第一章 始まりの日

第1話 夜空を継いだ少女

 がたんがたん、と一際大きく列車が揺れたことで、私は夢の中から覚めた。首に巻きついた白いマフラーに口元を埋めて、もう一度夢の続きを見ようと体勢を変えたけど、列車の前方に目的地の街が見えてきたので、私は大きく欠伸をしてから起きることにした。

「はあ~!」

 身体をぐーっと伸ばした私は、窓の外に広がる大草原を眺めた。

〈原初の魔女〉が通った道は総じて均され、その周辺は全て草原になったのだという。

 かく言う、ウィーンの北側であるここ、ミステルバッハもその草原の一つだ。風に揺らぐ草原は白い線で何度も波を描き、さらさらと涼し気な音を奏でている。春の温かな陽光が優しく草原の緑色を際立たせており、その真ん中を子どもたちが楽しそうに走り回っていた。

 私は窓から身体を出して、前方に聳える街を見つめた。

 ウィーン初見の感想として思い浮かんだのは「モンブランみたい」というものだった。事実、ウィーンの街は平たんに広がっていうのではなく、山のように隆起した地形を街が飾るように並んでおり、その天辺にウィーン国立歌劇場があるので、夜になって明かりが灯れば、本当にモンブランのように見えるだろう。

「あれも……原初の魔女がやったんだよね」

 今から約五百年以上も前――この世界に実在していた〈原初の魔女〉なる存在の大きさを、私は変形したウィーンの地形から感じ取った。

 かつてこの世界では、今とは違って魔術というものは常識のものではなく、悪魔の力として忌避され排除の対象にされていたのだという。

 しかし、後に〈原初の魔女〉と呼ばれる一人の少女が『魔術を異端とする人たち』を皆殺しにする人類浄化――『魔女狩り』を行い、そうして魔術が常識の今の世界が作り上げられた。

「地形をあんなに変えられる魔術……トリシエラなら知ってるかな」

 なんとなく名前を呟いただけなのに、胸の内に郷愁の想いが広がった。

 まだ家を出てから十時間も経っていなかったけど、私は早くもホームシックになっていた。なにせ私はかれこれ五年以上も、森の中でトリシエラと二人暮らしだったのだ。たった一人で、知らない人で溢れた街に行く経験なんて、人生で初めてなのだから仕方がない。

 草原を抜けると、外の景色は自然的な景観から人気のある街並みへと一気に変化した。運転手の車内アナウンスで、もうすぐ駅に到着すると言われた私は、ホウキの入った袋を肩にかけて降りる準備を始めた。

「えっと、ホウキは持った。マフラーもしっかり付けてるし……うん、忘れ物なし!」

 私は降車口に行って待機する。

 初めて街に外出するというビッグイベント(私にとっては)に、胸が緊張と興奮で弾んだ。ブレーキを掛けた列車が緩やかに減速し、停車。ドアが開いたので、私は駅舎に踏み出した。

「――おぅわぁっ!」

 列車とホームの隙間に足が挟まってしまい、私は思いっ切り顔から転んでしまった。周りの人から心配と奇異の視線を向けられ、恥ずかしくなった私は何度も頭を下げ、その場から退散しようとして。

「おごっ!」

 今度は自分のマフラーを踏みつけた。マフラーが狭窄して首が絞まり、首が曲がってごきっと変な音が鳴る。

「ごほっ、ごほっ……!」

 盛大に醜態を晒して咳込む私を見て、周囲の人たちはくすくすと笑いながら離散していく。

 あまりの恥ずかしさに私は顔を真っ赤にし、すぐにその場を離れてようと駅から飛び出した。まさか初めて外の街に来て、あんなみっともない姿を晒すことになるとは夢にも思わなかった。

 これから大丈夫なのかな、私……。

 最悪のスタートダッシュを決めた私は、落ち込むように俯いたけど、賑やかな音と雰囲気に励まされて顔を上げる。

「あ、すごい……人がいっぱいだ!」

 何かのお祭りかと勘違いしてしまうほど、ウィーンの街は人と活気で満ち溢れていた。今日は平日のはずだけど多くの観光客が行き交い、街の至るところから陽気な音楽が聞こえてくる。

 音楽を奏でる楽団の近くにあった、地図やら街の概観が記載された案内板を私は見つけた。せっかくなので、私も観光客気分になって読んでみることにした。

 オーストリアの首都であるウィーンの街は、〈原初の魔女〉が人類浄化せんと侵攻して来た際に、音楽を以て平和を求めたという。しかし〈原初の魔女〉は芸術などは興味なく、手始めに周辺にあった街も巻き込んで、今のようにモンブラン型に街を変えてしまった。示威に屈したウィーンの人々は魔術を受け入れ、音楽は「平和を求める」という意味から「魔術を受け入れる」という降伏の意味合いに変化した後も奏でられ続け、今では音楽の街として栄えている。

 ……端的にまとめてしまうと、書かれていた内容は大体こんなところだった。

「へえー、知らなかった。本で読むよりも、こうやって現地を歩き回った方が面白いかも」

 気づけば私の背後は、案内板を見ようとする他の観光客で埋め尽くされていた。私はそこを抜け出て、取り敢えずは今日の宿を探すことに決める。

 まあ観光地だし、適当に歩き回ってたら見つかるよね。

 私はそんな軽い気持ちで、宿泊施設の密集するウィーンの麓のあたりを目指して歩き始めた。

 …………それが今から二十分前。

 四方八方を人に囲まれ、緩やかな傾斜の道を歩き続けた私の体調は、今や吐瀉する寸前までグロッキーになっていた。疲労感だけならまだしも、なにより人酔いがキツイ。ずっと街外れで暮らしてきたから、人の多さに全然慣れていないのだ。

 歩く度に視界がぐらんぐらん揺れて、もう真っ直ぐ歩くのも難しくなってきた。

「ちょ、ちょっと……きゅーけい……」

 流石にこの人混みのど真ん中で吐くのはまずい。

 酩酊状態のような足取りで、私は観光客で溢れる本道から抜け出て人気の少ない路地に避難した。洒脱な衣服を纏ったマネキンの並ぶショーウィンドウの横で、膝を抱えてうずくまる。

「うぅ……目が回る……気持ち悪い…………」

 本道をいくら進んでも人が減らなかった理由は――たぶんだけど、中腹から頂上付近にかけて観光地が密集しているからだろう。それによって、人の流れが自然と決まっていくのだ。

「原初の魔女だ……ウィーンの地形をこんな風にした……原初の魔女が全部悪いんだ……」

 喋る度に吐きそうになりながら、私は胃のあたりの服を握って、静かに呼吸していた。目は瞑っているけど、頭の芯がコンパスの針のように回転し続けており、吐き気と眩暈は一向にやむ気配がない。私の前を通り過ぎる母娘が「お母さん。あの人、春なのにまだマフラー付けてるよ」「こら、見ちゃいけません!」とか会話していたけど、弁解する余裕も余地もなかった。

「あの……大丈夫、ですか?」

「うぁ……?」

 どこにも行けず、うんうん唸り続けていた私に、天使のような声が囁きかけた。

 吐き気を抑え込みながら、俯けていた顔を上げる。

(あっ、可愛い……!)

