全く全然
A「彼については全く知らない」
B「彼については全然知らない」
『全く』と『全然』については、昔から気になっている。AとB、どちらがしっくり来ると言うか、違和感がないだろうか。
一方だけが正しく、もう一方が間違いという話ではないが、僕はAの方が生理に合っている。その理由はかなり感覚的なもので、とてもB派を論破出来るような理屈ではない。単純に「Aの方が文語っぽい、Bは口語っぽい。文章の中ではちゃんとしているっぽいAの方が良いのでは」というのが理由である。
勿論、ラフな会話の中だったら『全然』の使用も全く構わないと思うのだけれど――。
僕が「この作家はどうして《全く》を使わないのだろうか」と感じたのは、またしても松本清張氏だった。
もしかしたら氏は全著作の中で『全く』を全然使っていないかも知れない、と思うくらいいつも『全然』と書いている印象を受ける。
最近は著作権が切れた古い作品を朗読する動画が沢山あるので、ちょくちょく聴く。現在では使わないような言い回しや知らない言葉に触れるきっかけにもなっている。
多くは戦前の作品だと思われるが、その中にも『全然』が出て来ていた。もしかしたら嘗ては『全然』と書く作家、作品の方が多数派だったのでは、とも感じている。
某辞書を元に書くと――『全く』『全然』は打ち消しを強調する時に使われ、『全然』の方が砕けた表現――との事。僕の感覚は一般的という事だ。
更に――『全く』は否定文、肯定文で使えるが、『全然』は否定文で使う。但し肯定的な意味で使う事もある――と。
つまり、どちらも否定、肯定で使える。「全く面白くない」「全く面白い」のどちらも正解。「全然、面白くない」「全然、面白い」のどちらも正解。
以前はよく「最近の若者は《全然、美味しい》なんて間違った使い方をする」という批判が聞かれた。でも、その当時も既に「実は間違っていない」との反論があった。引き合いに出されたのは夏目漱石だった。
今回、ちょっと調べただけでも――
「性格の全然異なった二人」――『こころ』より
「全然無頓着な人間」――『三四郎』より
「又は全然その反対に」――『それから』より
――と、肯定文での『全然』が散見する。
一方で『全く』も使っていて――
「全く愛に溺れていたに違いない」――『坊ちゃん』より
「彼は全くの町人であった」――『道草』より
「全く唯々諾々として命令に服している」――『二百十日』より
「性質に至つては全く知らない」――『こころ』より
偶々目に付いた範囲のサンプルでしかないのだけれど、夏目漱石は『全然』も『全く』も肯定文で使う事が多かったのだろうか。
別に夏目漱石について書きたかった訳ではなく、単なる例として挙げたまでだが、『青空文庫 全然』で検索した時に夏目作品がずらっと出て来た(『青空文庫 全く』だと複数の別作家が並んだ)ので、或る種の傾向を感じてしまった。
現在、『全然』は否定、肯定の両方で使われ、『全く』はほとんど否定の場面で使われている気がするのだけれど、それ程の昔でもない時代(1950年代、1960年代辺りまで?)は感覚が違っていたのかも知れない。
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