第3話 憧憬者の告白
夕食前に私たちがやって来たのは、温泉だった。
ウィーンの地形はモンブラン型に盛り上がっているので、さすがに本物の温泉を地中から引いてはいないだろうけど――商業用の霊装で沸かせたお湯に、霊薬を混ぜて温泉の効能を再現しているんだと思う――戸を開けた先に広がっていたのは紛れもなく、私の記憶に薄っすらと残っている、温泉の風景だった。天井に設置された映写霊装が、奥行きを感じさせる竹林の映像を壁に映している。湯船にお湯を供給しているのは、どう見ても鹿威しだったけど……まあ、日本が鎖国している以上は、文化が曲解して伝播するのも仕方がない。
「ほらネリネ、早く来なよ」
付いてきている気配が無かったので振り向くと、ネリネは透明なガラス戸から顔だけ出してこちらを見つめていた。まだ温泉に入っていないのに、ネリネの顔はのぼせたように真っ赤になっている。
「さ、さよぉ……ほ、ほんとうに、知らない人と入るのが……ふっ、ふつうなんですか……?」
羞恥で声を震わせながら囁くネリネに、気のせいか他の客も同意しているような感じがした。
日本では普通のことだったけど、どうやら知り合い同士であろうとも一緒にお風呂に入るのは恥ずかしいようで――トリシエラも最初は躊躇していた――その例に漏れず、ネリネもまた周囲の視線が気になっているようだった。
「普通だって。むしろ、そうやってる方が目立っちゃうよ?」
「う、ううぅぅ……」
泣き出す寸前のような唸り声を上げて、ネリネはようやく覚悟を決めたようだ。バスタオルで身体の前面を隠しながら、脱衣所からこちらに出てきた。
豊満な胸囲によって、白いバスタオルは大きく二つに膨らんでいた。それを際立たせるように腰はきゅっと綺麗に引き締まっており、適度に細い手足が嫋やかな印象を帯びさせる。落ち着かない表情や仕草のせいか、何だかネリネをまじまじと見つめることに背徳感さえ感じた。
というか本当に泣かれそうな気がするので、出来るだけ視線を逸らそうと思った。
身体を流し終わった私たちは、ようやっと温泉に浸かる。
ふう、と思わず息が漏れた。段々と浸水するように熱が身体の内へと伝わり、芯をじんわりと温める。身体の次は首、その次は頭の中枢に熱が灯り、酩酊とはまた違った心地良さで意識が穏やかに緩まって沈んでいく。
最初は熱がっていたネリネも、すぐに温泉の気持ち良さに身を委ねて脱力していた。微笑むような和やかな表情で目を瞑り、蕩けた表情で息を吐く。
なにか喋ろうと思ったのか、ネリネはこちらを見て、そしてふと私の胸元に目を止めた。
「サヨの『契約の刻印』は、心臓の上にあるんですね」
ネリネの視線の先、私の左胸の上には『複数の線が絡んだ楔』のような紋章が描かれている。
私たちが使う魔術は、主に二種類に分けられる。
一つ目は『普遍魔術』と呼ばれるもので、これは普遍という文字通り、人間なら誰でも使うことの出来る魔術だ。使い方は【聖書】を諳んじるだけという、とても簡単でお手軽なものになっている。なんでも〈原初の魔女〉は、人類に魔術を広めるには、多くの人に読まれている【聖書】に組み込むのが効果的と踏んだらしい。
そして二つ目が、私の【
ネリネに『契約の刻印』を見つめられた私は照れて、膝を抱えて隠すような仕草をした。
「あー、うん……すごい目立ってるよね、胸元にあるし。もっと背中とか首の後ろとか、髪で隠れるところがよかったよ」
正直、この『契約の刻印』はタトゥーみたいで私は恥ずかしかった。いや、別にタトゥーが悪いものとか思ってるわけじゃないんだけど、なんていうか……まあとにかく恥ずかしいのだ。
トリシエラには「日本人的だね」なんて言われたりしたけど、たぶん、小さい頃から「契約の刻印は凄いものだよ」と教わっていなかったからだと、私は勝手に思ってたりする。
「でも魔女の中には、わざと見せびらかすようにする人もいるらしいね」
「そ、そんな人がいるんですか」
ネリネもどちらかというと私側なのか、そのエピソードには意外だと言うように反応した。
これはトリシエラが言っていたことだけど、魔女も全員が全員『契約の刻印』を持っているわけではないので、身体に契約の刻印がある人――つまり【固有魔術】が使える人は、魔女の中では羨望の眼差しを向けられるものらしい。