 薄桃色の髪を切り揃えた少女が、腰を落とし前かがみになって私を見下ろしていた。頭頂部の毛が稚くはねており、ローズクォーツのような綺麗でまん丸な瞳には、私の真っ青な顔色が鮮明に反射している。服装は、白いブラウスの上に桃色のカーディガンを纏っており、確かにオシャレでかわいいけど、表情や仕草がたどたどしいせいか、おしゃれして初めて都会に出てきたような初心な印象を受けた。

 私の顔を見たその子は、何かを思い出したように目を見開いた。

「あ、駅で醜態を晒してた人」

「思い出させないで……」

 嫌な記憶がフラッシュバックした私は、がくりと俯いて頭を抱え込んだ。あんな衆人環視の真ん中で、あれだけ間抜けな醜態を披露したのだ。覚えられていても仕方がない。

 彼女は「すみません……」と申し訳なさそうに苦笑してから、再び心配そうに眉尻を下げて、傷心する私に話しかける。

「でも、本当に大丈夫ですか? 顔色、すごく悪いですけど……」

「うん……ちょっと人酔いしちゃって……」

 私の具合が悪い理由を聞いた彼女は、周辺をちらちらと見渡してから、持っていたカバンの中から水の入ったペットボトルを取り出した。

「これ、よかったら飲みます……か?」

「…………えっ! いいの?」

 ご飯を見つけた動物のような私の反応に、彼女は面白そうに噴き出した。

「はい。実はわたしも、さっきまで人酔いしてあなたみたいになってたんです。自動販売機もないみたいですし、わたしなんかの飲みかけでよければ……」

「うんっ、もらう! ありがとう!」

 私は受け取ったペットボトルの水を、一口ずつゆっくりと飲み始めた。胃の中に落ちてくるささやかな冷水が疲労で火照った身体を冷まし、頭の中で回転を続ける針を緩めてくれる。

 半分ほど飲んだ。少しすると、段々と吐き気は消えて次第に動けるようになった。

 立ち上がった私は彼女にペットボトルを返却し、満面の笑みを浮かべて礼を言う。

「ありがとう、本当にたすかったよ」

「いえ、わたしの方こそ飲みかけでごめんなさい……」

「そんなの全然いいよ。……そうだ! 出来れば何かお礼とかさせてくれないかな? えっと……名前、聞いてもいい?」

 まだ訊いていなかったことに今更になって気づき、彼女も思い出したように小さく口を開いた。彼女は覚悟を決めたように溜めてから、自分の名前を音にする。

「わたしは……ネリネ。ネリネ・ステンノートです」

「ネリネ……うん、覚えた。私はサヨ・ノーチラスっていうんだ。よろしくね!」

「……! はい、サヨさん……!」

 ネリネは、初めて友達が出来たと言わんばかりの輝く笑顔を見せた。

 私も同じくらい嬉しい気持ちだった。十二歳から今日までの五年間は、森の中でトリシエラと二人きりで暮らしてきた。つまり、初めて外で出来た友達が、今目の前にいるネリネだった。陽光よりも温かい感情が胸中で逆巻いて、何も考えていなくても自然と口元に笑みが浮かんだ。

「あはは、さん付けなんかしなくていいよ。たぶん、年齢だってネリネの方が上じゃない?」

「そう、ですかね……?」

 腑に落ちないのか、ネリネはショーウィンドウに映る自分の姿を見つめた。

 自信なさげな表情がネリネの顔形を幼く見せているが、たぶん二十歳より上じゃないかと私は推測した。だって……だってそうでもなければ、あの胸の大きさは絶対におかしい。あんな服の上からでも巨悪と分かるたわわな双丘が、未成年のものであるはずがない。

 そしてネリネはついに、自分の年齢を明かした。

「わたしは十七歳ですけど……サヨは?」

「お、同い年、だと……!?」

 私は切羽詰まった声で呟き、ネリネの胸部をまじまじと凝視してしまう。

 私と同い年の十七歳で、この大きさ……いいや、ブラフの可能性も……いや、何に対してのブラフ? でもでも、流石に同年代でここまで差があるはずが……。

 そこで、言い争いの際にトリシエラが胸を張りながら言った皮肉が脳裏を過る。

『サヨの胸はいつまでたっても膨らまないねぇ。風船みたく、どっか穴でも空いているんじゃないかい?』

「まだ発育途中だもんっ!!」

「は、はい! ごめんなさい!」

 記憶の中のトリシエラに向かって叫んだ怒りに、ネリネがびくっと震えて大声で謝罪した。

「あ、ごめん」

 冷静になった私は、咳ばらいをしてネリネに向き直った。

「よかったら、一緒にお昼ご飯でも食べに行かない? 助けてもらったお礼に、さ」

「えっ? いいん、ですか?」

「もちろんだよ。ネリネはどこか、いいお店とか知ってる?」

「……すみません。実はわたし、今日初めてウィーンに来たばっかりなので……」

「あ、私と同じだね。私も今日、ウィーンに来たばっかりなんだよ」

「それは知ってます。自分でマフラーを踏んで首を絞めてたので」

「意図的にやってたみたいに言わないでっ!?」

 耳を塞いで叫んだ私を見て、ネリネはくすくす可笑しそうに笑った。それからいい案を思いついたというように、ウィーンの中腹――観光地が密集しているところ――から少し下あたりを見上げた。

「では、市場の方に行ってみませんか? 市場の傍には飲食店が結構集まってますし」

「うん、すごくいいと思う。だって私、市場を見るためにウィーンに来たんだもん!」

「市場を、ですか……? サヨさん……サヨって、変なところに興味を持つんですね。普通は天辺にある国立歌劇場とかだと思うんですけど」

「あ、あはは……まあ変わってるとはよく言われるから」

 誤魔化すような怪しい笑みを見たネリネは、不思議そうに小首を傾げた。

 そういうわけで、私たちは市場の近辺にある飲食街を目的地に決め、隣り合って歩き出した。本道には駅から頂上に向かって一直線で伸びた路面列車が走っているのだが、人酔いをする私たちには関係のない話だった。

