第7話 不意を打つ者たちⅢ
ハナニラ、という言葉に鼓膜を撫でられて、ネリネは失っていた意識を取り戻した。
目を開けると、宝石のように輝くガラス片が大量に散らばっていた。割れたランプだろう。ネリネの覚醒を促すように、それらは眩しく光を反射させていた。
「ハナニラの言う通りだったな。防護魔術の起動時間を考慮すると、正午前には来るって」
まだ半覚醒状態の思考を生存本能で無理やり叩き起こし、眼球だけを動かして前髪の隙間から状況を確認する。
場所はランプ店の中……手足も拘束されてない……たぶん、意識を失っていたのは数秒程度だろう。防護魔術のおかげで蜂の巣にならずには済んだが、全身を苛む打撲のような鈍痛に、ネリネはひそやかに苦悶の息を漏らす。
「これからどうするんでしたっけ?」
緊張感のない若々しい声に尋ねられて、低い声の女がそれに答える。
「こいつは
「じゃあもう一人の、サヨ・ノーチラスはどうするんですか?」
「あっちはついさっき――ハナニラが殺したそうだ」
危うく、ネリネは叫びそうになった。
「だが、
「つまり、この女には全部の罪を被って死んでもらうってことですね」
「そういうこと。後はヒルダが情報操作で『こいつがどこかに逃亡した』と処理して終わりだ」
「おい! 娘を……早く娘を返してくれ! これで交換条件は果たしただろう!?」
作戦を確認していた二人の
店主たちが話し合う声に最低限耳を傾けながら、ネリネは乱れる心拍と呼吸を理性で均し、痛む身体に力を込める。軋む骨を補強するように筋肉が強張り、霧が霽れるように思考の明度が高まる。
「よし。こいつを連れて行くぞ」
低い声の
「――――
ぴたり、と
「こいつ! 意識が戻って……ッ!」
「――――【
ネリネの十指にはめられた指輪から、暗闇を払い除けるような眩い輝きを放つ金鎖が伸びた。
「おっ、お前ええええぇぇッ!」
自分の手で仲間を撃ち殺してしまった
床の上で撓んでいた金鎖が、ぴんとネリネの前で張り詰めナイフを受け止めた。
ネリネは、今度は左手薬指の金鎖を縮めた。棚や支柱を経由していた金鎖は勢いよく指輪に巻き取られ、その途中でかっさらってきたガラス製のランプを、
襲ってきた二人の
気力を根こそぎ奪うような事実が、ネリネの鼓膜に絡んで離れない。
「サヨが……死んだ――?」
言葉にしたことで、その事実がより強固に定まったような感覚がした。
心の大部分を埋め尽くしていたものが抜け落ちて、体の真ん中が空っぽになるような空虚感。心情に従った理性が、サヨとの記憶を抑えに掛かっている。
喪失感に打ちのめされるネリネを急かしたのは、ドアが蹴破られ、ドタドタと複数の足音が一斉になだれ込んでくる音だった。
少し反応が遅れて見る。新たに五人の
「首から下を狙え! 間違っても殺すなよ!」
リーダーらしき女の指令によって、ネリネは自失していた正気を取り戻した。さっき乱戦で千切れた天幕の隙間から、陽光が差しているのを眼球が捉える。
転がり出たことで、さっきショットガンで撃たれた際の負傷が痛み、ネリネは顔をしかめた。しかし、背後からまた別の
(どうしてサヨが……っ!? だってサヨは、警察署に行ったんじゃ――)
そこで、無視するには大きすぎる棘の存在を、ネリネは認識する。
昨日の昼、ライエを連行する警察官に、サヨは自分の名前を名乗っていた。
なら、
(
もっとも考え得る考えたくもない事実に、身体が怖気で震えた。思考の大部分が、警察官に騙されて嬲り殺されるサヨの姿で占められる。判断力が鈍っているそこへ、剣を持った
「――っ!」
ネリネは間一髪で攻撃を躱すも、飛行操作を誤って街路樹に思いっ切り肩をぶつけ、呻き声を上げた。
(ま、まだサヨが死んだって決まったわけじゃない……わたしが、どうにかしないと……ッ!)
