第二章 絶望の傾斜
第4話 銀河鉄道の夜を読む
たさっ、たさっ、たさっ。
膝下までしかない背丈の低い植物が、私の足に当たって夜露を振り落とした。夏だから薄着でも平気だと思っていたけど、夜の森の中は秋のように冷たい空気が漂っていた。たぶんそれは、近くに湖畔があることも関係あるんだと思った。
首に巻いていたマフラーに口元を埋めて、私は温かさと肌触りを感じて息を吐く。
私がいた
化物の口内なんて形容してよさそうな、真っ暗な森の中。
私はトリシエラと一緒に、手を繋いで歩いていた。トリシエラが右手に持った橙色のランプが小さく幻惑的に揺れていて、暗闇の中でぽっかり浮かぶそれを見ていると、段々と起きてるのか寝ているのかが曖昧になってくる。
前方にログハウスから漏れている明かりを見つけた。今が【魔術書】を借りるために、地球の精神世界――大図書館に訪れた後、トリシエラと一緒に帰っている最中だったと思い出す。
「サヨ」
トリシエラが付けてくれた名前が、心地良く私の耳朶を震わせる。
見上げると、トリシエラは視線を前に向けたままだった。目を合わせないで話したいことなんだと察した私は、振り向かなかったことにして視線を戻した。
「なあに?」
トリシエラは握り合った手の親指を動かして、私の手の甲を愛おしそうに撫でた。
「私はね、――――――」
トリシエラに似なくてもいい所も似てしまい、私は朝が苦手だった。
身体と布団をくっつける謎の磁力を不本意ながらはね除けて、私は寝ぼけまなこで上半身を起こした。隣ではネリネが、行儀よく布団の中に収まってすやすやと眠っている。
旅館の女将さんには「私たちはこの街で起きてる事件を調査しに来てる魔女だ」と説明し、特別に五日間連続でこの部屋を借りることが出来た。毎日ホテル探しをすることにならなくて本当に良かったと思う。旅館を出る前には、女将さんにちゃんとお礼していかないと。
朝風呂を浴びて目を覚まし、私服に身を包む。
部屋に戻るともうネリネは起きていて、朝ごはんが机の上に並んでいた。メニューは白米、大根おろしの乗った焼き魚、ポテトサラダ、漬物、味噌汁といった少し質素な精進料理だった。
「あ、おはようございます。お風呂に行ってきたんですか?」
「うん。私、朝苦手だから。目覚まし代わりに入っておこうかなって。ネリネも誘った方がよかった?」
「あー……次までに、ちょっと考えておきます……」
温泉の気持ち良さと裸を晒す恥ずかしさが引き分けて、取り敢えずネリネは保留を選んだ。
朝ご飯は確かに質素だったけど、その味は旅館であるだけとてもおいしかった。釜で炊かれたご飯は白米の良さが引き出され、炭火で焼かれた魚は大根おろしとよく合った。
朝ごはんを食べ終わったネリネは、
ギターの弦を張り続ければネックが曲がってくるように、防護魔術はずっと機能させ続けると
退屈そうにただ魔力を流し込んでいたネリネは、座椅子に座って小説を読んでいた私を目に止めた。
「私の
「うん。私の場合『夜空』を投影させるから、防護魔術が『侵食』されちゃって機能しなくて」
「いいなぁ、この手入れをやらなくて済むなんて」
ネリネから羨まし気な視線を送られて、私は苦笑する。
「でも、小説なんていつ買ってたんですか? 全然気づきませんでした」
「これはフロントの本棚から借りてきたやつだよ。女将さんが苦労して手に入れたんだって。私はトリシエラの家にあったから読んだことあるけど、好きだから借りてきちゃった」
ネリネが猫のように首を伸ばして、ページを覗き込んできた。
「縦書きで漢字……日本の本ですか?」
「うん。銀河鉄道の夜ってタイトル。空飛ぶ列車に乗って、二人の男の子が旅をするんだよ」
「空飛ぶ列車って……空走列車のことですか?」
「うーん、たぶんそれがモデルなんじゃないかな。日本には通ってないはずだけど」
この本が書かれた時代には既にあったと思うけど、陸路でも海路でも億劫になる距離を移動する時は――かなりお金が掛かるけど――現代では空走列車を利用するのが普通だ。文字通り空を走る列車で、見た目は古き良きSL機関車の様相をしている。
「あっ! 昨日のことですっかり忘れてた!」
「な、なにをですか?」
急に大声を発し慌てたした私に、ネリネが戸惑いながら訊いてきた。
「空走列車の空路には、ウィーンも入ってるんだよ。明日の夜に頂上――ウィーン国立歌劇場に停まるんだった。ねえネリネ、明日の夜、一緒に空走列車を見に行かない?」
「え、乗るとかじゃなくて、見に行くだけですか?」
「そうそう! 見たことある?」
「いえ、わたしはないですけど……」
「じゃあせっかくだし、見に行こうよ。私は前にトリシエラとノートルダム大聖堂に停泊してたのを見に行ったけど、走ってる姿とかすごい綺麗だったよ。ほんとに銀河鉄道みたいで!」
畳に手を付き、目を輝かせながら食いつくように私から迫られて、ネリネは負けを認めるように笑った。
「わかりました、行きましょう。……それで、サヨが好きな銀河鉄道の夜って、どんなお話なんですか?」
自分の好きな本に興味を持ってもらえてうれしくなった私は、物語とあらすじを話した。
主人公のジョバンニは、父親の仕事をクラスメイトのザネリたちから揶揄われていた。でも親友であるカムパネルラだけは、ジョバンニのことを馬鹿にはしなかった。