 私とネリネは初対面だったけど、すぐに会話は弾んで打ち解け合った。家族や過去についてはお互いにあまり話さずに、自分の好きなものやウィーンの街並みを話題して談笑した。

「ずっと気になってたんですけど……サヨは釣りとかするんですか?」

「えっ、しないけど? なんで?」

 急にそんなことを尋ねられて、私は訳が分からず聞き返した。

「ああ、いえ……その細長い袋の中は、てっきり釣り道具だとばかり思ってたので」

 私が肩にかけた袋を見つめながら、ネリネは謝るような調子で言った。

 あ、ホウキのことを忘れてた。

「釣り道具じゃないなら、それには何が入っているんですか?」

「あ、あー…………ふぇ、ふぇんしんぐだよ」

「すごい声震えてますけど、大丈夫ですか?」

 冷や汗を流しながら、視線を明後日の方向に逃がして私は言う。

「あのフェンシングで使う剣みたいなやつだよ!」

「あれサーベルとかフルーレっていうらしいですよ」

「そ、そうなんだ……。じゃあ釣り道具!」

「じゃ、じゃあ……?」

「あうっ……その…………はい。なんか、入ってます。嘘ついてごめんなさい」

 散々に墓穴を掘りまくった挙句に、無難なところに落ち着いてしまった。

 観念して嘘を認めた私は、石畳に映る自分の影に視線を落として肩を窄めた。

 そんな私を見て、ネリネは訝しんだり不快感を示したりはせず、呆れるように微笑んだ。

「サヨは嘘が吐けないんですね。正直で良いと思いますよ、わたしは」

「うぅ……」

 嘘が暴かれた挙句に褒められる矛盾が異様に恥ずかしくて、私は話題を逸らそうと周りに視線を散らして、見つける。

「あー……ネリネのその指輪は、何かの魔術……っていうか、おまじないなの?」

 ネリネの両手、左右の五指それぞれには金色の指輪がはめられていた。

 指輪を十指にはめること自体中々ないけど、さらに十個全てを同じデザインにするとしたら、何らかの魔術やおまじないの類だと推測するほかない。

 指輪を付けることが自分としても本意ではないのか、指摘されたネリネは顔を赤くすると、恥ずかしそうにして指輪を付けた指を隠そうとする。でも十指全部付けているため、全然隠せていない。上手くいかない様を見て萌えている私に、ネリネは嫌そうというより、説明しづらそうに話してくれる。

「その……別に、常に付けておく必要はないんですけど……失くしたらあれなので……」

「なるほどね。じゃあ大切なものなんだ?」

「……仕事道具、みたいな感じでしょうか」

 そう言ってネリネは、自信なさげに儚く微笑った。

 古来から契約する際の押印に使われたり、結婚する二人が一緒に付けることから、指輪には『連結』という性質がある。十本の指で何かを動かす仕事……うぅん、思い当たらない。

 会話に夢中になっていたら、ずっと先だと思っていた市場には案外早く到着した。

 人の多さは駅前と同じくらいだったけど、熱気や活気はこちらの方が遥かに昂っていた。最寄りのレストランのテラス席からは楽し気な笑い声が青空に飛んでいき、アップテンポな音楽は財布を持つ人の購買意欲を刺激する。

 賑やかな市場は確かに楽しそうではあったけど、すぐに人酔いをする田舎娘からすると食べ歩きは難度が少しばかり高い。

 私たちは三階建てのレストランを見繕って、そこのテラス席で昼食を摂ることにした。

 お昼ご飯を食べ始めて、一時間ほどが経った。

 互いに頼んだデザートを口にしながら、私たちは眼下で行き交う人々の波を俯瞰していた。

「それにしても……ウィーンは本当に賑やかな街だね」

 ネリネはこくりと頷いて、半分ほど残ったレモンジュースを口に含んだ。

「そうですね。地元の人だけじゃなくて、観光客の方もたくさんいるみたいですし」

「うん。でもちょっと気になるのは……」

 巡回してる警察官が多すぎるような気がする、というのはわざわざ言葉には出さなかった。

 もちろん、私が知らないだけで、最近ウィーンでは何か物騒な事件が起こったという可能性もあるし、観光客が悪事を働かないように犯罪の抑止力として巡回しているだけかもしれない。

 それと違和感はもう一つ――子どもが少ないことだ。明らかに観光客だと判る、強い好奇心に目を輝かせる子どもは見つけられる。だけど、地元の子どもらしき子は全くいないようだ。

「ねえネリネ。ウィーンの市場で、何か物騒なことって起きてたっけ? なんか警察官が多いような気がするんだけど……私の気のせい?」

「言われてみると……確かにそんな気がします。どうしてでしょう?」

「それには俺が答えてやろう!」

「「―――!」」

 突如として割り込んでいた男の声に、私たちは驚いてびくっと身体を震わせた。

 声のした方を振り向くと、金髪を真ん中分けにした大学生くらいの年齢の青年が立っていた。彼の周りには彼と同年代の男が他にも二人いて、たぶんウィーン大学に通う学友なのだろう。

「教えてくれるの? ありがとう」

 私がそう言うと、彼らは少し意外そうに目を瞬かせてから、嬉しそうに頬を緩めた。

 ネリネは避難するように私の隣に座り、彼らは近くの席から椅子を持ってきて着席した。

 私に顔を近づけたネリネは、小声で耳打ちをしてくる。

「サヨ、これってナンパですよ。断らなくてよかったんですか?」

「えっ、そうだったの?」

「気づいてなかったんですね……」

 ネリネは嘆くように溜息を吐いた。うん、本当にごめん。

 私たちの心情なんて露知らない金髪の青年は「リヒャルト」と名乗った。他の二人も名乗り、私たちも自己紹介も終わると、リヒャルトはありがたいことに早速本題に入ってくれる。

