第7話 不意を打つ者たちⅢ


 ハナニラ、という言葉に鼓膜を撫でられて、ネリネは失っていた意識を取り戻した。

 目を開けると、宝石のように輝くガラス片が大量に散らばっていた。割れたランプだろう。ネリネの覚醒を促すように、それらは眩しく光を反射させていた。

「ハナニラの言う通りだったな。防護魔術の起動時間を考慮すると、正午前には来るって」

 まだ半覚醒状態の思考を生存本能で無理やり叩き起こし、眼球だけを動かして前髪の隙間から状況を確認する。

 場所はランプ店の中……手足も拘束されてない……たぶん、意識を失っていたのは数秒程度だろう。防護魔術のおかげで蜂の巣にならずには済んだが、全身を苛む打撲のような鈍痛に、ネリネはひそやかに苦悶の息を漏らす。

「これからどうするんでしたっけ?」

 緊張感のない若々しい声に尋ねられて、低い声の女がそれに答える。

「こいつは花庭園ガーデンに連れて帰る。反射攻撃式カンウターアレイを除去して自我意識を乗っ取った後、弾劾戦線リアフロントの定期通信で『ウィーンに花庭園ガーデンはなかった』と報告させるんだ」

「じゃあもう一人の、サヨ・ノーチラスはどうするんですか?」

「あっちはついさっき――ハナニラが殺したそうだ」

 危うく、ネリネは叫びそうになった。

「だが、異端審問官インクイジターが死ねば、弾劾戦線リアフロントに疑われるのは間違いないからな。こいつには『ウィーンに花庭園ガーデンはなかったが、花師ガーデナーと誤って異端審問官インクイジターを殺してしまった』と報告してもらう」

「つまり、この女には全部の罪を被って死んでもらうってことですね」

「そういうこと。後はヒルダが情報操作で『こいつがどこかに逃亡した』と処理して終わりだ」

「おい! 娘を……早く娘を返してくれ! これで交換条件は果たしただろう!?」

 作戦を確認していた二人の花師ガーデナーに、店主が我慢の限界だと言わんばかりに叫んだ。低い声の花師ガーデナーが煩わしそうに舌打ちをした。

 店主たちが話し合う声に最低限耳を傾けながら、ネリネは乱れる心拍と呼吸を理性で均し、痛む身体に力を込める。軋む骨を補強するように筋肉が強張り、霧が霽れるように思考の明度が高まる。

「よし。こいつを連れて行くぞ」

 低い声の花師ガーデナーがネリネの右腕を乱暴に掴んで、持ち上げた。

「――――いざ紐解かんリーディング

 ぴたり、と花師ガーデナーは動きを止めると、一気に警戒心を最大まで上げて飛び退いた。

「こいつ! 意識が戻って……ッ!」

「――――【鎖状黄金椅子サルニエンシス】っ!」

 ネリネの十指にはめられた指輪から、暗闇を払い除けるような眩い輝きを放つ金鎖が伸びた。

 花師ガーデナーの一人がすぐさまショットガンを向けてくるが、ネリネは金鎖を叩きつけて銃口をずらした。それにより放たれた弾丸は、ネリネの背後にいた花師ガーデナーの身体を撃ち抜いた。貫通した弾丸がランプを破砕して片々を散らし、鮮血が煌々と灯るランプを汚して影を作り出す。

「おっ、お前ええええぇぇッ!」

 自分の手で仲間を撃ち殺してしまった花師ガーデナーは、半狂乱で叫びながら懐から取り出したナイフを振り上げた。使用者に魔力を流し込まれたことで、組成された魔術式が起動して、刀身を炎が覆う。

 床の上で撓んでいた金鎖が、ぴんとネリネの前で張り詰めナイフを受け止めた。

 ネリネは、今度は左手薬指の金鎖を縮めた。棚や支柱を経由していた金鎖は勢いよく指輪に巻き取られ、その途中でかっさらってきたガラス製のランプを、花師ガーデナーの側頭部に直撃させる。

 襲ってきた二人の花師ガーデナーを無力化したことで、店内には再度静かな空気が戻ってきた。しかしさっきよりも空気は淀み、散弾でランプが減ったせいか、揺らめく影は色濃くなずんでいる。

