目で読むか、口で読むか、耳で読むか

 兎に角「眼がーっ、眼がーっ」の日々で、書くだけでも目を酷使している。読むとなると根気よりも先に眼が根を上げる今日この頃が続いている。そもそもが未だに横書き表記(ルール)に慣れないという致命的な問題もある。


 これはもう誰かに読んで貰うしかないと、いつの間にかスマホに実装されていた音声読み上げ機能に縋り、二千字くらいまではスムーズに読んでくれるのだけれど、文字数が多いとスマホが途中でエタってしまい、残りは肉眼で何とか。なので三千字くらいが限界かも知れない。

 そして機械の読み方はぎこちない。お手軽な無料版だからかも知れないが、読み方の所為で作品の真価が目減りしているような気がしないでもない。「機械なんかが読んだんじゃ拙作の魅力は味わえない!」と怒りを露わにする著者も居るだろうか。


 しかしながら――と思った。


 国語の授業でよく音読をさせられる。大抵の子は棒読みだし、変に感情を入れる子が居ると「わざとらしい」と感じたものだった。台詞の度に声色を変えようものなら教室が笑いに包まれるだろう。何よりも人前で何かをする(表現する)のに照れる子供は多い。だから却って棒読みに徹しようとするのだろう。


 読書は基本的に声を上げずに楽しむ娯楽だけれど、よくよく考えると不思議な事で、ような感覚があるけれど、それはような気もする。


 本の楽しみ方には、誰かに読んで貰う形式もある。子供の読書体験は読み聞かせから始まる事も多いだろう。


『音読』――単純に書かれたものを正しくはっきり表現する読み方。

『朗読』――場面の雰囲気、作者の意図、登場人物の気持ち等まで表現する読み方。


 聴覚の記憶は五感の中でも再現性が高いと聞く。鼻歌が成立するのはそういう事だろう。サウンドや歌声を脳裏に思い浮かべるのは容易だけれど、味とか匂いとか手触りをありありと思い描くのは難しい(視覚の記憶は『瞼に焼き付いている』という表現があるように比較的思い出し易い)。

 なので、声優とか実在する良い声音こわねを当て嵌めて読んでいる人も居るかも知れない。


 とは言え、読んでいるのは他でもない自分である。別に美声でもなければ、読めない漢字、知らない言葉が頻発し、いつの間にか長ったらしい説明は飛ばし読み、台詞ばかりを目で追い、という読者も居るのでは。


 どんな表現を享受する場合でも一定のリテラシーは付き物だけれど、 『音読』や『朗読』のスキルに依って理解力に差が出るのか。

 的確な批評が出来る人は音読、朗読も上手いのだろうか。速読が出来る人でも文章の内容如何いかんで理解度は変わるようだし、必ずしも『読むのが下手=理解度が低い』『読むのが上手=理解度が高い』ではないのだろう。


 歌を聴いても歌詞の内容が全く頭に入って来ないという人も存在する(勿論、母国語で歌われていても)。これは歌声を純粋に音として認識しているらしい。

 小説も究極的には『内容』より『文体』が醸し出す雰囲気ムードを感受する事こそが到達すべき肝かも知れない。落ちだ、伏線だという観点は表層的な楽しみ方なのだろうか。


 兎に角「眼がーっ、眼がーっ」なので音声読み上げを多用させて貰っている。が、漢字を正しく読めない時もあるし、どんな一文も等価に淡々と読み上げる。それを聴いていても読書と言えないのだろうか。

 確かに「プロの朗読ならばまだしも、機械頼りでは読書とは言えない」のかも知れない。が、自らの目で読んだとしても所詮、同程度のポンコツ振りではないかと思ったりもするのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る