「それで……市場に警察官が多い理由、だったよな?」

「うん。それに地元の子どもも少ないような気がして」

「おお、そこまで感じ取れるとは。君は可愛いだけじゃなくて頭も良いんだね?」

「えへへ、そうかなぁ?」

 褒められた嬉しさと照れで、だらしなく頬を緩めてあからさまに喜ぶ私に「ちょろすぎます……」とネリネが心配そうに呟いた。

 リヒャルトは、レジスタンスが作戦会議をするかのような秘密めいた口調で言う。

「今このウィーンで起こってるのは―――魔女の仕業なんだよ」

「……魔女、ですか?」

 現代では正義や強さの象徴であるはずの『魔女』という言葉が不穏な色で彩られ、ネリネは懐疑的に尋ね返した。リヒャルトは険しい表情で、楽しそうに頷いた。

 今から二十年前――この世界は、異世界と繋がり合った。

 その接界点ポータルからは『ドラゴン』や『魔獣』など異生命と呼ばれる化物が溢れ、この世界で平穏に暮らしていた人々を襲い始めた。

 その異生命に対抗するために、世界中の国々が共に力を合わせて立ち上げた世界政府ならぬ世界軍隊こそが『侵攻戦線オーヴァーフロント』だ。そこに所属する者たちは、〈原初の魔女〉と同様に誇り高く世界のために戦う者として、畏敬の念を込めて『魔女』と呼ばれる。

 そんなわけで、魔女という言葉は多くの人間にとって正義や強さの象徴であり、また憧憬の対象でもある。なにせ世界を守るために戦っているのだ。子どもは言わずもがな、大人の中にも「魔女様」と様付けで呼ぶ人だって少なくない。

 そんな崇高な場所にいるはずの『魔女』が、ウィーンで悪事を働いている――と言い切ったリヒャルトは、わざとらしく周りの視線を気にする素振りを見せてから、小声で続ける。

「確かに、侵攻戦線オーヴァーフロントの魔女たちは日々やって来る異生命と戦って、この世界を守ってくれてはいる。だがな、減るどころか増え続ける異生命たちによって、魔女の死者数は増加し、戦線の維持も難しくなってきてるんだ。まあだからだろうな――侵攻戦線オーヴァーフロントの魔女の中には、この長い戦争を終わらせるために――強い魔女を作るために、花庭園ガーデンっていう組織を立ち上げた奴らがいるんだ」

「……花庭園ガーデン……」

 ネリネが苦しそうにその組織名を復唱した。リヒャルトはわざとらしく、妖し気に頷いた。

花庭園ガーデンは世界中の至る所にあって、そこでは街中から攫ってきた子どもを強い魔女に仕上げるために人体実験をしてるって噂だ。まあ大人とは違って、子どもは自我意識を守ってる反射攻撃式カンウターアレイの強度が低いしな。攫いやすいんだろ」

 そこまで言われて、元の話の趣旨との繋がりがようやく見えたネリネは、答え合わせをする。

「じゃあ、この市場に警察官が多いのは――その花庭園ガーデンに子どもを攫われたから、ですか?」

 張り詰めていた糸が切れたように、リヒャルドは椅子の背に凭れて放埓な声で返答する。

「さあ? 花庭園ガーデンの存在は都市伝説みたいな眉唾物だし、本当はそんなもの存在してないのかもしれない。でも子どもが何人も行方不明になってるっていうのは、本当のことさ。最初は地元の子どもが姿を消したんだが、それが続いたことで地元の子どもは外に出て遊ばなくなってな。それからは観光客の子どもが何人も行方不明になってる。

 まあもし本当に、花庭園ガーデンなんてものがあるなら――自分の子どもが行方不明になっても、観光客は言語が違うから警察は協力しづらいし、何より観光に来てるんだから滞在期間が終わったら国に帰らないといけない。花庭園ガーデンとしても、これほど被験体の調達に適した土壌は他にないだろうな」

 リヒャルドはつまらなさそうに鼻を鳴らした。彼の視線を辿っていくと、そこには楽しそうに騒いでいる観光客や市場の人々が行き交っている。さっきまでは無条件で明るく陽気な印象を受けた彼ら彼女らの様子は、今の私にはどこか暗い影が落ちて見えた。

「ああ、そうそう。花庭園ガーデンが攫うのは決まって女の子らしい。魔女が女だけである理由と同じように、男よりも女の方が魔力が多いからだろう。そういうわけだから――」

 リヒャルドはスイッチを切り替えるように表情を明るくすると、私たちの方に向き直った。

「君たちも危ないだろうから、俺たちと一緒に遊ぼうぜ!」

「あぁ、結局そこに行きつくんですね」

 予想通りの結論がやってきたことで、ネリネは観念したように項垂れた。

「心配するなって。花庭園ガーデンだか処女メイデンだか知らないが、どっちも俺らに任せとけって!」

「最っ低なんですけどこの人……」

 ネリネは呆れるように吐き捨てると、言い寄って来るリヒャルドから顔を背けて、助けを求めるように私の方を見た。

「……大丈夫だよ」

 穏やかな声音で言った私の囁きは、ネリネに向けてのものであり、同時にリヒャルドたちにも向けたものだった。

「その悪い魔女も、いつか必ず良い魔女が倒してくれるから」

 要領の得ない私の物言いに、リヒャルドは不思議そうに眉根を寄せた。

「それってつまり、警察で言う内部監察官みたいなやつか? そんな奴いるのかねぇ……」

 疑わし気に言ってから、リヒャルドは思い出したように「あっ!」と声を上げた。

「そういえば……前に大学の女子が言ってた気がするな。魔女を狩る魔女がいるって。たしか、そいつを―――」

 がたっ、と椅子が大きく動いた音がリヒャルドの言葉を断ち切った。

 唐突に立ち上がって表情を険しくする私を、隣に座るネリネが不安そうに見上げている。

「サヨ……? どうかしたんですか?」

「…………あの子、様子がおかしい」

 私の鬼気迫った迫真の様子に異常を感じて、ネリネだけでなくリヒャルドたちも席から立ち、手すりに寄りかかって市場を見下ろした。

 私はその中を行く、二人組の女の子を指差した。人間味のない霊妙な白髪の少女が、年端もいかない少女の手を引いている。されるがまま、大人しく手を引かれる少女の足取りと雰囲気は生気が抜け落ち、どことなく怪しげだ。