 気力を根こそぎ奪うような事実が、ネリネの鼓膜に絡んで離れない。

「サヨが……死んだ――?」

 言葉にしたことで、その事実がより強固に定まったような感覚がした。

 心の大部分を埋め尽くしていたものが抜け落ちて、体の真ん中が空っぽになるような空虚感。心情に従った理性が、サヨとの記憶を抑えに掛かっている。

 喪失感に打ちのめされるネリネを急かしたのは、ドアが蹴破られ、ドタドタと複数の足音が一斉になだれ込んでくる音だった。

 少し反応が遅れて見る。新たに五人の花師ガーデナーが霊装を構えて立っていた。そのうちの二人は、ショットガンを手にしている。生け捕りにするために、防護魔術を貫通しない程度を考慮した上での武装だろう。

「首から下を狙え! 間違っても殺すなよ!」

 リーダーらしき女の指令によって、ネリネは自失していた正気を取り戻した。さっき乱戦で千切れた天幕の隙間から、陽光が差しているのを眼球が捉える。

 花師ガーデナーがショットガンを発射するのと、ネリネが窓を割って外に脱出したのは同時だった。気のせいだと思いたいが、後ろから店主の短い悲鳴が聞こえ、途絶えた。

 転がり出たことで、さっきショットガンで撃たれた際の負傷が痛み、ネリネは顔をしかめた。しかし、背後からまた別の花師ガーデナーが差し迫っているのを察知し、低空飛行でその場を離脱する。

(どうしてサヨが……っ!? だってサヨは、警察署に行ったんじゃ――)

 そこで、無視するには大きすぎる棘の存在を、ネリネは認識する。

 昨日の昼、ライエを連行する警察官に、サヨは自分の名前を名乗っていた。

 なら、花師ガーデナーがサヨの名前を知っているということは――。

花庭園ガーデンと警察が、癒着していた……?)

 もっとも考え得る考えたくもない事実に、身体が怖気で震えた。思考の大部分が、警察官に騙されて嬲り殺されるサヨの姿で占められる。判断力が鈍っているそこへ、剣を持った花師ガーデナーが曲がり角から突進してきた。先回りされたのだ。

「――っ!」

 ネリネは間一髪で攻撃を躱すも、飛行操作を誤って街路樹に思いっ切り肩をぶつけ、呻き声を上げた。

(ま、まだサヨが死んだって決まったわけじゃない……わたしが、どうにかしないと……ッ!)

 大通りを横切り、細く狭い路地を抜け、ネリネはそこで地面に降り立った。

 そこは、両側に背の高い住居が聳えた細く長い路地だった。ウィーンの地形にしては珍しく平坦な道が続いており、見通しもいい。

 追随してきていた花師ガーデナーたちは、互いに困惑気味に顔を見合わせてから、投降と結論付けた。嗜虐心を感じさせる笑みを浮かべて、ねぶるような陰湿な目を向けてくる。

 ネリネを包囲するように地面に降り、陣形が整えられる。花師ガーデナーの一人が口を開く。

「やっと逃げるのを諦めたか……じゃあ、一緒に来てもらおうか。まあ仲間が一人死んだ分、少し痛い目を見てもらうけど」

 花師ガーデナーたちが各々の霊装を握り直す。彼女たちの表情を鑑みるに、投降しようがしまいが、無血では済まされないだろう。――別に、ネリネには投降する気など一切ないが。

「わたしは、ここまで逃げてきたわけじゃないです」

「は?」

「わたしが苦手な乱戦を避けるために――警察と戦う前に、まずはあなた方から片付けようと思っただけです」

 警察という単語を耳にした花師ガーデナーたちが、全員同時に息を呑んだ。彼女たちからしてみれば、背後から急所を刺されたような衝撃だったことだろう。

 文字通り、裏の繋がりを知られたのだから。

「――――鎖状黄金椅子サルニエンシス

 低く、呟いた。

 次いで、一斉に金鎖が動き出す。

 呵成に行動を始めた金鎖は、前後の道を封鎖すると、そのまま上空までも覆い尽くして花師ガーデナーが逃げられないよう包囲網を組んだ。

 ネリネが飛行していた理由は、狭い道を探していたからに他ならない。迅速に、金鎖が包囲網を巡らせられる場所を求めて飛び回っていたのだ。決して、逃走のための飛行ではない。

