小説にヘタウマはあり得るか?

 漫画界にはヘタウマと呼ばれる小さなジャンルがある。詳細は各自調べて貰うとして、漫画でいうヘタウマは絵に焦点を絞っていて、内容(物語)がどうこうという話には余りならない。寧ろ、色んな意味で内容が魅力的なので絵(コマ割りも含む)が下手でも成立したり、味のある下手な絵でないと醸し出せない世界観だったりする。

 イラストや絵画等の『一枚絵』であれば尚の事その画風にヘタウマを見出す事になる。アンリ・ルソーやポール・セザンヌがその筆頭になるようだ。


 最近はヘタウマを売りにした作品を聞かない気がする。実際には絵が上手くない漫画家はごまんと存在していると思うが、世の中には全く絵が描けないと自認する人間もごまんと居て、何かしら絵を描けるだけで尊敬するという価値基準からすれば、読者は絵が上手いか下手か(写実的か否か)の基準ばかりで読んでいないという事だ(そもそも漫画は絵以外の要素も大きい)。


 ところで、文章(小説)の世界にヘタウマは存在し得るのか。

 勿論、作家と言ってもピンからキリまで色んな作風の人が居るので、絵で言うところの『写実的か否か』での線引きは難しい。

 林檎一つを例に取っても、絵で表現するのと文章で表現するのとでは余りにも次元が異なる。それなりに写実的な絵であれば大半の人が視覚的に林檎と認識出来るが、文章で「ここに林檎がある」と書いただけで絵と同様の認識を得る事になるのか。もし林檎がその物語にとって重要なアイテムならば、何かしらの描写を重ねる必要に迫られ、そこに上手、下手の価値判断が発生するだろう。


 2000年代初頭にデビューしたY・Y(敢えて伏せておく)という人は自費出版から大ヒットして作家になり、現在でも活動を続けているようだ。この人は読書経験がほとんどないままプロになったらしい。

 残念ながら僕はこの人の作品を読んだ事がないのだけれど、聞こえて来る評判は「文章が下手」。それでも「内容が面白い」から出版社の目に留まり、ヒットに繋がったに違いない。


 ネット界隈で指摘されている「文章が下手」な理由は『主語と述語とがちぐはぐ』『重複表現』等、文法が間違っている事と、表現(修辞だろうか)が稚拙な事のようだ。

 恐らく最初期にY・Y氏を担当した編集者は文章自体に口出しをしなかったと。飽くまでもエンタメ、それもラノベ的な観点から文章力を凌駕する内容の魅力を見出したのだろう(その後は校正者も入り、そして本人の文章力も変わって行ったと思われるが)。

 この例では『内容は上手だけれど、文章は下手=ヘタウマ』と解釈出来なくもない。


 主にトラベルミステリーで有名な西村京太郎氏。昔は雑誌の広告等で常に名前を見掛ける多作な作家だった。それだけずっと売れ続けたという事だろう。

 昔、氏の文体がどんどん即物的になった事を指摘する書評を目にした事がある。指摘の詳細な内容は記憶が曖昧だけれど、イメージ的には――


「○○だ」

 と十津川警部は言った。

「○○ですね」

 と亀井刑事が言った。


 ――みたいな、或る種の無味乾燥な『伝われば良い』と割り切った文体の事を指摘していたように思う。売れっ子として大量生産し続ける為の変質だったのか、大衆向けミステリーに凝った文体は寧ろ邪魔、と考える向きもあろうかとも思うが、この例もヘタウマの概念に含まれるかも知れない。


 三島由紀夫氏と松本清張氏との知られざる対立について、世間ではほとんど知られていないのではないか。掻い摘むと――


 或る出版社が文学全集を出そうとして、その編集委員には三島氏の他に川端康成氏、谷崎潤一郎氏等が居た。

 三島氏は、松本作品を入れるのならば編者を辞退すると言い出した。理由は「松本作品は文学ではない。あの人に文体がありますか?」。周囲が宥めても三島氏は頑として譲らず、松本作品の収録は見送られた――。


 二人が直接対決する場面はなかったが、きっと松本氏は快く思わなかっただろう。三島氏があのような最期を迎えた時、その原因を「小説が書けなくなったから」と分析していたように思う。

 この例をヘタウマと結び付けるのは流石に強引とは自覚しつつも「文学でない大衆受け小説はヘタウマ」という感覚が三島氏にあったのかも、なんて思ってしまったので挙げてみた。


 漫画に『絵と物語』があるように、小説には『文体と物語』がある。絵でも文体でも、何が描かれているのかは伝わるレベルであれば確かに成立するし、普段は読書に馴染みのない層にまで訴えるには効果的なのかも知れない。

 松本清張氏の文体は読み易い部類に入るだろうけれど、そこに文学性が入る余地が全くないとは思えない。勿論ヘタウマな筈もない。

 が、小説界に『文学』という切り口が存在しているが故に『文学とは認められない小説』という価値判断も存在するのだろう。


 漫画界はあらゆるジャンルの作品(ヘタウマも含め)が並立で存在しているように見えるが、小説界はどうしてもヒエラルキーが感じられる。『売れないけれど文学的に優れている』『売れているけれど所詮は大衆向け』。ヘタウマ小説が存在するのであれば後者に属すのか。


 小説の中には、非文学としてのエンタメ小説があり、エンタメ小説の中にも広く一般向けするものからライトノベルまでがあり、ライトノベルの中にはウェブ小説があり、その中にはヘタウマ小説も――口が滑って終わるという最悪のパターン。

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