 説明できないほど隠微な違和感だが――違和感があるとだけは断言できる。

 私が指さした二人を見たリヒャルドは、怪訝そうに眉根を寄せた。

「んん……? あの子はたしか、市場にあるドレスショップの娘さんだな。隣を歩いてるあの白髪の女は誰だ?」

「…………サヨ?」

 ネリネに名前を呼ばれるけど、私は反応できず、二人から視線を外すことも出来なかった。

 理由は、自分でもよく分かっていない。別に私は、魔術的な気配を感じ取れたわけでもなく、物質的な根拠に基づいて怪しんでいるわけではない。

 だけど――魂や心といった、まだ魔術でも解明しきれない何かが悲鳴を上げていた。

 ふいに、少女の手を引いていた彼女が、人ごみの真ん中で足を止めて。こちらを振り向いた。

 この世のものは全て無価値だと諦観するような虚脱感――それが蜷局を巻いた邪視のような赫い瞳が私と交錯した。

 そして彼女は、蹂躙という言葉が相応しい笑みを浮かべると、口を動かした。

 ―――来なよ。

 音は聞こえていない。だけど確かに、彼女の口はそう動いた。

 視線に気づかれたことなんかよりも、たった一度視線を交わしただけで私の正体を察知したその洞察力と野生の獣じみた本能に心が怖れた。

「あれ、今あの子、俺の方を見てなかった?」「いやいや、俺の方だって」

 リヒャルドは仲間同士で、そんな他愛もないことを楽し気に話していた。

 ネリネは今の一瞬で、私と同じように何かを感じ取って怯懦しているようだった。

「……やる気だ」

 私の呟きに、リヒャルドが「は?」と間抜けな声を漏らした次の瞬間だった。

 白髪の彼女の周囲で、様々な色彩から成る亀裂が宙に迸った。それは地震のような重々しく大仰な音を響かせながら割れ、一直線に刻まれた亀裂が口のように開かれる。

 そこから這い出して来たのは四足獣だったが、その姿は見るも悍ましい自然の道理から乖離した様相をしていた。身体中を包み込んでいるのは毛皮などではなく、蛇よりも禍々しく蠢動する眼の付いた触手たち。丁度、タコの吸盤を全て眼球にすげ替えたような様相をしている。だが、何よりも聴衆の目を吸い寄せる要因は、触手の先端にあった。

 口だ。赤い唇の奥に真っ白い歯が整然と並んだ口が、触手の先端に生えていた。それらは独立して意識を持っているかのように、笑い、怒り、悲しみ、嬉しがって表情を変えていた。

 あまりにも退廃的でグロテスクな化物は、コミカルで楽しい市場の雰囲気を、一瞬で猟奇的でスプラッタな空間へと塗り替えた。

 白髪の彼女は最後に、挑発するように笑って私を見ると――その化物に食われた。

 いいや、正確に言えば取り込ませたというのが正しいところだろう。彼女に手を引かれていた少女もまた、彼女と一緒に化物の口内へと姿を消してしまった。

『ゲィィィィィィィィアアアアアアアアアアアアアアアアア』

 化物は耳障りな悲鳴のような叫び声を上げると、市場の真ん中を猛然と前進し始めた。逃げ惑う人たちは化物に踏みつぶされないように道路脇に避難し、化物に道を譲る。

 私の隣で一部始終を見ていたリヒャルドは、恐怖で声を震わせながら乾いた笑いを漏らす。

「なんだあれ……はは、やべぇなおい……ってお前なにやってんだ!?」

 リヒャルドが驚愕で叫んだのは、私がテラスの手すりの上に立っていたからだ。十メートル下方では、私に転落死という結末を与えようと硬い石畳が待ち構えている。あとたった一歩、ほんの少し風に煽られただけで落下する危険な場所に立っても、私の心は凪いで冷静だった。

「サヨ……!? いったい何を……!」

 困惑するネリネに、私はただ一言の詠唱を以てして答える。

「――――形相回帰リカレンスエイドス!」

 微かに紫色で彩られた漆黒の粒子が、虚空から茫然と現れた。蛍のように淡い輝きを宿した光の粒子は私の身体を覆い隠すと、妖しげな閃光を瞬かせて、爆散した。

 さっきまで着ていた私服は消え――私の身体は、魔女が纏う漆黒のローブで覆われていた。質料のみとなって身体に憑りついていたローブが、魔術によって形相が再付与されたのだ。

 一瞬でローブ姿に換装した私を見たテラス席の人たちは、息を呑んだり動揺して沈黙したり、みな一様に驚愕していた。その中で唯一、声を発することが出来たのは私の正体に心当たりがあるリヒャルドだけだった。

「まさか君があの……」

 彼の表情は次第に、驚愕から、純粋な好奇心と感動に塗り替わっていく。

侵攻戦線オーヴァーフロントを背いた魔女を狩る、弾劾戦線リアフロントの魔女―――異端審問官インクイジターなのか!?」

 魔女を狩る魔女の名を、リヒャルドは興奮しながら叫んだ。

 私は袋に入ったホウキを肩にかけて、ネリネに向き直る。

「ごめんネリネ。私はアレを追わないとだけだから、ここで待ってて」

「……あ……!」

 ネリネは何か言おうとしていたけど、私はそれを待たずにリヒャルドに視線をスライドした。

「そういうわけだから、あなたとは遊べそうにない。またの機会にお願い」

「えっ? あ……ああ、うん、そうだな……」

 リヒャルドは忘れていた自分の目的を思い出したようだけど、彼は魔女である私に畏敬の念を抱き、完全に委縮して萎えているようだった。

 ネリネとリヒャルドたちがいるテラス席の方を向いていた私は、手すりから飛んで背中から落下し始めた。青空が私の身体を突き放して、石畳へと引き寄せている。全身に掛かる風圧を利用して空中で態勢を変え、身体の正面と地面が相対する。

 しかし激突することなどはなく、私の身体は不可視の作用によって落下から飛行に切り替わった。魔女にのみ許された自由飛行を目の当たりにした人たちは、歓声や動揺の声を上げる。

 私がいま着ているローブの正式名称は黒衣箒ローブルームという。黒衣ローブブルームの名称を複合し、概念を総合化したもの――ブルームであり黒衣ローブでもある魔術霊装だ。

〈箒に乗る〉という行為は即ち〈魔女と箒の座標が重なっている状態〉であるから、箒であり黒衣でもある黒衣箒ローブルームを着ているこの状態は〈座標が重なっている〉という条件を満たしていることになる。

 故に箒に乗らずにして飛行は可能―――否、常に箒に乗っている状態なのだ。

 空中を飛行している私はすぐに、大地を走る触手の化物に追いついた。間近から改めて見ると、過剰なほど人間の嫌悪感を煽るような不縹緻な姿形をしていた。

 禍々しく邪悪な様相を誇る触手の何本かが、背後から追走していた私の姿を捉えた。数秒前まではされるがまま風で畝っていた触手たちは、一斉に私を敵と認識し襲い掛って来る。