侵攻戦線オーヴァーフロントに背き、花庭園ガーデンを身を置く異端者に警告します」

 異端審問官インクイジターとして定められた審問規律に則り、ネリネは花師ガーデナーたちに最後通告を言い渡す。

「投降しない場合、あなた方は審問対象から処断対象になります。それでも良いというのなら――わたしは裁定者に代わり、矜持を守護する魔女として、あなた方の命を簒奪します」

 罪状を読み上げるように、厳粛に呟かれたネリネの文言に当てられた花師ガーデナーたちは、互いに顔を見合わせて困惑する。

「怯むな! 異端審問官インクイジターとはいえ、たかが一人に出来ることは何もない!」

 だがリーダーらしき花師ガーデナーの激励によって、花師ガーデナーたちの萎みかけていた戦意は大きく膨らみ、ネリネを強い敵意を以てして睨みつけた。戦いは、何の合図も無しに開始された。

「――――神は東風から天を送り、御力をもって南風を起こす――奇跡は為される《キリエ・エレイソン》!」

 普遍魔術の中でも、異生命と戦う魔女にのみ習得が許されている戦専魔術――準普遍魔術の詠唱が花師ガーデナーの口から吐き出される。

 花師ガーデナーの手元に、辺りに在った風が螺旋を描いて収束した。それは魔力によって無理やり球状に形作られると、砲弾のようにネリネに向かって発せられた。今朝は十分に黒衣箒ローブルームの防護魔術を強化してきたが、直撃すればかなり深い傷を負うことになるだろう。

「――ッ!」

 裏拳で叩くように、ネリネは右手を動かした。それに連動して金鎖の包囲網は即座に稼働し、収束と発展を繰り返して金鎖を巡らせる。

 一本の金鎖が、ネリネに肉薄していた風の砲弾に接着して――そのままかっさらっていった。

 金鎖に捕らえられた風の砲弾は、花師ガーデナーたちの上空と周辺を引きずられるように飛び回っている。砲弾の軌道操作は、完全にネリネの金鎖に奪取されていた。

「後ろだッ!」

 リーダーの女が大声で叫ぶも、他の花師ガーデナーが死角になって見落とした者が避け損ねた。

 飛来した風の砲弾は、花師ガーデナーが盾替わりに構えたショットガンを寸断し、たたらを踏んで肉体の方も切り裂いた。背後にあった象牙色の壁に、生々しい鮮血が肉片と一緒に線を描いた。

「な、なんだ……この魔術の性質は……!?」

 ネリネの金鎖は、鎖が滑車を滑る連続音を鳴らしながら、なおも収束と展開を続けている。

 その様を見ている花師ガーデナーの視線の先には、壁に張り付きながら伸縮する金鎖があった。

「まるで――金鎖が触れた箇所に、不可視の滑車が精製されているかのようだ――ですか?」

 自分の考えていたことを言葉にされた花師ガーデナーが怖れ、肩をびくりと震わせた。

 ネリネの金鎖が形作る包囲網は、木や柵や手すりなどを経由することなく、壁や石畳に一部が固定された状態で伸縮を繰り返していた。金鎖が弾んだ箇所には、新たな支点――不可視の滑車が精製される。それは木などの自然物や、魔術で生成されたものさえも例外ではない。

「これが【鎖状黄金椅子サルニエンシス】の性質――『束縛』です。金鎖と金鎖が触れた物、二つを一つに『縛り束ねる』……魔力を調整すれば、触れたものを二度と離さないことだって出来ます」

 ネリネから金鎖の性質を示されても、花師ガーデナーたちは依然として混乱に陥ったままだった。

 金鎖が触れただけで『束縛』の性質が働く――それはつまり、防御に使った霊装は搦め捕られ、黒衣箒ローブルームの裾に触れられたら全身を拘束されるということだ。

 触れた瞬間に敗北を与える――それが、花師ガーデナーたちの周囲を蜘蛛の巣のように取り囲んでいるのだ。ましてや金鎖は、大人しくその場に止まり続けるのではなく、突飛トリッキーな挙動で伸縮を繰り返して、包囲網の展開と変更を絶え間なく繰り返しているのだ。