大通りを横切り、細く狭い路地を抜け、ネリネはそこで地面に降り立った。
そこは、両側に背の高い住居が聳えた細く長い路地だった。ウィーンの地形にしては珍しく平坦な道が続いており、見通しもいい。
追随してきていた
ネリネを包囲するように地面に降り、陣形が整えられる。
「やっと逃げるのを諦めたか……じゃあ、一緒に来てもらおうか。まあ仲間が一人死んだ分、少し痛い目を見てもらうけど」
「わたしは、ここまで逃げてきたわけじゃないです」
「は?」
「わたしが苦手な乱戦を避けるために――警察と戦う前に、まずはあなた方から片付けようと思っただけです」
警察という単語を耳にした
文字通り、裏の繋がりを知られたのだから。
「――――
低く、呟いた。
次いで、一斉に金鎖が動き出す。
呵成に行動を始めた金鎖は、前後の道を封鎖すると、そのまま上空までも覆い尽くして
ネリネが飛行していた理由は、狭い道を探していたからに他ならない。迅速に、金鎖が包囲網を巡らせられる場所を求めて飛び回っていたのだ。決して、逃走のための飛行ではない。
「
「投降しない場合、あなた方は審問対象から処断対象になります。それでも良いというのなら――わたしは裁定者に代わり、矜持を守護する魔女として、あなた方の命を簒奪します」
罪状を読み上げるように、厳粛に呟かれたネリネの文言に当てられた
「怯むな!
だがリーダーらしき
「――――神は東風から天を送り、御力をもって南風を起こす――奇跡は為される《キリエ・エレイソン》!」
普遍魔術の中でも、異生命と戦う魔女にのみ習得が許されている戦専魔術――準普遍魔術の詠唱が
「――ッ!」
裏拳で叩くように、ネリネは右手を動かした。それに連動して金鎖の包囲網は即座に稼働し、収束と発展を繰り返して金鎖を巡らせる。
一本の金鎖が、ネリネに肉薄していた風の砲弾に接着して――そのままかっさらっていった。
金鎖に捕らえられた風の砲弾は、
「後ろだッ!」
リーダーの女が大声で叫ぶも、他の
飛来した風の砲弾は、
「な、なんだ……この魔術の性質は……!?」
ネリネの金鎖は、鎖が滑車を滑る連続音を鳴らしながら、なおも収束と展開を続けている。
その様を見ている
「まるで――金鎖が触れた箇所に、不可視の滑車が精製されているかのようだ――ですか?」
自分の考えていたことを言葉にされた
ネリネの金鎖が形作る包囲網は、木や柵や手すりなどを経由することなく、壁や石畳に一部が固定された状態で伸縮を繰り返していた。金鎖が弾んだ箇所には、新たな支点――不可視の滑車が精製される。それは木などの自然物や、魔術で生成されたものさえも例外ではない。
「これが【
ネリネから金鎖の性質を示されても、
金鎖が触れただけで『束縛』の性質が働く――それはつまり、防御に使った霊装は搦め捕られ、
触れた瞬間に敗北を与える――それが、
翻弄される
勝利の天秤が自分側に傾いたのをネリネは微かに感じ取って、意志を強く持ち直す。
(よし……この調子なら、全員無力化できる! 早く終わらせて、サヨのところに―――)
雨が、降った。
それはなんてことない自然現象であり、動きを鈍化させるほどの水量もない些細な差異だ。
だからきっと、何かが確然と切り替わったこの感覚は――新たに参戦して来た人間の魔力によるものだ。
ネリネの視線の先――飛行して来た方向。そこに、一人の女が立っていた。泥のように痛んだ色合いをした髪の隙間から、憎悪や厭悪といった感情で溺れた眼差しが見え隠れしている。立ち姿は怠そうだが、滾々と湧き出ている殺意で他者を近寄らせない気配を帯びている。
その身に纏っているのは――
数瞬の遅れを経た思考で、ネリネはその人物が誰なのかを思い出す。否、忘れるわけがない。なにせその相手は、昨晩、自分が旅館でサヨに話した内容だったから。
『あの……サヨの任務、私にも手伝わせてもらえませんか? わたしの任務は、サヨの任務を手伝うのが一番近道になるので……」
『うん? それはもちろんいいけど……ネリネの任務って何なの?』
『わたしの任務は、