星まつりの夜、孤独なジョバンニは一人ぼっちで、天気輪の柱のある丘の上で寝転んでいた。するとそこに、夜空を走る一台の列車がやって来る。ジョバンニがそれに乗ると、中には親友のカムパネルラが座っており、二人は一緒に銀河を旅するのだ。色々な星々を訪れて、様々な人々と出会い、別れを繰り返していく。
たった二人だけが残った静謐な車内で、窓の外を眺めながらジョバンニは言う。
『また二人きりになったねぇ、僕たちはどこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はあのさそりのように、みんなの幸のためならからだを百っぺん灼いてもかまわない』
『僕だってそうだ』
カムパネルラもそう返した。
全体の要所を選び抜いて話していたので、当然のようにネリネは疑問を抱いて、訊いてくる。
「あの蠍っていうのは?」
「銀河鉄道の中で会った人から聞かされた、夜空で赤く燃え続ける蠍のことだよ。イタチから逃げて井戸に落ちた蠍は後悔する。「これでは無駄死にだ。」って。自分もたくさんの生き物を殺して生きてきた。なら最後は、井戸に落ちて、イタチの栄養にならずに死ぬんじゃなくて、ちゃんと食べられればよかったって」
あまり共感できなかったのか、ネリネは少しばかり考えてからイタチの思想を言葉にする。
「自己犠牲、みたいなことですか?」
「そんな感じだね」
他人の幸せのために、自分の命を擲つこと―――自己犠牲。
ジョバンニが他人のために百回焼死しても構わないと嘯いたように、さそりがイタチに命を差し出そうとしたように、銀河鉄道の夜では自己犠牲が尊ばれ、美しい行為として描かれているのだ。
「……ジョバンニとカムパネルラは、最後、どうなったんですか……?」
自己犠牲というテーマから不吉な終わりを予想したのか、声の抑揚を落としネリネは尋ねてくる。
「カムパネルラはさっきの会話の最後に、ふと消えて……ジョバンニは銀河鉄道を降りて街に戻るんだ。そしたら、カムパネルラは川で溺れてたザネリを助けて、自分は死んじゃってた」
どうして銀河鉄道にカムパネルラがいたのか。そもそも銀河鉄道は本当に存在していたのか。
もしかしたら全部、ジョバンニの夢だったんじゃないのか。
現実と幻想が星座のように結びつき、生と死が溶け合うように共存していて、銀河鉄道の夜の真相も作者の意図も私には分からない。
でも、ストーリーは概ねそんな感じだ。友達を揶揄っていたクラスメイトを、自分を食べようとしていた捕食者を――相手が誰であろうとも自分の命を擲つ、自己犠牲の美しさを描いた小説。
「なんていうか……少し悲しい話ですね」
バットエンドを迎えてしまったかのように、ネリネは遣る瀬無さを言葉に滲ませて呟いた。
たしかに、銀河鉄道の夜を読んで美しいと思うのと同時に、ネリネのように儚さや物悲しさを感じてしまう気持ちは分かる。自分の親友を揶揄っていたクラスメイトを助けて自分が溺死するなんて、読者としては「そんな奴、助けなければ良かったじゃないか」とさえ思うかもしれない。
「でも、好きなの。トリシエラみたいだから」
「え―――」
銀河鉄道の夜を読み終わった私は、ぱたんと本を閉じた。
「
「あっ、はい、終わりましたけど……」
「よし。じゃあもう行こ。雨が降り出す前にやることやっておきたいし」
私はホウキの入った鞘袋を肩に掛け、ネリネは十指に金色の指輪を装着した。
旅館を出た私たちを出迎えたのは、一雨降りそうな重い曇り空だった。
ウィーンの夏は寒暖差が激しく、昼と夜では十度以上も違うことがあるそうだ。昨日までは少しひんやりしていたマフラーが、今日は微かに熱を持っていた。
「えっと……ネリネは二人分の私服の買い出しと、強襲する時のための霊装と霊器素材の確保。私は警察署にライエに会いに行くって感じね。それじゃあ、また後でね」
昨晩、寝る前に話し合ったタスクを端的に確認し、私は踵を返してネリネに背を向ける。
「あのっ……!」
ネリネは、これから告白でもするかのような調子で、上目遣いで私を見つめてきた。
「今夜、その……さっきサヨが読んでた銀河鉄道の夜、わたしにも貸してくれませんか?」
「えっ!」
予想外の申し出に、私の喉から反射的に驚喜の声が漏れ出た。自分が好きな小説に、友達が興味を持ってくれたことが堪らなく嬉しかった。
「それは全然いいけど……っていうかネタバレしちゃってごめん……でも、なんで急に?」
首を傾げて尋ねると、ネリネはあたふたして視線を彷徨わせ、やがて観念して恥ずかしそうに微笑った。
「サヨのことを……その、知りたくて……」
その告白はまるで、親友になりたいと言われているかのような、こそばゆさと嬉しさを私に感じさせた。ここまでストレートに感情をぶつけられたのは初めてなので、私もネリネに同調し、自分でも頬が上気しているのがわかった。
「うん……! もちろんいいよ。じゃあ、任務が終わったらね」
ネリネと別れた私は人気のない路地裏を通って、駅から程近い場所にある警察署に向かった。天候はあまり良くなかったが、私の足はとても軽かった。
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