 翻弄される花師ガーデナーたちは、現状の打開策を考えるだけの余裕すら与えられなかった。

 勝利の天秤が自分側に傾いたのをネリネは微かに感じ取って、意志を強く持ち直す。

(よし……この調子なら、全員無力化できる! 早く終わらせて、サヨのところに―――)

 雨が、降った。

 それはなんてことない自然現象であり、動きを鈍化させるほどの水量もない些細な差異だ。

 だからきっと、何かが確然と切り替わったこの感覚は――新たに参戦して来た人間の魔力によるものだ。

 ネリネの視線の先――飛行して来た方向。そこに、一人の女が立っていた。泥のように痛んだ色合いをした髪の隙間から、憎悪や厭悪といった感情で溺れた眼差しが見え隠れしている。立ち姿は怠そうだが、滾々と湧き出ている殺意で他者を近寄らせない気配を帯びている。

 その身に纏っているのは――黒衣箒ローブルーム

 数瞬の遅れを経た思考で、ネリネはその人物が誰なのかを思い出す。否、忘れるわけがない。なにせその相手は、昨晩、自分が旅館でサヨに話した内容だったから。

『あの……サヨの任務、私にも手伝わせてもらえませんか? わたしの任務は、サヨの任務を手伝うのが一番近道になるので……」

『うん? それはもちろんいいけど……ネリネの任務って何なの?』

『わたしの任務は、花庭園ガーデンを襲撃して虐殺を繰り返している元異端審問官インクイジター――〈泥濘の魔女〉を処断することです』

 自分がウィーンに派遣された理由――追いかけている相手が、この逼迫した状況下で、この混沌とした戦況下で――ネリネの前に現れた。

 花師ガーデナーによる霊装補遺店の襲撃と、サヨの死。

 急激に流動し始めた状況に付いていけていなかったのに、さらにそこへ、自分の任務対象である〈泥濘の魔女〉まで参戦して来られたネリネの思考が、混乱と困惑で麻痺する。

(そんな……花師ガーデナーも倒せてないのに……サヨのところに行きたいのに……なんで今……っ!)

 心が折れそうになって泣き出しそうになるネリネを、〈泥濘の魔女〉は諫めるような鋭い目で睨みつけた。崩壊し掛かっていた心の土砦が、緩みかかっていた気迫が、放棄されかかった思考が、再度一斉に戦意という枠で固められた。

「……異端審問官インクイジターは多人数で動かない。となると、そっちの五人――ああ、一人は死体だから四人か――が花師ガーデナーでいいのかねぇ」

 じっとりと、毒気と紛うような湿った声音で語り掛けられた花師ガーデナーの一人が、恐懼で震えながら言葉を訥々と紡いだ。

「まさかお前が……弾劾戦線リアフロントを離れた後も、花庭園ガーデンを狩り回ってるっていう……あの〈泥濘の魔女〉なのか……!?」

 かつて異端審問官インクイジターだった〈泥濘の魔女〉は、花庭園ガーデンにいた者を皆殺しにしたことで異端者と断定された。その後も各地の花庭園ガーデンを回っては虐殺を繰り返し――今や弾劾戦線リアフロントから追われる身となっている。そして、ネリネが追っていた異端者だった。

〈泥濘の魔女〉に狩られる側である花師ガーデナーたちは、彼女の悪評はよく知っているようだった。

 誰何というよりも、そうであってほしくないという願望に近しい花師ガーデナーの問いを〈泥濘の魔女〉は無視した。それから、自分の事情を降り出した雨のように言葉にする。

「前に襲撃した花庭園ガーデンで得た情報で、ウィーンにも一つ花庭園ガーデンがあるらしいから来たけど……よほど剪定者プルーナーが優秀なのか、全然見つからないんだよねぇ。だから花師ガーデナーが現れるのを待っていたのさ」