「ネリネのあの魔術も固有魔術だよね? ネリネの契約の刻印はどこにあるの?」
今はお湯に浸かっているため、ネリネはバスタオルで前を隠していないのだが、見たところ契約の刻印はどこにも見当たらない。ネリネの髪形はボブカットだし、髪で隠れているわけでもなさそうだけど……。
温泉の中に電気ナマズでもいたのか、ネリネは身体をびくっと震わせた。それから「あー」とか「うー」とか声を間延びさせて、やがて急速に顔を赤くして囁いた。
「…………したです」
「下?」
下腹部にあるとしたら、確かにそれは
「下ではなく……その…………舌、です」
「舌?」
言われたことが呑み込めず首を傾げていると、ネリネは意を決したように私に顔を向け、口を開けて舌を出した。
「お、おぉ……」
契約の刻印を乗せたネリネの舌を見て、私は背徳感やら意外性やらでどきりとして、言葉を失ってしまった。胸元にあるだけでも私は恥ずかしいのに、舌となると……うん、なんかもう、強く生きて。応援はするから。
「ううぅ……私もサヨみたいに、まだ人に見える位置に表出してほしかったです……。これが人に見られないか心配で、あまり口を開けて喋れないし……」
汗だか涙だか分からない雫がネリネの頬を伝い、水面に落ちて王冠を形作った。しまいにはお湯に沈んでしまい、ぶくぶくと息を吐き出していた。
私は自分の胸元にある『契約の刻印』を見下ろして思う。
取り敢えず、服で隠れる場所に契約の刻印がある私は、まだマシな部類のようだ。
「はあ~、良い湯だった」
温泉から出た私たちは
「そうですね。温かくて気持ちよかったです。……ちょっと恥ずかしかったですけど」
付け足すように言い加えたネリネは、私から視線を逸らして、紅潮した頬を隠すように首に掛けたタオルを顔に遣った。
とはいえネリネも、初温泉にはかなり満足しているようだった。ウィーンでの任務が終わるまではこの旅館に泊まり続けることになるだろうし、明日もまた誘ってみよう。
風呂上がりにかかわらず私が付けているマフラーを、ネリネは興味深そうに見つめた。
「そのマフラー、会った時からずっと付けてますよね。大切なものなんですか?」
友達に宝物を見つけられてしまったような、こそばゆい気持ちになりながら私は頷く。
「うん。十二歳の時に、私を引き取ってくれた人から貰ったんだ。あ、でも全然暑くはないよ。『抵抗』の性質を持ってる『堤防』の概念が編み込まれてるから――夏は冷たくなって、冬は温かくなるんだよ、このマフラー。ほら、触ってみて」
「ほんとだ……! 概念の編み込みが出来るなんて、すごい人ですね」
「あはは。そう言われると、なんだか私も照れちゃうな」
自分の尊敬の対象であり、母親代わりでもあるトリシエラのことを褒めて貰えたことが嬉しくて、私はだらしくなく頬を緩ませてしまった。
部屋に戻った頃には、丁度、夕食の時間になっていた。
女将さんが運んできてくれた料理は、日本文化が好きな女将さんが頑張ってシェフに日本食を再現させたもので、味噌汁や刺身――醤油はないから代わりに塩をまぶしたもの――豆腐や海藻サラダなどが皿に乗せられていた。
トリシエラが日本文化が好きだったので、材料が買えた時はいつも日本食を作ってくれた。なので、私は既に見たことも食べたこともあった。だけど、ネリネは食べるどころか見るのも初めてだったようで、タコの刺身を食べる時なんかは怖くて手が震えていた。
まあ冷静に考えてみると、あの地球外生命体のような見てくれのタコを食べるのは、日本人くらいだろう。うねうねと動くあの触手を好意的に見れるのは、日本人か余程の変態だけだ。
夕食を食べ終わった私たちは、広縁にある向かい合った椅子に腰かけて、窓の外に広がっている夜景を眺望していた。手前側では、街灯やら屋内から漏れ出る明かりがウィーンの街並みを金色に彩っていて、それらが生み出す妖しく薄い影は、華美になりすぎないようウィーンの街を諫めるように点在している。
その奥には〈原初の魔女〉が侵攻した際に出来上がった草原が、夜闇に沈んで暗く広がっているが、今はウィーンの街明かりを引き立てる背景として機能していた。でも私からすれば、地上に位置するウィーンの街明かりも、主役を引き立たせる脇役でしかなく――。
「星、好きなんですか?」