自分がウィーンに派遣された理由――追いかけている相手が、この逼迫した状況下で、この混沌とした戦況下で――ネリネの前に現れた。
急激に流動し始めた状況に付いていけていなかったのに、さらにそこへ、自分の任務対象である〈泥濘の魔女〉まで参戦して来られたネリネの思考が、混乱と困惑で麻痺する。
(そんな……
心が折れそうになって泣き出しそうになるネリネを、〈泥濘の魔女〉は諫めるような鋭い目で睨みつけた。崩壊し掛かっていた心の土砦が、緩みかかっていた気迫が、放棄されかかった思考が、再度一斉に戦意という枠で固められた。
「……
じっとりと、毒気と紛うような湿った声音で語り掛けられた
「まさかお前が……
かつて
〈泥濘の魔女〉に狩られる側である
誰何というよりも、そうであってほしくないという願望に近しい
「前に襲撃した
獲物を横取りするような、獰猛で、修羅のように勇壮な笑みを〈泥濘の魔女〉は浮かべた。
「昨日はすぐに決着が付いたようで、間に合わなかったが――今は絶好の狩場だねぇ」
〈泥濘の魔女〉の背後には、いつの間にか四角形の形を得た『泥』があった。抑えきれず漏れ出す魔力から、あれが彼女の固有魔術なんだとネリネは理解する。
「投降するっ!」
悲鳴を上げるように叫んだのは、先程までネリネに強気で掛かってきていた
「投降する! 絶対に逃げたりしない! だからお願いっ……! この金鎖の包囲を消――」
「――――
〈泥濘の魔女〉の背後にあった『泥』の水槽から、滾々と『
どんッ、と弾丸のように『泥鰌』の身が撃ち出された。ネリネの動体視力を振り切るような速度で直進した『泥鰌』は、
このままでは、身動きが取れない
地上に立っていた者は言わずもがな、飛行して逃げようとした
壮麗で、淑やかな静けさを湛えていたウィーンの建造物と道路は、今や鮮血と内臓で塗れた地獄の様相と化していた。
唯一……たった一人だけ残された
〈泥濘の魔女〉から、この
「そこのガキ、【魔術書】との同調性は高めたかい?」
ふいに、〈泥濘の魔女〉はつまらなさそうな調子でネリネに尋ねてきた。真意は読み取れなかったが、ネリネは従順に頷いて答えた。
【魔術書】の力を最大限発揮するには、その【魔術書】の属性や性質に伴った手法で自分との同調性を高めなければいけない。例えばネリネの場合は、鎖で自分の身体を束縛して、水に沈めることだった。【魔術書】によっては、もっと過酷なものになるそうだが……ともかく、どうして急にそんな話をされたのか、ネリネは分からず眉をひそめた。
「アタシがこの【魔術書】と同調するには、『泥』と一つになる必要があった。……さて、どうしたと思う?」
くつくつと嗤う〈泥濘の魔女〉に不気味さを感じながら、ネリネは心の中で「そんなの泥を身体に塗るくらいしか出来ない」と低く結論付けた。
それだけに、吐き出された答えの過酷さと残虐性に言葉を失った。
「泥を呑み続けるんだよ。胃がいっぱいになるまで、ずっと」
想像して、ぞわりと背筋が震えた。
同調――文字通り、自分と【魔術書】を同じように調えるために、それは行われる。
確かに、自分と泥を一つにする――
しかし。常人であれば、そんなことはしない。
「あれは辛かったねぇ。胃が満タンになる度に全部吐いて、それでまた空になった胃に泥を流し込むんだ……」
〈泥濘の魔女〉の暮れ泥んだ瞳が、ネリネの後ろに座り込む
「ねえ、泥で満腹になったことはあるかい?」
「ひいっ……!」
「邪魔をするなよ、
一歩。また一歩。
近づいてくる。〈泥濘の魔女〉に視線が釘付けられたまま、動けないでいる。
さっきまで心内で逆巻いていた混乱や戸惑いは、今では全て、狂気のほんの少し手前に在る昏い恐怖で塗りつぶされている。時間を知覚する感覚器が麻痺し、刻一刻と近づいている敵の決断をただ待っている。
泥による溺死――自分が敗北した暁に迎える、凄惨な死。
連想してしまった最悪な終わりに、思考が汚染されて重圧で肺が機能をやめてしまう。
「しっ、知らない! 本当に私は知らないんだよぉ!」
雨と殺意で満たされた息苦しいこの場に、唯一生き残った
「ハナニラは絶対に、自分以外の人間を信用しない!