 獲物を横取りするような、獰猛で、修羅のように勇壮な笑みを〈泥濘の魔女〉は浮かべた。

「昨日はすぐに決着が付いたようで、間に合わなかったが――今は絶好の狩場だねぇ」

〈泥濘の魔女〉の背後には、いつの間にか四角形の形を得た『泥』があった。抑えきれず漏れ出す魔力から、あれが彼女の固有魔術なんだとネリネは理解する。

「投降するっ!」

 悲鳴を上げるように叫んだのは、先程までネリネに強気で掛かってきていた花師ガーデナーだった。

「投降する! 絶対に逃げたりしない! だからお願いっ……! この金鎖の包囲を消――」

「――――泥濘鯲ミスガルナス

〈泥濘の魔女〉の背後にあった『泥』の水槽から、滾々と『泥鰌どじょう』が溢れ出した。『泥鰌』たちは悠々と宙を泳ぎながら配置に着き、その小さな口が付いた顔をこちらに向ける。

 どんッ、と弾丸のように『泥鰌』の身が撃ち出された。ネリネの動体視力を振り切るような速度で直進した『泥鰌』は、花師ガーデナーの体をぐちゃぐちゃに消し飛ばして絶命させた。その死に様は、弾丸に被弾したというよりも、砲弾が直撃したというような惨さだった。

 このままでは、身動きが取れない花師ガーデナーが一方的に殺戮される――そう思ってネリネが金鎖の包囲網を解いても、結果はさして変わらなかった。

 地上に立っていた者は言わずもがな、飛行して逃げようとした花師ガーデナーも空中で『泥鰌』に被弾し、肉塊になった筋肉と千々になった臓物の混ぜ物が、雨と一緒に降り落ちてきた。

 壮麗で、淑やかな静けさを湛えていたウィーンの建造物と道路は、今や鮮血と内臓で塗れた地獄の様相と化していた。

 唯一……たった一人だけ残された花師ガーデナーが腰を抜かせて、ネリネの背後でへたり込んでいる。

〈泥濘の魔女〉から、この花師ガーデナーを殺そうという意志は感じられない。どうやら生け捕りにして情報を吐かせるつもりのようだ。

「そこのガキ、【魔術書】との同調性は高めたかい?」

 ふいに、〈泥濘の魔女〉はつまらなさそうな調子でネリネに尋ねてきた。真意は読み取れなかったが、ネリネは従順に頷いて答えた。

【魔術書】の力を最大限発揮するには、その【魔術書】の属性や性質に伴った手法で自分との同調性を高めなければいけない。例えばネリネの場合は、鎖で自分の身体を束縛して、水に沈めることだった。【魔術書】によっては、もっと過酷なものになるそうだが……ともかく、どうして急にそんな話をされたのか、ネリネは分からず眉をひそめた。

「アタシがこの【魔術書】と同調するには、『泥』と一つになる必要があった。……さて、どうしたと思う?」

 くつくつと嗤う〈泥濘の魔女〉に不気味さを感じながら、ネリネは心の中で「そんなの泥を身体に塗るくらいしか出来ない」と低く結論付けた。

 それだけに、吐き出された答えの過酷さと残虐性に言葉を失った。

「泥を呑み続けるんだよ。胃がいっぱいになるまで、ずっと」

 想像して、ぞわりと背筋が震えた。

 同調――文字通り、自分と【魔術書】を同じように調えるために、それは行われる。

 確かに、自分と泥を一つにする――黒衣箒ローブルームの原理を踏襲すれば、最も効率的に【魔術書】と同調することが出来るだろう。

 しかし。常人であれば、そんなことはしない。

「あれは辛かったねぇ。胃が満タンになる度に全部吐いて、それでまた空になった胃に泥を流し込むんだ……」

〈泥濘の魔女〉の暮れ泥んだ瞳が、ネリネの後ろに座り込む花師ガーデナーを射貫く。

「ねえ、泥で満腹になったことはあるかい?」

「ひいっ……!」

 花師ガーデナーが短く悲鳴を上げて、がたがたと震え出した。ネリネも、自分が言われているわけではないはずなのに、全身から変な汗が噴き出した。

「邪魔をするなよ、異端審問官インクイジター。お前程度、殺すことなんざ簡単なんだ」

 一歩。また一歩。

 近づいてくる。〈泥濘の魔女〉に視線が釘付けられたまま、動けないでいる。

 さっきまで心内で逆巻いていた混乱や戸惑いは、今では全て、狂気のほんの少し手前に在る昏い恐怖で塗りつぶされている。時間を知覚する感覚器が麻痺し、刻一刻と近づいている敵の決断をただ待っている。