傍から見ていてわかるほど、陶然としていたのだろう――夜空を見つめていた私に、ネリネは穏やかな貌で尋ねてきた。
「……うん、好きだよ」
答えてから、私は再び見上げた。
ほんの薄っすらと青を滲ませる夜の空を背景に、たくさんの星が、零れ落ちてしまいそうなくらい滂沱している。それぞれを線で結んで星座を見つけることなんか簡単で、自分で新しい星座を作れそうなくらい、星で溢れかえっていた。
一時期、蒸気機械を使用していた時代には星が見えづらくなっていたらしい。だけど魔術の発展に伴って、それが前時代的な代物になったことで――蒸気機械が使われなくなったことで空気は再び明澄し、星が見えない夜なんて雨の日くらいだった。
「たぶん、トリシエラの『夜空』に似てるからかもしれない。……まあ、今は私の『夜空』でもあるんだけどね」
ネリネは考え込むように一点を見つめ、そして合点がいって「ああ」と小さく口を開けた。
【聖書】を諳んじれば誰でも使える普遍魔術とは違い、固有魔術が使えるようになるには――【魔術書】を保管している惑星の精神世界に赴いて、そこで【魔術書】を借りる必要がある。
私の【
「よくトリシエラさん、【魔術書】の共同所有を認めてくれましたね。それをしてくれる人って中々いないですよ」
「あー、なんかそうみたいだね」
固有魔術はその人にだけ許されたものだが、一番最初に借り受けた第一所有者が許可すれば二人目も使えるようになる。
ならどうして、多くの第一所有者は、共同所有させてくれないのかというと――第二所有者が望めば所有権を簒奪されてしまうからだ。故に、高い殲滅力を誇り、自分の命を守る強力な武器でもある固有魔術の共同所有を許すお人よしはいない。
「サヨは、とても信頼されているんですね」
「そうだね。だからこそ、私はトリシエラの期待に応えたいんだ」
私の脳裏に過ったのは、
『いいだろう。私が君に『夜』を継ごう。いつの日か、
あの日、私はトリシエラの意志を継いで
まだ物事の分別が怪しい、十二歳の子どもだった私と【
改めてそう分かると、胸の奥底で嬉しさと感謝が萌芽して、心臓を優しく包み込んでくれた。
「あの……」
ネリネが尋ねづらそうにしながら、胸の浴衣を握りしめて、意を決したように訊いてくる。
「サヨのお母さんの、トリシエラさんって……その……
「うん? そうだよ」
平然と答えた私に、ネリネは瞠目していた。
トリシエラは
なので私からすると、トリシエラは「凄い人」というよりも「尊敬できるお母さん」という印象の方が強いので、ネリネの驚きように私の方が驚いてしまった。
「そっ、そんなにびっくりすることかな……?」
「しますよ! だってトリシエラ・ノーチラスと言えば、異生命で溢れていた北欧の
大西洋の
カナダで復活した邪神を殺し、今も残っている瘴気を消し続ける夜空色の大地――『
彼女がいなければ、世界は三度滅んでいたと言われるほどなんですよ」
呼気を荒げながらネリネに熱弁されて、私は誤魔化すように苦笑した。
「私もトリシエラが凄い人だって、分かってはいるんだけど……やっぱり、お母さんって印象の方が強いんだ」
トリシエラは
だから私がトリシエラの名から連想するのは、風邪で寝込んだ私を看病してくれたり、ご飯を作ってくれたり、勉強や魔術を教えてくれたり……母親然とした姿しか思い浮かばなかった。
だけど、私は家族という距離感にいたから正しく実感を持てないだけで、トリシエラは
そう考えると、昼間戦った
街の方が少しだけ、楽し気に騒がしくなり始めた。時計を見ると八時になっており、たしか今日は花火が上がると喧伝されていたから、もうすぐ打ちあがるのだろう。
「それに、私がトリシエラと会ったのも、トリシエラが
ネリネは怪訝そうに小首を傾げた。
「
心なしか、火薬の匂いがした気がした。
「トリシエラに
花火が、打ちあがった。
星を霞ませるほど、まばゆい火の花が咲いた。夜空には一定間隔で、次々と熱を持った花が繚乱しては散っていく。
告白した内容が衝撃的だったのか、ネリネは視点を一点に固着させたまま沈黙していた。
このままではせっかくの楽しい空気が変質してしまいそうだったので、私は「今は幸せだ」ということを頑張って伝えようと、自分の過去を披歴することに決める。
