだ気がした。

 司書さんの手の中に、虚空から一本の羽箒が現れた。それが淑やかに振られると、たくさんの純白の羽が舞って私の視界を蔽い尽くした。

「―――閉館です。またのご来館を、お待ちしておちます」



 窓に打ち付けられる雨の音で、私は目を覚ました。さっきまで、どこかで誰かと話していたような気がするけど……きっと何か、夢でも見ていたに違いない。

 窓の方を見ると、カーテンは閉め切られていた。隙間から見えるウィーンの街並みは、雲に沈んだような灰色をしている。たった一枚ガラスで仕切られた向こう側は、ひどく陰鬱で動乱に満ちているように感じられた。対して部屋の中は温かく、とても快適だ。なんならストーブまで付けられており、まるで窓の外に対抗するように室内は温かさが維持されている。

「ここは……旅館……?」

「サヨ……?」

 身体を起こす余力は無かったので、私は視線だけそっちに向ける。

 座椅子に座って『銀河鉄道の夜』を読んでいたネリネが、死人に会ったように瞠目していた。そして、涙で瞳を露点させながら、私に駆け寄って手を握ってくれた。

「よかった……! 目を覚ましたんですねっ……」

「ネリネ……」

 彼女のあまりの喜びように、感化されて私の方も泣きそうになってしまった。

「治癒魔術を使って傷は治したんですけど、全然起きないから、もうダメかと……」

 大げさだよ、と苦笑しようとして脳裏を過ったのは、ハナニラから受けた最後の一撃だった。

「あれ……でも、私、心臓を撃たれたんじゃ……?」

 治癒魔術は使用者の練度によって、擦り傷から骨折まで、治癒できる範囲はかなり広がる。しかし、心臓や脳などの重要器官は医療魔術でなければ治せないはずだ。ウィーン警察に病院も抑えられてるはずだし、流石にネリネにも心臓は治せないんじゃ……?

 私の純粋な疑問に、目の端に涙を残しながらネリネは鷹揚に頷いた。

「契約の刻印があるところは、不死属性が帯びるんです」

「不死……って、わたしの心臓が?」

「はい。なので、光線に撃たれようと剣で刺されようと、サヨの心臓は機能が続くんです」

「へえ……契約の刻印に、そんな副次効果があったんだ。知らなかった」

 これまでは「こんな目立つところにあって恥ずかしい!」と嫌がってきたけど、今以上に胸にあって良かったと思ったことはない。他の傷もネリネが全部治癒してくれたようだし、どうにか窮地は脱することが出来たようだった。

 喋っていたら段々と身体も楽になってきたので、私は上半身を起こした。

「もう起きるんですか……? まだ横になっていた方が……」

「ううん、平気だよ。ネリネは大丈夫だったの? 私を助け出す時とか、攻撃されなかった?」

「あ、えっと……わ、わたしの方は打撲が多かったので……サヨほど、傷はないですよ」

 力なく、誤魔化すようにネリネが笑っているのを見て、脳裏に作戦が閃いた。

「ネリネ。あれって何だと思う?」

「……? どれですか?」

 私が指さした入り口の方を、ネリネは体勢を変えて振り向いた。

「……えいっ!」

 無防備にこちらに晒されたネリネの背中を、私は指でどすっと突いた。

「んああっ!」

 電流が流れたようにネリネが身体をのけ反らせた。そのまま前に倒れ臥すと、手が届かない自分の背中に手を伸ばしてぴくぴくと痛みに見悶えだした。

 そんな姿を見て、申し訳ないと思いながらも噴き出してしまう。面白さと、嬉しさで。

 治癒魔術を使えるのは、自分の視界内に限定されている。つまり、自分の背中に負った傷は自分では治せないのだ。

 きっと、瀕死状態の私に治癒魔術を使ってもらうことを遠慮して、ネリネは打撲が痛くないフリをしていたのだろう。なおも悶え続けているネリネの背中を見つめながら、私は囁く。