 泥による溺死――自分が敗北した暁に迎える、凄惨な死。

 連想してしまった最悪な終わりに、思考が汚染されて重圧で肺が機能をやめてしまう。

「しっ、知らない! 本当に私は知らないんだよぉ!」

 雨と殺意で満たされた息苦しいこの場に、唯一生き残った花師ガーデナーが裏返った声で叫んだ。

「ハナニラは絶対に、自分以外の人間を信用しない! 被験花ひけんか花栽培ガーデニングする奴と、被験花ひけんかを調達する奴らで完全に分けられてるんだ! だから私は花庭園ガーデンに入ったことがないし、どこにあるのかさえ知らないんだよぉぉ!」

 狂死する寸前まで取り乱して絶叫する花師ガーデナーを見て、〈泥濘の魔女〉は舌打ちをした。

「他の花庭園ガーデンとの交信も最低限だったし……ここの剪定者プルーナーは狡猾でヤになるねぇ。だったら、花庭園ガーデンの場所を知ってる奴の名前を言いな。言ったら逃がしてやるよ」

「ほ、ほんとうか……?」

 問われ、〈泥濘の魔女〉は同意するようにふんと鼻を鳴らした。眼前に生存の道が用意された花師ガーデナーは、歓喜の笑顔を浮かべながら、声を弾ませてその名を告げる。

「……ヒルダ」

 ヒルダというその名は、先ほどネリネが撃たれた霊装補遺店でも聞いたものだった――が、〈泥濘の魔女〉は聞き覚えのあるものだったようで、すぐさま貌が憤懣で厳しくなった。

「……まさか、ウィーン警察署長のヒルダ・アーベントのことじゃないだろうねぇ?」

 底に着いたと思っていた絶望の沼が、さらに深くなった。雨はすぐに流れ落ちていくのに、溺れているように息苦しくなって、空気を求めるように口が開きっぱなしになる。

 警察官どころか、警察署長まで花庭園ガーデン側に付いていた。

 もうウィーンには、ただ一人も自分たちの味方はいないのだ……。

〈泥濘の魔女〉は情報の整合性を思索するように唸り、いいだろう、と言った。

 花師ガーデナーの顔がより明るくなった。それから、〈泥濘の魔女〉の背後にあった『泥の水槽』が蠢き、『泥鰌』の射撃用意がされるのを見て、花師ガーデナーの表情が絶望で翳る。

「に、逃がして、くれるって……さっき言って……っ!」

「だから逃げればいいだろう? 後はその背中を撃ち抜くだけさ。ほら、早く逃げろよ」

「ひぃ、あっあ、あ、あっあああああああっ!!」

 狂気で染まった声をウィーンの街に響かせながら、花師ガーデナーは不格好な走りで懸命に逃走する。

『泥鰌』の弾丸が、花師ガーデナーの胴体を消し飛ばした。四肢と頭が空中で扇風機のように愉快に回転しながら、走っていた慣性の残りで前方に転がった。石畳の隙間を、雨でも滲まない濃い赤色が縫い付けていく。

 ……なんでわたしは、何もしていないんだろう。

 投降すると言った時点で、自分は花師ガーデナーを外敵から保護しなければいけなかったはずだ。

 目の前に異端者がいるのだから、自分は命に代えても処断しなければいけないはずだ。

 それなのに……なんでさっきから、一歩も動けてない?

 なんで、やめろの一言も言えてないんだろう……?

「お前は――異端審問官インクイジターには向いてないねぇ」

 目睫で、そんな声が聞こえた。顔を上げた時には既に〈泥濘の魔女〉が肉薄しており――彼女の魔術を受けたネリネは、吹き飛ばされて地面に転がった。

 意識は残っていたのに、ネリネはもう立てなかった。



 石畳の上に寝転がって、全身を雨に打ち付けられている。

 道端に落とされた洗濯物のように、ネリネは身じろぎ一つせずに横たわっていた。

 敗北感、喪失感、悔恨……身体の内に注ぎ込まれたそれらは、鉛が詰め込まれているような重さを発揮していて、もう動くことが出来なかった。

 出血はない。骨折もない。

 なのに導線が切れてしまったかのように、心が身体を動かせなかった。

 どうにか、摩耗した心を震わせて立ち上がり、一歩だけ踏み出した。だけど、その一歩を踏み出した瞬間に、膝関節を「薄弱」に抜き取られてしまい、ネリネは再び石畳の上に転がった。