「八歳のとき……だったかな。お母さんが私のことを海外に売り飛ばしたんだ。理由なんて、もう覚えていないけどね。それで、その後すぐに
「サヨは……庭園出身者なんですね」
「うん。私はそれから、
「じゃあ四年……あんなところに、サヨは四年も……」
それ以上は、ネリネも言葉にならなかった。
「それで十二歳の時に、トリシエラさんが助けに来てくれたんですか?」
自分の胸を締め付ける痛みを消そうと焦るように、ネリネは滔々と言葉を紡いだ。私はそれに頷く。
「その時はもうトリシエラはケガで引退してたんだけど、北欧に用事を済ませに行く途中で、たまたま私がいた
ここから程近い、かつて私がいた
「トリシエラはもう戦えるような身体じゃなかったのに、私のことを助けようと戦ってくれたんだ。血を吐いて、立っているのもやっとで、魔術が途切れ途切れになっても――トリシエラは私を守るために戦ってくれた」
あの夜のことは、五年が経った今でも色褪せず鮮明に覚えている。
暗い緑陰、青い雨、夜空色の
『私は死んでもいい……ただ、私以外の人は誰一人として死なせたくない。出来ることなら、これから苦しむ全ての人も救いたい。この命が果てるまで、誰も傷つかなくなるまで……!』
自分の生存すら怪しい場面になってもなお、トリシエラは一人で逃げることはせず、私の前に庇うように立って戦ってくれた。
そのあまりに鮮烈で、かっこいい姿を見たから―――。
「だから私は、
凛然と告げた私を、ネリネは見惚れるように茫然と見つめ返してきた。憧憬に近しい感情を向けられた私はなんだか居た堪れなくなって、誤魔化すように照れ笑いを浮かべた。
「……っていうのもあるんだけど、やっぱり一番の理由は友達を助けるためだよ」
「友達……ですか?」
「うん。あのとき助かったのは私だけで、他の
瀕死になったトリシエラを、応援でやって来た
だけど出遅れたことで、包囲網は完全とはいかなかった。
「私が
……トリシエラが来てるってなった時、私とアネモネは、
アネモネは別れ際に言った。
待ってる、と。
ずっと信じて待ってると言って、私を送り出してくれた。
ならば私は、それに応える義務がある。アネモネがくれた自由で、私はアネモネを助け出す義務があるはずだ。
花火がいつの間にか終わって、街には静かな空気と火薬に匂いが漂っていた。窓辺から顔を出して見ていた住民は窓とカーテンを閉め、観光客は帰路に就き、またホテルに帰って行く。
「サヨなら絶対に、アネモネさんを見つけ出せますよ」
「えへへ、そう言ってくれると嬉しいな」
前向きな言葉で励まされた私は、もう寝る前だというのに活力が漲ってきてしまった。
取り敢えず、明日はライエに会いに警察署へ行こうと思う。
ライエが大人しく
事の動きは、ライエが従順な態度か否かに掛かっているというわけだ。
「あの……サヨの任務、私にも手伝わせてもらえませんか? わたしの任務は、サヨの任務を手伝うのが一番近道になるので……」
「うん? それはもちろんいいけど……ネリネの任務って何なの?」
それからネリネは、自分の任務について色々と話してくれた。
「…………うん、わかった。じゃあ明日からよろしくね、ネリネ!」
「はい……!」
ネリネは野花が咲くような可憐な笑みを浮かべて、嬉しそうに頷いた。
開けっ放しになっていた窓から、少しだけ冷たい夜風が入り込んできた。
「もう寝よっか」
「そうですね。明日も早いですし、そうしましょう」
窓を閉めた私たちは、電気を消して、女将さんが敷いてくれた布団に横になった。
とはいえ、私が同い年の友達と夜を過ごすことなんて、アネモネと最後に会った五年も前のことなので……結局は談笑に花を咲かせ、私たちが寝たのは夜の二時を回った頃だった。
かつ、かつ、かつ。
凛然、というよりも傲然という方が相応しい、芯の通った靴音だった。それは鉄格子を微細に震わせて反響し、冷たく無機質な廊下を厳粛に引き締める。
足音が、自分の前で
目を伏せたままでも、目前に立つ彼女から怒気が立っていることは感じていた。
ウィーン警察署の地下にある留置所――鉄格子の中。
壁に背を向けて座っていたライエは、顔を上げて鉄格子を挟んだ廊下を見た。
そして『軛結晶』で手を拘束されている危機的状況であるにもかかわらず、旧友と再会したような明るい調子で喋り掛ける。