「私ばっかり助けてもらうわけにはいかないよ。ほら、背中見せて」

「ううぅ……サヨはいじわるです……」

 座った状態で、浴衣をすとんと脱いだネリネの背中に、私は手を翳し治癒魔術を使い始めた。

 ネリネの怪我は(痛いとは思うけど)確かにそんなに深くはなかったので、極度の集中力が求められるほどではなかった。そういうわけで、治癒魔術でネリネの打撲を治しながら、私たちは状況を整理することにした。

「取り敢えずなんだけど……この旅館から移動しなくて平気かな?」

「大丈夫です。女将さんには事情を説明してありますから。警察が来ても、追い払ってくれるそうです。女将さんも市場で子どもが消えることに、警察に不信感を持っていたそうなので」

「ネリネ、花庭園ガーデンとウィーン警察が繋がってること知ってるの?」

花師ガーデナーの一人から聞き出したんです。……〈泥濘の魔女〉が」

 その名前を聞いて、私は一瞬、集中力が途切れて治癒魔術を止めてしまいそうになった。

「〈泥濘の魔女〉って……ネリネが追ってる相手だよね? 花庭園ガーデンにいる人を皆殺しにするっていう」

「さらに言えば――ウィーンに花庭園ガーデンがあると弾劾戦線リアフロントが思ったきっかけでもあります」

 私は昨晩、ネリネから「自分の任務は、ウィーンに来ている〈泥濘の魔女〉を処断すること」だと告げられたが、その前から〈泥濘の魔女〉という冠号エイリアスを持つ彼女のことは知っていた。

 なぜなら、そもそもウィーンに花庭園ガーデンがあるという疑いは――花庭園ガーデン狩りをしていた〈泥濘の魔女〉が、ウィーンに向かって移動し始めたからなのだ。

 私たちはお互いに別行動していた時に起こったことを話し、整理した。

 ネリネからは――霊装補遺店が花庭園ガーデンに潰されてもう使えないことと、〈泥濘の魔女〉と接触したことを聞かされた。

 私の方からは、警察署内でヒルダさんに毒殺されかけたことと――五年前、花庭園ガーデンから助け損なわれた被験花ひけんかのハナニラが、ウィーンの花庭園ガーデン剪定者プルーナーになっていたことを話した。

 その話を聞いている時のネリネは、罪悪感で圧し潰されそうになっているかのような、酷くつらそうな貌をしていた。被験花ひけんか花師ガーデナーになる因果を悲観しているのかもしれない。

 そうして、お互いに情報を出し合った私たちは、状況を簡潔にまとめる。

「えっとつまり……花庭園ガーデンが〈泥濘の魔女〉に襲われる前に――私たちがどっちも倒さないといけないってこと?」

「そうなります。どっちが早く花庭園ガーデンを潰せるか、〈泥濘の魔女〉と競争です」

「「…………はあ」」

 何も示し合わせずとも、私たちのため息は重なった。

 花庭園ガーデンを一つ相手するのにも骨が折れるのに、そこへ冠号エイリアスまで持っている〈泥濘の魔女〉も加わられるとなると、かなり厳しい戦いが強いられるだろう。

 考え得る最悪の想定は……ライエとハナニラ、私とネリネ、〈泥濘の魔女〉の三つ巴の乱戦になることだ。そんな事態になれば、ウィーンの街は大被害を受け、死傷者もとんでもない数字になるだろう。

 私たちが導き出した最善は――〈泥濘の魔女〉より先に花庭園ガーデンを打ち倒して、ネリネが昼間に目の当たりにしたような虐殺を回避するというものだった。

 ネリネの任務を後回しにするようで悪いけど……〈泥濘の魔女〉に気を取られているうちに、私の時のように他の花庭園ガーデンに引っ越されてしまう可能性があるため、優先せざる負えないのだ。