「……う……うぅ……」

 我慢しようと思った。でも、涙も雨に紛れると思ったら、もう止まらなかった。

「ああぁぁぁぁぁ……うあああぁぁぁ……ぁぁぁ……」

 我慢のストッパーも外れて、大声で泣いた。雨の湿気のせいか、もういくら叫んでも喉が枯れそうにはなかった。うずくまった身体の中で、唯一、手持無沙汰になっていた両手では頭髪を掻きむしった。

 花庭園ガーデンには先回りをされ、自分が追っていた異端者には惨敗し――大切な友達は、死んだ。

「……ぁ……ぁぁ……っ……!」

 サヨのことを、死なせたくなかった。

 休日は一緒に目的もなく街中を歩き回り、夜には他愛もない話で朝を待つ。そんな、なんてことない友達同士にサヨとはなれるかもしれなかった。

 でも、もう全部だめだ。全部終わってしまった。

 彼女は死んで、任務も失敗した。

 もう、銀河鉄道の夜を読むことは、ない。

「……さ……よ……っ!」

 ああきっと、自分が異端審問官インクイジターになったことが間違いだったのだ。

 ライエに、〈泥濘の魔女〉に言われた通りだった。市場を去るライエに安堵し、〈泥濘の魔女〉に花師ガーデナーの虐殺を許した自分は――異端審問官インクイジターに、向いていない。ウィーンにいる異端審問官インクイジターが自分以外の誰かだったら、きっとサヨのことも助けられたんだ。不意打ちを受けることなんかなくて、サヨのピンチを悟ってすぐに駆け付けることが出来たかもしれない。

 ―――わたしは……また、友達を失っちゃったんだ……っ。

 全部全部、全部全部全部……向いていないのに異端審問官インクイジターになった、自分が悪かった……。


『向いてないからってやっちゃいけないってことには、ならないでしょ?』


 まだ明るいウィーン――サヨと歩いた昨日の街姿を、写真のような鮮明さで思い出した。

 隣を歩いているだけで勇気を貰えるような、眩しい笑顔のサヨが――わたしを見ている。


『だからネリネは大丈夫だよ。今は向いていなくても、自分に出来ることを一つずつやっていけば、いつかは「自分は向いてる」って自信が持てるようになれるはずだから』


 ああ、そうだ……今は向いていなくても、いつか向いてるって自分で思える日まで……サヨみたいに頑張らなくちゃいけないんだ。たった昨日、それを教わったばかりじゃないか。

 ―――今の自分が出来ることを、一つずつやらなきゃいけないんだ。

 暗く淀んだ不安や悲観は、水面を亙る波紋のように徐々に消え去って行く。身体の内で渦を巻いていた鉛のような重さも、雨に紛れて一緒に滴り落ちる。

 記憶の中で笑いかけられたネリネは、雨で濡れた黒衣箒ローブルームの袖で涙を拭った。どのみち顔は水で濡れたままだったけど、さっきよりも視界は鮮明で明るくなった気がした。

「サヨ……!」

 ネリネは高度を上げて、警察署を目指して飛び始めた。邪魔するように雨粒がしきりに身体を打ち付ける。体温は下がっているはずなのに、しかし心臓の鼓動は昂ったままだ。冷やされる一方の体表とは対照的に、身体の内側はひどく熱かった。

 ウィーンの天辺まで続く中央通りでは、建物が崩れ、路面線路には爪痕のような傷がついていた。大気に浮遊する土煙を払おうと雨が強くなるが、淀んだ空気は変わらず褪せない。ここで戦闘があったことは明白だ。

 路面線路周りの傷を辿って行くと、ネリネとサヨがこの街にやって来た時に利用した主要駅があった。サヨの魔力を感じ取ったネリネは、そこに降り立つ。

「サヨはここで戦ってた……? なら、この近くに……!」

 ネリネは必死に辺りに視線を巡らせて、それを発見する。

 その警察官が手に持っていたのは、サヨが肩から下げている鞘袋――ホウキだった。彼らはそれを周囲の視線を気にするようにして、黒い袋の中に隠そうとしている。

「――ッ!」

 即座に駆け出したネリネは、黒衣箒ローブルームの超低空飛行で一気に距離を詰め、その勢いを緩めずに警察官の腹部に蹴りを入れた。残った一人の警察官をベンチに金鎖で拘束し、ホウキを奪う。

