第2話 勇気の出せない桃花

 警察官が駆けつけたのは、私がライエを捕縛してからほんの数分後のことだった。

 住民から通報を受けた警察は異端者と異端審問官インクイジターが戦っているのだと判断し、住民の避難と周辺の封鎖を優先していために、戦いの終結を察知してすぐに来れたのだという。

 傷の治療も終わって動けるようになったライエは、警察官に連れられて警察謹製の四輪車両霊装に乗せられた。婦警の一人が畏まった堅い態度で、私とネリネの元にやって来た。

「犯人確保のご協力、ありがとうございました。えっと……」

「サヨ・ノーチラスっていいます」

「ああ、ノーチラスさん。……一つお伺いしたのですが、花師ガーデナー被験花ひけんかの調達現場に居たのはどのような事情でしょうか? 私たち警察の方からは、弾劾戦線リアフロントに要請は出していなかったと思うのですが……」

 警察は、花庭園ガーデンの関与が疑われる事件を発見した場合にはそれを弾劾戦線リアフロントに報告し、異端審問官インクイジターの要請をすることが義務付けられている。

 だけど今回、弾劾戦線リアフロントはウィーン警察からそういった要請は受けていない。

 その不履行の理由はともかく――報告の義務が怠ったという認識からか、婦警はどこか怖れるように表情を強張らせていた。私は鷹揚に頷いた。

「はい、ウィーン警察からの要請は受けていません。とある情報からウィーンに花庭園ガーデンがある可能性が浮上したので、異端審問官インクイジターである私がその真偽を確かめに来たんです。そこで、たまたまライエ……彼女が被験花ひけんかの調達をする現場に居合わせて、今に至ります」

「……ある情報、というのは?」

「残念ながら、花庭園ガーデンに関することは弾劾戦線リアフロントの管轄ですので情報共有は出来ません。ですが、場合に応じて周辺の封鎖などの協力を、していただくことになると思います」

 疑わし気な目で尋ねてきた婦警に、私はぴしゃりと厳しく言った。

 花庭園ガーデンに属す花師ガーデナーのほとんどは、侵攻戦線オーヴァーフロントにいた元魔女――つまり、異生命と毎日のように殺し合ってきた戦いのプロたちだ。そんな敵の相手を警察が務めることは出来ないし、情報を共有していた時代には、警察官が家族を人質に取られ情報を奪われる事件も起こった。

 情報の非共有は、異端審問官インクイジターに課せられた最も重い原則でもあった。

「……わかりました。それでは、後のことはこちらで行っておきます」

 自分の職務を思い出したように、責任感のある厳しい顔つきになった婦警さんは、そう言い残して車両霊装の運転席に乗り込んだ。

 捕縛された異端者は一時的に留置所に拘留される。その旨を警察から報告された弾劾戦線リアフロントは、遅くとも翌日には異端審問官インクイジターを派遣して異端者を引き取り、反射攻撃式カンウターアレイを解呪して頭から情報を奪い取って、私たち末端の異端審問官インクイジターに共有する……といった仕組みになっている。

 いま婦警さんが言った「後のこと」というのは、その一連の流れのことだろう。

 車両霊装が走り出す前に、ライエは運転席に座っていた婦警に話しかけた。何を言われたのかは分からないが、大きなため息を吐いた婦警さんは、ライエの座る後部座席の窓を開けた。