狂死する寸前まで取り乱して絶叫する
「他の
「ほ、ほんとうか……?」
問われ、〈泥濘の魔女〉は同意するようにふんと鼻を鳴らした。眼前に生存の道が用意された
「……ヒルダ」
ヒルダというその名は、先ほどネリネが撃たれた霊装補遺店でも聞いたものだった――が、〈泥濘の魔女〉は聞き覚えのあるものだったようで、すぐさま貌が憤懣で厳しくなった。
「……まさか、ウィーン警察署長のヒルダ・アーベントのことじゃないだろうねぇ?」
底に着いたと思っていた絶望の沼が、さらに深くなった。雨はすぐに流れ落ちていくのに、溺れているように息苦しくなって、空気を求めるように口が開きっぱなしになる。
警察官どころか、警察署長まで
もうウィーンには、ただ一人も自分たちの味方はいないのだ……。
〈泥濘の魔女〉は情報の整合性を思索するように唸り、いいだろう、と言った。
「に、逃がして、くれるって……さっき言って……っ!」
「だから逃げればいいだろう? 後はその背中を撃ち抜くだけさ。ほら、早く逃げろよ」
「ひぃ、あっあ、あ、あっあああああああっ!!」
狂気で染まった声をウィーンの街に響かせながら、
『泥鰌』の弾丸が、
……なんでわたしは、何もしていないんだろう。
投降すると言った時点で、自分は
目の前に異端者がいるのだから、自分は命に代えても処断しなければいけないはずだ。
それなのに……なんでさっきから、一歩も動けてない?
なんで、やめろの一言も言えてないんだろう……?
「お前は――
目睫で、そんな声が聞こえた。顔を上げた時には既に〈泥濘の魔女〉が肉薄しており――彼女の魔術を受けたネリネは、吹き飛ばされて地面に転がった。
意識は残っていたのに、ネリネはもう立てなかった。
石畳の上に寝転がって、全身を雨に打ち付けられている。
道端に落とされた洗濯物のように、ネリネは身じろぎ一つせずに横たわっていた。
敗北感、喪失感、悔恨……身体の内に注ぎ込まれたそれらは、鉛が詰め込まれているような重さを発揮していて、もう動くことが出来なかった。
出血はない。骨折もない。
なのに導線が切れてしまったかのように、心が身体を動かせなかった。
どうにか、摩耗した心を震わせて立ち上がり、一歩だけ踏み出した。だけど、その一歩を踏み出した瞬間に、膝関節を「薄弱」に抜き取られてしまい、ネリネは再び石畳の上に転がった。
「……う……うぅ……」
我慢しようと思った。でも、涙も雨に紛れると思ったら、もう止まらなかった。
「ああぁぁぁぁぁ……うあああぁぁぁ……ぁぁぁ……」
我慢のストッパーも外れて、大声で泣いた。雨の湿気のせいか、もういくら叫んでも喉が枯れそうにはなかった。うずくまった身体の中で、唯一、手持無沙汰になっていた両手では頭髪を掻きむしった。
「……ぁ……ぁぁ……っ……!」
サヨのことを、死なせたくなかった。
休日は一緒に目的もなく街中を歩き回り、夜には他愛もない話で朝を待つ。そんな、なんてことない友達同士にサヨとはなれるかもしれなかった。
でも、もう全部だめだ。全部終わってしまった。
彼女は死んで、任務も失敗した。
もう、銀河鉄道の夜を読むことは、ない。
「……さ……よ……っ!」
ああきっと、自分が
ライエに、〈泥濘の魔女〉に言われた通りだった。市場を去るライエに安堵し、〈泥濘の魔女〉に
―――わたしは……また、友達を失っちゃったんだ……っ。
全部全部、全部全部全部……向いていないのに
『向いてないからってやっちゃいけないってことには、ならないでしょ?』
まだ明るいウィーン――サヨと歩いた昨日の街姿を、写真のような鮮明さで思い出した。
隣を歩いているだけで勇気を貰えるような、眩しい笑顔のサヨが――わたしを見ている。
『だからネリネは大丈夫だよ。今は向いていなくても、自分に出来ることを一つずつやっていけば、いつかは「自分は向いてる」って自信が持てるようになれるはずだから』
ああ、そうだ……今は向いていなくても、いつか向いてるって自分で思える日まで……サヨみたいに頑張らなくちゃいけないんだ。たった昨日、それを教わったばかりじゃないか。
―――今の自分が出来ることを、一つずつやらなきゃいけないんだ。
暗く淀んだ不安や悲観は、水面を亙る波紋のように徐々に消え去って行く。身体の内で渦を巻いていた鉛のような重さも、雨に紛れて一緒に滴り落ちる。
記憶の中で笑いかけられたネリネは、雨で濡れた
「サヨ……!」