「このホウキの持ち主はどこですかッ!?」

「ま、魔女……!?」

「早く教えてくださいッ! そのホウキの持ち主はどこですか!?」

 ネリネの気迫と狭窄した金鎖に、警察官は表情を苦し気に曇らせながら、視線で示した。

「川の向こう側……!」

 金鎖を解いて、すぐに飛行して川面を渡って行く。

 川の半ばを超えたあたりで、川べりで横たわるサヨの姿が見えてきた。そこへ集まって来ているのは、複数人の警察官たち。彼女たちは、意識を失っているサヨに触れ――。

「―――サヨにっ、触らないでッ!」

 自分でも驚くくらい大きな声が、喉から迸った。

 サヨの前に着陸するネリネは、そのブレーキ時の慣性を利用して金鎖を振り回した。昂った感情によって溢れ出した魔力で金鎖は硬く強化されており、鞭のようなしなやかさと鉄以上の硬度を獲得した金鎖は、街路樹の幹の一部を木片に換えた。

「サヨ……! サヨっ!」

 しゃがみ込んだネリネは、横たわったまま動かないサヨの身体を抱き起した。

 身体が異常に冷たい。木陰に入っているのにこの衣服の濡れ方……たぶん、川に落ちたけど意識を失う前に、自力で川べりまで這い上がって来たのだろう。

 高熱量の光線で撃たれたのか、はたまた低下した川水の水温で冷やされたのか――出血量はさほど多くはない。かつて被験花ひけんかだった庭園出身者は、みな実験の副作用で回復力が高いし、これなら治療さえすれば助かるはずだ。

 よかった……と安堵で戦意が緩みかけていた時、近づいてくる足音にネリネは向けた。

 階級の高さが窺えるバッジを胸に付けた婦警が、ネリネたちを見下ろしている。その目には、およそ魔女に対する敬意とは真反対の――売国奴を蔑むような感情が隠れて視えた。

「その魔女の仲間だな」

「……あなたは?」

「私はウィーン警察の署長、ヒルダ・アーベントだ。通報があったから駆けつけてきた。さあ、早くその子をこちらに。急いで治療しないと、取り返しが付かないことに――」

 そう言いながら伸ばしたきたヒルダの手を、ネリネの金鎖が撥ね退けるように叩いた。

「……なんの真似だ?」

 冷静に、けれど確かに怒りを抱くヒルダに問われ、ネリネはふと予感を得て微笑した。

 きっと自分は、あの花師ガーデナーの情報が無くても、この人を見た時に一瞬で理解していたはずだ。

 だからやっぱり、サヨが傷ついたのは自分の責任だ。

 ―――自分の責任だからこそ、わたしがどうにかしないと。

「……わたし、生まれついて目が佳いんです」

「……なんの話だ」

「相手がどんな感情を抱いているか、どれだけ傷ついているか――そういうのが、糸になって視えるんです」

 ネリネは再度、ヒルダを視る。

 厭悪、侮蔑、矜持、競争、葛藤、理想、―――どれも全ての人間が持ち合わせている要素ではあったが、それらの糸の絡まり方を、ネリネは九年も前に、身近な大人から視てきた。

「あなたの糸は――わたしを花栽培ガーデニングしていた花師あいつらにそっくりだ」

「――っ、お前、庭園出身者かッ!?」

 ヒルダがネリネの正体を看破した瞬間、いつの間にか、街路樹に絡まっていた金鎖がついに限界まで狭窄した。幹をねじ切られた街路樹は、力尽きたようにヒルダたちとネリネたちの間に倒れ、地面を震わせた。

 ヒルダたちが怯んでいる隙に、ネリネはサヨを抱きかかえて、旅館に向かって飛行する。

「絶対に助けますから……! 頑張ってください、サヨっ!」

 激しくなる雨の中を、ネリネは全速力で飛んだ。

 中空に滞留する曇天は、これ以上ないほど重く灰色を厚くしていた。

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