 こちらを見つめたライエは、道化が死に際に浮かべるような寧悪な笑みを浮かべて、言った。

「またね、サヨ。―――トリシエラによろしく」

「―――っ!」

 電流のような痛みを伴って、悪寒が全身を奔った。凋んでいたライエの存在感が禍々しく膨張して、私の思考を圧し潰して白紙にした。

「ま、まって――!」

 呼び止めようとした時にはもう車両霊装は走り出しており、私の言葉は運転手まで届くことはなかった。

 ある種の敗北感を感じながら、私は小さくなっていく車両霊装の後ろ姿を見届けていた。

 せっかく戦いに無傷で勝利したというのに、ライエが最後に残した言葉が胸の奥につっかえて、正直に喜ぶことは出来なかった。

「サヨ」

 名前を呼ばれたので顔を向けると、ネリネが居心地が悪そうに視線を彷徨わせていた。

「ここから離れませんか? その……目立ってるから、花師ガーデナーに顔を見られてしまうかも……」

 ネリネに言われて周りを見ると、警察の包囲網が解除されたことによって、市場に避難していた人たちが戻り始めていた。

 どこからか花師ガーデナーが見ているかもしれないし――もしこの場にいたら、ライエに加勢していたはずだからたぶんいないとは思うけど――取り敢えず離れるべきだろう。

「そ、そうだね」

 ライエが残した最後の言葉で混乱していた私は、ネリネのアドバイスで平静になる。

 換装して黒衣箒ローブルームから私服に戻った私たちは、後ろめたいことがあるかのように、そそくさと活気が戻り始めた市場を後にした。服さえ変えてしまえば、私たちが魔女だと――異端審問官インクイジターだと――分かる人などいない。少し市場を離れれば、さっきまでの注目や戦闘は幻だったかのように、静かで平穏な雰囲気で場は満たされた。

 一緒に歩きながら、私はネリネに談笑するような調子で話しかける。

「でも、ネリネが異端審問官インクイジターだったのはびっくりしたよ」

 私の言葉を受けたネリネは、静電気が弾けたように肩をびくっと震わせて顔を俯けた。

「……ごめんなさい。悪気はなかったんです」

「えっ? ううん、全然いいよ。自分が異端審問官インクイジターだって言えるわけがないし」

「いえ、それだけでなく……すぐに、助けに入れなかったことも、です」

 ネリネが私に抱いている罪悪感の根本にあるのは、自分の正体を韜晦していたことではなく、異端審問官インクイジターであるにもかかわらず、すぐに私を助けに来なかったことなんだと悟る。

「わたし、今日が異端審問官インクイジターとして最初の戦いだったんです」

 観光名所の密集地から離れたことで、人通りは少なくなり背の高い民家が増え始めた。陽光が鎖したことで、薄暗い影が私たちの歩く路地を蔽っている。

「あの人が触物のような化物を召還して、走り去る姿を見て……自分でもすごくイヤなんですけど……少し、安心してしまったんです。あの怖いのが、居なくなってくれたって。本当は、誰よりもわたしが率先して戦わないといけないのに」

 自分の薄弱さを嫌悪して、ネリネは唇を噛みしめて悔しそうに、泣きそうに目を細めた。

「サヨは凄いですね。あんな化物を前にしても怯まずに、すぐに追いかけて戦おうって思えるなんて。…………それに比べてわたしは、自分のことばっかりです。やっぱり、わたしに異端審問官インクイジターは向いてないのかもしれません」

 ドクダミのような陰鬱さを言葉の端々に滲ませて、ネリネは凍えるように溜息を吐いた。

 無力を憎むのであれば、魔術を勉強し鍛錬して、戦えるだけの力を付ければいい。

 だけど薄弱は勝手が違う。〈勝てる相手〉ではなく〈勝てそうにない相手〉に戦いを挑むことが出来るのは、力のある人間ではなく勇気のある人間だ。それは、自分の戦う力が増せば必ずしも獲得できるものではない。

 私はたまたま〈勇気を出せる人間〉だから良いけど、ネリネのように〈勇気を出せない人間〉はにっちもさっちもいかず、自己嫌悪の坩堝にハマってしまうのだろう。

 何か励ませるだけの言葉がないか、と考えた結果思い付いたのは、自虐にも似た慰めだった。

「大丈夫だよ。私も向いてないから」

「……え、え?」

「私なんてさっき、敵であるはずのライエから『向いてないから、辞めて教師にでもなれば』って忠告されちゃったよ。私も今日が初任務の初日だったんけどなぁ」

 明るい調子でそんなことを言われたからか、ネリネは理解が遅れてきょとんとしていた。

 それから、まるで分からないと言いたげな表情で尋ねてくる。

「ならサヨは……どうしてそんな風に、笑ってられるんですか? 自分で『向いてない』って思うよりも、誰かに言われるのはキツイはずなのに……」

「うん? だって、向いてないからってやっちゃいけないってことには、ならないでしょ?」

 子どもが星の輝きを見つけたように、ネリネの目がゆっくりと見開かれた。呆然と、小さく開いたままになった口から僅かに呼気が漏れている。

「初めからちゃんと出来る人なんていないよ。みんな最初は全然ダメだけど――それでも諦めないで少しずつ努力して、一つずつ出来るようになっていくんだよ。だから、確かに今の私は向いてないかもしれないけど……いつかは、誰かに『向いてる』って言われるくらいの人間に、なれるんじゃないかなって思ってる」