「ですが……花庭園ガーデンはどこにあるんでしょうか……?」

 ネリネが全く分からないと言うように、考え込むように俯いた。

 大抵の花庭園ガーデンは、あまり人が来ないところに置かれている。例えばかつて私がいたオーストリアの花庭園ガーデンは森の真ん中だったし、今は使われていない古城を改装して使われる場合もある。

 なので、ひとえに「ここだ」と断言するのは出来ないのだが――今回に関しては、私はもう花庭園ガーデンのある場所に予測することが出来ていた。

「たぶん、地下じゃないかな」

「地下……ですか?」

「うん。私が警察署から逃げ出してすぐに、ハナニラは私の前に回り込んで来た。もし地下に花庭園ガーデンがあって、地上に出る道が複数あるなら――私が逃げた方向をヒルダさんから聞いて先回りをすることも出来たと思う。それに、ウィーンの地形だと地下列車を走らせられないし、地下空間はほとんど自由に使える」

 私の推測を聞いたネリネの目が、段々と見開かれていく。

「確かにそれなら――地下通路さえ開通させれば――市場のすぐ近くにも、花庭園ガーデンと繋がった道を作ることが出来ます……!」

 状況を考慮すると、花庭園ガーデンの所在がウィーンの地下というのは、ほぼ確実のようだった。

 こんこん、こん、と不規則な律のノックが戸口から聞こえてきた。ネリネが強張っていた表情を緩める。

「女将さんですね。たぶん、お願いしていた夕食を持って来てくれたんだと思います。続きはまた明日にしましょう」

 ネリネは戸口に行って一言二言、言葉を交わした後、女将さんと一緒に二人分の夕食を持って来てくれた。女将さんからは「子どもを見つけてあげて」とか「悪徳警官なんかぶっ飛ばせ」とか激励を貰ってしまった。まだ身体は錘を吊り下げているように怠かったけど、私は座椅子を机に寄らせて、背を凭れながら夕食にありついた。

 魔術を使うエネルギーである魔力は、人間活動――食事や睡眠や運動、情動や欲動――などによって魂から溢れ出して、魔力炉心という箇所に蓄えられるのだ。

 余った魔力は生命力に還元されるし、魔力や体力を回復したい時ほど、しっかりとした人間生活を送らなければいけない。そういうわけで、私は出来るだけ身体が痛まないように気を遣いながら、箸を動かして料理を口に運んだ。

 夕食を食べ終わると、ネリネは部屋に設えられた風呂場にシャワーを浴びに行った。

 傷口が開くことを危惧して、私は温泉には行かなかった。

 ただ黙って、星明かりも見えない窓の外の夜闇を茫然と眺めていた。

 頭の中にあるのは、ずっと忘れられない、私を助けてくれた彼女のこと。

「アネモネ……」

 ハナニラは最後、私を殺そうとした瞬間にはっきりと言った。……アネモネは生きてると。

 最初に訊いた時に嘘を吐かれたことは、もうどうでもいい。ただ、アネモネが生きていると――ウィーンにいると判っただけで、身体の内に熱い潮汐が広がっていった。

「……絶対に、助けるから」

 暗い窓ガラスに反射する私の口元で、言葉は露点した。



 自然物や陽光がない地下の花庭園ガーデンは、少しでも息苦しさを拭おうと、広めに作られる場合が多い。だがずっと地下に籠っていると、やはりどうしても閉塞感と圧迫感には苛まれる。それはここ、ウィーンの花庭園ガーデンも同様だった。

 傲然と靴音を響かせて歩くハナニラは、えらく機嫌がよかった。

 霊装補遺店の方は〈泥濘の魔女〉による強襲で失敗したが……まあそれは、どうとでもなる。ヒルダが警察官をウィーン中に配備させているし、逃げた異端審問官インクイジターを見つけるのは、時間の問題だろう。被験花ひけんかの調達係りである死んだ花師ガーデナーも、代わりはすぐに用意できる。