ネリネは高度を上げて、警察署を目指して飛び始めた。邪魔するように雨粒がしきりに身体を打ち付ける。体温は下がっているはずなのに、しかし心臓の鼓動は昂ったままだ。冷やされる一方の体表とは対照的に、身体の内側はひどく熱かった。
ウィーンの天辺まで続く中央通りでは、建物が崩れ、路面線路には爪痕のような傷がついていた。大気に浮遊する土煙を払おうと雨が強くなるが、淀んだ空気は変わらず褪せない。ここで戦闘があったことは明白だ。
路面線路周りの傷を辿って行くと、ネリネとサヨがこの街にやって来た時に利用した主要駅があった。サヨの魔力を感じ取ったネリネは、そこに降り立つ。
「サヨはここで戦ってた……? なら、この近くに……!」
ネリネは必死に辺りに視線を巡らせて、それを発見する。
その警察官が手に持っていたのは、サヨが肩から下げている鞘袋――ホウキだった。彼らはそれを周囲の視線を気にするようにして、黒い袋の中に隠そうとしている。
「――ッ!」
即座に駆け出したネリネは、
「このホウキの持ち主はどこですかッ!?」
「ま、魔女……!?」
「早く教えてくださいッ! そのホウキの持ち主はどこですか!?」
ネリネの気迫と狭窄した金鎖に、警察官は表情を苦し気に曇らせながら、視線で示した。
「川の向こう側……!」
金鎖を解いて、すぐに飛行して川面を渡って行く。
川の半ばを超えたあたりで、川べりで横たわるサヨの姿が見えてきた。そこへ集まって来ているのは、複数人の警察官たち。彼女たちは、意識を失っているサヨに触れ――。
「―――サヨにっ、触らないでッ!」
自分でも驚くくらい大きな声が、喉から迸った。
サヨの前に着陸するネリネは、そのブレーキ時の慣性を利用して金鎖を振り回した。昂った感情によって溢れ出した魔力で金鎖は硬く強化されており、鞭のようなしなやかさと鉄以上の硬度を獲得した金鎖は、街路樹の幹の一部を木片に換えた。
「サヨ……! サヨっ!」
しゃがみ込んだネリネは、横たわったまま動かないサヨの身体を抱き起した。
身体が異常に冷たい。木陰に入っているのにこの衣服の濡れ方……たぶん、川に落ちたけど意識を失う前に、自力で川べりまで這い上がって来たのだろう。
高熱量の光線で撃たれたのか、はたまた低下した川水の水温で冷やされたのか――出血量はさほど多くはない。かつて
よかった……と安堵で戦意が緩みかけていた時、近づいてくる足音にネリネは向けた。
階級の高さが窺えるバッジを胸に付けた婦警が、ネリネたちを見下ろしている。その目には、およそ魔女に対する敬意とは真反対の――売国奴を蔑むような感情が隠れて視えた。
「その魔女の仲間だな」
「……あなたは?」
「私はウィーン警察の署長、ヒルダ・アーベントだ。通報があったから駆けつけてきた。さあ、早くその子をこちらに。急いで治療しないと、取り返しが付かないことに――」
そう言いながら伸ばしたきたヒルダの手を、ネリネの金鎖が撥ね退けるように叩いた。
「……なんの真似だ?」
冷静に、けれど確かに怒りを抱くヒルダに問われ、ネリネはふと予感を得て微笑した。
きっと自分は、あの
だからやっぱり、サヨが傷ついたのは自分の責任だ。
―――自分の責任だからこそ、わたしがどうにかしないと。
「……わたし、生まれついて目が佳いんです」
「……なんの話だ」
「相手がどんな感情を抱いているか、どれだけ傷ついているか――そういうのが、糸になって視えるんです」
ネリネは再度、ヒルダを視る。
厭悪、侮蔑、矜持、競争、葛藤、理想、―――どれも全ての人間が持ち合わせている要素ではあったが、それらの糸の絡まり方を、ネリネは九年も前に、身近な大人から視てきた。
「あなたの糸は――わたしを
「――っ、お前、庭園出身者かッ!?」
ヒルダがネリネの正体を看破した瞬間、いつの間にか、街路樹に絡まっていた金鎖がついに限界まで狭窄した。幹をねじ切られた街路樹は、力尽きたようにヒルダたちとネリネたちの間に倒れ、地面を震わせた。
ヒルダたちが怯んでいる隙に、ネリネはサヨを抱きかかえて、旅館に向かって飛行する。
「絶対に助けますから……! 頑張ってください、サヨっ!」
激しくなる雨の中を、ネリネは全速力で飛んだ。
中空に滞留する曇天は、これ以上ないほど重く灰色を厚くしていた。
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