 タコやイカのような緩慢さは無い、刺突のように鋭い直線を描いて飛来する。

 触手の先端には口が付いているため、入れ歯が自分に向かって飛んで来ていると形容すればコミカルだろう。だけど潤沢な魔力で構築されている以上、その咬合力は獅子でさえ比較対象としては弱い。

 もし噛みつかれれば、私は引きずり込まれて全身を生きたまま食い尽くされるだろう。

 飛行速度を落として回避した私は、高度を上げて化物を鳥瞰的に観察する。

(動きを止めるにも、触手が多すぎて近づけないし……攻撃しようにも、それが化物の体内にいる人たちを傷つける可能性がある。内にいる人を傷つけずに、無力化するとしたら……足か)

 打開策を考えついた私は飛行速度を上げ、触手を被毛のように纏った化物に接近する。再度、懲りずにやって来た私を見た触手たちは、歯を見せて嗤い、肉を嚙み潰し骨を噛み砕かんとその身を伸ばした。

 ―――人間が肉体と精神を兼ね備えるように、惑星もまた物質と精神を持ち合わせている。

 数多の生物と膨大な自然で溢れたこの物質世界の内側――地球という惑星が持っている精神世界を私の意識の断片が闊歩する。そして、そこに保管されている一冊の【魔術書】を開く。

 飛来する触手たちを真正面から睨みつけながら、私は唱えた。

「――――いざ紐解かんリーディング・【夜夜の天際ファーゼストナイト】!」

 私の身を包んでいた黒衣箒ローブルームに、遍く星々を湛えた深い黒色の『夜空』が映し出された。腰の後ろで手繰られていた六本のうち四本の腰帯は、しゅるりと緩やかに解けると悠然と翼のように拡がった。陽光も鎖すような夜空色の黒衣箒ローブルームは風圧で華麗に翻り、同色の腰帯は強かに宙を泳いでいる。

『夜空』が投影された四本の腰帯は、差し迫っていた幾本もの触手たちを軽やかに寸断すると、そのまま化物の四足を断ち切って盛大に転ばせた。勢い立っていた化物の重い体躯は、石畳を剥がして飛礫を散乱させ、動きを止める。

 青空や夕空を黒く塗りつぶし、世界の片側を覆い尽くす『夜空』が持つ性質は『侵食』。

 どれほど堅固で、どんなに柔靭で、どれだけ強大な相手であろうとも――『夜空』は対象を『侵食』して削ぎ取る。

 沈黙した化物の前方に回り込んだ私は、『夜空』を湛える四本の腰帯を翻し着地した。

 少し待つと――化物の唾液だろう――緑色の粘液にまみれた白髪の彼女が、少女と一緒に外に出てきた。彼女がその身に纏っているのは、魔女のみが着用を許されている漆黒の衣装――黒衣箒ローブルーム

 彼女こそが、私たち異端審問官インクイジターと敵対する異端者――侵攻戦線オーヴァーフロントから離反して花庭園ガーデンに与する、道を踏み外した元魔女――花師ガーデナーだ。

「痛ったいなぁ……。まさか、もうウィーンに異端審問官インクイジターが来てたとは思わなかった。警察から弾劾戦線リアフロントに要請でもあった? それとも、ただ観光に来てただけ? だったら国立歌劇場をお勧めするよ。あそこのミュージカルは、暇つぶしにはもってこいだからね」

 持ち上げられた前髪の隙間から、彼女が鋭い視線で私を射貫いた。伏せがちな目は気だるげでニヒルな印象に与しているが、対照的に口元は道化めいた笑みで歪んでいる。

 善意を厭って悪辣を嗤うような、矛盾した貌つき。遠巻きに見ると表情に糊塗され分からなかったが、実際に相対して、年齢は私と同じくらいだと判った。

「イアレヴェ」

 彼女の上空で亀裂が奔り、そこから伸びきた大樹のように太い触手が化物を引きずり込んで消してしまった。身体を汚していた粘液は、彼女が指を鳴らすと奇怪な色彩の蒸気を上げ瞬時に蒸発する。

「さて……と。初めまして、魔女を狩る魔女――異端審問官インクイジター。私の名前はライエという」

 偶然街中で友達とばったり会ったかのような、軽々しいテンションで彼女は話しかけてきた。

「……サヨ・ノーチラス」

 ライエは私の名前を聞くと――それとも名乗ったことが意外だったのか――ほんの一瞬だけ大きく動揺したようだった。

 それから、ようやく旧友と再会できたかのような、衷心の笑みを浮かべた。

「……自己紹介どうもありがとう。出来ることなら談笑の一つでもしたい気分だけど――残念ながら、君はそういう気分でもないらしい」

 異端審問官インクイジターに見つかったというのに、ライエは瑣末な焦りさえ感じていない。それどころか、この状況には相応しくない情動――一種の嬉々とした感情の彩さえ見て取れた。そのあまりの放埓さは、こちらが何か重大なミスを犯したと錯覚する程だった。

 彼女が纏っている名状し難い不気味さに、不安で心が動揺する。

 喉奥に絡みつくような土埃の混じった空気を吸い込んで、私は冷静になる。

「……その子を返して」

 強かな語調で言われた彼女は、もうすっかり忘れていたかのように、足元で横たわる少女を一瞥した。少女は掛けられた魔術で意識が混濁しており、呆然と虚空を見つめたまま沈黙している。

「ああ、いいよ」

 平然と、拾った物を持ち主に渡すような調子でライエは頷いた。

 魔術で筋力強化でもしていたのだろうか――彼女は拾い上げた少女を、軽々とこちらに投げ渡してきた。脱力して空力に煽られる少女を、私が柔らかく受け止めるその隙を狙う卑劣さもライエは見せなかった。

 何メートルも放り投げられ、私に抱き留められても、なお少女は人形よりも人形らしく虚空を見つめたまま微動だにしなかった。

 解呪の魔術をライエに使わせなければ、と覚悟を決める私に、ライエは言う。

「その子に掛けたのは、全人類なら誰でも使える――ただの普遍魔術だよ。小一時間もすれば意識は戻る。まあ、今すぐって言うならマタイ福音書を唱えればいい」

「マタイ福音書…………二十四章四十二節か」

 与えられたヒントから答えを導き出した私は、少女に手を翳してすぐに唱える。全ての人間が使用することが出来る魔術書――【聖書】の一句を。

「―――だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰ってこられるのか、あなたがたには分からないからである」