 ハナニラが上機嫌だったのは、長年殺したかったミモザ《サヨ》を殺せたからだった。

 ハナニラが向かった先は、被験花ひけんか花師ガーデナーたちの居住区域などではなく、普段から誰も来ない廊下の奥まったところにある部屋だった。

 花庭園ガーデン剪定者プルーナーが持つ、全ての部屋を開けられる鍵を懐から取り出す。

 パズルが組み代わるように鍵の形が代わる。鍵穴に差し込んで回すと、扉は勝手に開いた。

 大量の雨水が水道管を流れ落ちる音が、どこからともなく聞こえている。

 薄暗い――牢獄のような暗さと鬱々とした空気で満ちる部屋では、一人の少女が壁際で手枷に繋がれていた。青みがかった紫色の長髪。その前髪の隙間からは、深い青色の瞳がハナニラの姿を捉えている。反抗的な目つきで睨まれたハナニラは余裕はそのままに、笑みを浮かべて少女の名を呼んだ。

「いま地上は、物凄い豪雨だそうよ。まあ、地下にいるあたしたちには――特に、あんたには関係ない話ね。アネモネ」

 挑発的に言い下ろされたアネモネは、しかし何も答えず無言を続けた。

 アネモネが着ている被験花ひけんかに与えられる服はもうボロボロになり、露になっている腹部には、大図書館への入館証である契約の刻印があった。

 花庭園ガーデンが魔術によって執り行う人体実験――花栽培ガーデニングが成功し、アネモネは魔術の一切の研鑽を無くして、固有魔術を獲得することが出来る状態にあった。アネモネは花庭園ガーデンの人体実験を、成功という形で生き延びていたのだ。

 だが、ハナニラが個人的な情念から、アネモネへの花栽培ガーデニングを無為に主導し続けていた。

 意義や矜持なんてものは、とうに失われている。勝手な劣情と傲慢な思想を心根に据えて、ただの拷問にしかならない花栽培ガーデニングでアネモネの心身を苦しめ続けていた。

 拘束され身動き一つ取れないアネモネだったが、依然としてその目には強かな意志が灯っている。火の粉を煩うように目を細めたハナニラは、その熱を消そうと悪意を翳す。

「今日、ミモザと会ったわ」

「…………え」

 アネモネの目が見開かれ、その奥に期待と希望が満ちる。

 花庭園ガーデンから助け損なわれ、無為な花栽培ガーデニングを続けられ――それでもなおアネモネが正気のままでいられたのは、サヨが助けに来ると信じていたからだった。

 地獄の具現である花庭園ガーデンで出会い、互いに励まし合って、一緒に逃げようと走り出した。その結果、サヨだけが逃げおおせることが出来たが……アネモネは、サヨのことを恨んでなどいない。サヨが言った「絶対に助けに戻って来るから」という言葉を、今も信じて待っていた。

異端審問官インクイジターに――花庭園ガーデンを追う魔女になってたわよ」

 信じていた通りだった。やっぱり、サヨ《ミモザ》が助けに来てくれた。

 安堵と歓喜で、アネモネは口元を綻ばせている――。


「でも死んだわ」


 アネモネの表情が、絶望に一転して凍結した。肺まで氷漬けにされてしまったかのように、小さく開いた口からは冷えた呼気が漏れている。水道管を流れ落ちる雨水の振動のせいか……アネモネの身体は震えていた。

「あたしが殺した」

 冷淡に、雨水よりも冷たい声で、ハナニラは惨酷に告げた。

 アネモネの瞳を満たしていた希望が褪せ、段々と空虚に、死に近い光彩を帯びていく。

 それとは対称に、ハナニラの口元は邪悪な笑みを歪んでいた。

 とても清々しい気分だった。ずっと大嫌いだったサヨ《ミモザ》を殺し、気に食わなかったアネモネは絶望という地獄に叩き落とすことが出来た。泣かれようが、狂われようが、ハナニラの積年の情念は晴らされるのだ。

「ミモザはあんたを助けになんか来ない。信じて待ち続けてこの結果なんて、最悪な――」

 ハナニラが思わず言葉を止めてしまったのは、自分を見上げる熱し切った視線に諫められたからだった。深間の瞳に蟠っていたはずの絶望は、いつの間にか再び希望で満たされている。