「ああ、助けに来てくれたんだね。ハナニ―――」
ジィン、と激しく鉄が振動するような音が鳴り響いた。
それは何も、廊下からライエを見下ろす彼女が鉄格子を蹴飛ばしたわけではなく――彼女の背後に従いていた『五芒星の花』が眩い光線を撃った、その副次効果でしかない。
ライエは頬をひりつかせる熱気に、無表情で応対した。顔の数センチ横では、今の光線で壁が溶解して、超高温の雫が雨漏りのように滴った。
「なに勝手なことをしてんのよ、あんたは」
それぞれの
「
「言わずもがな」
「かなりの人間に見られたそうね」
「ヒルダが隠蔽できるレベルだよ」
「―――ッ、そんなこと言ってんじゃないのよ!!」
ハナニラの背後から『五芒星』が幾条もの光線を伸ばして、鉄格子を切り裂いて壁を線上に溶解させた。常人であれば、その示威行動で十分に怯え反抗心を削がれるが――ライエは依然として余裕の態度を保持したままだった。
それがなお一層、ウィーンの
「あたしが問題視してんのは、この街に魔女が――
「いいや、それは違うよハナニラ」
冷静であり続けるライエの視線が、ハナニラの横にずれた。
「今回のことで
「お前は、私がその裏切り者と言いたいわけだ」
いつの間にかハナニラの横にいた女が、突っぱねるような拒絶的口調でライエに言い放った。
女を嘲笑するように、ライエは口元を歪めた。
「ああ悪い、裏切り者という意味では君は最初からそうか――警察署長、ヒルダ・アーベント」
制服に警察署長であることを示す徽章を付けるヒルダは、警察署長とは思えないほど悪徳に口の端を吊り上げた。
「お前の言う通り――私は
「だから別に、あんたがハナニラを裏切って
「今はヒルダの話なんかしてないでしょ。話をずらさないで」
ハナニラがぴしゃりと言い捨てた。
「ヒルダが裏切って
ライエが子どもを攫おうとした目的が
子どもどころか、一般人の自我意識を守っている
にもかかわらず、ライエは過剰にも目立って
「―――二日後」
予言するような、冷たい声音でライエは囁いた。
「二日後の夜に教えてあげるよ」
「……そう。なら、あんたを殺すかはその時に決めることにするわ」
もったいぶるライエに、ハナニラは殺意を以て応じた。
それから、隣に立っているヒルダに向き直った。
「ヒルダ。後処理は頼んだわ」
「わかった。やっておこう」
後処理と言っただけで、その処理する対象が何なのかヒルダは理解したようだった。
警察署に密かに作られている避難経路を通り、ハナニラとライエは月明かりも差さない暗い裏路地に出た。ライエの両手首を拘束していた、サヨが打ち付けた『軛結晶』はとっくに解除されている。
「不条理の具象化と言ってもいい、ゴミ溜めの中で育った少女がいました」
「はあ? 何の話よ」
ハナニラの一歩後ろを歩いていたライエが唐突に、物語るような静謐な口調で、言葉を紡ぎ始めた。険悪な空気感なだけに、ハナニラはさらに苛つきを覚えるが、ライエは平静に続ける。
「少女は誰よりも、そのゴミ溜めから抜け出したいと思っていました。しかし少女は、次第にそれを諦めてしまいました。その代わりに、裁定者に阿り、他者を蹴落とし、同じゴミ溜めで生きる他の少女たちよりかは幸せになろうと考えたのです」
「…………」
「そんなある日、ゴミ溜めから連れ出してくれる人が現れましたが――その人は少女のことを助けてくれませんでした。これからもゴミ溜めで生きていくことになった少女は、そこで王様となり、小さな箱庭の中で欺瞞という幸せを手にしたのです。……さて、王様になった少女は、これから何をするでしょうか?」
「…………そんなの、誰よりも幸せになろうとするに決まってるでしょ」
「それは箱庭の外で?」
「箱庭の中でよ」
ハナニラの前に出たライエは、月光を浴びながら踊るようにくるりと
自分よりも前を歩いていくライエの背中を見つめながら、ハナニラは呟いた。
「……考えすぎ、よね」
思索するハナニラの前では、ライエが人間離れの視覚能力で、旅館の広縁に座るサヨたちの姿を見つめていた。
「明日は激戦だ。死なないように気を付けなよ、サヨ」
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