 南京錠が弾け飛ぶような、軽やかな金属音が少女から発せられた。

 少女の目が一度伏せられ、そして開かれた。さっきまで無感情で人形めいていた顔には感情が戻り、眼球の焦点も定まりすっかり正気に戻っていた。

 目を覚ました少女は不安そうに周りを見るも、黒衣箒ローブルームを纏った私とライエを見て、次は困惑で首を傾げた。当然の反応だろう――この子にしてみれば歩いていたら唐突に意識が飛んで、次に目を開けたら魔女が二人、目の前にいるのだから。

「ねえ。お母さんかお父さん、どこにいるか分かるかな?」

 少女は黙って横に首を振った。

「……そっか。じゃあ、私があの人をやっつけるまで、そのお店の中で隠れて待ってて。良い子に待ってられる?」

「……うん」

「ありがとう。良い子だね」

 少女は大人しくこくりと頷くと、少し離れたところにあるレストランの店内に逃げ込んだ。中には大人がいるはずだし、あの子は取り敢えず大丈夫だろう。

 誘拐は未遂で終わり、子どもを無事に保護できた。

 なら次にやるべきことは――犯人の捕縛だ。

 広々とした市場の大通りの真ん中で、私はライエと相対した。

「あの子を返してくれてありがとう。それと、解呪を教えてくれたことも」

「盗人に自分の物を返してもらってお礼を言うとか、君はちょっと変わってるな」

 先んじてお礼を言った私に、ライエは小馬鹿にするような口調で吐き捨てた。

「あの子は私のものじゃないよ。それに、返してくれたのは事実だから」

「ああそう」

 ライエの態度に特に不愉快にならなかった私は、そのまま自分の疑問を口にする。

「だけど……なおのこと私は、あなたの目的が分からない。なんであの子を解放してくれたの?あなたたち花師ガーデナーが、このウィーンの街で実験に使う子どもを――被験花ひけんかを調達してることはもう分かってる。だけどやり方なんて、こんな風に目立たない方法もあったはず」

 花師ガーデナーの常套手段は、街中を歩いている子どもの意識に魔術で介入し、肉体を操作して親から引き離すというものだ。ライエが子どもの意識を混濁させて、歩かせていたあの方法だ。

 だが、ライエは堅実な手法を放棄して、あまりに大仰で目立つやり方に切り替えた。自棄になったという可能性も、潔く子どもを返してくれたことから否定される。

 ライエが致命的な失敗をわざと積み重ねる理由が、私には推察すら出来なかった。

「あなたはいったい、何がしたいの?」

 真剣な表情で私に尋ねられたライエは、耐えかねたように噴き出した。

「そんなこと、敵である私が言うわけがないだろう。君ってば、本当におかしい奴だね」

「た、たしかに」

 ……冷静に考えればライエの言う通りだった。

 すっかり緩んだ気を咳払いで引き締めて、私は屹然と目を細めて戦闘態勢に入った。重心を変えて姿勢を安定させる。外観に目立った変化は表れはしなかっただろうけど、ライエも理性よりも深いところで切り替わった空気を敏感に察知したようだ。

 魔力という言葉で名状される以前は、殺意と呼ばれていた気配が場に満ちる。

「ライエはあの子を大人しく解放してくれたけど、花師ガーデナーである以上、見逃すことは出来ない」

「順当。名前まで呼んでくれるとは――私もお礼として一つ忠告をしておこう。君は異端審問官インクイジターという人殺しの仕事を離れて、ウェイトレスとか教師になった方がいい。向いていないよ」

異端審問官インクイジターは人殺しなんかじゃない。それに、向いてるかどうかは――今に分かることだよ」

 ほんの一瞬だけ空気が淑やかに雌伏し、そして一気に極限まで張り詰めた。

 駆け出した私は、『夜空』を投影した四本の腰帯を伸ばした。『侵食』の性質を得た腰帯は、ライエの黒衣箒ローブルームに付与されているであろう防護魔術を容易に切り裂くだろう。

 虚空が裂けた。眼球を蹂躙するような光彩で満ちた異次元の空隙から、さっきの四足の化物とはまた違った――巨大な菟葵イソギンチャクのような、生物の本能的な恐怖を励起させる悍ましい様相をした化物が落ちてきた。その数は全部で五体。頭上で燦々と輝く太陽光に僅かにたじろいでいたけど、すぐに私を敵だと認識し、触手を槍のように鋭く伸ばしてきた。

 触物たちの――異生命の『触物』に似てるから勝手にそう呼ぶことにした――攻撃に応じ、私も腰帯の軌道を変えて接近していた触手の全てをバラバラに刻んだ。

 手数は向こうの方が多いけど、私の『夜空』にしてみればあまりに柔らかすぎる。ライエからすれば相性は最悪だろう。

 勝てる、という確信を得た私は、黒衣箒ローブルームによる超低空飛行でライエに真正面から切迫する。菟葵の触物たちは包囲攻撃に乗り出るも、その柔い触手は私の『夜空』で寸断され、ぼとぼとと地面に落下して失敗に終わる。

 ライエの目前まで近づいた私の前に、一体の触物が躍り出た。他の菟葵の触物と同じ姿形をした個体で、これまでと特に変わった体機能を有しているようには見えない。単なる盾だと判断した私は、『夜空』の投影されている腰帯を二本伸ばし、立ち塞がる触物の真芯を刺し貫いた。

「―――っ!?」

 超低空飛行で足を付けていなかった私の身体が、雄々しく強い力で引っ張られた。瞠めると、触物は己が体躯を刺し貫いた私の腰帯に触手を絡みつけて、引きずり寄せようとしていた。

『夜空』の性質は、対象を侵し食らう『侵食』――その在り方を形容するのであれば、剣や槍ではなくチェンソーが近しい。触れるどころか鍔ぜり合うことさえ許諾しない超攻撃スタイル。それと同様に、『夜空』に触れた物体は『侵食』されて削り取られる。

 その『夜空』が投影されている腰帯を、触物はがっちりと触手で搦め捕っていた。

 腰帯をホールドする触手から、水蒸気のように血霧が噴出していることを鑑みるに『侵食』の性質が無効化されたわけではない。もっと単純な話だ――私の『夜空』の侵食速度を、触手の再生速度が上回ったのだ。

 それを理解すると同時に、自分は追い込んだのではなく誘い込まれたのだと悟った。

 浸水した長靴で歩くような、粘つく音が背後から聞こえた。それが触物の接近の知らせだと判った私は、残った右側二本の腰帯を剣のように振るった。だがそれらも、触物の体躯を半ば切り裂いたところで触手に搦め捕られ、私の腰帯は完全に封殺されてしまった。