 実際、私だって最初は魔術を使うどころか、十二歳にもなって電車の乗り方も知らなかった。文字の読み書きも出来なくて、どちらもトリシエラに少しずつ教わって会得してきた。

「だからネリネは大丈夫だよ。今は向いていなくても、自分に出来ることを一つずつやっていけば、いつかは『自分は向いてる』って自信が持てるようになれるはずだから」

 私に笑いかけられると、ネリネは肩の力を抜くように淡い笑みを浮かべた。

「……サヨは優しいですね」

 ネリネがそっと呟いた。気づけば私たちは、陽光の差さない薄暗い住宅地を抜けていた。ネリネのローズクォーツのような可憐な瞳が光を反射して煌いていた。

「ありがとうございます。なんだか、まだ頑張れそうな気がしてきました」

「励まされてくれたなら、私も嬉しいよ」

 私たちは隣り合って、特に目的地も決めずに談笑しながら歩き続けた。

 楽しい時間があっという間なのは本当で、いつの間にか夕方の四時になってしまい、私たちは平静に戻って今晩泊まる宿泊施設を探し回った。しかしいざホテルを訪れてみると、全部が全部満室になっておりキャンセル待ちも絶望的。これは野宿も覚悟しよっか……と、二人してとぼとぼ歩いていた私たちは、人通りの少ない裏通りで小さな旅館を見つけた。

 女将さんに尋ねてみると、あと一室だけ空いていると言う。そういうわけで私とネリネは、その一室を一緒に利用することにした。

「なんていうか……すごく落ち着く雰囲気の部屋ですね」

 案内された部屋を見て、ネリネは布団に寝そべっているかのような、安心感で溢れた声を漏らした。どうやらネリネは、旅館は初めてだったようだ。

 そこは畳が敷かれた和室で、部屋の真ん中には長机と二つの座椅子が置かれている。広縁の奥にはウィーンの街並みを一望することが出来て、暮れなずんだ景色が妖しく華麗だった。完全に日が落ちて夜になれば、かなり良い夜景を眺望することが出来るだろう。

「すぅ……はぁ。やっぱり木の匂いは落ち着くなぁ」

 私は十二歳から今日十七歳までの間、トリシエラと一緒に森の真ん中でログハウスに住んで生活してきた。だから木や葉っぱなどの自然の香りが好きだった。

 今のはそういう背景があっての発言だったけど、ネリネは別のところに着眼したようで、

「わたし、最初に名前を聞いた時に少し思ってたんですけど……もしかしてサヨは、日本から来たんですか? サヨって名前も、あっちの国の名前っぽいので」

 好奇心で楽しそうに声を軽くし、ネリネは訊いていた。

 日本は、西暦一六三九年から現在に至るまでの約四百年間、特定の国とのみ交易を行う鎖国という制度を取り続けている。そのため日本という国の情報は少なく、僅かな文化しか知られていないのだが……そういった神秘性も一つの魅力として機能しているのか、日本文化を好む人は多いそうだ。

 情報があまり外に出回らない日本という国が、ネリネも気になったのかもしれない。

「うん。でも、小さい頃に日本を離れたから、もうほとんど覚えてないんだ」

 私は六歳の時に日本を離れた。なので、街並みや文化なんてものは漠然としか覚えていないのだ。妹もいたような気がするだけで、もう顔すら思い出せなくなっているくらいだ。

「そう、なんですか」

 そもそも日本を離れて来る人も、滅多にいないのだが――私がそのあたりの事情を自分から話さないことに気を遣ってくれたのか、ネリネはそれ以上何も聞いてこなかった。

「あっ。でも一つだけ覚えてることはあるよ」

「どんなことですか?」

「それは勿論……お風呂のことだよ」

 その時は不思議そうに首を傾げていたネリネだったけど、数分後には、私の言葉の意味を身をもって知ることになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る