「ミモザは死んでない。必ず、ここに来る」

「……死んだわよ」

 相手は両手を拘束され、魔術も使えないはずなのに……声は、ハナニラの方が揺れている。

「死んでなんかない!」

「―――ッ、死んだのよ! 分かる!? 心臓を潰したって言ってんのッ!」

「それでも、ミモザ必ずここに来る!」

 毅然とした態度を取り戻したアネモネの姿を見て、ハナニラの脳裏に、絶対に殺したはずのサヨ《ミモザ》の姿がフラッシュバックする。

『……信じない……! アネモネはきっと生きてるッ!』

 ちらちら、ちらちらと、鬱陶しく何度も、眩暈がするほど鮮明に頭の中に表れる。

「―――ッ!」

 耐え切れなくなったハナニラは右足を引き、精一杯の力でアネモネの腹を蹴飛ばした。両手が頭上で拘束されているアネモネは、抵抗の余地なく衝撃を全身で受け止め、胃液を吐いて、痛みで手枷を震わせた。

「勝手に信じてればッ!?」

 地団駄を踏むような強い足取りで、ハナニラはずけずけと部屋を出る。背後でドアが勝手に閉まる音が聞こえたが、それにすら意味なく怒りを増幅させられる。来るとき胸中にあった気分は台無し。胸を焼くような攻撃的な情念が、心臓を熱く燻らせる。

「ムカつく……ッ! ほんっっっとムカつく!!」

 怒りを言葉にして吐き出しながら、ハナニラは自分の爪をガリガリと噛んだ。歯の根から爪へと怒りが流れ込み、噛むたびにそれが零れ落ちていくような感覚がした。

 そんなハナニラの進む先の壁で、背を凭れて待っていたのはライエだった。地下でも色褪せない白髪の髪と、曰く言い難い感情が蜷局を巻く赤い瞳。ウィーンの花庭園ガーデンにライエが来てから、もう二ヶ月は経っていたが……彼女の人間性を、ハナニラは未だ見通せずにいる。

「ここには近寄らないでって言ってるでしょ。……あんた、地上に行ってないでしょうね」

「今日は被験花ひけんかと楽しく喋ってたさ」

 刺々しい、吐き捨てるようなハナニラの問いに、ライエは妙な笑みを浮かべ飄々と答える。

「ヒルダが異端審問官インクイジターを後処理するまで、地上には出るなって話だったけど……もう花庭園ガーデンと警察の関係性もバレたんだし、明日からは地上を出歩いても問題ないよね」

「遊び歩くんじゃないわよ。あくまで、ミモザたちの捜索を手伝いなさいよ」

「それは嫌だよ。だって私は、この花庭園ガーデン花師ガーデナーじゃなくて――大花庭園グランドガーデンから来てるだけの、食客のようなもんだし」

 ライエは、ここウィーンの花庭園ガーデンに属している花師ガーデナーではない。

 世界各地の花庭園ガーデンを束ねている大花庭園グランドガーデン――そこからやって来たのが、このライエという女だ。目的は、端的に言えばヘッドハンティングというやつだ。優秀な剪定者プルーナーのいる花庭園ガーデンを訪れて、大花庭園グランドガーデンに引き抜いていく……それがライエの仕事だった。

「まだここを離れる気はないの、ハナニラ。大花庭園グランドガーデンは、君の才能を買っているんだけどね」

「あんたの方こそ、昨日起こした騒ぎの理由、まだ言うつもりないの?」

「だから言ったじゃないか。――明日の夜に話すって」

「そうね。なら、今のうちに遺書でも書いておくのを勧めるわ」

 憮然とした態度でハナニラが告げると、ライエは足を止めて離れていった。

 薄暗い廊下を再び一人で歩き出したハナニラの胸中には、一抹の、されど色濃く濃縮された黒いものが渦巻いていた。

 雨の夜が、終わろうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る