 四肢を捩じ上げられたかのように身動きが取れなくなった私に、ライエは冷たく告げる。

「やっぱり私には分からなかったな。君が異端審問官インクイジターに向いてる理由が」

 丸っこい体躯には似つかわしくなく跳躍力で触物は飛び、陽光を鎖して影を私に蔽いかぶした。あの体重に圧し掛かられれば、骨など容易く粉砕され戦えなくなることは目に見えている。

 絶体絶命の状況下――そこへ響き渡ったのは、私がテラス席に置いて来た桃髪の彼女の声。

 滑車の溝を勢いよく滑るような、鎖の連続音が鳴り出した。

 街路樹や街灯、建物の支柱などを経由した金鎖は、私を圧し潰さんとしていた触物を瞬く間に拘束。金鎖が強く縮まり、宙吊り状態になっていた触物を引き裂いて肉塊へと変えた。

 金鎖が伸びてきた方向――ライエの背後に、黒衣箒ローブルームに換装したネリネが立っていた。彼女の十指にはめられた指輪からは金鎖が伸ばされており、華々しい輝きを放つそれらはウミヘビのように悠々と空中を泳いでいる。

「ネリネ……!? その黒衣箒ローブルーム、もしかして……!」

「なんだ、君も異端審問官インクイジターだったのか」

 私の抱いた確信を、ライエは忌々し気に言葉にした。

「あんまりに萎らしいから、てっきり一般人だと思ってたよ」

 ライエの煽るようなセリフを無視して、ネリネは指を動かし、金鎖で触物たちを拘束する。

「サヨ、今です!」

「うんっ、ありがとう!」

 ネリネが私と同じ異端審問官インクイジターだったことには驚いたけど、今は悠然と考えている暇はない。触物たちが金鎖の拘束を解いて自由になる前に、ライエを倒すことが最優先だ。

「――――零時を回れ夜よ深まれ

『夜空』が湛える星々の輝きが強くなった――否、星々の背景たる夜空が色濃く深まった。

 侵食速度が上がったことにより、腰帯に絡まっていた触手が血霧になって蒸発した。罠から解き放たれた大鳥のように、私の腰帯が翼のように勇壮に羽搏いた。

 ライエに向かって駆け出す私に、触物たちは金鎖にその身を締め上げられてもなお、猛然と襲い掛ろうと一歩踏み込んだ。だが、金鎖の一部が石畳に強く固着して触物の動きは止まった。まるで、金鎖が見えない楔で地面に固定されているかのように。

 ネリネの金鎖には、ただ対象を拘束するだけでない『性質』があるんだろう。今はそれだけ分かっていれば十分だと、推察できるだけの余裕と慢心を諫めて、ライエに肉薄する。

 私は肩に掛けていた袋の中から、鞘から得物を引き抜くような挙措でホウキを取り出した。

 袋が取り払われ露になったホウキは、竹箒でも枝帚でもなく――一本の刀だった。

 ホウキは『何かを掃ける』という性質に基づいた存在だ。

 それ故に、魔女が『障害を掃ける』ための媒体であるのなら、概念上の扱いが剣であれ刀であれ銃器であれ――その霊装はホウキと呼ばれる。

 洪水するように溢れ出した『夜空』で包まれた刀身が、ライエを斬りつけた。

 ライエの黒衣箒ローブルームに付与されている防護魔術は『侵食』されて無意味になり、肉を裂いて鮮血の飛礫が石畳に散った。

 ライエの戦闘不能に応じて、触物たちはおどろおどろしい黒い体液をぶちまけて破裂する。術者であるライエからの魔力供給が途絶えたことにより、顕現を維持しておけなくなったのだ。

 地面に倒れゆくライエの手を掴んだ私は、そのまま後ろにねじり上げて組み伏せた。傷口を堅い地面に打ち付けたことにより、ライエは苦悶の声と僅かな血を吐いて顔色を悪くする。

 私としても早く止血したいが、肉体が生命の存続に問題ないと判断すれば、ライエはすぐに魔術が行使できる状態になる。そうなれば、さっきの触物を呼び寄せることだろう。

 だから傷を回復させる前に、魔術の行使を禁止させる必要がある。

 ライエの両手首をがっしりと抑えつけた私は、黒衣箒ローブルームから細い八角柱の形をした『軛結晶』を取り出す。

「ライエ――あなたを弾劾戦線リアフロントの審問基準接触者として異端者と定めます。また、審問規律に基づいた異端審問を行うにあたって、現在あなたに帰属している【魔術書】の閲覧権限の一時凍結を行います」

 警告であると同時に詠唱でもある言葉に反応し、ライエの手首にあてがっている『軛結晶』が淡く輝い出した。後はライエが同意さえすれば、ライエは魔術を使うことが出来なくなる。

「断る――って言ったら?」

 首を曲げたライエが、私を試すような怜悧な目で見上げてきた。

 心の中にある恐れを見透かされないように、私は一呼吸おいてから答える。

「……断った場合は、審問対象から処断対象となり……この場で私に処断ころされる」

 目を逸らしたくなる気持ちを理性と職責で抑え込んで、私はライエを見つめ返した。出血が依然として続いているにもかかわらず、ライエはひどく冷静で、私は焦燥感で拍動を早めた。

 しらばくの時間を置いて――私だけがそう感じていたのかもしれない――ライエは意地悪に笑って頷いた。

「はいはい冗談だよ。同意するよ」

 当人の同意が得られた瞬間、あてがわれていた『軛結晶』がライエの両手首を穿ち抜いた。

 これでもうライエは、解呪しない限りは魔術を使うことが出来なくなった。初めて『軛結晶』を使ったけど、無痛な上に拘束性が高く、持ち運びが容易なこれの利便性には改めて感嘆した。

 後ろで手が拘束されたライエを仰向けにして、私はすぐに活性魔術で傷の治療を開始する。花緑青色の光で傷口が蔽われ、出血が段々と収まっていく。致命傷にならないよう気を付けて斬ったので、問題なく治せそうだった。

「やっぱり君は向いてないな」

 太陽が昇り切った青空を仰ぎ見ながら、ライエはぽつりと零した。

 異端審問官インクイジター花師ガーデナーの戦いは、基本的には一対複数という構図になる。

 そんな状況下で呑気に『軛結晶』を使っている暇などないし、多くの異端審問官インクイジターにとっては審問対象も処断対象も同じようなものだった。

 向いていないというのは、そういうことだろう。

「でもライエからは、情報を聞き出す必要があるから」

 言い訳するような私の呟きに、ライエは呆れるように嗤った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る